November 18, 2010

「ヘレニズム時代」(194−)

 神としての世界支配(194−)/「ヘレニズム」とオリエント(195−)
 アレクサンドロスはわずか10年で、ギリシアからインダス川に到る広大な領域を征服した。肉体的にも精神的も相当に苦しい東征行だった。[その目的は、知地の事業を受け継ぎ、]自分の超人的能力への確信を深め、単にペルシアを妥当しようというよりも、世界の支配者を、それも政治的な支配者であると共に、精神世界の支配者となる事を目指すようになったのでは無いか。
 [ペルシア宮廷で行なわれていた拝跪礼の実践をマケドニア・ギリシア人に求めた事など、前324年にはギリシア諸国に対して、自分の神格化を認めるよう求めたとも言われており、アラビア、カルタゴ、シチリア、ローマの征服、即ち当時理解されていた世界の全領域支配を考えていたかもしれない。](−195)
 [大王の死後]彼が10年かけて征服したヨーロッパからアジアに及ぶ広大な領土が残された。この空間にはアッティカ方言のギリシア語がコイネー(共通語)として普及し、ギリシア文化の影響も各地に見出された。[19世紀ドイツの歴史学者ドロイゼンがこの広大な空間を、ギリシア(ヘラス)文化の影響を受けた文化という意味で「ヘレニズム」と呼び、]アレクサンドロスから、この空間がローマに包摂される前30年ごろまでの約300年間が、ヘレニズム時代である。

 ヘレニズム三王国の確立(197−)
 ……アレクサンドロスの死後に王位継承者として残されたのは、アレクサンドロスの異母兄アリダイオスとアレクサンドロスの妻ロクサネが夫の死後に出産したアレクサンドロス4世の二人だった[が、]王家は前308年までには断絶してしまう。
 
 アテナイ民主制の終焉(198−)
 
   
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November 09, 2010

(6) 4 二つの大戦と古典期ギリシア

4 二つの大戦と古典期ギリシア

 ペルシア戦争(122−)
 クレイステネスの改革によって、アテナイの民主制が成立した。その後まもなくして前5世紀を迎えたギリシアは、この世紀の間に大きな二つの戦争を経験することになる。一つは東の大国ペルシアの侵略を撃退する為の戦争であり、もう一つはギリシア人同士が二つに分かれて戦ったペロポネソス戦争である。[これについてはヘロドトスの『歴史』、トゥキュディデスの『歴史』の中で比較的詳細に言及されている]。(中略)(125)トゥキュディデスは、史料批判を厳密にしようとする姿勢をここで表明する。それは近代歴史学が命題とした史料選択の基準に近い。トゥキュディデスに比べると、ヘロドトスの作品では、神話や伝承が多数取り上げられている。理性への信頼を根底に持つ禁欲的なトゥキュディデスの史書は、その抑制のきいた姿勢に感動と尊敬の念を深くするけれど、ヘロドトスの史書はときに奇想天外な物語が現れて心躍る面白さがある。(中略)(126)このような相違はあるが、ヘロドトスとトゥキュディデスの残してくれた二つの史書は、ともに永遠の古典、人類共通の財産である。[以下、最新の研究成果]

 ダレイオス王とイオニアの反乱(127ff)
 マラトンの戦い(129f) 
 テルモピュライの闘い(130ff)
 ギリシア連合軍の勝利(132f)
 
 

 ギリシアは何故勝ったのか
 
 ペルシアから見たギリシアの特性(133−)
 (略)ギリシア人が自分達の築いた世界に外敵の侵入を受けたのは、これがはじめてであった。(中略)
 ギリシア人は土地を開墾し、雨水で表土が流され易い斜面を段々畑状に整備して農地にし、また、穀物栽培に不適な土地をオリーブやブドウの果樹園に開発する、など勤勉な労働によって、やせた土地を可能な限り効率よい農業用地にした。人口増加による必要に迫られての事であったにしても、それはギリシア人の勤勉さを物語るものである。また、優れた形状の土器とそれに描いた創造性豊かな図像、巧妙に精緻な金細工、優美で堅固な神殿などの建造物をあげる事もできよう。それらの多くはオリエントに学びながら、しかもギリシアの独自性を開花させた成果である。さらに、ホメロスの叙事詩を初めとする詩歌を生み出し、しかも、祭典や集会においてそれらを披露し、競い合う慣習もある。競い合いを通して自己を高めていく様子を見れば、貧弱な土壌の上に豊かな社会生活を営む才覚を持った人間像が鮮明に浮かび上がってくる。(中略)(136)アゴラでの政治的議論や商取引は、ギリシア独自のもので、相互に相手の独立を尊重してこそ成り立つものであった。キュロス大王の元には既にギリシア人の側近がいて、彼らからも情報が入ってきていた。ペルシアにとっては異質でありながら、独自の世界を構築しているギリシア人に関心を向けた結果が、ダレイオス、クセルクセスによるギリシアへの遠征となったのであろう。(−136)

 アテナイ民主政と海軍力(136−)
   
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November 08, 2010

(5) 3 前古典期のポリス社会(−106−)

3 前古典期のポリス社会

 海上交易と密集隊戦術 (83−)

 活発になってゆく経済活動(86−)
 [貿易を通じて富裕となったアイギナの商人ソストラトスやサモス人のコライオスなどに代表されるような]海上交易に携わったのは、既に経済的に十分な余力のある富裕者ばかりではなかった。中小の農民達の中にも、この冒険的な事業に手を染めるものが前700年ごろには現れた。余剰農産物などを遠方の地に運んでいって、希少性ゆえに高い値で売りさばき、代わりにその地の産物でギリシアには珍しいものを買い入れて帰国すると言う形の交易活動に、少し余裕のある農民達が乗り出したのである。中には、先述のサモス人のコライオスのように運よく大きな富を築くものもいたであろう。貴族の富に追いつけるほどに富裕になる平民が出現し、神々へ高価な奉納品をささげるなどして、行動においても貴族と平民の間の格差が縮小する。もっぱら農業が中心(87)の経済は変わらなかったが、商業や手工業など多分野の経済活動に従事する人々が共同体の内部にも現れ、その数は次第に増加していく。ギリシア世界はその基本において変化し始めたのである。貴族と平民の上層部が共に社会の支配層を形成するようになる。彼らを今はとりあえずエリートと呼んでおこう。(−87)

 『イリアスに歌われる戦闘の様子』(87−)/重装歩兵の武器と戦術(88−)
 経済活動の活発化は、軍事面でも大きな変化を齎した。既に、青銅器時代から鉄器時代へ移行すると共に刀剣は青銅から鉄製に急激に、そしてほぼ完全に入れ替わっていたが、今や重装歩兵の出現と密集隊戦術(ファランクス)開発の時を迎えたのだ。
 暗黒時代に戦闘がどのような形態で行なわれたのか、はっきりした事はわかっていない。[英雄同士の個人戦説が有力である。](−88)[イリアスには、密集集団戦に向けて対峙し緊張する群の姿が描かれている。当時の武装については88ff参照]。
 ……(90)この密集隊戦術が効果を上げる為には、兵士同士が隙間なく密着すると同時に、相対する敵の戦列を崩す為に力を結集させなければならない。一糸乱れずに敵に向かっていくには、かなりの訓練が必要であったし、兵士相互の強固な連帯感も必要である。少数の人間が武勇に優れているよりも、隊列の全体が、その中の最も体力の劣る兵士でも他の兵士と共に戦い続けられる程度の強さでまとまる事が大事であった。従って、兵士は仲間と協調出来、自己の安全と同じように他者の安全に配慮できるようでなければならない。こうして、一人ひとりの兵士のモラルが重要となり、また、このような任に耐えられる兵士の数が多ければ多いほど戦力は高まったのである。(−90)

 密集隊戦術とポリス秩序(90−)
 密集隊戦術はこのような条件を内在させていたのだが、その条件はポリスという共同体の発展(91)方向を規定する事となった。専門の軍人がいないポリスでは、国を防衛する戦いは、武器を自弁できる成員が参加して行なわれた。ポリスの歴史の初期において国土防衛の責務を担ったのは、高価な武器と馬を調達できる貴族であった。ところが、前8世紀後半からのギリシア世界の経済的な変化は、平民である農民たちの経済的な上昇を実現させるとともに、金属の供給を増大させて、武器の調達を嘗てよりも容易にした。こうして国土防衛の為の戦闘に参加できる共同体性員の数が増えた所に、密集隊戦術の完成が実現した。以後、戦争には平民を含め出来るだけ多数のポリス成員の参加が求められる事となったのである。真に、密集隊戦術は市民共同体の本質を規定するほどの意義を持っていた。……(92)長い間もっぱらこの戦術が取られ続け、山がちの栃に相応しい軽装兵によるゲリラ的戦法が採用されるのは、ようやく前5世紀末の事であった。この執拗なほどの密集隊戦術へのコダワリは、ギリシア人にとって市民共同体としてのポリスの秩序維持が最優先課題であったからなのかもしれない。




 スパルタの国制と社会

 ドーリス人のポリス、スパルタ(92−)
 ギリシアのポリスと言えば、すぐに思い浮かぶのはスパルタとアテナイであろう。両国のうち、いち早く大国化したのは、スパルタであった。スパルタはドーリス人のポリスである。ペロポネソス半島では暗黒時代の初めにこの地に入って来たドーリス人が、同じギリシア人ではあるが先(93)住のアカイア人と衝突し、その結果、先住アカイア人が隷従させられると言う事態があちこちで生じていた。スパルタのヘイロタイやアルゴスのギュムネテスは、そのような従属的身分に陥った人々である。
 ……ポリスとしてのスパルタは[、]ドーリス人がミケーネ時代にスパルタ王国のあったラコニア地方に建設したのだった。まず4つの集落をなして定住したドーリス人が近隣のアカイア人を支配下に収め、さらにアカイア人の最大拠点アミュクライを攻略して第5の集落として併合し、五つの集落でもってスパルタは成立したと推定されている。前8世紀の半ばごろの事らしい。
 スパルタを建設したドーリス人は、ラコニア全体を征服し、自分達以外のラコニアに居住するドーリス人と先住アカイア人の一部をペリオイコイ(周辺住民という意味)という身分にし、他をヘイロタイとした。ペリオイコイは自由身分ではあったが、参政権が認められていなかった。しかし、スパルタの国名はラケダイモンといい、ラコニアのペリオイコイはスパルタ市民と共にこのラケダイモンの成員とみなされ(94)ていたし、いざ戦争となれば従軍義務があったのである。こうして国内にペリオイコイやヘイロタイを抱えたスパルタ人は、さらに、重装歩兵の密集隊戦術を採用してラコニアに隣接するメッセニアへの侵略を果たして、ギリシア世界の中での大国化を実現させる。……(-94)

