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浜田省吾プロフィールWikiから」
URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E7%9C%81%E5%90%BE

浜田 省吾(はまだ しょうご、1952年12月29日 - )は、広島県竹原市生まれの日本のシンガーソングライター、ロックミュージシャン。O型。広島県立呉三津田高校(野球部所属)卒業、神奈川大学法学部中退。身長170cm。
1975年、愛奴のメンバー(ドラムス)としてプロ・デビュー。デビュー時からサングラスがトレードマーク。1976年にソロ・デビュー。メディア露出が極端に少ないものの、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得。デビュー後数年間は、事務所からの方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していた。そのため、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在する。一般的に認知されているバラード楽曲の他にも父親の被爆体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し、いわゆるビッグネームの中では最もプロテスト色の強いアーティストである。また、「ロック=英語」という既成概念に疑問をもち、日本語による歌詞や歌唱にこだわった。このことは以降のミュージシャンにも大きな影響を与えた。
山口百恵、和田アキ子、能瀬慶子、甲斐よしひろ、松田優作、時任三郎、吉田栄作、榊原郁恵、真田広之、烏丸せつこら、ホリプロ所属時代に多くの楽曲を提供している。 マスコミ等で「浜省」(ハマショー)という愛称が使われる事があるが、これに関して本人は快く思っていないと言っている。

来歴
幼少期
1952年に広島県竹原市に生まれる。生家は現在も残っており、かつてファンクラブ誌上で訪問したことがある。家族構成は本人、両親、姉2人。
父は戦前、特高警察官、その後は地方警察署に勤務。木江署勤務時代の1945年8月6日、広島市への原爆投下直後に救援隊として広島市に入り二次被爆した。定年後は女子寮の寮長をしていたこともある。
父の転勤のため、3歳から御調郡向島町岩子島、佐伯郡廿日市町宮内、五日市町(現広島市佐伯区)、広島市元宇品(現南区元宇品)と広島県内で転校を繰り返す。18歳までに20回近く引っ越しをした。こうした経験が自身の人間形成に大きな影響を与えたと述懐している。
9歳のとき江田島の海沿いの町、鷲部に転居。この頃、ラジオから流れるビートルズの日本デビュー曲「プリーズ・プリーズ・ミー」を聴く。小学校4年の頃、『週刊平凡』かなにかに載ったビートルズの小さな写真を初めて見て「どの人がビートルズ」かと姉に聞いた。まだ子どもだったので複数形"S"の意味を知らなかった。当時の洋楽はソロシンガーの軽快なポップミュージックが主流だったので大きなショックを受ける。姉の誕生日プレゼントだったギターを取り上げ、ギター演奏を始める。学校でもホウキをギター代わりに演奏の真似をしたりしていた。雑誌などにビートルズの名前が載っていると、切り抜いてノートに張り付けたりしていた。
1965年、13歳の時、呉市汐見町に転居、呉市立二河中学に転校。以降は高校卒業まで呉市で育った。FEN岩国を知り、毎日ラジオに噛り付き洋楽を聴いた。ビートルズの他には、モータウン・サウンド、ビーチ・ボーイズ、ヤング・ラスカルズなどを好んで聴いた。少年期の音楽体験については、渋谷陽一との対談集「ロックは語れない」などに詳しい。また、子供の頃はロックやポップスと並んで漫画が大好きな少年で、ずっと読んでばかりで親に怒られたという。ケント紙を買ってきて、枠線を引いて自分で漫画を描いて、クラスで回し読みしていた。今はほとんど漫画は読まないらしいが、『あしたのジョー』だけは未だに全巻揃えてあるという。
高校時代と大学中退まで
1968年、県内有数の進学校、広島県立呉三津田高等学校に入学。父の期待に応えたいという一心で受験勉強に励んだ。しかし、授業の合間の休憩時間にも全員が予習・復習をしているという環境に馴染めず、不良の溜まり場だった野球部に入部。また、「グルックス」というバンドを組んでいた後の盟友・町支寛二と知り合い「広島フォーク村」にも参加。野球部はきつい練習や先輩部員との対立から3年の時に退部。野球部を辞めた後はフォークソング・クラブ、新聞部に所属する他、生徒会役員となり呉の弾薬庫の弾薬運搬反対デモなど、学生運動にも積極的に参加した。こうした学生運動などの経験が、現在の曲作りの基礎になっているとよく言われるが、本人はそのことを否定している。そうした動きを「アカ」と批判する父親とも激しくぶつかった。浜田いわく父親は非常に保守思想の強い人物で、当初はミュージシャン活動にも批判的だった。
高校時代には既にビートルズは解散しており、愛聴していたビーチ・ボーイズやラスカルズもあまり活動しておらず、本人はこの時期を「ロックの暗黒時代」と振り返っている。浜田は3分間から4分間のシンプルなポップスやロックが好きで、アート・ロックやプログレッシブ・ロックと呼ばれるような音楽を嫌っていた。そんな中でも、当時はレッド・ツェッペリンやクリーム、ジミ・ヘンドリクスなどを聴いていた。特に、知人にレッド・ツェッペリンを紹介されて初めて聴いたときは、ビートルズと同じくらいの衝撃だったという。
1971年、大学受験に失敗後、大竹市に転居。広島市内の予備校、英数学館に通う。この年ベトナム戦争を進めるアメリカに加担しながら、広島平和記念式典に出席した佐藤栄作首相の行動が矛盾するとして起こった、激しい反対運動にも参加した。これは「パック・イン・ミュージック」のパーソナリティ・北山修が広島へ反戦列車を走らせた事でも知られる。この頃はアメリカン・ニューシネマをよく観てJ・D・サリンジャーにも傾倒、アメリカ文化に強く憧れた。また、初の海外アーティストのコンサート体験として、レッド・ツェッペリンの広島公演を観に行っており、「聴いたことがないくらいデカい音」だったという。
1972年、1浪して神奈川大学法学部に入学する。華やかなキャンパス・ライフを夢見て上京するものの、まだ学生運動が盛んな時代で、大学はロックアウトされたり、ストライキで休校されることが多く、こんな大変な時に親からお金を送ってもらう意味が無いと次第に感じ始める。同じように上京して大学生活を送っていた町支寛二らと再会し、一緒にバンド活動を始める。
