タイ…田舎暮らし

タイの最北、ラオス、ミャンマーとの国境に近い町で暮らすことになりました。タイ語ゼロ、英語very poor。頼るは「旅の指差し会話帳」だけ。

 2012年3月、タイから帰った後、同じような仏教の国スリランカで暮らしてみたいと思い、またその予定も
(口約束だったけど)ありました。そして、図書館でスリランカの本を読み漁ったりして、楽しみにしていたの
ですが、ちょっとした行き違いがあって、この話はドタキャンになってしまいました。
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 それからいろいろないきさつがありましたが、
2013年3月からアルゼンチンに来ることに
なりました。今年はその2年目です。
 今回は、どこかの団体から派遣された
わけではないので、自分で仕事を
探さなけらばならないというわけで、
日本語、日本舞踊を中心に折り紙、書道と
雑多な活動をしています。
  
(上の写真は、去年、日本語を教えに行っていた
   国立ラ・プラタ大学の入り口)

 ところで私の仕事は、日本舞踊は日系人相手だからスペイン語ができなくてもOK、アルゼンチン人
相手の日本語クラスの方は、ほとんどを日本語による直説法の指導でしているから、これも
スペイン語があまりできなくてもOK。
 ということで、暮らすのにはわたしのショボいスペイン語で事足りてしまいます。
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 でも、せっかくアルゼンチンで暮らして
   いるのだから、もうちょっとましな
   
スペイン語を…

 去年9月から、週1ですが、スペイン語
クラスに通い始めました。
 そのクラスで、先週ひょんなことから
タイで体験したことの話になりました。

スサーナ先生: そんないい体験をしたのなら、
   いろいろな人にそれを話せるといいですね。
(上は、日本語プライベートクラスの生徒達です)

 ということで、タイでの体験をスペイン語で書いてみることにしました。
それで、タイでの出来事を確認するために、このブログを、それこそ1年半ぶりで開けてみました。
まだ読んでなかった2人からの投稿がありました。(どうもありがとうございました
すっかり忘れていたことを思い出したりしました。
写真をみて、懐かしい気持ちがふわ~っと湧いてきました。

 ここブエノスアイレスでの活動を終えたら、あのChiangkhamをもう一度訪れてみたい、
懐かしい人々に会いたい、今、そんな気持ちでいっぱいです。

 4月7日、中野通りの桜が満開になるのを待って写真を撮り、チェンカムにメールと手紙を出しました。
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日本旅行にきた先生方には、メールで
「あの震えあがった日から1か月、
 今、東京は桜が満開です。……」

ほかの先生方には、郵便で、
「これ、外国学部の職員室に貼ってね」
と書いて、1年間お世話になったことのお礼の
言葉に、桜とお寺、神社の写真を添えて。

 Tammyと4ババには小包にして、出しました。
①中野通りの桜、新宿御苑の桜の写真。
②竹ではないよ、ちゃんとコンクリートと木で出来ているよとアピールする我が家の写真。
③彼女たちにもらったプレゼントが飾ってある私の部屋の写真。
それに、心ばかりのプレゼント(8人分)

 おととい、4月19日(木)の午前は、修学旅行のために上京した岩手県のT中学校の生徒さんたち
Img_0081「ボランティア活動を通して見た外国」ということで、
タイの話をすることになっていました。
私の話のタイトルは
「北タイ…学校生活、田舎生活」
でした。

 この日、ここに同席した大人の方々は、どうも
私にも生徒にも、もう少しハイレベルの内容を
期待していたように思えますが、私は
「同じ中学校といっても、国によって随分することが違うんだなあ。仏教も、お寺も…。店も…」
と、国によって生活の仕方、習慣、価値観などが違うということをパワーポイントの映像、私の話から感じ
取ってくれれば、それで十分だと思っています。

 最後に、チェンカムスクールの生徒が伝統楽器を演奏している映像を見せて、話しました。
あなた達は、外国の人に、何かひとつ日本文化を紹介してくださいと言われたら、できますか? 
 あなたが好きな日本の歌でもいい、日常の食べ物でもいい、ふるさとのお祭りでもいい……。
 いつか、そういうチャンスがあると思います。そのとき自信をもって紹介できるように、自分たちの国、
 自分たちのふるさと、日本の生活、歴史、文化などをしっかり勉強しておきましょう」