 非スパルタ人が書き残した「スパルタ」(97−) /市民の平等と異分子の排除(98−)/兵士としての男、兵士を生むための女(100−)/視も歌も武勇のために(104−)/共同食事参加の意味(105−)/国制ー長老会と監督役(106ー)
 征服されたメッセニア人がスパルタ人に対して強い敵意を抱いたのは、想像に硬くな[く]、スパルタ人はヘイロタイが反乱を起こさないように警戒態勢の強固な国家を作り上げた。それがリュクルゴス体制と呼ばれる国政である。
 リュクルゴス体制は、リュクルゴスが制定したという事でこう呼ばれるのだが、……リュクルゴス体制は前7世紀初め頃のメッセニア戦争でスパルタが勝利してから、前6世紀半ばまでの間に徐々に整備された国制である。その内容は[非スパルタ人たる] 前4世紀のクセノフォンやアリストテレス、そして後1世紀のプルタルコスの著作に依拠して解明されてきた。……
 (98−)実の所、スパルタでは文芸は奨励され[ず]、その体制においては、市民はもっぱら軍事訓練に専念する事が求められ、文芸は尊ばれず、文武両道も美徳とみなされなかったからで[、スパルタは他に類例のない特異な国と見られていた]。(−98)
 [スパルタは]市民達が集団で生活し、軍事に専念する所が特異であった。スパルタにとっては、対外的にはアルゴスやアルカディアなど隣接する諸国との対立において優位に立って、ペロポネソス地方における覇権を確立する事と共に、国内に向かっては市民の数をはるかに、おそらく10倍以上も上回るヘイロタイの反乱を防ぎ、ヘイロタイ制度を維持する事が、国の存立の為に最も重要な課題であったから、軍事力を可能な限り強化する事が必要であった。それを目指して市民の生活全般についての(99)枠組みが作られたのである。
 メッセニアを併合した後のスパルタでは、市民は全て土地所有者であった。そして、市民の所有する土地はヘイロタイが耕作したから、市民は農業労働から解放されて軍事に専念する事が可能だったのである。市民は相互に貧富の差があるにはあったが、政治的平等を実現し、互いにホモイオイ(同等者)と認め合ってポリスの運営に当たる事になった。互いに同等のものであるならば、集団生活も共同の軍事訓練も秩序を持って維持していける。これがリュクルゴス体制を支える基本的条件である。
 だが、市民同士がホモイオイと認め合っていても、貧富の格差が拡大していけば、相互の関係の均衡は崩れるだろう。そして、経済活動が活発化すればどうしても貧富の差の拡大は生じてしまう。そこで、経済を停滞させて秩序の維持を図る為、金銀の貨幣を廃止し、鉄の貨幣のみを使用し、また、外国から魅力的な物資が入ってきて経済を刺激しないよう、また、欲望を掻き立てないよう、鎖国政策が取られた。……
 (100−)このように不満分子あるいは異分子を排除して、スパルタ市民はホモイオイとして堅固なポリスの維持に総力を結集したのである。そこに出来上がったのが、リュクルゴス体制であった。
 男の子は7歳になると親元を離れて集団生活に入る。大人の監督と指導の下に、年齢別の集団教育を受け、年齢を超えて編成された集団での共同生活を続けた。その集団生活においては、肉体的にも精神的にも苦難に耐える優秀な兵士を要請するための共同訓練が、日々続けられた。……(101)二十歳になると一人前の兵士として軍隊に編入されたが、集団の生活は30歳になるまで続いた。……(102)[育児については]出産した子供を検査して、虚弱な赤ん坊は捨ててしまう、という非情な新生児分別という制度があった[。]女のこの場合は、おそらく結婚まで親の元に留まっただろうが、身体を強健にする為に、競争・格闘・円盤投げ・槍投げの訓練を受けた。それは、胎児の成長が良好で、また胎児に負担の掛からない楽な出産が出来るように、という目的の為であった。繰り返しになるが、スパルタにおいては、男は兵士としての役割、女は兵士を生む役割を求められ、その役割が至上であった。
・(104−)スパルタでは何事も質素で無駄が無かった。武勇が最高の美徳とみなされ、また、その獲得が思考の目的であったかのようである。今の私達から見れば、ひどく窮屈な生活のように思われる。質実剛健の気風を身につけた兵士の育成が最重要課題であるとは言え、一人ひとりが内部に抱える欲求と感情とはそう簡単に調教出来るものではない。スパルタ人はそれをちゃんとわきまえていたのだろう。彼等は集団の為の歌と詩に関する教育には熱心だったのだから。……(105)言葉と音楽が持っている人を鼓舞する力が、スパルタでは兵士の育成と果敢な武勇の為に効果的に用いられていたらしい。
・(105−)スパルタにおける集団による統制は、青少年にのみ向けられていたのではない。30歳を過ぎてからも、市民は毎日の夕食を、各自食料を持ち寄って共同で取った。共同食事に集まるのは1グループ15人くらいの規模だったらしい。貧しいものには食料の持参は大きな負担だったが、共同食事参加は市民の義務であり、食料を用意できない場合は市民資格を失ってしまう決まりだった。それ程共同食事は重要で、スパルタの国制の根幹をなすものだった。それは市民間の連帯感ないし仲間意識の維持に有効だった。それはまた、相互監視の機能も持っていたはずだ。
・(106−)子供から老人まで、男も女も、スパルタ人の生活は国の存続を最重要課題とする態勢で組み立てられていた。……リュクルゴス体制の中核には、いわゆる「レトラ」と呼ばれる国法があった。この「レトラ」によって定められていた国制は、[プルタルコス『リュクルゴス伝』第6章によれば]国の最高の決定機関は民会だったが、別に長老会というのがあって、民会の議案を前もって審議するだけでなく、民会の決定を拒否する権限をももっていた。長老会を構成していたのは、二名の王と28名の長老であった[が、ポリスに王が存在した例は]ギリシアに多数存在したポリスの中でも、スパルタの場合は例外的である。[何故二人の王がいたのかは不明で、長老会は、王政の後に貴族政が成立したものと推測される。こうした](107)レトラの定める国制は、メッセニアを侵略するより前の、恐らく前8世紀までには成立していた。
 さらに、前6世紀からは5人の監督役(エフォロイ)を民会が選出し、このエフォロイが国政運営の最高権限を持って、王や長老会をも統括するようになった。エフォロイは一年任期で一般市民でも就任できたので、その限りでは市民の間の平等は実現した。しかし、既に述べたように国内には他にペリオイコイとヘイロタイがいたから、これらの者達に対する支配者として、市民達は寧ろ自分達の特権を守る為に一致協力しなければならなかった。スパルタはリュクルゴス体制の元で前6世紀半ばまでにギリシア第一の強国となり、ペロポネソス半島の諸ポリスが参加するペロポネソス同盟を結成した。

 競技会をギリシア語でアゴーンと言うが[、]アゴーンでは、運動や音楽・吟唱・詩作等の能力を競い合い、優れたものが栄誉と尊敬を獲得する。アゴーン好きはギリシア人の特徴と言っても良いだろう。前8世紀にオリュンピアの祭典、前6世紀にはピュティア祭(デルフォイ)、ネメア祭、イストミア祭が創設され、これらパンヘレニックな四大祭典に、ギリシアの各地から参加者がやって来て、技を競った。[当初は貴族階級のみの参加であったが、平民の一部が社会的に上昇するとそれに参加するようになった]。(108f)
 
 (111)現存するギリシア最古の法律には既に、ポリスは一人の人間によって支配されてはならない、という大原則がはっきり打ち出されている。[その一方で]独裁者すなわち僭主は前7世紀および前6世紀にギリシア各地に出現していた[。]僭主とは、非合法的に独裁者の地位に就いた者のことである。僭主は、貴族の間の抗争や貴族と平民の間の対立を上手く利用して政権を掌握した。貴族による政治が動揺し民主制へと移行する過渡期のポリスに現れた例が多い。微妙な力のバランスの元に支配を実現させた僭主の地位は、決して堅固ではなかったから、その支配は長期に及ぶ事無く、1,2代で終わる事が多かった。ただし、僭主は必ずしも暴力的な政治をしたわけでは無いし、不安定な時期のポリスを統制して、新たな時代に向かう為のポリスの体制整備に貢献した、と評価出来る僭主もいる。 
 僭主はこの時期の有力なポリスの多くに出現しているが、特に有名なのがコリントスである(略)。(−113)