20歳のある日の夏、大学の正門前にあった下宿で、ザ・ビーチ・ボーイズの「サーファー・ガール」に影響を受け、「二人の夏」を作ってみた。町支達に聴かせると、ブリティッシュ・ロックしか聴いたことのない彼らは、初めて聴くウェストコースト風のサウンドに「これは良いよ」と絶賛された。「あの時、けなされていたら曲作りは止めていたかも知れない」と話している。
1973年、音楽活動にのめり込み大学中退。両親には「1年間だけ休学させてほしい」と伝えたが、気持ちとしては辞めたも同然だった。下宿を引き払う日、下宿前にあった大学構内で神奈川大学のセクトと他校から来たセクトとの激しい内ゲバが発生。火炎瓶が飛び交い、傷ついた学生達がキャンパス内に転がり、多くの死傷者を出した暴動を朝まで見ていた。このことで「もうすべてが終わった」とはっきり実感する。
広島に戻り、「広島フォーク村」の音楽仲間と共にロックバンド「愛奴」を結成。愛奴ではドラムを担当。当初はキーボード担当だったが、ドラムの山崎貴生から「ドラムと代わってくれない?」と電話されて、その場で簡単に交代した。ギター担当の青山徹の実家の屋根裏部屋を借りて、ウェイターのアルバイトをしながらバンド練習の日々を過ごす。また、天満屋デパートの屋上や地元のテレビ番組で演奏したりした。後に柳ジョージ&レイニーウッドに参加する上綱克彦、石井清登らはこの時代の音楽仲間。
プロデビューと不遇の時代
1974年、再び上京し、吉田拓郎の春と秋の全国ツアーのバック・バンドに愛奴として参加。ドラム経験は1年程しかなかったが、必死で練習してツアーに間に合わせた。拓郎のバックバンドとして何度か「ミュージック・フェア」などテレビにも出演した。ただし、演奏技術の問題からツアーでの「落陽」は演奏メニューから外され、拓郎は生ギターの弾き語りコーナーで「落陽」を歌った。ツアー中休みの7月に発売されたよしだたくろう・かまやつひろしのシングル「シンシア」のB面「竜飛崎」は愛奴の演奏である。しかし、8月にレコーディングされた拓郎のアルバム「今はまだ人生を語らず」(12月発売)は、全てスタジオ・ミュージシャンによるレコーディングとなった。
1975年5月1日に愛奴としてアルバム『愛奴』とシングル「二人の夏」でレコード・デビュー。当時、CBSソニーでは同社始まって以来の大プロモーションを行い、浅田美代子の「赤い風船」(売上80万枚)を上回る100万枚以上のセールスを見込んでいたというが、実際には全く売れず惨敗という結果であった。また「二人の夏」はウェストコースト風のサウンドだったのだが、メンバーそれぞれの音楽志向がバラバラで愛奴にはスタイルが無く、バンド内での自分の存在や、シンガーソングライターへの憧れもあり、同年9月に愛奴を脱退。愛奴の全シングルA面は浜田が手掛けており、当時からソングライティングの意欲や素質を備えていた。愛奴脱退後は音楽活動を続けながらウェイターなどのアルバイトもしていた。ぼんやりと就職雑誌を眺めることもあったという。
1976年4月21日にアルバム『生まれたところを遠く離れて』とシングル「路地裏の少年」でソロデビュー。ソロ初ライブは同年4月5日、「渋谷屋根裏」。ロック志向の自身にとっては不本意ながら、予算の都合上、生ギター1本のスタイルで全国ライブ巡業を開始。直後に矢沢永吉のフィルムコンサートの前座を務めた。また、アイドル歌手時代の竹内まりやとジョイント・コンサートも行っている。また地方のバンドと合体してステージをこなしたり歌わせてもらえる所ならどこでも、レコード店の店頭はもちろん、スーパーマーケットの催し、果ては演歌の流しのようにバーのカウンターの中でも歌った。この頃の全国巡業での観客は数十人から数百人程度で、描いた夢には程遠かった。ソロ活動を行う浜田に前バンド仲間の町支寛二が合流、同年12月に愛奴は解散している。
1970年代はレコード会社の意向もあって、「ポップなメロディーメイカー」としての曲作りを迫られる。当時の制作サイドはAORに代表されるような都会的でポップなソングライターとして開花させようとしていた。本人は変わらずロック志向だったものの、周りに言われるがまま作家的な曲作りを続ける。しかし、セールスには恵まれず、苦悩と挫折の中で精神的にも落ち込んでいき、「曲は書けるが詞が全く書けない失語症のような状態」に陥る。1979年5月21日、職業作詞家が半数以上作詞を手掛けたアルバム『MIND SCREEN』発表。本アルバムからディレクターが蔭山敬吾から須藤晃に変わる。1978年から始まった「ザ・ベストテン」などで、後輩の原田真二や世良公則&ツイストらがブレイクする中、「あー、俺の時代はやっぱ来ないまま終わるのかなあ」と感じる。
こうした経緯から、1970年代の初期の作品に対して、あまり良い印象がないことを隠そうとしない。「5枚目までのアルバムは全部廃盤にして欲しい」と語ったこともある。特にサウンド面で納得がいっていないらしく、1980年代以降にほとんどの楽曲をリメイクしている。
ちなみに、1978年、25歳のときに結婚している。自身のレコード売上による印税収入は微々たるものだったため、他の歌手への楽曲提供による収入をもとに、婚約指輪や結婚式、新婚旅行の資金に充てたという。浜田にとって初めての海外旅行でハワイに行っている。
1979年7月1日、日清カップヌードルのCMソングとして書いたシングル「風を感じて」が初のスマッシュ・ヒット(オリコン最高25位、売上10万枚)。今でこそカップヌードルのCMというメジャーな感じがあるが、当時は「エー!?」みたいな印象だったという。このヒットを機会に、自身のやりたい音楽を表現することを決意する。なお、この関係で『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)や、日清食品がスポンサーだった『ヤングおー!おー!』(毎日放送)の公開放送に出演している。この時の事を後のインタビューで述べているが、「朝から音リハ・カメリハを2時間待ってはもう一回と何度も繰り返し、ワンハーフ(1番とサビ一つの2分くらい)を歌うための拘束時間は10時間ぐらいだった」という。結局『ヤングおー!おー!』に3回、『夜のヒットスタジオ』に2回、計5回の地上波のテレビ出演がある。
音楽性の転換と成功への道
1980年10月21日、6thアルバム『Home Bound』リリース。それまでの職業作家的な曲作りから、本格的ロックに音楽性が変化する重要作。初の海外レコーディング作品で、ニッキー・ホプキンスやTOTOのスティーヴ・ルカサーなどアメリカを代表する一流ミュージシャンが参加した。セールス的にはそれほどでもなかったが、自身の方向性を見つけ出す。
