日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(
2005年12月05日
日本の市民参加型ジャーナリズムが失敗している理由
プロ集団が参画しなかったから、日本の市民参加型ジャーナリズムは失敗しているという書き込みが湯川氏のブログにあったが、私はそうは思わない。
問題は、日本の市民参加型ジャーナリズムの運営者たちが、既存のジャーナリズムにこだわっていることだ。
私は、社会の歪みやマスコミの腐敗を糾弾する暇があったら、まず市民の声に耳をそばだるべきだと思う。
市民の声を集めることでしか市民参加型ジャーナリズムは成立しない。
書きたい市民だけ書けばいいというような運営方針では、クレーマーに近いような偏った市民・不平市民が市民記者の多くを占めるのは当然だ。
物を言ったとたん、ある意味、市民は市民ではなくなる。問題は、物を言って尚、市民でいることだ。主義や主張に押し流されず、いつまでも市民でいること。一人の消費者でいること。そのことがとても難しい。
☆
…。
自分が感じている社会の歪みやマスコミの腐敗を糾弾するために、市民の声を聞いているふりをしている。市民を巻き込んでいるふりをしている。その構図を外野から眺めていると、私はジャーナリズムという言葉に魅かれたもの同士の近親憎悪に思えてくる。私のようなジャーナリズムに興味のない人間には、その構図に入り込む余地などない。
☆
あるべきは、まず市民の声に耳を傾け、その言葉の中から社会の歪みや報道の不備を感じること。
☆
個人が個人として堂々と意見を述べる。それを世の中が市民参加型ジャーナリズムと呼ぶだけのことであって、当事者たちが、ジャーナリストになって意見を述べることではない。ましてや、既存のジャーナリズムから弾き出された人間たちが市民参加型ジャーナリズムに合流することで何かが生まれるはずもない。
これは、非ジャーナリストであり、情報の消費者でしかない私の感想である。
問題は、日本の市民参加型ジャーナリズムの運営者たちが、既存のジャーナリズムにこだわっていることだ。
私は、社会の歪みやマスコミの腐敗を糾弾する暇があったら、まず市民の声に耳をそばだるべきだと思う。
市民の声を集めることでしか市民参加型ジャーナリズムは成立しない。
書きたい市民だけ書けばいいというような運営方針では、クレーマーに近いような偏った市民・不平市民が市民記者の多くを占めるのは当然だ。
物を言ったとたん、ある意味、市民は市民ではなくなる。問題は、物を言って尚、市民でいることだ。主義や主張に押し流されず、いつまでも市民でいること。一人の消費者でいること。そのことがとても難しい。
☆
…。
自分が感じている社会の歪みやマスコミの腐敗を糾弾するために、市民の声を聞いているふりをしている。市民を巻き込んでいるふりをしている。その構図を外野から眺めていると、私はジャーナリズムという言葉に魅かれたもの同士の近親憎悪に思えてくる。私のようなジャーナリズムに興味のない人間には、その構図に入り込む余地などない。
☆
あるべきは、まず市民の声に耳を傾け、その言葉の中から社会の歪みや報道の不備を感じること。
☆
個人が個人として堂々と意見を述べる。それを世の中が市民参加型ジャーナリズムと呼ぶだけのことであって、当事者たちが、ジャーナリストになって意見を述べることではない。ましてや、既存のジャーナリズムから弾き出された人間たちが市民参加型ジャーナリズムに合流することで何かが生まれるはずもない。
これは、非ジャーナリストであり、情報の消費者でしかない私の感想である。
2005年08月15日
日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(15)_市民記者は「平和の時の平和論」に参加しない。
終戦記念日である。お盆でもある。平和について戦争について考える日ともいえる。だが、私は平和の時の平和論に参加したくはない。山本夏彦氏曰く、「平和の時に平和を語ることは、戦争のときに戦争を賛美するのと同じくらい楽なこと」だという。
サイレントマジョリティーは良識。そう思いたい。
ところで、そんなことをググっていたら、与謝野晶子の「君死に給うことなかれ」は反戦歌ではないと、山本氏が書いていたという記事につきあたった。
曰く、弟よ。あなたは商家の生まれであり、武士(軍人)ではないのですから、生きて帰ってきなさい。というだけのこと。とか。山本氏は、反戦歌でないものを自らの主義主張のために捻じ曲げて、反戦歌にしたてあげた人たちに我慢がならなかったに違いない。