 共同体崩壊の危機からソロンの改革へ(−113)
 [もう一方の代表的なポリス、アテナイは] スパルタやドレーロスの場合よりも後の事だったのではないかと推測される。
 アテナイの歴史について残存する史料は神話上の王テセウスから始まるが、記載されている最古の具体的な歴史的事件は、キュロンの反乱である(中略)。(114)キュロンの反乱から30年ほど後にアテナイの農村が危機に瀕していた事は確かなようだ。アリストテレス『アテナイ人の国制』は、この危機の打開を図ったのがソロンであると述べている。
 いわゆる「ソロンの改革」は前594年に実行された。改革の内容について研究者の解釈はいまだ一致を見ない……。ソロンの詩の断片を中心に、他の史料も考慮し(115)ながら改革の内容の大筋を述べようとすれば、こうなろう。
 前7世紀後半、コリントスを中心に商業・手工業が盛んになるに連れ、アテナイの富裕者たち、即ち貴族や上層の平民もこの動きに参画しようと、農作物の余剰を国外に売りさばく事を初め、それは自分の所有する土地の生産性の向上や所有地の拡大へと発展した。近隣の貧農に穀物など貸与するときも、嘗てよりも高い利子を要求するようになった。……(116)元々小さな農地で家族の生活を漸く成り立たせていた貧農は、飢えを凌ぐ為利子つきで食糧を借りれば、返済は益々難しくなり、ついには返済の代わりに自分の農地の収穫物の6分の一を毎年納めるという、まるで小作人のような立場に陥った。このような農民達はヘクテモロイ(6分の1)と呼ばれた。しかし、債権者に収穫物の一部を納める、というやり方での返済さえも出来ない者はついには奴隷に転落し、国外に売却されたり、国内で屈辱に甘んじる事になった。身体を抵当に入れて借財していたからである。
 [この事態は共同体の崩壊に繋がりかねない為]ソロンは債務の帳消しを宣言し、奴隷となっていたアテナイ人を救済し、また、身体を抵当に入れる事を禁止した。……他の多くのポリスでは市民が債務奴隷になる例が見られたから、ソロンのこの政策はアテナイの特質として重要な意味を持つ事になった。……こうして、ソロンの改革によって最下層の人々の地位が保全され、アテナイ共同体の成員であれば自由を奪われない、という原則が確かなものになった。……何人であれ、アテナイ共同体の成員は奴隷身分に陥らないと言う意味で、共同体成員の一人ひとりにポリスの保護が及ぶようになったのである。(−117)

 僭主ペイシストラトス(117−)
 さらにソロンは、国内で手工業を振興させようと外国から職人を誘致した。零細の土地所有者が手工業経営によって困窮から救済される事を狙ったのであろう。しかし、ソロンの改革は当時の社会的危機の原因を抜本的に除去したわけではなかったから、改革後暫くすると再び社会は混乱し始めた。貴族の間の抗争も激化する。
 (118)その争いを勝ち抜いて僭主となったのが、ペイシストラトスであ[り、]彼の実施した勧農政策により、農民の生活は安定し、やがて始まる前5世紀の民主制の担い手たる中小農民が育成された。ペイシストラトスはまた、パンアテナイア祭を国が主催する祭儀に高め、[運動・音楽・吟唱などに国外からも参加者がやってくるような]アテナイの国力を内外に印象付ける事に成功した。……僭主とは言え、ペイシストラトスの支配は法に依拠した穏当なものだった[が、彼の死後様子は変わり、僭主制は倒壊した]。(−120)  
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(4)大植民の時代

 大植民の時代

 植民市建設の機動力(69−)
 前8世紀の半ばから、ギリシア人達は新天地を求めて広く地中海世界の各地に出かけて定住するようになる。そこで、前750年ごろから前6世紀半ばまでのほぼ200年間は、大植民の時代と呼ばれている。ギリシア人は西に向かっては、現在のアドリア海沿岸、南イタリア、シチリア島、フランス南岸、スペイン東岸まで進出し、また、エーゲ海北部やさらに北東の黒海沿岸、南方では北アフリカのリビアにも、植民市を建設した。この運動は、ギリシア人の世界をただ拡大しただけではなく、誕生まもないポリスが発展する方向を決定する要因の一つにもなったの(70)である。
 ここで、ギリシア植民市の性格について述べておくと、植民市は普通アポイキアと呼ばれ、建設当初から、経済的にも政治的にも本国(母市)から独立した共同体として出発した。その点で、ギリシアの植民市は、本国に従属していた近代の植民地とは質的に異なっている。植民市はポリスとして発展していくわけであるから、農業領域(コラ)の獲得が不可欠である。ただし、植民市の中にはアポイキアとは別にエンポリオンと呼ばれる、もっぱら交易のための都市もあった。エジプトのナウクラティス、北シリアのアル・ミナ、スペイン東岸にフォカイアとマッサリアが共同で建設したエンポリオンなどが、その典型的な例である。
 植民市の多くは、人口増加と耕地の不(71)足を解決する為に、農地の獲得を目指して建設されたが、国内の政争の故に、あるいは交通の要衝に戦略的意図で、計画されたものもあった。そのうえ、建設後に植民市と母市との間で、あるいは、植民市と原住民との間で、交易が活発化するという事も生じたから、ギリシア植民は農業植民を中心にしながらも、複数の目的が併存している場合もあった。ギリシア人が外界に対し旺盛な好奇心と探究心を持っていて、それが植民活動推進の機動力になったともいえよう。このギリシア人の成功は、ホメロスの叙事詩に登場するオデュッセウスのような英雄達の中にはっきりと見て取る事が出来る。叙事詩は、それを愛唱した人々の思いの形象化でもあったのだ。
 西方への植民は、既に前750年代末までには始まっているのに対し、東方の植民市の建設はやや遅れて、前7世紀前半に集中している。……(ー71)

 ピテクサイへの植民(71−) 
 (73)ギリシア本土の金属産出量は貧弱である為、ギリシア人の西方への進出には、当初は金属を求めてと言う動機もあった事を、ピテクサイの例は教えてくれる[。金属加工が行なわれていた作業場跡や、エルバ島産鉄鉱石の使用の確認など]。その点から言えば、エトルリア産の土器の年代はミケーネ時を除けば前775年までさかのぼり、また前750年ごろにはギリシア人がウェイーで土器製作に携わっている。(−73)

 キュメ植民の目的(73−)
 [前720年代以降、イタリア半島カンパニア地方のキュメ(クマエ)にも、ギリシア人が植民した。]……後にローマ人が出会った最初のギリシア人は、このキュメ人だった。「ギリシア(75)人」という呼称は、ローマ人が最初に出会ったキュメ人をグラエキと呼んだ事から始まったらしいが、このグラエキという呼び方は、ギリシア本土のボイオティア地方のグライオイという部族名に由来すると考えられている。キュメに植民したギリシア人の中には、ボイオティアの出身者がいて、ローマ人はこの人々に出会ったのであろう。
 ……ピテクサイもキュメもその建設の目的が何であったのか判断は難しい。交易の為の殖民だったのか、農地獲得の為だったのか。後者が目的だったとは考えにくい。[この地方の土地は貧弱であり、]肥沃な土地が豊富なシチリアを素通りして、カンパニア地方への植民が行われているからである。シチリアへの植民市建設の殆どは、ピテクサイとキュメよりやや遅れて始まっている。そこで、カンパニア地方への植民は、交易に適した地理的条件に加えて、近隣に鉄・銅・銀などの産地がある事が決定的な条件となり、さらに入植者の生活を支えられるほどの農地にも恵まれていた事、これらの諸要素が複合的に重なって、入植が実行に移された、(76)と解釈出来るだろう。(−76)

 シチリアへ(76−)
 イタリア半島南部とシチリアには、ピテクサイとキュメに続いて、次々に植民市が建設されたが、多くは農業植民だった。肥沃な土地と、原住民の外部勢力への抵抗がそれ程強く無い事が、植民者をひきつけた、と言われている。トゥキュディデスによれば、当時のシチリアの住民はシカノス人、シケロス人らだった。これら原住民は、南イタリアの場合と同じように、ギリシア人の到来よりも前に、すでにそれぞれ安定した共同体を形成していたらしく、シラクサの近くのパンタリカやシュバリス近郊のフラカヴィッラなどは町と呼べるほどの規模であった。その住民は鉄器文化の技術を持ち、農耕や金属加工、土器製造も行なっていた。彼等は部族集団をなし、王に統治されていたようで、シケロス人の王ヒュプロンはギリシア人の植民を支援さえしている。原住民は新来のギリシア人に無抵抗である程弱小ではなかったに違いない。[こうした植民の過程において、周辺の原住民の権力、ギリシア植民者](77)との間の関係は、融和があったり、武力衝突があったり、様々だった。(−77)

 異民族との接触(82−)
 ……(82)全体的にエーゲ海北部や黒海沿岸への植民は前7世紀になって盛んになった。その多くは農業植民であったが、前7世紀半ばに建設されたエジプトのナウクラティスやボスポロス海峡のビザンティオンのように交易が目的のものもあった。
 大植民の時代にギリシア人は、トラキア人やスキタイ人など、多くの異民族と、それまでよりはるかに密接な交渉を持つようになる。植民の際に原住民を従属民の地位に陥れる事もあったし、周辺の異民族から奴隷を調達する事も次第に頻繁になってゆく。異民族をギリシア人はバルバロイと呼んだ。バルバルと意味不明の言葉を話すからである。だが、前8,7世紀には異民族を蔑視する傾向はまだ現れてはいない。  
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November 06, 2010

(3) ギリシア・ルネサンス

 ギリシア・ルネサンス
 フェニキア人とギリシア人(61−)
 ギリシア世界が躍動し始める前8世紀は、「ギリシア・ルネサンス」と呼ばれたり、一事ほ(62)とんどとだえていたオリエントとの交流が活発化したことから、「東方化の時期」という表現が与えられたりしている。
 オリエントとの交流再開は、まずフェニキア人がギリシア世界へと到来すると言う形で始まった。前820年ごろにはキプロス島キティオンに、フェニキア人植民市が築かれ[、フェニキア人は西のイベリア半島南岸にも到達したことが、考古学的遺物から証明されている]。
 フェニキア人がギリシアを訪れるだけではなく、前8世紀にはギリシア人もシリア東岸へ頻繁に出向くようになる。……
 (63)ギリシア人はレヴァント(シリアとフェニキアの地中海沿岸)との接触のために、交易基地を築いた。それが、アル・ミナである。…
 ギリシア人が求めていた交易品は、何よりも鉄・銅・錫・銀などの金属だった。既に鉄器時代は始まっており、武器や農具、その他、日用の目的に金属の必要性は高まるばかりであったからである。ギリシアから齎されたものには、農作物のほかに土器も含まれていた事は、先程述べたアル・ミナからの出土品が語ってくれる。オリエントの人々にとって、それはエキゾティックな魅力をたたえていたらしい。(−64)