また、1980年1月8日から9月30日まで、文化放送の深夜番組『セイ!ヤング』で月曜日担当のDJを務める。同年10月にはツアー先の沖縄で、母が脳閉塞で倒れ危篤状態との知らせを受ける。なんとか一命は取り留めたものの半身不随を患い、このときの気持ちを「悲しみは雪のように」という楽曲に込めている。
1982年1月12日、日本武道館での初コンサートを開催。当時の浜田の動員力では無謀とまで言われたが、結果は即完売で大成功に終わる。この頃はまだ「風を感じて」の一発屋のようなイメージが強かったが、武道館の成功によって大きな注目を浴びる。同年2月25日、そのときの模様を収録したライブ・アルバム『ON THE ROAD』を発売し、初のトップ10入りを記録。これ以降はコンサートツアーのタイトルを「ON THE ROAD」とする。
一方で、所属事務所であったホリプロダクションとの間で音楽性やコンサート・ビジネスに対する考え方の違いが表面化し、浜田自ら堀威夫社長にかけあい、1983年4月1日に独立。音楽事務所「ロード&スカイ」を設立する。事務所名は浜田が敬愛するジャクソン・ブラウンの曲名「Road and the Sky」から付けられている。長らく浜田の個人事務所であったが、1990年代以降は尾崎豊(所属は約1年程で個人事務所アイソトープを設立し独立)、三浦知良、スピッツ、斉藤和義らが所属する。
1983年8月13日、福岡・海の中道海浜公園で初のワンマン野外コンサート「A PLACE IN THE SUN」では25,000人を動員。独立後最初の一大イベントを無事に成功させる。翌年1984年4月29日には2回目となる「A PLACE IN THE SUN」を横浜スタジアムで開催している。ただし、この横浜スタジアムでの公演はあまり良い印象がないようで、これ以降スタジアム・ライブは開催されていない。
この頃からレコード・セールスやライブの観客動員が安定してくる。アルバムもコンスタントに数十万枚を売り上げ、ライブ・チケットも完売が続いていく。1980年代は毎年のように年間100本近いコンサートツアーを続けていく。
1985年7月27日〜28日、つま恋多目的広場での吉田拓郎オールナイト・コンサート「ONE LAST NIGHT in つま恋」で愛奴が再結成され、「ひらひら」「野の仏」「シンシア」の3曲で久々にドラムを叩く。その際、拓郎から「浜田、前よりドラム上手くなったな」と言われる。
1986年9月4日に発売された2枚組アルバム『J.BOY』がソロデビュー10年目にして初のオリコン・アルバムチャート第1位(4週連続)を獲得。名実共に日本の音楽シーンを代表するトップ・アーティストへと成長する。「ON THE ROAD '86 "I'm a J.BOY"」ツアーの終了後の1987年4月30日に父親が癌のため死去。父親の闘病生活や逝去といった出来事は、浜田の音楽活動にも大きな影響を及ぼしている。
1988年3月16日、1年半振りの新作『FATHER'S SON』を発売。その後、ほぼ1年間をかけて100本のツアーをこなす。同年8月20日の静岡県浜名湖・渚園での野外コンサート「A PLACE IN THE SUN at 渚園」では52,000人を動員。当時の男性ソロ・アーティストの動員記録となった。ツアー終了後の1989年5月21日、初となる映像作品『ON THE ROAD "FILMS"』を発売。その後しばらく音楽活動から離れ、楽曲制作もツアーも行わず休養に入る。
トップ・アーティストとしての苦悩の時期
1990年6月21日、久々のアルバム『誰がために鐘は鳴る』を発売。それまでの疾走感あふれるロックから、内省的な曲作りへと移行する。そのアルバム内容から引退が囁かれる。アルバム発売後には、こちらも久々となるツアーを開催し、2年間に渡ってホールツアーとアリーナツアー合わせて109公演を行う。
1992年2月1日にテレビドラマ「愛という名のもとに」の主題歌として発売されたシングル「悲しみは雪のように」(1981年リリース曲のリメイク)が、初のオリコン・シングルチャート第1位(8週連続、通算10週)を獲得。170万枚のビッグセールスを記録した。同時に、過去にリリースされたアルバムが多数チャートインするなど、空前の浜省ブームとなる。しかし、本人はこの時期に鬱状態になり、メディアに全く出てこなかった。同年12月12日にはシングル「アヴェ・マリア」を発表。印税・原盤収入など全ての収益を社会問題化しつつあったエイズの治療・研究に寄付するというチャリティー・シングル。総額で3,500万円程が寄付された。「このまま音楽人生を終わらせてもいいかなと思った」と後に語っている。
精神的にダウンしていた状態から立ち直り、1993年9月6日に3年振りのオリジナル・アルバム『その永遠の一秒に 〜The Moment Of The Moment〜』を発表。シンセサイザーを全面的に取り入れた新しい音楽性を示すが、詩世界は前作『誰がために鐘は鳴る』と同様に重苦しいテーマに包まれている。アルバム発売後のツアー中の1994年6月、バンドメンバーの町支寛二に脳腫瘍が見つかり、ツアーを一旦中断した後に再開した。
1995年7月1日、「浜田省吾 with THE R&S INSPIRATIONS」名義でシングル「我が心のマリア」発表。カップリングの「恋は魔法さ」は神戸を舞台にしたラブソングで、その年に発生した阪神・淡路大震災の復興を願い、「アヴェ・マリア」同様に印税収入を全額寄付。このシングルは事務所の後輩であるスピッツや区麗情、Origaらと共に制作した。同年、プライベート・レーベル「クリア・ウォーター(Clear Water)」を発足。
1996年2月29日、2作目となる映像作品『ROAD OUT "MOVIE"』と、そのサウンドトラック盤『ROAD OUT "TRACKS"』を同時発売。同年11月11日には3年振りとなるオリジナル・アルバム『青空の扉 〜THE DOOR FOR THE BLUE SKY〜』を発売。それまでの作品とは打って変わり、ポップで明るい作風となっている。アルバム発表後には96年から97年に掛けてアリーナツアーを行う。さらに1997年1月22日には1970年代の楽曲のセルフカバー・アルバム『初夏の頃 〜IN EARLY SUMMER〜』を発売するなど、精力的に活動する。