勿論、平和のために祈ることしかできない人は祈ればいい。だが、平和のために行動できる権力を持った人たちが行動しないで、その優柔不断さを隠蔽するために祈りをささげる場合もある。
平和のために戦うことは、武器を持たずともできる。そして、武器を持たずに真剣に相手と接すれば、より平和に近い状態に近づけるのではないか。
ただし、たった一人でも武器を持ってしまったら、そういう戦いは成立しない。そこが難しい…。
サイレントマジョリティーは良識。そう思いたい。
ところで、そんなことをググっていたら、与謝野晶子の「君死に給うことなかれ」は反戦歌ではないと、山本氏が書いていたという記事につきあたった。
曰く、弟よ。あなたは商家の生まれであり、武士(軍人)ではないのですから、生きて帰ってきなさい。というだけのこと。とか。山本氏は、反戦歌でないものを自らの主義主張のために捻じ曲げて、反戦歌にしたてあげた人たちに我慢がならなかったに違いない。
勿論、平和のために祈ることしかできない人は祈ればいい。だが、平和のために行動できる権力を持った人たちが行動しないで、その優柔不断さを隠蔽するために祈りをささげる場合もある。
平和のために戦うことは、武器を持たずともできる。そして、武器を持たずに真剣に相手と接すれば、より平和に近い状態に近づけるのではないか。
ただし、たった一人でも武器を持ってしまったら、そういう戦いは成立しない。そこが難しい…。
2005年08月14日
日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(14)_市民記者は、巨悪から取り組むことはできない。
東京地検の凄腕検事だった堀田力氏が、「まず、巨悪から手をつける」と述懐していたのを覚えている。
世の中に不正や腐敗は数知れずあるから、何をあつかってもいいのかもしれない。
だが、東京地検というパブリックな立場では、易きところから手をつけるのでは、悪事をはたらいている側からいえば不公平になる。そこで、より大きな不正や腐敗から手をつけることによって、公平さを保とうということだろう。
☆
一方、市民記者は生活者であるから、世の中の巨悪から手をつけるなどということは不可能だ。だから、自分の身近な出来事で、自分の手に追える範囲の内容を扱うことしかできないくても、仕方のないことだと思う。
自分の身近な問題を扱う。そのことが市民記者活動の根本だと思う。逆に言えば、自分の専門外のことは扱わない勇気を持つことも大事だと思う。イノセントなどといえば体裁はつくが、自分の専門外のことに首をつっこみ、取材対象の意見を鵜呑みにし、結果として読者を惑わしてしまう可能性もあるのだ。
もっとも、市民記者がイノセントで読者を惑わしてしまう場合は仕方がない。だが、市民記者媒体がイノセントという訳にはいかぬ。だから、誤った時点で、訂正や謝罪を行うのが適切な処置だし、そういうことを通じて、市民記者媒体の信頼性・誠実性が築かれていくのだと思う。
☆
報酬と取材費を得た記者の記事ばかり掲載されるのでは市民記者メディアとして失格。かといってプロフェッショナルなプレスといえるのかどうか…。
市民記者メディアならば、身近な問題を取り上げるべきであり、プロのプレスならば、巨悪から取り組むべきであろう。
世の中に不正や腐敗は数知れずあるから、何をあつかってもいいのかもしれない。
だが、東京地検というパブリックな立場では、易きところから手をつけるのでは、悪事をはたらいている側からいえば不公平になる。そこで、より大きな不正や腐敗から手をつけることによって、公平さを保とうということだろう。
☆
一方、市民記者は生活者であるから、世の中の巨悪から手をつけるなどということは不可能だ。だから、自分の身近な出来事で、自分の手に追える範囲の内容を扱うことしかできないくても、仕方のないことだと思う。
自分の身近な問題を扱う。そのことが市民記者活動の根本だと思う。逆に言えば、自分の専門外のことは扱わない勇気を持つことも大事だと思う。イノセントなどといえば体裁はつくが、自分の専門外のことに首をつっこみ、取材対象の意見を鵜呑みにし、結果として読者を惑わしてしまう可能性もあるのだ。
もっとも、市民記者がイノセントで読者を惑わしてしまう場合は仕方がない。だが、市民記者媒体がイノセントという訳にはいかぬ。だから、誤った時点で、訂正や謝罪を行うのが適切な処置だし、そういうことを通じて、市民記者媒体の信頼性・誠実性が築かれていくのだと思う。