 ああ、いつもチャランポランな私が、中学生にはちょっと要求しすぎましたね。

 今回で「タイ … 田舎暮らし」は、一応終了です。もし、また何かタイについて書けるようなチャンスが
あれば、それは「おまけのおまけ」ですが、多分ないでしょう。
 いままでこのブログにおつきあいしてくださった方々、お疲れ様でした。ありがとうございました。

 帰国して2週間。本当はもうこのブログは幕を閉じなければならないと思うのですが、もう少しだけ
後始末の話を書きます。
 実は、4月の19日に岩手県のある中学校が修学旅行で東京を訪れるのですが、その1グル―プが
「ボランティアを通して見た海外」というようなテーマで話を聞きたいということで、私が所属している
ボランティア派遣団体のOfficeに来ることになりました。それで、帰国したばかりの私に話を…ということに
なったのでした。Img_9476
 この間までタイの中高校生を教えてきたことだし、
日本の中学生と話す機会など滅多にないから
いいチャンスだと、二つ返事で引き受けたのでした
が、さて、具体的に何を、どのように…となると、
なかなか難しい
感じもします。

 どうしても「わたし」というフィルターを通した
タイの見方、語り方
になってしまいそうですが、
中学生相手の場合は、これはできるだけ
避けたいものです。

 タイの人々や教育を語る場合、どうしてもそこに「国教としての仏教」がからんできます。「国王絶対」
いう姿も浮上してきます。

Img_9797 「信教の自由」「天皇象徴」という憲法のもとで
成長してきた私に「国教」というあり方はどうしても
ストンと胸に収まらないものになっており、
言葉が不自由なだけにそれについてタイ人に
聞いたり語ったりするチャンスももてず、最後まで
納得できないままに終わりました。
 国王のあり方についても同様でした。

 さて、岩手県のM中学校の生徒さんに
タイの何について、どのように語ろうか…。
1時間という制限時間がありますから、
じっくり内容を精選する必要があります。これから写真を選びながら考えます。

(写真は、Chiangkhamwittayakhom Schoolの全校朝会と「Wai khru Day(先生の日)」の生徒たちです)

 去る1月の下旬のある日、職員室にいた私に、”校長室に来てくれないか”という電話が入りました。
このマンモス校では、日常、校長先生に会うチャンスなど滅多になく、1、2度挨拶したことがあるきりです
から、なんだろうとびっくりです。
 ”今年度が終わった3月に職員が日本旅行にいくことになったが、そのとき見学する予定でいた
K高校がちょうど試験中で見学できなくなったから、どこか紹介してくれないか
という話でした。

 これは現在タイに在任中の私にはちょっと難しい話です。その時点で不審な点もあったので、人を介して
調べてみると、K高校には申し込みなどしてないみたいでした。ほかにも話に納得できない点があったので、
申し訳ないけど旅行係のN先生に「残念だけどお役にはたてない」と断りました。
Dscf2413 それでも、その時点ではもっと力を尽くしてどこか
見学可能な学校を探してあげればよかったかと、
不親切だった自分を責めていました。

 ところが、間もなく、本当に紹介の労など取らなくて
よかったと胸をなで下ろすことになりました。
 次々とツアーの日程や内容が変わっていくのです。
これでは、私が間に立っていたら、とんでもないことに
なっていました。
(写真は私がチェンカムを去る日、3月8日、見送ってくれた先生たちです)

 学校の紹介などはできないけれど、日本に一足先に帰国する私と、私の前任のボランティア3人で、
東京で一行をお迎えするという計画は立てていました。それで、細かい日程を聞いて前任者の方々に連絡
しなくてはなりません。(ちなみに、私は5代目の日本語教師です)
ところが、旅行のスケジュールが次々と変わり、それをほとんどの先生が知らないということなのです。

私 : 日本に行く人は何人ですか? そのうち外国学部の先生は誰ですか?
X : 全部で30人くらいですよ。外国学部の先生は…と…と…と…と私だから5人ですよ。
Y : 35人かな? 外国学部は6人。若い人が一人入ったから。
Z : 25人くらいです。外国学部は5人です。

私 : 日程が変わったっていうことだけど、日本での予定を教えてください。
A : I don't know.