1997年10月22日、吉田拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「イメージの詩」をカバー。拓郎自身もコーラスとアコースティック・ギターで参加している。CDとアナログ盤が同時発売された。1998年にはこれまでのチャリティー活動の経験を踏まえて、有志と共に「J.S.Foundation」という基金を設立している。コンサート会場の受付では毎回募金を行っている。
この頃から従来のコンサート・ツアーの在り方に疑問を抱き始め、音楽の旅の意味を見つめ直すべく新たなツアーを企画する。1998年4月10日、20世紀から21世紀を跨ぐ前代未聞のツアー「ON THE ROAD 2001」が4年がかりの構想でスタート。全国のホール、アリーナ、ライブハウス、そして野外コンサートがスケジューリングされた長いツアーが敢行された。このツアー中に初のファンクラブ限定ライブも行っている。4年間で127ヶ所198公演を開催し60万人もの観客を動員。2002年1月には特別公演として20年振りに日本武道館でライブを行う。
1999年夏、北海道での野外ライヴ「ON THE ROAD 2001 LET SUMMER ROCK '99 "SUNSHINE PICNIC&MOONLIGHT DANCING"」を行うため、キロロリゾートに向かう途中に、メンバーとスタッフを乗せたANA61便がハイジャックに遭遇。浜田自身は前日に北海道入りしていて無事だった。その公演では、亡くなった機長を悼んで黙祷が捧げられた。
そのツアー期間中の1999年9月8日には、『Home Bound』『愛の世代の前に』『PROMISED LAND 〜約束の地』『DOWN BY THE MAINSTREET』『J.BOY』『FATHER'S SON』『誰がために鐘は鳴る』の1980年から90年までのオリジナル・アルバム7作にリマスタリングを施し再発。『DOWN BY THE MAINSTREET』『誰がために鐘は鳴る』はリミックス、『J.BOY』はリミックスとリアレンジメントが施されている。
2000年11月8日、デビュー25周年を記念した初のベストアルバム(ヒストリーアルバム)『The History of Shogo Hamada "Since 1975"』を発表。チャート1位を獲得し、120万枚の大ヒットとなる。2001年には本人が制作に参加する形で、NHKの地上波、BS、BS-hiで自身の音楽活動を広く紹介する番組が放映された。このことは20年振りのテレビ出演として話題となる。テレビでは、浜田本人が陣内孝則とコントを披露する。
4年間のツアーが終わり、しばらく表立った活動がない状態が続いたが、2003年3月19日に本人を題材とした異色作のゲームソフト『OVER THE MONOCHROME RAINBOW featuring SHOGO HAMADA』が発売される。浜田も本人役で声優として出演している。プロデュースはライブでキーボードを担当する福田裕彦。
同年11月1日~12月27日、ファンクラブイベント『official fan club special event 100% FAN FUN FAN 2003』を10公演開催。コンサート形式で且つツアー型のFCイベントは自身初となる。
2004年、春嵐こと小説家の小川糸とアレンジャーの水谷公生と結成したユニット「Fairlife」にメンバーとして参加。シングル「永遠のともだち」、アルバム『Have a nice life』を発売する。ボーカリストにポルノグラフィティの岡野昭仁や元プリンセス・プリンセスの岸谷香らの豪華な面々を迎えた。
デビュー30周年と東日本大震災を受けて
2005年7月6日、4年振りとなるオリジナル・アルバム『My First Love』を発表。9月から同じく4年振りとなる全国アリーナツアー「ON THE ROAD 2005 "MY FIRST LOVE"」を開催し、26公演を行う。同年7月18日、桜井和寿や小林武史らが主催する「ap bank fes '05」に、最終日の大トリとして出演する。桜井とは初のステージ共演で、「マイホームタウン」「Thank you」「家路」の3曲を披露した。
2006年8月9日にソロデビュー30周年として2枚のベストアルバム『The Best of Shogo Hamada vol.1』『vol.2』を同時リリース。また、2000年に発売された『The History of Shogo Hamada "Since1975"』が3面紙ジャケット仕様で期間限定にて再発された。
同年9月15日より松戸森のホール21を皮切りに「ON THE ROAD 2006-2007 "MY FIRST LOVE IS ROCK'N'ROLL"」をスタート。ソロデビュー30周年ということもあり、何か大きなイベントをやろうとも考えたらしいが、原点に帰って全国のホールを回ることにした。2007年11月27日の酒田市民会館まで53ヶ所83公演を行い、奈良県を除く全国46都道府県のホールを回った。
2007年3月7日にはFairlifeとして2ndアルバム『パンと羊とラブレター』を発表する。ツアーの合間を縫って制作された。
2008年4月2日、6年振りとなるライブDVD『ON THE ROAD 2005-2007 "My First Love"』をリリース。2005年のアリーナツアーと2006〜2007年のホールツアーの全109公演から選び抜かれた映像を収録。300分を超える作品となった。同年9月1日から着うたフルの配信を開始したところ、親世代の影響で聴き始めたと思われるアラフォー世代の子供たち、いわゆる「アラフォー・チルドレン」(10代後半から20代前半)に支持され、ダウンロード・チャートで上位に食い込む現象が起きた。
2009年4月29日〜7月4日、ファンクラブイベント『Officail Fan Club Presents "100% FAN FUN FAN" featuring Katz Hoshi 2009年春の音楽会「春来たりなば夏遠からじ…」』を15公演開催。通常のバンド・メンバーに加えて、ストリングスをバックに従えたスタイルでのツアーだった。
同年7月、横浜の赤レンガ倉庫にて浜田省吾の展覧会「浜田島」が開催される。30年以上に渡って浜田作品のデザイナーを務めている田島照久による、写真・デジタルアート・映像・音楽を織り交ぜた作品展。翌年5月には大阪・中之島の中之島バンクスにて「浜田島II」が開催された。
2010年2月3日、Fairlifeの3rdアルバム『みちくさ日和』をリリース。先行シングル「旅せよ若人 feat.岡野昭仁 from ポルノグラフィティ」は、映画『食堂かたつむり』の主題歌に起用されている。