☆
報酬と取材費を得た記者の記事ばかり掲載されるのでは市民記者メディアとして失格。かといってプロフェッショナルなプレスといえるのかどうか…。
市民記者メディアならば、身近な問題を取り上げるべきであり、プロのプレスならば、巨悪から取り組むべきであろう。
2005年08月09日
2005年08月04日
日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(12)_根本的に、市民記者は客観的になれないのだが…。
〔但書〕クレームのメイルが来ました。曰く、中立ではなく、独立とのこと。私は固有名詞で記事を書いていないから、本来であれば、訂正する必要はないが、議論を避けるために、その部分を抹消する。私にとっては、本質的な部分ではないので、議論もしない。また、訂正したことが、私が対象を特定したことにはならない。あくまでもクレームがあったので、訂正したにすぎない。
いま、私にとって重要なのは、「PJ記者同士の情報交換の場がないこと」「PJの編集方針が明確化されていないこと」。これらについてPJ仲間たちと一緒に意見交換の場をつくっていこうと思う。
以下は、問題箇所を削除した文章である。
尚、市民は利害関係のある問題に関しては書けないから、独自性はあらかじめ確保されている。したがって、後半部分は修正していません。
/////
ジャーナリズムには、中立性・客観性をそなえることが必須条件であるという。
だが、人間が神でないかぎり、真実を知ることはできないのだし、自分の口から出た言葉を主観でないと言い切るのは、神をかたることにもなりかねない。
さて、市民記者にとって、中立性・客観性はどういう意味を持つのだろうか。私は自分のふるまいに対して、誠実で内省的であれば、それでよいと思っている。市民記者の記事そのものがインテグレートされたものである必要はないと思う。市民記者の書く記事は、その個の持つバイアスを元に提出される。それをインテグレートするのは読み手であったり、それを編集・掲載する側だと思う。
市民参加型ジャーナリズムの記事に質を求めるという議論があるが、質の中身について定義をせぬままに論をすすめるのは、私は浅薄だと思う。
私が市民記者の記事に求めるのは、旬の記事、鮮度の高い記事である。それは、対象との時間的な距離、心理的な距離の両方においてだ。
もし、市民記者が、その質を高めるために、平行取材や資料集めなどを始めてしまったら、記事としての新鮮さは失われてしまうのは勿論、市民記者が市民であることやめ、出来の悪いジャーナリストになるだけ。それこそ、その記事の質が問われてしまう。
市民記者が紡ぐべきは、ローデータとしての輝きのある記事である。
市民が市民のまま記事を書くことが、市民参加型ジャーナリズムであって、市民がジャーナリストになることではない。そのためのシステムが市民参加型ジャーナリズムのメディアの側にないのが現状である。
市民は、自らに謙虚に、自分に起きたことを正直に誠実に語るべきだ。
情報を発信する市民は、嘘を書かないということさえ守れれば主観でいい。それを扱うメディアが中立や客観をめざせばいいのだ。
市民記者の書く記事は、落語・目黒のさんまのようであってはならないのである。
いま、私にとって重要なのは、「PJ記者同士の情報交換の場がないこと」「PJの編集方針が明確化されていないこと」。これらについてPJ仲間たちと一緒に意見交換の場をつくっていこうと思う。
以下は、問題箇所を削除した文章である。
尚、市民は利害関係のある問題に関しては書けないから、独自性はあらかじめ確保されている。したがって、後半部分は修正していません。
/////
ジャーナリズムには、中立性・客観性をそなえることが必須条件であるという。
だが、人間が神でないかぎり、真実を知ることはできないのだし、自分の口から出た言葉を主観でないと言い切るのは、神をかたることにもなりかねない。
さて、市民記者にとって、中立性・客観性はどういう意味を持つのだろうか。私は自分のふるまいに対して、誠実で内省的であれば、それでよいと思っている。市民記者の記事そのものがインテグレートされたものである必要はないと思う。市民記者の書く記事は、その個の持つバイアスを元に提出される。それをインテグレートするのは読み手であったり、それを編集・掲載する側だと思う。