 オリエントが齎したもの(64−)
 この時期のオリエントとの接触は、ギリシアに多くの変化を齎した。最も顕著なのは、工芸の分野である。オリエントの工芸品、特に金属細工や織物がギリシアに流入した。それらは、レヴァントに赴いたギリシア人が持ち帰ったり、フェニキア人商人がもたらしたのであった。また、既に前9世紀末ごろにはフェニキア人の金属細工の職人がクレタにいた事が、イダ山の洞窟から出土した奉納物から明らかになっている。職人は各地を遍歴し、技術を教え、伝えた。オリエントの技術を取り入れた、ギリシア人によって製作された工芸品も現れてくる。
 酒宴で寝台(クリネ)の上に横たわりながら、飲食し、詩や音楽を楽しみ、談笑する習慣も、この頃にオリエントから入って来たらしい。身近なものでは、家禽の中の鶏もこのころにオリエントから入って来たものらしい。……
 (65)英雄が活躍したホメロスの叙事詩の世界を精神的伝統として持つギリシア人であるが、そこにオリエントの時代認識が加わって、ギリシア人の歴史意識や精神世界はさらに豊かさを増したのであった。(−65)
 
 アルファベットの移入(65−)
 東方化の現象の中でも最も重要なのは、アルファベットの移入であろう。ミケーネ時代に用いた文字を完全に忘れ去っていたギリシアは、前8世紀半ば頃からアルファベットを使用するようになる。このアルファベットをギリシア人は「フェニキア文字」と呼んでいた事が物語るように、ギリシア・アルファベットはフェニキア文字の形と名称を借用して作り出された。
 人類最古の文字であるシュメールの楔形文字もエジプトで使用されたヒエログリフも表意文字であったが、前1500年ごろに発明されたフェニキア文字は表音文字であった[。子音のみ]。……ギリシア語には無い子音を表すフェニキア文字を、ギリシア人は母音を表す文字として使用する事にしたのである[。レヴァントかキプロス、特にエウボイア島が発祥地で、その一点から各地に伝播したものと考えられる]。(−66)

   
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November 05, 2010

2 ギリシア世界の形成 ---新たなる飛躍
 ポリスの誕生
 居住地と人口の増加(46−)
 暗黒時代は、前8世紀にはいるとあけ始める。この覚醒の世紀にポリスが誕生した事を、先ず何よりも強調しておくべきだろう。先に述べたように、ポリスの大きな特徴は、それが共同体国家であるという事だ。ミケーネ諸王国のような、中央集権的専制支配のない国家である。
 ……ポリスの成立という問題は、古代ギリシア史研究の最も重要な課題の一つであると(47)ともに、難題中の難題でもある。まず何よりも、同時代の文字史料がない。ポリスの誕生は、ギリシア文字の使用が始まる前8世紀半ばよりも少し前のことである。……
 発掘によって明らかになった居住地跡を見るならば、アッティカ、アルゴス、コリントスのいずれでも、前9世紀に比べ、その数は飛躍的に増加している。集落の数も規模も拡大していると言ってよい。[人口についても、増加傾向にあったことが、埋葬数などから推測できる。なお、これらの埋葬品・特に土器の文様に、個人の富や権力を示す要素が施されていない、個々の個性などは無視されているが、このことは、死後の世界において人々が公平である事を示す。]。

 神々との関係の変化(51−)
 古代ギリシアは多神教の世界だった。……
 古代ギリシアの宗教には、ごく僅かの例外を除いて、教義も経典もなかったし、専門の聖(52)職者もいなかった。彼らにとって大事なのは、先祖伝来のしきたり通りに一定の日に一定の場所で一定の神に供物をささげたり犠牲をささげたりする事、つまり今の言葉で言うならば宗教儀礼を実践する事と、そのような儀礼の実践によって神々への経験を示す事だった。それゆえ、古代ギリシアでは祭儀を含め大小の宗教儀礼が頻繁に行なわれたのである。
 ところが、そのようなギリシアで前8世紀には人間と神々との関係にも変化が生じている。特に際立った変化は、[前9世紀までには見られなかった現象である]神殿の建立が相次いだことであった。また、奉献用の神像ではなくて、崇拝の対象である神像も現れ始める。
 ……前8世紀から建立が始まった神殿は神の住まいであって、内部には神像が安置されていた。普通、東向きに建てられた神殿の前には祭壇が設けられていた。祭壇の折には、儀礼として(53)この祭壇にささげられた供物や生贄が内部の神殿にも見えるよう、神殿の扉は開放された。
 これらの神殿は、[33×6メートルなどと]規模も大きい…。
 このような神殿建築の発想を、ギリシア人は恐らくオリエントから得た。近東からは、神殿・神像・祭壇を、エジプトからは大規模記念物のアイディアと技術とを導入したのであろう。エジプトの巨大列柱は、特にギリシア人を強く刺激したようだ。ただし、大規模建造物の背後にあるオリエントの専制的支配者という存在を、ギリシアは最早模倣する事はなかった。(−53)

 ポリスと神殿(53−)
 ギリシアの大規模な神殿は、特定個人に所属するものでも特定個人の権力を誇示するものでもない。それは、あくまでも建立の当事者である共同体の成員たちが、神への信仰に基づいて進めた共同の営為であった。つまり、神殿建立は極めてポリス的な性格を持つものだったのである。
 前8世紀には、神域への奉納物も顕著な増加を見る。[例えば墓の副葬品について]エリートたちは死という一回限りの機会に自分あるいはイエのステータスを誇示する事よりも、生存中にある程度の期間衆目を集める事を選んだのである。しかも、墓を飾り立て(54)ることは、身近な共同体に訴えかける事だが、神域に奉納品を展示する事は、より広い世界へ自己の存在と財力をアピールする事を意味した。……
 ……古代ギリシアにおいて宗教とはあくまで、共同体によるその共同体の守護神やその他の神々への集団による祭祀行為であった。[人々が共同で何かを行なう、その事自体に価値が認められた]。見方を逆転させれば、神域のあり方に注目すれば、その神域で祭祀を行なった人間集団の性格を読み取る事も出来る、という事である。……。(56)
 前8世紀は、ポリス誕生の世紀であった。一つのポリスが成立するとき、それは周辺の他の共同体とそのポリス共同体との間に一線が画された事になる。……この区別が具体的な形で行なわれ、現在の我々が見る事の出来る痕跡として残っているものがあるとすれば、それこそは神殿建立という営為の痕跡、つまり神殿の遺跡であろう。
 [居住地から離れた所に神域を設け、神殿を建てる例が8世紀から確認される]。居住地内、つまり自分達の共同体内の神域における神殿建立であれば、それは先祖伝来の神々との関係の再確認あるいは補強として理解出来る。しかし、人々が自分の共同体の所在地から遠(57)く離れた神域に神殿を建立しようとする場合、それは彼らが自分達とその神域との間の関係の存在を意識した事、あるいは関係を築こうと言う意識を持ち始めた事を意味している。
 そこには自分達の共同体の居住地からは離れた所に位置する神域と神殿を共同体の一部として認識し、経費を負担し、維持して以降という姿勢が読み取れる。……ポリスの誕生はこのような過程を経て、実現したのであろう。
 さらに、特定の神域へ複数の共同体が奉納していれば、その神域は各共同体が自分達だけの神域としてではなく、複数の共同体の共通の神と共通の神域である事を認めていた事を示している。これら複数の共同体は、その神域を共有する事で互いに連帯感を抱き、さらには一つのポリスを形成するにいたったであろう。(−57)

 オリュンピアとデルフォイ(57−)
 [既にミケーネ時代に数名の名が確認できるオリュンポス12神は]ギリシア北部のオリュンポス山に住まうギリシアの主要神であるゼウス、ヘラ、ポセイドン、デメテル、アテナ、アポロン、アルテミス、ディオニュソス、アレス、アフロディテ、ヘルメス、ヘファイストス[を指す]。……(58)それぞれの定住地で遅くとも前10世紀には祭祀が行われていた後が確認できる。しかもそれらは、後の時代の神域の位置とほぼ一致する。……ミケーネ時代から暗黒時代を通じて、場所は変わり、祭祀のやり方に違いはあったとしても、神々への信仰は続いていた。それは前8世紀になっても同様である。しかし、信仰は続いていても、人々の姿勢には変化が見られる。ペロポネソス半島西部のオリュンピアで教義を伴う祭典が創設されたのは、前776年であった。この神域には前11世紀または前0世紀から祭祀が行われていた痕跡がある。オリュンピア祭は当初近隣の村落共同体から参加者が集まって開催されたのであろう。……勝利者リストから判断して、前7世紀の末ごろまでにようやくオリュンピアはパンヘレニック(全ギリシア的)な神域になったらしい。……
 (59)前8世紀の間に、ギリシアの主要な神域における奉納物は急増する。オリュンピアも例外ではなく、高価な青銅製品、特に三脚釜が沢山出土している。その数は広義の勝利者の数よりも多いので、単に優勝記念として奉納されたものだけではなくて、競技の参加者が自国を出るときに携えてきて、参加記念に奉納したものも含まれていると見られる。日常の生活から離れ、競技に参加するために遠路をはるばるオリュンピアまで、しかも、高価な青銅の奉納品を持参してくるとなると、参加者はどう考えても富裕な人々だったに違いない。勝利者に贈られるのは、月桂樹の冠とオリュンピア競技の勝利者という名誉であるが、勝利を逃した者でも、参加することによって自己の社会的ステータスを明示する事が出来たはずだ。[都市オリュンピアは交通の要所に位置しており、パンヘレニックな名声を確立すると、その繁栄は4世紀、ローマ帝国がキリスト教以外を異教とするまで続く]。
 デルフォイもオリュンピアと同じくパンヘレニックな神域だったが、祭典はオリュンピアより(60)少し遅れて、前590年にピュティア祭として始まった。この神域の運営は古くからテッサリア、フォキス、ボイオティアなど周辺の部族(エトノス)集団が同盟(隣保同盟:アンフィクティオニア)を結成して、これに当たった。神域には多数の奉納物が保管されて、大きな富をなしていたから、神域の管理権をめぐって隣保同盟に参加している国やその他のポリスが戦争を起こす事も再三あった。デルフォイも初期には近隣の居住者達だけの信仰の対象だったのだろうが、前8世紀半ばからの大植民の時代に(61)なると植民の前にデルフォイの神託をうかがう事が慣行のようになった。植民に出かけるもの、植民成功の報告に来るものなどが集まるこの地は、植民に関する情報センターになった為に適切な神託が出せて、それがデルフォイの名声を益々高めた、という事なのかもしれない。
   