同年10月6日、ベストアルバム『The Best of Shogo Hamada vol.1』『vol.2』に続くベストアルバムシリーズ完結編『The Best of Shogo Hamada vol.3 The Last Weekend』とDVD『僕と彼女と週末に』を同時リリース。このDVDの構想は2000年頃から始まっていたという。
2011年4月16日、約5年半ぶり(ツアー自体は約3年半ぶり)のアリーナツアー「ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"」を静岡エコパアリーナを皮切りに開催。12都市全34公演の日程だったが、ツアー直前の3月11日に発生した東日本大震災の復興支援コンサートとして神戸ワールド記念ホールでの公演が追加され、チケットとグッズの売上の収益(約2,100万円)を南相馬市の幼児施設除染のための義捐金として寄付された。
2012年5月19日・20日、東日本大震災の影響で延期されていたアリーナツアー「ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"」の宮城セキスイハイムスーパーアリーナ公演が開催された。また、「ON THE ROAD SPECIAL "The Last Weekend"」と題した、東日本大震災の2回目の復興支援コンサートをさいたまスーパーアリーナにて6月2日・3日の2日間に亘って行われた。チケットとグッズの売上の収益(約1億2,200万円)は被災地復興のための支援金として寄付。前年4月からのツアーは全国12都市37公演、延べ約35万人を動員して終了した。
同年8月10日、YouTube公式チャンネルを開設した。過去のプロモーション・ビデオやライブ映像などが配信されている。
同年9月19日、4年半振りとなるライブ映像作品『ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"』と、ライブ・アルバムとしては30年振りとなる3枚組CD『ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"』を同時リリース。DVD盤とBlu-ray Disc盤でリリースされ、浜田の映像作品としては初のBD作品としての発表となる。
同年10月1日付のオリコン総合DVDランキングで『ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"』が初登場1位を獲得し、59歳9ヶ月での「最年長音楽DVD総合首位獲得記録」を樹立した。浜田の映像作品の週間ランキング首位獲得は、DVD・BD両ランキングでは初めてであり、映像作品としてはビデオ『ROAD OUT "MOVIE"』以来、16年7ヶ月ぶりの映像作品首位となった。
60歳を迎えて、現在まで
2013年5月3日〜7月21日、ファンクラブ創立30周年を記念したファンクラブイベント『Shogo Hamada Official Fan Club Presents "100% FAN FUN FAN" On The Avenue 2013 「曇り時々雨のち晴れ」』を18公演開催。うち4公演は『SHOGO HAMADA ON THE AVENUE 2013 specialチャリティーライブ For 東日本震災復興支援&海外人道支援プロジェクト』と題した東日本震災と海外人道支援に対するチャリティーイベントも開催。
同年7月28日、NHK-BSプレミアムの特別番組「浜田省吾ライブスペシャル〜僕と彼女と週末に〜」が放映される。前述の2001年のNHK特番への出演以来、12年ぶりのテレビ出演となった。テレビ内容では浜田本人がクマの着ぐるみを着るというお茶目ぶりを見せた。
2014年8月23日、映画「もういちど」(原案・脚本・監督:板屋宏幸)の主題歌として浜田の「君に捧げるlove song」が起用される。浜田にとって映画の主題歌は初となる。
2014年12月19日〜28日、名古屋にて「THE HAMADA ISLAND III The Exhibition of Shogo Hamada by Teruhisa Tajima」が開催される。
2015年1月17日公開の映画『アゲイン 28年目の甲子園』の主題歌として「夢のつづき」を歌うことが決定。浜田にとって10年ぶりの新曲で初の新曲による映画主題歌である。楽曲は映画公開前の1月14日、EP盤(ミニアルバム)『Dream Catcher』にてCD化された。
2015年3月13日〜4月5日、福岡にて「THE HAMADA ISLAND IV The Exhibition of Shogo Hamada by Teruhisa Tajima」が開催される。
2015年4月29日、『My First Love』以来、10年ぶりのアルバム『Journey of a Songwriter 〜 旅するソングライター』が発売される。全17曲を含むアルバムで、完全生産限定盤・期間生産限定盤・通常盤の3形態用意され、完全生産限定盤には特典CDと特典映像が収録されているBlu-ray DiscまたはDVDが同梱される予定。
エピソード
人物像
自分自身のアイドルとして名前を挙げているのは、ビートルズ、ボブ・ディラン、モハメド・アリ、ジャクソン・ブラウンの4組。ジャクソン・ブラウン以降は、そこまで熱中した存在はいないという。
特にジャクソン・ブラウンには強く傾倒しており、自身が設立した個人事務所の「ロード&スカイ」、1980年代に活動を共にしたバックバンドの「THE FUSE」は、それぞれ彼の曲名からの引用であり、さらには飼っていた犬にまで「ジャクソン」と名付けるほどだった。1997年に発売されたブラウンのベスト盤には、ライナーノーツを寄稿している。ブラウン本人とも交友があり、彼からプレゼントされたナショナル・ギターを宝物として大切にしている。
トレードマークはサングラス。人前ではまったく外さないことでも知られる。サングラスをかけだした由縁は、自身の好きなボブ・ディランやスティーヴィー・ワンダー、ジョン・レノンらがかけていたのを真似したため。また、ドラムは目立たないため何とかして自分を売り込もうとした苦肉の策でもあったらしい。1980年1月8日放送の『セイ!ヤング』では、20歳の頃、吉田拓郎のバックバンドで帯同した際に、7、8歳上の拓郎と比べてえらくこっちが子供っぽく、何とか折り合いをつけるために、俺はサングラスをかける、お前はヒゲを伸ばせと、甘く見られてはいけないとサングラスをかけはじめたのがきっかけと話している。他に「素顔を覚えられるのが嫌だから」ともインタビューで答えている。