市民参加型ジャーナリズムの記事に質を求めるという議論があるが、質の中身について定義をせぬままに論をすすめるのは、私は浅薄だと思う。
私が市民記者の記事に求めるのは、旬の記事、鮮度の高い記事である。それは、対象との時間的な距離、心理的な距離の両方においてだ。
もし、市民記者が、その質を高めるために、平行取材や資料集めなどを始めてしまったら、記事としての新鮮さは失われてしまうのは勿論、市民記者が市民であることやめ、出来の悪いジャーナリストになるだけ。それこそ、その記事の質が問われてしまう。
市民記者が紡ぐべきは、ローデータとしての輝きのある記事である。
市民が市民のまま記事を書くことが、市民参加型ジャーナリズムであって、市民がジャーナリストになることではない。そのためのシステムが市民参加型ジャーナリズムのメディアの側にないのが現状である。
市民は、自らに謙虚に、自分に起きたことを正直に誠実に語るべきだ。
情報を発信する市民は、嘘を書かないということさえ守れれば主観でいい。それを扱うメディアが中立や客観をめざせばいいのだ。
市民記者の書く記事は、落語・目黒のさんまのようであってはならないのである。
2005年08月03日
日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(11)_根本的に、市民記者はニュースを配信できないのだが…。
湯川氏、団藤氏のやりとりを見ている。すでに彼らは六本木系市民参加型ジャーナリズムに関心がないばかりか、同類のメディアに関しても興味の対象ではなくなっているようだ。
さて、8/3のエントリーでは、ジャーナリズムにおけるエリート意識。そのあたりについては、私はすでに鈴木大拙の「妙好人」を引き合いにだしているので、プロのジャーナリストたちの議論に加わるつもりはない。
それよりも思うのは、「市民はニュースを提供できるのか」という問題である。
ジャーナリズムが扱う情報を、社会構成員にとっての有価値情報と定義しつつも、それだけではニュースにはならない。何もよりも新しいことが、ニュースである重要な資格である。
だが、実際はどうだろうか。
情報提供者である市民記者が匿名にしたり、ハンドルネームで特定されないようなことをしても、記事の当事者が読めば、内容からそれが自分をとりあげていることが分かってしまう。そうなれば、市民記者と記事の当事者である取材対象との良好なコミュニケーションの継続は難しくなるのが実情だ。
例えば、子供を学校に通わせている親が教育問題に直面したとしよう。
だが子供を学校に通わせている限り、学校の批判記事は書けない。いくら社会正義を貫いたと胸を張っても、娘が自分の帰属する社会から異分子としての扱いを受けるのなら、メリットはない。書けるのは、娘が退学してからである。
市民にとってニュースを書くことはとても難しいのだ。何年か経って、自分に損害が及ばない頃にはじめてニュースをリリースすることができる。何年か経ったとき、その記事がニュースバリューを持っているかどうか。時間を経過しても価値がある情報というのは、かなり限られると思うのです。
ただ、時間が経過しても、過去の情報が魅力を失わない場合がある。それは、個人という文脈で情報がリリースされる場合である。
たしかにニュースという意味では価値が薄くなっているのかもしれないが、個人というエッセンスを加えれば数ヵ月後、数年後の情報であったとしても、ニュースバリューはありつづけると思うのです。
さて、8/3のエントリーでは、ジャーナリズムにおけるエリート意識。そのあたりについては、私はすでに鈴木大拙の「妙好人」を引き合いにだしているので、プロのジャーナリストたちの議論に加わるつもりはない。
それよりも思うのは、「市民はニュースを提供できるのか」という問題である。
ジャーナリズムが扱う情報を、社会構成員にとっての有価値情報と定義しつつも、それだけではニュースにはならない。何もよりも新しいことが、ニュースである重要な資格である。
だが、実際はどうだろうか。
情報提供者である市民記者が匿名にしたり、ハンドルネームで特定されないようなことをしても、記事の当事者が読めば、内容からそれが自分をとりあげていることが分かってしまう。そうなれば、市民記者と記事の当事者である取材対象との良好なコミュニケーションの継続は難しくなるのが実情だ。
例えば、子供を学校に通わせている親が教育問題に直面したとしよう。