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November 04, 2010

『世界の歴史5 ギリシアとローマ』

『世界の歴史5 ギリシアとローマ』
 目次
 第1部 ギリシアの光
  1 東地中海世界の黎明
    ギリシアーーー古代と現代
    ミノア、ミケーネ文明の発見
    暗黒時代からの目覚め
  2 ギリシア世界の形成ーーー新たなる飛躍
    ポリスの誕生
    ギリシア・ルネサンス
    大植民の時代
  3 前古典期のポリス社会
    海上交易と密集隊戦術
    スパルタの国制と社会
    ポリスの位相
  4 二つの大戦と古典期ギリシア
    ペルシア戦争
    ギリシアは何故勝ったのか
    アテナイの伸張、ペロポネソス戦争へ
  5 ギリシアからローマへ −−−ポリスの終焉 
    ポリス社会の変貌
    アレクサンドロスの夢
    「ヘレニズム」時代

 第2部 ローマの興亡
  6 エトルリアとローマ  ---伝説の中から
    建国の黎明
    伝承と史実
    エトルリア人
    共和政国家の成立
  7 地中海の覇者へ
    イタリアの覇者
    国政の内情
    ローマとカルタゴ
    地中海の覇者
  8 第一人者とローマの運命
    グラックス兄弟の改革
    傭兵軍団、雄弁家、コンスル
    カエサルの栄光と死
    頂に立つオクタウィアヌス
  9 平和と繁栄の中で −−−ローマ人の日常生活
    アウグストゥス帝
    第一人者の血族支配
    パンとサーカス
    ポンペイ・グラフィティ
    新興家系の皇帝
 10 帝国の陰影 −−−属州の栄華と重圧
    五賢帝の時代 
    「ローマの平和」における経済と社会
    ハドリアヌス帝の属州紀行
    ローマ人の宗教
    ローマ帝国大転換へ
 11 地中海帝国の変貌
    三世紀の危機
    分治と専制君主政へ
    古代末期の社会と心性
    ローマ帝国の没落?
   
(21−) ミノア、ミケーネ文明の発見
 前3000年紀の特徴ある文明
 ペロポネソス半島の東部をなすアルゴリス半島の南西端にあるフランクティ洞窟の発掘は、そこに後期旧石器時代から新石器時代の末まで断続的に人間が子住していた事を明らかにした。原ギリシア人が移住してくるよりもはるか以前から、[セスクロ、ディミニなど北部ギリシア中心に]人々の生活は続いていたのである。……
 (22)フランクティ洞窟よりも西方のレルナの遺跡は、新石器時代の集落跡を覆う厚い土砂の堆積のさらにその上に築かれた、前3000年紀の半ばからの集落の存在を明らかにした。そこには、繰り返し再建されながら続いた建物の跡が見られる。建物は最後には東西25メートル、南北12メートルの複数階の大規模な建物となったが、前2200年ごろに突如消失してしまい、以後再建されることはなかった。
 アッティカの東にあるエウボイア島でも、前3000年紀の半ばの重要な集落の遺跡が発掘されている。このマニカ遺跡はカルキスの北方約4キロに位置し、東西2キロ、南北1キロの範囲に幅1.5メートルから3メートルの道路で区画された大都市遺跡と呼べるものである。
 [墳墓形式や葬制に共通点が見られる事から、]前3000年期の初期青銅器時代にはキュクラデス諸島[、ケオス、シュロス、メロスなどの島々]にも独特の文化が形成されたことが、[鳥や楽器を奏でる人物像等の美しい彫像などを含め]発掘によって明らかになっている。(−23)

 (24)ミノア文明の発見
 ギリシア本土、キュクラデス諸島と並行して、クレタ島にも独自の高度な文明が形成された。[前者では文化的断絶が見られたが、]クレタでは墓の使用や土器の形式などが文化の連続的発展を示している。クレタを中心に栄えた文明は、伝説上のクレタ王ミノスの名を取ってミノア文明と呼ばれている。
 クレタでは前19世紀にはクノッソスとファイストスに壮大な宮殿が建造され、[その後マリアやカト・ザクロに]いわゆる宮殿時代が到来する。宮殿はいずれも構造が似ており、長方形の中庭を中心に周囲に多数の建物が、政治・祭祀・居住空間・産業・貯蔵など、機能別に立ち並んでいた。城壁をめぐらさず、外敵に対する警戒の様子が見られない宮殿の構造といい、クレタ独特のカマレス土器の植物や幾何学の文様といい、また、宮殿の壁のフレスコ画といい、いずれもミノア文明の開放的性格を示している。……
 (25)[アクロティリ]の遺跡から出土したフレスコ画は、色彩豊かで、のびやかな少年や少女、さらに海戦の様子までを表現しており、日常生活の中にこのような壁画を取り入れていたのはどのような人々だったのか、その表象はどのように機能していたのか、想像力をかき立てられる。[この時代の発掘については、シュリーマンや後のエヴァンズによるトロイア文明の発掘が世界的に有名である]。(−28)

 (28−)線文字Bの解読
 クノッソスの発掘では文字の刻まれた大量の粘土板も出土し、注目を集めた。しかも、その文字は従来知られていたどの文字とも異なっていた。
 クレタ島では、エヴァンズのクノッソス発掘につづき、ファイストスやマリア、ハギア・トリアダの宮殿跡も発掘されたのだが、そこからも文字を記した粘土板が出土した。ただし、そこに(29)記された文字はクノッソス出土のそれとは違う種類のものだった。エヴァンズはそれらを相互に対照させた結果、クレタの文字を3種類に分類し、それぞれ、絵文字、線文字A、線文字Bと名づけた。
 これらの文字を解読しようと、研究者達の試みが始まったが、それは困難を極めた[が、その後1939年に]ペロポネソス半島南西部ぴゅロスの発掘で、数百枚の粘土板が出土した。おどろいたことに、そこにはくれたの線文字Bと同じ文字が記されていたのであった。……[1953年]マイケル・ヴェントリスがジョン・チャドウィックの協力の下に線文字Bを解読したと発表した……。
 (30)線文字Bの言語がギリシア語である、ということは多くの研究者の予想に反するものであった……。
 残る絵文字と線文字Aはいまだ解読されていない。線文字Bに比べると、あまりにサンプルが少なすぎるのである。(−31)

 (31−)線文字Bが語る王国
 (32) 線文字Bがギリシア語を表していると判明すると、研究者たちは粘土板文書を読み、そこに記された情報を分析する作業を続けた。クノッソス出土の線文字B文書がギリシア語で書かれていたという事は、クノッソス宮殿の末期に相当する前1450年ごろ、そこを支配していたのがギリシア人であった事を示している。そうであれば、ミケーネなどギリシア本土のギリシア人が前15世紀までにはクレタに進出していたということになる。……[その後新たな、線文字Bが刻まれた粘土板の発掘を経て]線文字B文書分析の為の研究者達の努力は、現在に到るまで続いている。……
 線文字B文書に特徴的なのは、もっぱら役人達が職務を遂行する際の記録の為に文字を用いた、という事である。したがって、線文字B文書には歴史や文学、神話などは記されていな(33)い。この点で、年代記や書簡、文学や宗教に関する文章もしるされているオリエントの粘土板文書とは、大きな違いがある。
 このように限られた内容の線文字B文書であったが、その内容からミケーネ時代の諸王国が一つの文化権を形成し、政治的・社会的構造も同質であったと言う推測が可能になった。……
 ……ピュロス文書の解読によれば、国王はワナカという。これは古典ギリシア語の王を意味する語、アナクスに相当する語であろう。ワナカは、中央と地方に役人組織を持ち、これら役人は地方から中央への貢納や中央から地方の職人への現物支給の管理を担当していた。地方村落においては農民と職人との職業文化も見られる。また、ピュロスの宮殿炎上の直前には軍隊が海岸地域へ配備された記録があり、何らかの脅威が王国に迫っていた、と言う説明が可能である。
 このように、線文字B文書を分析する事により判明したミケーネ諸王国は、規模は小さいながらも、単独の支配者の元に役人と軍人とがいる点で、[ギリシア含むその他の]オリエントの専制国家と基本的性格が共通している。……(−34)

 (34ー)ミケーネ諸王国は何故崩壊したか
 ギリシア本土のミケーネ諸王国の宮殿は、前1200年ごろ何者かの侵略を受けて炎上し、以後、再建される事はなかった。線文字Bの使用もこのとき放棄されてしまい、以後、この文字は二度と使用される事はなかった。ここにミケーネ時代は終焉を迎えたのである。[この崩壊の原因については、ドーリア人などギリシア人一派の第二次侵入、「海の民」の襲撃などが挙げられたが、最近では、国内の対立や反乱・気候の変動による飢饉や疫病など内部的な要因によるとの推測が強くなっている]。(−36)