 私は日本で情報を待っている前任者たちに正確な情報を伝えなくちゃと、変更がないかどうかをたえず
確かめます。 自分の旅行でもないのに、当事者よりもうるさく日程や人数を確かめる自分に嫌気が差して
きたりしました。
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で、私が分かっているだけでも、このツアーは
4回もスケジュールが変わりました。ちなみに、
 初めの計画 : 3月12日から3泊4日の日本旅行。
 2月上旬 : 3月14日出発に変更。
 2月下旬 : 韓国1泊、日本2泊3日に変更。
 3月15日当日聞いた変更
       : 韓国1泊、日本1泊1日に変更。
 (日本に朝着いて観光し、成田に泊まって朝便に乗る)
 
 私たちボランティアは、彼らの1泊目の東京サンシャイン・プリンス・ホテルに彼らを訪ね、次の日の
浅草見物に同行する計画でいました。ところが、サンシャインに訪ねる予定のその日の午前中に大幅
変更の電話を受け、それがどうにもわかりにくく、一時はもう会えないかと思いました。

 でも、ほんの夕食をする2時間だけを共に過ごすことができました。34人来ていました。
2枚目の写真が、新宿のしゃぶしゃぶレストランで彼らに会った時のものです。
会えてよかったけど、ああ、何というアバウトな計画、
        何というハードな旅でしょう 

 初めて訪ねた日本、それがたったの1泊1日で、彼らにはどんな印象になったでしょうか。
日本のいい印象を持ってもらいたかったのに、これじゃあ、いい印象など持てなかったでしょう。
私の方が、がっくりでした。


 

 おそらく飛行機の中では眠れないだろうからと、朝寝を決め込んだ3月8日、Chiangkhamを発つ日、
8時前に”Maki, Maki~!” と怒鳴るような声に起こされてしまいました。
学校のバンが10時に迎えに来ると言ったので、8時半まで寝ているつもりでした。
そ~っとカーテンの隙間から覗いて見ると、ドアの外にJamが立っています。

Dscf2410ん、も~っ、仕方がない
起きてドアを開けると、Jamが私へのプレゼントを
持って入ってきました。
ピンクのスカーフと瓢箪の飾り物です。

私 : Jam、ありがとう。
     どれどれ、私に別れ難くて血圧が上がって
     いるかどうか、調べてあげるね。
     (もちろん、Jamには通じてない)

Jamは恥ずかしげもなく、Makiと別れたら自分はどんなに寂しいかということを、真に迫った顔つき、
身振り手振りで伝えてきます。まるで恋人と別れるみたいです。
その割には全然血圧は全然上がっていません。
私 : Jam、最高血圧132。デーデー(いいよ、いいよ)。
      この紙に書いてあげるから、Tammyに見せてね。

そんなことしているうちに、今度はTammyが来ました。病院へ出勤の途中です。

Dscf2412私 : Tammy、お別れだね。(うるうる…)
     いろいろ本当にありがとう。記念写真撮ろっ!

TammyがJamに写真の撮り方を教えましたが、
Jamが緊張しすぎて、震えてしまってピンボケです。
まっ、いいか。すっぴんだしね。

 そのうちに今度はChote、Jaras……
次々と学校の先生たちがお別れに来てくれました。
Angie(マレーシア人の友達)も来てくれました。

これは困った。いくらなんでも、ちょっとは顔の壁塗りくらいしなくちゃ!
次々人が来てくれるので、ほとんど壁塗りもしないうちに、今日空港に送ってくれる学校のバンが迎えに
来てしまいました。
ああ、終わりは何とあわただしいことか!
いつも私のエピローグは、こうして無残な姿をさらすことになるのです。ああ、またしても……

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