時々、サングラスをかけたまま顔を洗ってしまうこともあるという。
関西で行われたライブでは、節電もほぼなく非常に明るいと感銘を受けたらしい。東日本大震災で節電となった東京は非常に世の中が暗いと発言した。しかし、その話の落ちは部屋の中でもサングラスをしていたためというもの。
1987年、FRIDAYに浜田がサングラスをはずし、奥さんと歩く姿が盗撮され掲載される。憤りを感じた本人が、「I DON'T LIKE "FRIDAY"」という曲を制作した。
公式な写真や映像では、サングラスを外して素顔を確認できるものは一切ない。サングラスを外していても向こう側を向いていたり、顔に影が当たっていたり、目を閉じていたりするため、素顔を覗くことはできない。ただし、『浜田省吾事典』には子供の頃の素顔は掲載されている。
若い頃、音楽評論家・渋谷陽一のラジオ番組にゲスト出演。この時、議論が白熱した結果、浜田が激怒し「結局なんでしょ、あんたたちゃあ、人の作ったものにケチつけてメシ食ってるんでしょうが!」と面と向かって毒づいたことがある。これに渋谷は「はい、そうですよ」と答えた。しかしながら、その後渋谷は自身の発刊する音楽誌で何度も浜田の特集を組むなど、今日に至るまで長きに渡り浜田を支援し続けている。渋谷自身、プライベートでも付き合いがある唯一のアーティストと述べている。「rockin'on」本誌で特集した日本人ミュージシャンは、浜田とRCサクセション、坂本龍一、山下達郎と数えるほどしかいない。
テレビやラジオにはほとんど出演しないが、音楽誌には先のロッキング・オン関係本を中心に露出は少なくない。特に1980年代には音楽誌の読書アンケートでも佐野元春、甲斐バンドと並んで圧倒的な支持を受けていた。ところが、事前に用意されたとも思わせるウィットの利く言葉で埋める佐野や甲斐よしひろに比べると、浜田のインタビューはあまり面白いとは言い難く、浜田を特集した号は大きな反響がなかったという。
かなりのスポーツ好きで、小学生の頃は剣道を習っており、中学時代は陸上部、高校時代は野球部に所属していた。また、旅をするのも好きなようで、よく一人で海外に出掛けている。
テレビゲームやパチンコ、麻雀などは全くやらない。それらが嫌いというわけではなく、「ずっと同じところに座ってひとつの作業をする」ということが苦手なため。
もともとは喫煙者だったが、現在は禁煙している。酒も以前はほぼ毎日飲んでいたが、現在は特別な席以外では飲まないようにしている。
プライベートなことはほとんど話さないため、あまり知られていないが、1978年に結婚している。ファースト・アルバム『生まれたところを遠く離れて』の裏ジャケットで腕を組んで歩いている女性が現在の夫人である(当時は恋人)。また、「I am a father」といった父親が主人公の楽曲を作っているが、現在まで子供はいない。
髪型は時とともに大きく変化している。1993年〜1994年にかけて後ろで髪を結ぶほどの長髪にしている。2001年〜2005年は少し茶色の交じる髪の毛にしており、2006年~2010年ごろまで白髪が交じる黒色である。現在は、ほぼ白髪のグレー色となっている。
1996年、ヒゲを伸ばしたことがあるが、不評だった。
メディアに全く出ず、コンサートで初めて本人が動く姿を見たという人に対して、「俺だって生きてるんだから動くさ!」と笑いながら返したエピソードがある。
コンサートでは、足元にディスプレイをおいて歌詞を表示することなく、すべて歌詞を記憶して歌うスタイルである。極稀に歌詞を間違えることもあり、2011年のコンサートでは「あれから二人」の歌詞「重ねた唇」を「束ねた唇」と歌い、最初からやり直したこともある。
1980年前後に同姓で同学年でもある濱田金吾の所属レコード会社から「浜田といえば金吾です」という挑発的な宣伝コピーを付けられたことがある。
音楽性
音楽的なルーツは、10代の頃に聴いていた1960年代のロックやポップスで、その中でもビートルズをラジオで初めて聴いた時には衝撃を受けたという。当時の音楽情報はラジオが中心だったので、数少ない洋楽が流れるチャンスを待ってテープに録音したり、海外のヒットチャートをノートに書き留めたりしていた。同学年である山下達郎も同じことをしていたらしく、一緒に食事に行った際、当時の話題で盛り上がったという。
曲作りの上では歌詞を重要視しており、「歌を作ることは詞を書くこと」と考えている。浜田の描く歌詞にはストレートな表現が多いが、それは「歌というのは一瞬にして消えるものだから、そのときに情景とかイメージを受け手にしっかり伝えなければいけない」という考えに基づいている。また、「巻き舌で日本語を英語っぽく歌いたくない」と話しており、出来るだけクリアーに日本語を歌うよう心掛けているという。歌詞の書き方のポイントとして、ツアーに参加している福田裕彦によると「(福田の歌詞に対して)いい歌詞なんだけど、これ恥ずかしがってるでしょ?照れてるでしょ?ダメだよ、それじゃ。もっと照れる、自分で照れて二度と読めないっていうぐらい恥ずかしく書かないと伝わらないよ、歌詞は」と言われたという。福田が「浜田さんって確信犯なの?」と聞くと「そうだよ」と答えた。
1975年のレコード・デビュー以来、一貫してソニー系のレーベル(CBSソニー〜Sony Records〜SME Records)に所属している。ソニー所属の日本人アーティストでは郷ひろみ、五輪真弓(ともに1972年レコードデビュー)に次いで三番目の古株である。ちなみに、四番目の古株は1977年から所属している渡辺真知子。
デビュー以来、コンスタントにアルバムをリリースしているが、1990年代以降は制作のインターバルが長くなってきている。オリジナル・アルバムに限ってみると、1990年代は3枚、2000年代は2枚の発表に留まっている。
1979年のスマッシュ・ヒット「風を感じて」は、CMソングということで、どこか引っかかる部分があり、長くコンサートで歌わなかったが、実は、ソロになってからCMソングでヒットを出してコンサートツアーをしたい、と色んなCMのオーディションを受けている。しかし1977年、山口百恵と三浦友和の『グリコ アーモンドチョコレート』のために作った曲はボツに、1979年のセーラ・ロウエルとキャティのコーセー化粧品「TWO WAY SUMMER」は、「あなた一本で行きますから」と言われたにも関わらず不採用となったなど5回ぐらい続く。「風を感じて」は「もうタイアップは二度とやらない」と頭に来ていたタイミングでの楽曲で、三浦徳子の作詞を浜田がほとんどの歌詞を手直ししたといわれ「アンチCMソング」のような内容になっている。1982年の資生堂春のキャンペーン「ルージュマジック」も依頼があったが、対抗していたカネボウ化粧品がHOUND DOGで「パレット・キャット」をやるとなって、「同じCBSソニーではまずいんじゃないか」とボツとなった。