だが子供を学校に通わせている限り、学校の批判記事は書けない。いくら社会正義を貫いたと胸を張っても、娘が自分の帰属する社会から異分子としての扱いを受けるのなら、メリットはない。書けるのは、娘が退学してからである。
市民にとってニュースを書くことはとても難しいのだ。何年か経って、自分に損害が及ばない頃にはじめてニュースをリリースすることができる。何年か経ったとき、その記事がニュースバリューを持っているかどうか。時間を経過しても価値がある情報というのは、かなり限られると思うのです。
ただ、時間が経過しても、過去の情報が魅力を失わない場合がある。それは、個人という文脈で情報がリリースされる場合である。
たしかにニュースという意味では価値が薄くなっているのかもしれないが、個人というエッセンスを加えれば数ヵ月後、数年後の情報であったとしても、ニュースバリューはありつづけると思うのです。
2005年07月31日
日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(9)_市民記者は暇人の集まりではない。
わたしが考えているのは、駅のホームの階段の下で困っている車椅子の人を、みんなで力を合わせてホームまで持ち上げるようなこと。そんなときに名乗る人なんかいません。誰か人に親切にしたときに名乗るような人は、ちょっとおかしな人。
世の中には、功名心のために動く人もいるでしょう。
でも逆に、立場にしばられて発言できないだけではなく、「目立ちたくないから発言しない」。「売名行為と思われるから発言しない」という人も多い。
匿名にする理由は、名前を知らすことがはばかられる恥知らずのゆえではなく、「名乗るに及ばず」という個人のプライドの現れの場合もある。
☆
市民記者活動を暇人の活動ととらえる人がいる。曰く、市民記者は余った時間に記事を書くから、既存のマスコミと対峙するような勢力にはならない。と。
マズローの欲望段階説をひきあいに出し、衣食足りた人が市民記事を投稿するのであって、記事数が少ないのは登録者が日々の生活に忙殺されているからだと…。
インターネット上で、反論は機能しないが、あえて私は反論を試みる。
作詞家・小説家のなかにしれい氏は、「豊かな世の中でしか芸術は必要とされない」という言葉に反発している。彼は著作の中で次のように述べている。
満州からの引揚船の中で、りんごの歌を聴いた。何もかも失い茫然自失した彼の心は、その明るい歌詞に反発した。だが、それでも尚、あの歌が辛い状況を乗り越えるために、日本中の人たちが必死に歌っていることに気づいたという。りんごの歌が芸術かどうかは分からない。だが、カラオケのCMではないが、辛いとき程うたいたいのだ。
たしかにレーニンは大金持ちだったし、太宰治は東北の金持ちのボンボンだった。だが、それでも尚、生活が安穏としている人しか書かない、書こうとしないというのは、間違っていると思える。そして、ほとんどの場合、国民的な歌や文学作品が生まれるときは、その国家が存亡の危機にさらされたときというのは、歴史が証明している。
いまの日本が平和であり、生活に困らない豊かな社会と考える人も多いだろう。だが、それは一部の富裕層に属している人たちの意見に過ぎない。リストラで自殺する人、会社が倒産して自殺する人。そのような社会の現実を知っている若者たちが大人の社会に入っていこうとせず、NEETを決め込むのも当然のことと思える。
外国と比べることも意味はない。否、外国と比べるならば、私たちの国が理想の国とは程遠いことを、出生率の低下が端的にあらわしていると考えることはできないだろうか。
☆
市民記者の記事の投稿が、自らの自己実現を第一目標にされるなら私の意見は空論だ。しかし、市民記者が社会的有益性を第一目標に投稿されるならば、私の考えも間違っていないと考える。
市民記者とは、誰かに向かって歌いたい人である。
カラオケルームで一人歌いたいような人は、ブログでかまわない。また、沢山の人に向かって歌うための訓練として、ブログで修行している人もいるだろう。
勿論、ブロガーの中にも社会的に意義がある情報発信をしたい人はいるだろうから、それは市民記者媒体とコラボレーションをすればいい。
市民記者とブロガーの違い・位置づけを私はそう考える。
世の中には、功名心のために動く人もいるでしょう。
でも逆に、立場にしばられて発言できないだけではなく、「目立ちたくないから発言しない」。「売名行為と思われるから発言しない」という人も多い。