 暗黒時代からの目覚め
 暗黒時代の断絶と連続(36−)
 ミケーネ時代の終焉からの400年余は暗黒時代と名づけられている。せっかく獲得された線文字Bが忘れ去られ、同時代の文字資料は皆無となる。文字の使用が、王宮の書記官など、ごく一部の人々に限られていて、広く普及していなかった為であろう。ミケーネ諸王国の崩壊後、王宮は再建されず、王国の支配者達は新たな定住地を求めて移動を始めた。ミケーネ文化の特徴を持つ装飾を施された土器の政策も行われなくなり、堅牢な大規模建築も姿を消してしまう。人口が減少したのもほぼ間違いない。王国に代わる政治組織が編成された痕跡も無い。
 暗黒時代があけ始めるのは、前8世紀に入って全く新しいタイプの政治組織であるポリスが誕生する頃と見れば良いだろう。
 確かにこの暗黒時代に、ギリシア本土は社会的混乱と文化的低迷に見舞われたらしい。だが、それは暗黒時代の初めから終わりまでを通して、またギリシアの全域について言えるわけではない。[ティリンスでは前1200年以降市場規模が拡大しており、アッティカの土器には、ミケーネ土器の流れが認められ・独自な文様を施すようになっていく]。
 (37)アッティカ出土の土器に注目すれば、今述べたような連続的発展を指摘出来るが、ギリシア本土全体に目を向けるならば、暗黒時代前半に多くの定住地が放棄されてしまい、以後は長期にわたって続く定住地は見られなくなる。再び堅固な大規模建造物が現れるのは、前1000年ごろのエウボイアのレフカンディで発掘された「ヘロオン(半神廟)」であり、それにつぐのは、前8世紀になって各地に認められる神殿である。ところが、神殿の建立という行為は、次章で述べるように、ポリスの成立と表裏の関係にあって、もはや暗黒時代の出来事と呼ぶのは相応しくない質の行為なのである。

 崩壊後の移動と定住(38−)/ドーリス人の南下、鉄器時代へ
 ミケーネ諸王国が崩壊すると、王国の支配者は新天地を求めて移動し始めた。(彼等は、アッティカのペラティ、エウボイアのレフカンディ、ロドスのイアリュソス、キプロスなどに移住したらしい)。
 ……(40)ミケーネ人の移住の動きとそれに伴って起こったギリシア本土の変動に促されて、ギリシア北部に留まっていたドーリス人が南下してきた。彼らもまた……、同じギリシア語を話すギリシア人であった。ドーリス人はペロポネソス半島やクレタ島など南エーゲ海の島々に定住した。
 暗黒時代に入っても、前12世紀から前11世紀初めまでは、ギリシア人は外側の世界との接触を持っていたが、前11世紀後半から前10世紀の末ごろまでの間は、クレタ以外の地に住むギリシア人とオリエントとの口承は途絶えてしまったらしい。ギリシア人の定住地からの出土品に東方の物が見られなくなり、同じくオリエントからギリシア産の物品も姿を消す。ただし、(41)ギリシアとキプロスとのコンタクトは続いていた。このキプロスは地中海地域では最も早く、前11世紀半ばまでには鉄器時代を迎えている。製鉄技術はこのキプロスを経由してギリシアに伝来し、前1000年までにはクレタとギリシア本土も鉄器時代に移行した。(−41)

 ホメロスの叙事詩(41−)
 ところで、ミケーネ王国もピュロス王国も、叙事詩『イリアス』と、この『イリアス』より1世代ほど遅れて成立したと見られる『オデュッセイア』の中に登場する。ホメロスの作とされているこれら二つの叙事詩は、トロイア戦争をめぐる物語がテーマとなっている。スパルタの王メネラオスの妻ヘレネがトロイアからやって来た王子パリスに誘拐された。ヘレネを奪還する為に、メネラオスの兄であるミケーネ王アガメムノンの呼びかけでギリシアの各地からアキレウスら英雄達が集まり、トロイア目指して遠征に出かける。かくしてトロイア戦争が勃発し、戦争は10年続くが、結局トロイアの滅亡で終わる。ギリシア遠(42)征軍の参加者の中には、老練なネストルや智謀に長けたオデュッセウスがいて、戦争が終わると各々が帰国の途に就くが、オデュッセウスは船の遭難などであちらこちらをさまよい、10年かけてようやく妻ペネロペイアの待つイタケへとたどりついたのだった。
 さて、ヨーロッパ最古の文学である『イリアス』と『オデュッセイア』は、もともとは口誦叙事詩であって、ギリシア・アルファベットが発明されてまもない前8世紀の後半以降に文字化されたものである。物語の部隊は遺跡の発掘されたミケーネ時代の諸王国で、それが数百年の間語り伝えられて、文字の発明と共に文字化されたのだ、という解釈が、論理的に言えば出来ないわけでは無い。両叙事詩が事実に基づいているのだと信じてトロイアを、またミケーネを発掘したのがシュリーマンだったのである。
 しかし、これら二つの叙事詩の中の王国と、線文字B文書を解読する事によって明らかになってきたミケーネ時代の王構造を比較してみると、両者の間にはかなりの隔たりのあることが判明した。叙事詩のなかの王達は、線文字B文書にうかがえるような貢納を課す王とは違い、それほど強い権力を持ってはいない。また、ミケーネ時代のギリシアはまだ鉄器時代を迎えてはいないにもかかわらず、叙事詩の中で農民達は鉄製の農具を使っているのである。[こうした相違点についてケンブリッジのフィンリー卿は]、ホメロスの叙事詩に描かれた世界は前10世紀から前9世紀頃のギ(43)リシアの社会をもっともよく反映させている、と想定した。……少なくとも,暗黒時代の色々な時点に現出したギリシア社会の様々な特徴が、この叙事詩の中に鏤められていることは確かであろう……。(−43)

 ポリス誕生の謎(43−)
 ……ポリスは前8世紀の前半ごろから出現し始めるが、このポリスこそは古代ギリシア人が生み出した独特の性格を持つ小規模の国家であった。ポリスは、その構成員の間に経(44)済的・社会的に階層分化はあるものの、人格的な支配従属関係は相互の間に原則として存在しない事を特徴としていた。このようなポリスには、共同体国家という表現が相応しい。
 ポリスの特徴を、先に述べたミケーネ諸王国の特徴と比較してみると、両者の間に本質的な相違のある事は一目瞭然である。ミケーネ王国におけるような中央集権的権力構造のトップに立つ支配者はポリスにはいないし、ポリスには専門の軍人も役人もいなかった。ポリスを構成する者たちの中の資格を備えたものが交代で行政を担当し、必要とあれば国土防衛の為に戦場へと出かけたのである。
 このようなポリスは何を契機に、どのようにして成立したのか。これは古代ギリシア史研究の重要なテーマである。既に述べたように、線文字B解読によって、ミケーネ王国がギリシア人の築いた国家である事は疑えないものとなった。しかも、それは小型ながらオリエントの専制国家的性格を備えた国であった。その同じギリシア人が暗黒時代を経た後では、ミケーネ時代の国家とは全く異質のポリスを作り出したのである。[この経緯や理由についてはいまだ研究段階にある]。
 ……(45)暗黒時代を挟んで、それ以前には専制的な支配者のいる王国、以後には共同体国家と呼ぶべきポリスが存在している事が明らかになった。こう見てくると、暗黒時代はポリス誕生の条件と気運とを醸成した、可能性に満ちた時代だった事になる。ただし、この時代の研究は、史料との関係で困難を極めた。もはや線文字Bは失われてしまったのに、ギリシア・アルファベットはまだ発明されていない為、同時代の文字による記録がないからである。しかし、新しい時代は確実に準備されていた。(−45)  
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September 25, 2010

マルコ福音書第5章

1−20:治癒奇跡。   
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マルコ福音書第4章

1−9: 「タネをまく人のたとえ」
 湖。:「船に乗って腰を下ろし、湖の上におられた」。ここから説教。繰り返される「水」と関連する表象。
「種まき」:農業の支持者として。

10ff:たとえを用いて話す理由

13−20:たとえの解釈。

21−25: ともし火と秤のたとえ。
 火:周囲を照らす為。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
 秤:

26−29: 「成長する種のたとえ」
「種」の表象。

30ff:「からしだねのたとえ」
「種」の表象。

33ff:人々には「たとえ」を用いて語る。;弟子達にはひそかに全てを説明した。

35−41:奇跡物語。激しい突風。{イエスは艫のほうで枕をして眠っておられた}。湖に{黙れ、沈まれ}
「湖を渡る」:水の表象
 風を叱り、湖に言葉を発する。自然現象はイエスの言葉に従う。
  
Posted by srv12 at 22:32Comments(0)

マルコ福音書第3章

1−6: 癒し物語:安息日に、片手の萎えた人を癒す。律法を越えた権威。→ファリサイ派、ヘロデ派はこの時点でイエス殺害を計画し始める。

7−12: 各地からおびただしい群集が集まって来る。小船を用意させ(群集に押しつぶされない為)、水の上から癒す。{汚れた霊どもは、イエスを見るとひれふして、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分の事をいいふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた}。
 神の子:
 汚れた霊をはるかにこえた権威をもち、彼ら(複数)との会話が可能。

13−19: 弟子を取る物語。{自分の側に置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせる為}12人を選ぶ。
 悪霊を追い出す権威:

20−30:イエスの権威の根拠: 「気が変になっている」「ベルゼブルまたは汚れた霊にとりつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」との噂について「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。……サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、誰も、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取る事はできない。……人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、全て赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」
 人の子ら:複数形

31−: 自分の家族とは、{神の御心を行なう人}
 神の御心:  
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マルコ福音書第2章

1−12: 中風を癒す。{屋根を剥がして穴を開け、病人の寝ている床をつりおろす}。イエスは「子よ、あなたの罪は赦される」と発言する。律法学者はそれを聞いて憤慨。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている事を知らせよう」と述べた後、治癒。
 人の子:
 罪の赦し:律法を越える権威。
13−17: 徴税人を弟子にし、罪人らとともに食事を取る。ファリサイ派の律法学者からの糾弾。「私が来たのは、正しい人を招く為ではなく、罪人を招くためである」。
18−22: 断食について:律法と人の判断。
23−:安息日のおきてを破る。律法を越える権威。ダビデの先例あり。「人が安息日の為にあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」。
 人の子:
 サムエル記上 / 21章 1節 〜7節
ダビデは立ち去り、ヨナタンは町に戻った。ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか。」祭司はダビデに答えた。「手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」ダビデは祭司に答えて言った。「いつものことですが、わたしが出陣するときには女を遠ざけています。従者たちは身を清めています。常の遠征でもそうですから、まして今日は、身を清めています。」普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。
  