長いキャリアの中で、大きなヒット曲と言えるものは1992年発売の「悲しみは雪のように」(売上170万枚、週間1位、年間2位)の1曲のみ。本人も「唯一のヒット曲です」と自嘲気味に話すことがある。オリコンでは通算10週1位を獲得し、平成以降ではCHAGE and ASKAの「SAY YES」(13週)に次ぎ、歴代2番目の記録となった。
邦楽のシングル・レコード(ドーナツ盤)を自分で購入したのは、父親へのプレゼントに買った「星影のワルツ」と、オフコースの楽曲で一番好きな曲だった「愛を止めないで」の2枚だけだという。
「マイホームタウン」、「MONEY」、「DADDY'S TOWN」など、浜田ほど、故郷・広島を歌ったアーティストはいない。広島が作品のなかで大きなテーマになってくるのは"家路につく"という意味を持ったタイトル作『Home Bound』以降であるが、広島を背景にした曲は、原爆、基地の街、錆びれた街、工業地帯といった物で、懐かしい場所として讃える「ふるさと賛歌」とは異質のものである。
交友関係
広島出身ということもあり、大の広島カープファン。ステージ上でカープの帽子、ユニフォームを羽織ったことがある。現役時代の高橋慶彦とは、非常に仲が良かった。他にも前田智徳や西山秀二からサイン入りバットをプレゼントされている。
1974年に、吉田拓郎の全国ツアーのバック・バンドでドラマーを務めたのは、「広島フォーク村」の先輩でもある拓郎から誘われたためだが、そのとき浜田は自分のドラムセットを持っていなかった。広島の友達から借りたら、そのドラムはアマチュア時代の拓郎が使っていたドラムだった。本人曰く「当時の広島にはドラムはそんなに沢山なかった」という。
尾崎豊や福山雅治、桜井和寿など浜田に影響を受けたと言う後輩アーティストに会う時は、彼らの曲を事前にちゃんと聴いて、暖かいアドバイスを贈っている。言葉は「どんな事があっても歌い続けることだよ」という内容のようである。中村あゆみは、浜田に一番影響を受け人間的にもとても尊敬していると話している。1988年渚園での野外ライブにもゲストとして参加している。『Hot summer night』をデュエットした。
事務所の後輩であるスピッツとも交流があり、1995年のシングル「我が心のマリア/恋は魔法さ」で共演している。まだほとんど売れていなかったメジャー・デビュー時からスピッツの音楽性を高く評価しており、「ロビンソン」で彼らがブレイクしたときには「自分のことのように嬉しい」と述べている。初期の作品はほとんど歌えるそうで、「ヒバリのこころ」「魔女旅に出る」「ウサギのバイク」などがお気に入りだという。
俳優の時任三郎とは1980年代からの交友があり、1985年に「WALKING IN THE RAIN」という楽曲を提供している。2005年には「I am a father」のプロモーション・ビデオに時任が出演している。
田原俊彦はデビュー前に『MIND SCREEN』を聴いて浜田のファンになり、デビュー後に『MIND SCREEN』に収録された「ダンシング・レディ」をテレビで歌ったことがある。「明星」1987年1月号で対談もしている。田原が行った他人のコンサートは浜田のみだという。
スポーツ界にもファンが多く、サッカー界では三浦知良やラモス瑠偉、高木琢也など。カズとはブラジルにサッカー留学していた頃からの交友で、2006年には『The Best of Shogo Hamada vol.1』『vol.2』のCMにも出演している。格闘技界では三沢光晴、長州小力、所英男、現在はタレントの大仁田厚ら。三沢はカラオケでよく浜省ナンバーを歌っていたという。野球界では小笠原道大ら。松井秀喜もファンであり、コンサートで楽屋を訪問したことがある。競馬界では元騎手で、現在は調教師の的場均ら。
この他、著名人のファンとしてますだおかだの増田英彦(ファンクラブにも入っている)、ビビる大木、山崎邦正らが有名。山崎はモノマネ番組で浜田の歌をよく歌う。Wコロンのねづっちは「長渕剛と浜田省吾しか聴かない」という。浜田翔子の芸名は、父親が浜田ファンだったため。元航空幕僚長の田母神俊雄は「もうひとつの土曜日」がカラオケの十八番だという。宮藤官九郎のギターのルーツは、姉の影響で聴かされた浜田だという。
また、女優の烏丸せつこも浜田のファンで、1980年代前半にダイナマイトバディと本音の物言い、今でいうオヤジ殺し的キャラで非常に人気があったが、レギュラーを持っていた「サウンドストリート」(NHK-FM)を通じて浜田と仲良くなり、浜田は既に既婚者だったのだが、週刊誌にも色々書かれた。烏丸の方もその後結婚し(現在は独身)、フェードアウト状態になって事なきを得たが、近年「NHK青春ラジカセ」のようなネットや週刊誌のインタビューで、浜田のことを「あの人の顔が好き」「たぶん今まで53年間生きてきた中で、一番好きな男だと思う」「もし昔に戻れるなら、あの頃に帰りたい」「省吾と2人、少年少女時代に戻りたい」などと話し、当時と変わらぬキレ味を見せつけている。
明石家さんまを自身のラジオ番組のゲストに呼んだ際には「スポーツジムでさんまのマナーが悪い」と、これも面と向かって説教を始めて「ボクがゲストやから」と笑いで済まそうとするさんまを無視し説教を続け、さんまを黙らせてしまったことがある。さんまが『ビビる大木のオールナイトニッポン』の最終回にゲスト出演した際にも、このエピソードを披露していた。さんまもカラオケでよく浜省ナンバーを歌う。
ダウンタウンも浜省ファンで、2001年に日本テレビ系『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』で「浜省だらけの野球大会」という企画を放送したことがある。浜田本人も事務所で観ていたらしく、ファンクラブ会報のインタビューで「面白かったですよ。愛情表現だと受け取りましたけど(笑)」と好意的に受け止めていた。フジテレビ系『ダウンタウンのごっつええ感じ』でも、車のトランクに浜省が入っている「浜省不法所持」といったコントを放送している。