匿名にする理由は、名前を知らすことがはばかられる恥知らずのゆえではなく、「名乗るに及ばず」という個人のプライドの現れの場合もある。
☆
市民記者活動を暇人の活動ととらえる人がいる。曰く、市民記者は余った時間に記事を書くから、既存のマスコミと対峙するような勢力にはならない。と。
マズローの欲望段階説をひきあいに出し、衣食足りた人が市民記事を投稿するのであって、記事数が少ないのは登録者が日々の生活に忙殺されているからだと…。
インターネット上で、反論は機能しないが、あえて私は反論を試みる。
作詞家・小説家のなかにしれい氏は、「豊かな世の中でしか芸術は必要とされない」という言葉に反発している。彼は著作の中で次のように述べている。
満州からの引揚船の中で、りんごの歌を聴いた。何もかも失い茫然自失した彼の心は、その明るい歌詞に反発した。だが、それでも尚、あの歌が辛い状況を乗り越えるために、日本中の人たちが必死に歌っていることに気づいたという。りんごの歌が芸術かどうかは分からない。だが、カラオケのCMではないが、辛いとき程うたいたいのだ。
たしかにレーニンは大金持ちだったし、太宰治は東北の金持ちのボンボンだった。だが、それでも尚、生活が安穏としている人しか書かない、書こうとしないというのは、間違っていると思える。そして、ほとんどの場合、国民的な歌や文学作品が生まれるときは、その国家が存亡の危機にさらされたときというのは、歴史が証明している。
いまの日本が平和であり、生活に困らない豊かな社会と考える人も多いだろう。だが、それは一部の富裕層に属している人たちの意見に過ぎない。リストラで自殺する人、会社が倒産して自殺する人。そのような社会の現実を知っている若者たちが大人の社会に入っていこうとせず、NEETを決め込むのも当然のことと思える。
外国と比べることも意味はない。否、外国と比べるならば、私たちの国が理想の国とは程遠いことを、出生率の低下が端的にあらわしていると考えることはできないだろうか。
☆
市民記者の記事の投稿が、自らの自己実現を第一目標にされるなら私の意見は空論だ。しかし、市民記者が社会的有益性を第一目標に投稿されるならば、私の考えも間違っていないと考える。
市民記者とは、誰かに向かって歌いたい人である。
カラオケルームで一人歌いたいような人は、ブログでかまわない。また、沢山の人に向かって歌うための訓練として、ブログで修行している人もいるだろう。
勿論、ブロガーの中にも社会的に意義がある情報発信をしたい人はいるだろうから、それは市民記者媒体とコラボレーションをすればいい。
市民記者とブロガーの違い・位置づけを私はそう考える。
2005年07月30日
日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(8)
私が考える市民参加型ジャーナリズムの記事の一般的なタイプは、ニュースショーなどでスタジオと回線からつながれたテレビでの現場からのレポートだ。現場のレポーターは、客観的な立場から現場をリポートするが、最終的にはスタジオのアンカーマンから感想を聞かれ、自分の意見を述べる。そういう按配が標準であって、新聞の三面記事のような記者の視点はおろか、記者が存在さえしないような記事は興ざめだと思う。
そして、記者の中には、木村太郎氏や田原総一朗氏のように自分の意見を大々的に述べる記者もいるだろう。
たんなる感想でも記事としては成立するのだろうが、私は感想だけの記事は書かない。そう読んでもらえなければ自分の筆力を反省するしかないのだが、たとえテレビ番組を取り上げる場合でも、問題点を指摘し、現状の改善を求める取り上げ方をしてきた。テレビ番組の社会的な影響力を考えれば、問題を指摘することは意味があると考える。
私は、そうした記事の有用性こそ、市民が重い腰をあげて参加する新しいメディアの意義だと思う。
もし、市民記者が自分の感想を述べることだけで終わってしまうのならば、それは有名になりたいという自分の欲望に他者を巻き込むことにしかならない。そういうものも全否定はしないが、そういうものが横溢するようなメディアの有用性は低いと思う。
日本人は四季とともに生活しているから、花鳥風月を記事にすることもいいだろう。また、そういうものは新人市民記者がはじめて記事をあげるには格好の題材だと思う。でも、だからといって、そういうものばかりでメディアを埋め尽くしていこうという姿勢には納得がいかないのである。