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マルコ福音書第1章

1−8:イザヤによる、洗礼者ヨハネとイエス・キリスト登場の予言。ヨハネの性格と言葉。
9−11:イエスの洗礼。天が避けて"霊”が鳩のように[降る]。天からの声。
12f:荒れ野に送り出されるイエス。40日間留まり、左端から誘惑を受ける。野獣と一緒にいるが、天使達が仕えている。
14f:ヨハネが捉えられた後、ガリラヤにて伝道開始。「時は満ち、神の国は近付いた。悔い改めて福音を信じなさい」。
16−20: 4人の漁師を弟子にする。(網を打っている所、網の手入れをしている所で声をかける)。
21−28: 汚れた霊を命令して追い払う。ナザレのイエスを、神の聖者と呼ぶ。
29−34: 熱の出ていた病人を癒す。{夕方になって日が沈むと}、病人や悪霊に取り付かれた者を癒す。{多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言う事をお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
35−39: {朝早くまだ暗いうちに、イエスはおきて、人里はなれたところへ出て行き、そこで祈っておられた}。各地で宣教。
40−46: 皮膚病を癒す。悪霊に関する叙述は無く「御心ならば、私を清くする事がおできになります」との本人の信仰の問題で治る。「だれにもなにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを浄めの為にささげて、人々に照明しなさい」。  
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July 17, 2010

成長と断線

 継続的に為される成長乃至発展と呼ばれる運動がある。
 他方、「断線」または「破壊」は、一つの現象である事に間違いは無いが、回路の不具合(従来の因果関係とは異なる状態)を生じさせる事で、ある結果を齎す。その「結果」は実に多様であって、ある場合には「機能停止」、ある場合には「故障(症状の現れ方は多様)」となる。「断線している(或いは「した(経験として)」)」のだが、「一応引っかかっている為、電気なり何なりが通らなくは無い」というケースもある。
 幾つかのメディアが「終わろうとしている」、余りたいした事も出来なかったようだが「断線のとき」を迎えようとしている。
 所謂「双方向」で為される、「通常の対話」のような新規メディアが、もう少し破壊的・不道徳immoralな対応がなされるのかと思っていたが、「多少なりとも紳士的」「理性的」で、どうも「ハードルの低いところから入り、それとなく繋がった友人関係」という感じである。
 例えばその一ジャンルであるtwitterにしても、今の時点では使用する言葉にしても内容にしても、やり取りが単発的である所が、徐々に成長していく事が見込まれている。人類が言語を手にした時には、最初はこんな感じだったのだろうとしばしば思わせる。

 ガラパゴス化という事であるが、シマグニ的な風潮の中で、文化として確立しつつあるのが大変興味深い。昨今の若者は海外に出たがらないという事が報告されているが、確かにこうした環境が整備される中で、「従来無かった仕方」でのコミュニケーションが進み、またその中で、「パーシャル・シンクロ」として、自分の領域なり時間なり行動なりをある程度確保しつつ、ある集団での行動に積極的に参加しながら楽しむ事が出来るという新しい形式である。また伝播するスピードが速い事も特徴的である。  
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July 15, 2010

才能無きヘタクソ

 自分でプロを自称する・してきたものがやっている・見せているものについて、まったく才能が無いケースが非常に多い。ただの「ヘタクソ」というやつである。 最近、NHKはじめとして、いわゆる「tv」関係の所がバカになって来ているという声があちこちから上がっているが、はじめからそうだったとしても愈々拍車が掛かってきたという所であるものらしい。おそらく「需要の減退」に伴って、不安で少しおかしくなっているのだろう。
 こうした現状に不安を覚えたものか、各局そろって、「カオ」として出していた皺だらけの変なのを、クビにしていっそうの効率化を図るということであるが、正しいやり方である。とはいえ、余り相手にされていない・離れていく傾向の強まるところに1滴水を垂らす位の結果になるだけである。
 彼らの職種のすばらしいところは、「自分で何も考えなくていい」「考えを通さずにしゃべっていればいい」点であるが、流石に飽きが来た。  
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July 14, 2010

Ustの問題点

 しばしば声が小さくて、聞き取れない。
 カメラワークは、基本的に無く、見えにくい事がある。
 勿論、その他の過去のものによる、「最早誰も興味を持っていない・見ようと思わない」バカ番組より百倍ましである事は明らかであるが、実に多様なものが扱われており、先日の馬の競売をそのまま流したものなどはとても面白かった。  
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July 13, 2010

やった事は報われよかし

 才能と知恵と知識が圧倒的に欠如している割には、「やっただけの甲斐はある」という事で、「ドコの」という事に関わり無く、殆どの企画がハズしている中、これはどうやら珍しく当たりのようである。が、当初よりUstreamに賛成姿勢を示すだけでなく自身でも積極的に顔を出して、大変実りある内容を提示してくれた「彼」の事であるから、他のケースにも(真似しようとして)こうなると思ったら、それは大間違いである。今後は益々、Ustream系のものが伸びていく、他方、他のメディアの衰退が期待される。

 *何か今一つ元気が無い・覇気(というかいつもの前のめりの姿勢で、気合の入った熱い話しっぷり)が無いと思っていたら、野球場でバカをやって謝罪をした後だから、神妙になっていたものらしい。  
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July 12, 2010

NTTは潰れなければならない

 正確には、一局集中的な体制を潰して、分業させた後、適宜割り当てをする必要がある、という事である。
 同様の事は、「クニ」が運営する幾つかのものについても当然当てはまるわけであるが、こうした悪弊が日本にカビとして生えている。フルイ発想でありやり方であり、はっきり言って「障害」でしかない。それが罷り通る・単にフルイ世代が自己保身を図っている社会である限り、我が国の発展などあるはずも無く、一層の「ガラパゴス化」と文化的衰退が確定される。今後を見据えるならば、現在(過去の或る時点から引き継がれてきた)「官」が関わっているものは一通り見直しが必要なようである。要素として、進歩性が入っていないからである。
  
Posted by srv12 at 14:03Comments(0)

権威の失墜

 まだ大した期間も過ぎていない中、今回の悲惨な結果を招いた訳である。
 元々彼について、与えられた役職に相応しい・それだけの役割を果たす能力があるものと看做していない為、特に影響は無いが、いずれにしても首相の権威は失墜した。
 どの道「ダメな政権・政党」であるから、期待することは何も無い。  
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July 11, 2010

国民の裁き

 日本の政治における決定的な弱みは、「選択肢が十分にない」点にある。
 結果的には、民主党がこの何ヶ月かの体たらくの末、厳罰を受けた仕方になった。ついこの前、「これでやっと変わる」と期待されたのだが、それを「裏切った罪」は、非常に重い、という事である。これらの数字が示すものは「やっぱり(こいつらでは)ダメだったか」というため息であり、または「あんまりナメた事してると、クビをちょん切るぞ」という事でちょん切ったという事態である。
 以前からしばしば起きる事だが、「ナントカ・チルドレン」に代表される「話にならない」妙なのが出て妙な結果が出るのは、教育水準の問題なのだろうか。その地域の者の良識または平均的な知能・判断力を疑わざるを得ない。
 白戸次郎も受かったという事で何よりである。尚、今後「議論形式」のものをやる場合には「QUIET」の札を用意して、それが掲げられたら全員黙るよう規則として決めておく必要がある。  
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「同情」の文化

 日本の文化の特徴は数多挙げられるが、その一つに「モノが無い」或いは「絶対的な数量が不足している」事がある。その際にどのような発想が出て来るのかと言えば、先に述べた「将棋における駒の使いまわし」であり、場合によって「ナサケ」と呼ばれるものである。しばしばこの、Nietzsche等が激しく嫌悪した所の「同情」などと呼ばれるものが、この国の中ではプラス・マイナス両側面から取り上げられている訳である。
 勿論道具として使用する際、一定の条件は満たしている必要があるが、「<何らかの仕方で>」機能する、「破綻を来たさない程度であれば」十分条件を備えたものとみなす傾向が顕著に見られる。場合によっては「破綻寸前の」「ぎりぎりの所」に見出す美学なども、茶の世界などには存在しており、現代に到るまで連綿と受け継がれている。  
Posted by srv12 at 10:52Comments(0)

July 09, 2010

メディアにおける言論の自由

 「メディアにおける言論の自由」は、事実上無くなったとして過言ではない。勿論「無くなった」訳では無いし、それが守られている事について間違いは無い訳であるが、正確には「社会から受け入れられない(受容されない・需要とは外れた)ような、あらゆる発言または内容」について、受け手全員が、極めて厳格な株主のように発言する、その決定事項は圧倒的な力を持っており(大方のケースでは多数決の形で表現されるが)、「決定に従う」以外の選択肢は無い。従わない自由も勿論保障されているが、どの道「潰されて」、結果は同じ事になる為、一体どちらがダメージ・怪我が少なく済むか考慮した上で判断するといった事態である。活動範囲については言うまでも無く、いよいよ狭められていく事であろう。従って、残された道は「可能な限り嫌われないように・または何処からとっても当たり障りの無い事だけ」を口にする、或いは「個人的な発言・感想は極力避けるまたは完全に避けて黙り込む」、または「何時何処から矢が飛んでくるか分からないので、潰される前に撤退する」のいずれかである。今後発言・行動する際には、法廷で「有罪か無罪」かの判決を受ける気持ちで臨むのが良いだろう。勿論、仮に「有罪」となった場合に告げられる言葉は「死刑。今すぐ執行」である。この程、某○シモトのお笑い芸人が二人ほど吊るし上げられているとの事で、ド○マでもス○ウでも、その力を持った株主(複数)が「役員全員とっかえ」または「もう出資しない」と言えばそれまでである。
 「夜道を歩くときは気をつけろ」との言葉が、或る社会ではしばしば使われるが、夜道どころの騒ぎではない、日が照っていようが人中だろうが、殆ど四六時中狙われている、この動きは今後加速する一方である。  
Posted by srv12 at 17:48Comments(0)