甲斐バンドの「安奈」のアコーステック・ギターを弾いているのは、たまたまレコーディングに来ていた浜田であると、甲斐よしひろがラジオや取材等で語っている。浜田と甲斐はデビュー時から交友があり、よく新宿ゴールデン街で飲み歩いていたという。
コンサート関連
1976年にソロデビューした時期が、ちょうど矢沢永吉のソロデビューと重なり、CBSソニーが矢沢を売り出す一環として行ったのが、矢沢のフィルムコンサートであった。同じCBSソニー所属だった関係で浜田は、そのフィルムコンサートの前座を務めた。ギターケース一つ下げて地方の教えられた会場で何度か一人でいった。そこは会場の周辺をオートバイとシャコタンに改造されたクルマが取り巻く暴走族の集会のような光景。会場内はリーゼントに革ジャンという客で埋め尽くされている。フィルムコンサートは、本人がステージに立つコンサートよりも熱狂的なファンが集まるため、「期待の新人、浜田省吾です」などという司会の声はまるで耳に入らず、「永ちゃん」コールを繰り返し、「早く、永ちゃんやれよ!!」と罵声が飛ぶ。スタッフから革ジャンを借りて、トイレで髪を濡らしてリーゼントにして持ち歌を歌うが、曲が終わっても聞こえてくるのは、「永ちゃん」コールであった。さらに地方にプロモーションに行くと、広島以外ではまったくの無名で、浜田を知る人は皆無。聞かれることは「広島フォーク村ってどうなったんですか?」「吉田拓郎はどんな人ですか?」ばかりで、吉田拓郎は恩人ではあるが、嫌悪感すら生まれ、名前を耳にするのもうとましくなったという。
1980年代のコンサートで、出待ちに恵俊彰がいたことがある。恵は、何か渡さないとと思い、ポケットにあった10円玉を手渡したことがある。浜田自身も記憶に残っていると後世語っている。
メディアに登場しないため意外に思われるが、コンサートのMCでは饒舌ぶりを見せる。また、必ず開催地の感想や思い出を語り、ファンへの感謝の気持ちを述べる。ほぼ全ての会場で、入り待ちのファンに手を振って応えている。
関西(特に大阪)でコンサートを行う際は、MCで笑いを取ろうとする傾向がある。笑いと気づかない場合は、「今の笑うとこなんだけど…」と自分で言うこともある。
1970年代後半の長い下積み時代、小さな街で数百人を集めてのライヴに全精力を使い果たして、ホテルに帰ってテレビを付けると『ザ・ベストテン』をやっていて、後からデビューした人達が何十万枚とレコードを売って歌う姿を見る。テレビという巨大な主流・メインカルチャーに対して、「ライヴはカウンターカルチャーだと思う。テレビからこぼれ落ちた大切なものを僕達は丁寧にすくって、大切に育ててきた」という自負をインタビューで述べている。
1980年代半ば頃からコンサート・チケットがプラチナ化しており、毎回発売と同時に完売するほどの人気を誇る。ほとんどメディアに露出せず、レコード制作とライブ活動だけで人気を維持し続けている稀有な存在といえる。専用のトラックを早くから持ち、日本で初めてツアーを中心に活動を組立てたミュージシャンである。
基本的には1会場あたり2,000人規模のホール・ツアーと、1万人規模のアリーナ・ツアーの2つを行う。回数は少ないが、大規模な野外ライブも開催している。また、ドーム・コンサートには否定的で、これまで一度も行っていない。スタジアム・ライブも、1984年に横浜スタジアムで開催したのみで、それ以来一度も行われていない。日本武道館でのコンサートも意外に少なく、1982年の初武道館が1回、その20年後の2002年に2回、計3回しか行っていない。ただし、「Act Against Aids」の武道館公演に2000年と2004年の2回ゲスト出演している。
コンサートでは、客の年齢層を確かめる「年代別チェック」が恒例になっている。現在は、30代と40代の客が圧倒的に多い。近年はさらに年齢層が高くなっているが、親子連れも多くなっており、10代の比率も増えている。親子2代で浜省ファンという人も多い。
コンサートでの定番曲「HELLO ROCK&ROLL CITY」を歌うときは、歌詞の一部をコンサート開催地に変えて歌う]。津市でコンサートをやるときや、市ではなく町でコンサートをやるときはメロディと歌詞が合わないので困ってしまうとも話している。利府町の宮城グランディ・21で行う場合、「Hello 宮城グランディ〜」と歌う。
2000年に奄美大島の名瀬市でコンサートを行った際、地元の「南海日日新聞」にて『久々の大物歌手が名瀬で公演するチケットの売出し日、(中略)全盛期を過ぎても、まさかここまで根強い人気があるとは』と掲載され、ステージで早速ネタにする(「俺はこれからが全盛期だと思ってるんだよ!」と笑いながら語った)。後日、同紙に『あの一言は撤回します。素晴らしいコンサートでした』との記事が掲載される。
同じく2000年、黒磯でのコンサート中、開始2曲目で「脹脛断裂」してしまう。それでもコンサートはやり遂げた。この事ことは、ワイドショーでも採り上げられた。しかし、この時のニュースで流れた映像が昔のもので、バックに流れたのは20年前にヒットした「風を感じて」であった。本人は「このことが一番ショックだった」と語っている。
2001年以降のアリーナツアーでは、必ずセンターステージを作成し、歌うようにしている。
センターステージでは、観客にウェーブをするように促す。
「J.BOY」と「MONEY」は、ファンクラブライブ以外の通常ライブでは、必ず歌う曲である。
2011年から行われたコンサート「ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"」では、新曲アルバムのない状態でのコンサートだった。本人は、コンサート内で、「新曲ができるのを待っていたら60代になってしまうから、それまでにコンサートでみんなに会いたかったため」と発言している。
ディスコグラフィー
詳細は「浜田省吾の作品」を参照
コンサートツアー
1970年代後半から自身のバックバンドを従えて本格的なツアー活動を開始した。1982年以降はツアータイトルを「ON THE ROAD」とし、現在まで引き継がれている。1986年以降はサブタイトルが付いている。
1980年代は毎年のように100本近いツアーを行っていたが、1990年代以降は数年毎の間隔を空けるようになっている。また、ホールツアーとアリーナツアーが分けて組まれるようになり、ステージの規模も巨大化してきている。不定期ではあるが、ファンクラブ限定のツアーも開催されている。

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