そして、記者の中には、木村太郎氏や田原総一朗氏のように自分の意見を大々的に述べる記者もいるだろう。
たんなる感想でも記事としては成立するのだろうが、私は感想だけの記事は書かない。そう読んでもらえなければ自分の筆力を反省するしかないのだが、たとえテレビ番組を取り上げる場合でも、問題点を指摘し、現状の改善を求める取り上げ方をしてきた。テレビ番組の社会的な影響力を考えれば、問題を指摘することは意味があると考える。
私は、そうした記事の有用性こそ、市民が重い腰をあげて参加する新しいメディアの意義だと思う。
もし、市民記者が自分の感想を述べることだけで終わってしまうのならば、それは有名になりたいという自分の欲望に他者を巻き込むことにしかならない。そういうものも全否定はしないが、そういうものが横溢するようなメディアの有用性は低いと思う。
日本人は四季とともに生活しているから、花鳥風月を記事にすることもいいだろう。また、そういうものは新人市民記者がはじめて記事をあげるには格好の題材だと思う。でも、だからといって、そういうものばかりでメディアを埋め尽くしていこうという姿勢には納得がいかないのである。
2005年07月28日
日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(7)_市民記者はスーパーマンだ。
私が市民参加型ジャーナリズムに求めているのは、八百屋屋のご主人が八百屋の記事を書くこと。
ただ、ここが微妙な話なのだが、八百屋屋のご主人がジャーナリストになるのではない。八百屋屋のご主人が八百屋のご主人のまま記事を書くことが重要なのだ。と、前々回に書いた。
世田谷区にはオンブズマン活動に熱心なパン屋さんがいる。彼は、熱心なあまり、パン屋さんでありながら地方議員になってしまった。たしかにパン屋のご主人のまま物を言う市民になったといえるのだが、彼のお店は、物を言うパン屋さんになってしまって、もう市井の市民ではなくなってしまったと思える。いうなればパン屋さんの地方議員。彼の市民オンブズマン活動を尊敬する人たちもいるが、市井の市民感覚とは、距離感ができてしまっているとも思える。
☆
私がイメージするのは、サラリーマンのクラーク・ケント氏が背広を脱ぐとスーパーマンに変身すること。
さえないクラーク氏を知る人は、仰ぎ見るスーパーマンを彼だと思う人はいない。彼の彼女だけ「おやっ」と首をかしげる。そんな世界だ。そして、クラーク氏本人も有名になること、英雄になることを良しとしない。
アメリカ人の人生の目標は英雄になることだというが、スーパーマンのストーリーを見る限り、そう単純ではないと思えてくる。
市民が社会悪と戦う場合、その戦いは人生の長い時間から比べればほんの一瞬の出来事だと思う。その一瞬のために、告発者や情報提供者が自分の人生でこつこつと積み上げてきたすべてを失うのだとしたら、それは避けるべきである。また、そういうシステムが構築されない限り、市民参加型ジャーナリズムは隆盛しないと考える。
思えば、ウルトラマンは3分しか戦わないし、科学特捜隊のハヤタ隊員もさえない若手隊員といった位置づけだった。ただ、クラーク氏もハヤタ氏も、悪と戦う勇気を心に秘めていた。
そういう勇気の受け皿が市民参加型ジャーナリズム媒体だと考えている。
ただ、ここが微妙な話なのだが、八百屋屋のご主人がジャーナリストになるのではない。八百屋屋のご主人が八百屋のご主人のまま記事を書くことが重要なのだ。と、前々回に書いた。
世田谷区にはオンブズマン活動に熱心なパン屋さんがいる。彼は、熱心なあまり、パン屋さんでありながら地方議員になってしまった。たしかにパン屋のご主人のまま物を言う市民になったといえるのだが、彼のお店は、物を言うパン屋さんになってしまって、もう市井の市民ではなくなってしまったと思える。いうなればパン屋さんの地方議員。彼の市民オンブズマン活動を尊敬する人たちもいるが、市井の市民感覚とは、距離感ができてしまっているとも思える。
☆
私がイメージするのは、サラリーマンのクラーク・ケント氏が背広を脱ぐとスーパーマンに変身すること。
さえないクラーク氏を知る人は、仰ぎ見るスーパーマンを彼だと思う人はいない。彼の彼女だけ「おやっ」と首をかしげる。そんな世界だ。そして、クラーク氏本人も有名になること、英雄になることを良しとしない。
アメリカ人の人生の目標は英雄になることだというが、スーパーマンのストーリーを見る限り、そう単純ではないと思えてくる。
市民が社会悪と戦う場合、その戦いは人生の長い時間から比べればほんの一瞬の出来事だと思う。その一瞬のために、告発者や情報提供者が自分の人生でこつこつと積み上げてきたすべてを失うのだとしたら、それは避けるべきである。また、そういうシステムが構築されない限り、市民参加型ジャーナリズムは隆盛しないと考える。
思えば、ウルトラマンは3分しか戦わないし、科学特捜隊のハヤタ隊員もさえない若手隊員といった位置づけだった。ただ、クラーク氏もハヤタ氏も、悪と戦う勇気を心に秘めていた。
そういう勇気の受け皿が市民参加型ジャーナリズム媒体だと考えている。
2005年07月27日
日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(6)_市民記者は妙好人
鈴木大拙の「妙好人」などを例にあげて、訳が分からないという人もいるだろう。妙好人とは、念仏を唱えることが生活の中の一部となっている市井の人たちとでもいうのだろうか。大拙氏は、経を読み、長年修行した位の高い僧よりも、妙好人の方が仏教の本質を理解していて、魂のグレードも高いことがあると紹介した。
私が市民参加型ジャーナリズムに求めているのは、魚屋のご主人が魚屋の記事を書くこと。
ただ、ここが微妙な話なのだが、魚屋のご主人がジャーナリストになるのではない。魚屋のご主人が魚屋のご主人のまま記事を書くことが重要なのだ。
勿論、魚屋のご主人が魚屋の商いの傍ら記事を書くのだから、商いに支障がでないとも限らない。市民参加型ジャーナリズム媒体は、魚屋のご主人が安心して書けるようなシステムを構築すべきである。間違っても、「実名でなければ真実の報道はありえない」などと乱暴に主張してはならない。
なぜなら、私たちは雪印という日本の大企業が瓦解した事件を経験している。社会悪ともいえる一企業の悪事を暴いたのは、西宮冷蔵という独立した倉庫業者の主だった。彼は自分の倉庫で悪事が行われていることを許せなかった。だから勇気を持ってマスコミに顧客の事件を告発した。だが、そのことは、大阪の商い道徳からいえば、違和感があったのだろう。彼の会社は営業がいきづまり、彼の人生は大きく挫折した。
このようなことが頻発するならば、社会正義を貫く人は居なくなり、社会には不正があふれるようになるばかりだ。たしかに西宮冷蔵の主は短慮ではあった。だが、彼の勇断をつかって大企業の社会悪を糾弾し、あるべき状態に導いていったマスコミや行政が、彼を見殺しにするのは非情すぎると思う。
せめて市民社会は、彼の勇気を讃えることをすべきではないか。
このケースなども、市民参加型ジャーナリズム媒体が知恵を出し合い、工夫することによって、告発者の被害を最小限に留めることができるのではないか。告発者が英雄になることを望まないならば、それほど難しいことではないと考える。
私が市民参加型ジャーナリズムに求めているのは、魚屋のご主人が魚屋の記事を書くこと。
ただ、ここが微妙な話なのだが、魚屋のご主人がジャーナリストになるのではない。魚屋のご主人が魚屋のご主人のまま記事を書くことが重要なのだ。
勿論、魚屋のご主人が魚屋の商いの傍ら記事を書くのだから、商いに支障がでないとも限らない。市民参加型ジャーナリズム媒体は、魚屋のご主人が安心して書けるようなシステムを構築すべきである。間違っても、「実名でなければ真実の報道はありえない」などと乱暴に主張してはならない。
なぜなら、私たちは雪印という日本の大企業が瓦解した事件を経験している。社会悪ともいえる一企業の悪事を暴いたのは、西宮冷蔵という独立した倉庫業者の主だった。彼は自分の倉庫で悪事が行われていることを許せなかった。だから勇気を持ってマスコミに顧客の事件を告発した。だが、そのことは、大阪の商い道徳からいえば、違和感があったのだろう。彼の会社は営業がいきづまり、彼の人生は大きく挫折した。
このようなことが頻発するならば、社会正義を貫く人は居なくなり、社会には不正があふれるようになるばかりだ。たしかに西宮冷蔵の主は短慮ではあった。だが、彼の勇断をつかって大企業の社会悪を糾弾し、あるべき状態に導いていったマスコミや行政が、彼を見殺しにするのは非情すぎると思う。
せめて市民社会は、彼の勇気を讃えることをすべきではないか。
このケースなども、市民参加型ジャーナリズム媒体が知恵を出し合い、工夫することによって、告発者の被害を最小限に留めることができるのではないか。告発者が英雄になることを望まないならば、それほど難しいことではないと考える。