July 08, 2010

「TVって…、無くても困らないよね?」

 IT革命と呼ばれる「ネット上での情報授受」、これが「革命」であった事は明白である。
 それが何を齎したのかと言えば、無論挙げて行けばきりが無い訳であるが、一つには「モノを見る目」なのかも知れない(予想していたよりも、マイナス面が極めて少ない事には少なからず驚嘆する)。「TVって…、無くても困らないよね?」とか「TVって、要らなくね?」といった声は、若者層主体に増えてきている。従来ならば「こんな感じでやりたい」というものが、いわば「勝手に」提示されて、何らかの仕方で幅広い理解や価値観を持っている訳でも無い対象については、他に評価の基準を持たなかった。いずれにしても、それに触れている時間の長さと、知的程度とが殆ど反比例の関係にあることは明らかである。
 この程満を持して送り込んだ「くだらないド○マ」が、悪評をもって異例の短期間で打ち切りとの事であるが、そもそも人々の関心を集めていないモノに、時間と経費を掛け過ぎである。  
Posted by srv12 at 17:45Comments(0)

July 07, 2010

500年計画

 どうしてもこの位は欲しい。そうでなければ変化を見届ける・それに付き合う事が出来ないからだ。それだけのスパンで色々な事を発想してみると、随分現在への態度も変化して来ようというものである。500年後に向けた現在の一歩が重要である。
 この程焼き上げた瓶の内、角瓶は大きさと形状・便利さから、主に飲み物を一度に大量に作る際に使用している。米のとぎ汁など用いて30分ほど煮沸するのだが、そうすると今回「白濁釉」の強い感じに上がっていたものが、徐々に透明化して来る。加えて、ガラス質自体が多少なりとも焼き締まる。勿論ある程度の限界はあるし、当初の段階ならではの変化の幅というものもあるのだが、1ヵ月後に同様の処置を施せば、また一段進んだ状態を見せてくれる事に間違いは無い。
 ただ、仮に先の計画が実現した場合に、当然の事ながら技術も人間も生活スタイルも世界も変化している事だろう。
 実際今から遡って、1500年代の我が国が、世界がどのような感じであったのか、そこから考えれば、現在のこの空気感の中に、そうしたものが…結構適合して通用しており、喜んで持っている・持ちたがっている者も少なくない訳だから、問題ないと言えば問題ない。  
Posted by srv12 at 22:55Comments(0)

July 06, 2010

最強ドイツ

 個人的には、もう少し、アフリカのプレーを見て居たかった。以前何処かで触れたかも知れないが、「身体能力が優れている」と言うよりは、ネコや野生の獣に見られるような「動物的」動きが突出していて、所謂「ヨーロッパ的な」枠組みでも「南米の」ものでもないスタイルが注目される所であった。
 「Alles gute(良い事が沢山ありますように、位の意味」ということで次に向かう訳であるが、予選の段階から、今回のドイツの強さが際立っていた。「組織的」である事がこの国の売り物で、何はさておき伝統的にここを(とりあえず)応援する事になっているのだが、若い力も入ったという事で、このまま優勝して貰いたいと思う。例年であれば、もう少し判断のつきかねる、「世界一」が期待されるチームも他に出て来るが、今年はここで決まりである。
 あるプレーヤーは厳しい仕方での洗礼を受ける事になったが、まだ次も、次の次もある。何処かのバスケットボール・プレーヤーも、優勝するまでには7年とか掛かっている訳で、どの道放って置いても幾つかの場面で活躍するだろうから何ら問題は無い。
 こうして出揃ってみると、やはりこの中に「日本」が入っていたら、違和感がある。勿論今回の努力やらなにやらがあったことは確かだが、歴史や積み上げたものなのか、意識なのかはさておき、若しこの中に入ったとしたら「何かの間違い」か「運が良かった」という事になるので、とりあえず「ワールドカップ、ベスト16」というタイトルを誇りと自信にして、次に繋がればと思う。  
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July 05, 2010

Cloud or die 2

 幾つかの企業が、社内公用語を英語にするという事で、大変結構な動きである。
 以前から、某企業における或る者の「エラそう」「ナマイキな」「何時まで経ってもガキっぽい」態度・口振りや身振りが嘲笑の的となっている事についてここでは別問題とするとしても、従来英語力は、単純に「海外への進出」を見据えたものだった。ところが、昨今の動向・技術革新・革命の中で、意味を変えて来ている。要するに「クラウド化」が進められる中、「あらゆる情報(企業内の機密事項含む)」がグローバルな段階で共有される必要が出て来ているが、「海外へのそれにも柔軟に対応する為」というよりは「説明・開示する際の(海外から評価して貰う際の)円滑性を高める」ものである。
 そうした中で日本語が近い将来消える事は明白である。何故ならば、「日本人」そのものが近い将来消えて行くからで、一部の文化的なものが、陽光または風雪に晒される廃墟のように残るだけである。
 この動きは、「あっという間に」進む。「英語アレルギー」みたいなものがある者も居るかも知れないが、どちらかと言うと感謝した方がいい。幾つかの単語は既に頭に入っており、文法構造はそれ程複雑でなく、我が国の学校教育制度をもってある年齢からはそれなりに勉強した事になっている、例えばこれが「クラウド内で情報交換する際の共通語を、古代ギリシア語にする」と言われたら、多少なりとも冷や汗が出る事になるが、そうした所から考えれば「まだまし」である為、「英語で良かった」と捉えた方が積極的である。
 当然会社の決算書の定型から報告書からメールから何から、全て「米国型」に「揃える」必要が出て来るが、その動きに「乗り遅れる」ですらない、「乗れない」場合には、企業として存続する事は「出来ない」事態が、あっという間に生じてくる事になる。ここには「乗る」か「乗れない」かの二者択一しかない。構造や表現力の点からしても、英語が「非常に優れた言語である」とは全く思わないが、「歴史上の或る時点で(この場合「現在」)、帝国的な価値観の中で支配的なものが優先的に扱われる」という法則に従って、この21世紀の中では偶々「英語」がそれに該当している、中世期であれば国際共通語としての「ラテン語」を学ばなければならないし、アレクサンドロス大王が生きていたら「ギリシア語」を学ぶ必要が、「生き残っていくためには」出て来る訳である。
 「使用言語に関してそれほど抵抗を覚える必要は無い」というのは、一応別の角度からアプローチしておくならば、技術が進めば「同時通訳ソフト」なり「英語への変換ソフト」の精度が上がる事態も、当然期待されるし、その分野を扱っているものの発展もほぼ同時的に進行すると思われる為である。ただそもそも「言語能力」というものが、ある場合に「知的能力・情報取得・抽出・応用力」の基準として評価されている事は指摘出来る。勿論幾つかの技術を介さない方が「速い」事は確かで、スピードを優先する・それが求められる価値観の中で生死を分けるような敗者と勝者、乃至そこまで明確に区分しないとしても「優と劣」とが明白になってくるというだけの話である。
 「どうしても英語は苦手だし、そもそもケトーの言葉など勉強もしたくない、けれども企業として、現在の有り方での、日本式の言語や社内の伝統などをもって存続したい」というのならば、経済なり学問なり文化なり、「あらゆる分野でトップ」になり、自他共に認知される仕方で帝権を得て、世界中の国が「あるシマグニにて使用されている言語」を「世界共通語として」学ぶ事態が生じてくれば良い訳である。そうした我が国の文化形式に従った仕方での事柄を、「現在急速に進められている、米国文化主導型の有り方」を上回る仕方で進めれば全く問題なく、それが達成された暁には、これまでの仕方で「日本語」による企業運営が可能となるだろう(合わせて、「日本人の数そのもの」を増やす作業も進める必要はあるが)。それが「出来ない」「達成・実現不可能」であるというのならば、黙って「順応しろ」「出来なければ、死ぬ」というだけの、非常にシンプルな話である。  
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July 03, 2010

「哲学は、何にも分からない」

 日本の政治は、ただの寄り合いである。
 所謂「政治に求められるもの」について、「何一つ分かんない」「学んでもこなかった」「パッパラパー」だという事を前面に出している。何をべらべら喋っても、「嘘っぽい」「誤魔化している」要素が多分に見られる。  
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July 02, 2010

Cloud or die

 今後、企業の有り方は大幅な修正を迫られる事になる。「情報の共有」「データの共有」が図られる中で、運営の一層の効率化が進められる、またはその作業を通じて、殆ど自動的に「贅肉を落としてスリム化」する。
 国内の企業が取り込まれ、一応それぞれの職種に分けた仕方で各国順に取り込まれていくのだろうが、そうなると吸収合併や買収の恐れが無くなる一方、株式市場が成立しなくなる。競争も何も存在しない、ただ需要にあわせた形態が現れるだけである。以前あったような「ブラック○デー」のような仕方で無くなるとか破綻を来たすものと考えていたが、どうやら全く別の角度で為されるものらしい。これまで築き上げてきたストラテジーは、意味を為さなくなるが、この事は即ち従来保持してきたismの崩壊(無意味化)となる。  
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July 01, 2010

シマグニ日本

 良い試合だった。今回のチームは弱くなかった、「ヘタクソ」かどうかはさておき組織力で個々の欠点を補った、結果的に総合的な数値が上がる事となり、PKで勝負をつけるという事は、ジャンケンまたはコイントスで勝敗を決めるのと同義なので、そこまで行った時点で、「どちらがより優れている」という事は無い。祭典自体については、後の所が順当に勝ち上がっている為、いずれも高い水準での試合内容・展開・個人技が期待され、愈々佳境に入った所である。またキャプテンが指摘したように、今後サッカー競技(日本はどちらかと言うと「野球」を好む傾向があるが、年代や傾向からしても、そろそろ応援対象を切り替えて良い頃である)及びそれに伴う産業自体が、これを機に盛り上がっていく事が、彼らへの感謝の表れとなるだろう。一つの問題点は、「サッカー選手=チャライ・カルイ」「野球選手=真面目・忍耐強い」といった感じで、イメージが良くない傾向が多少なりとも見られる点であるが(これは過去のプレーヤー達に問題があるものと思われる)、少なくとも今回の試合全体を通じて、「戦っている」とか「自分の職務に忠実」との印象が加えられたものと思う。一度は盛り上がる事が大いに期待されたこの分野であるが、折角全国規模でチームを敷いて置きながら地元の支持がいまひとつだった為、今後企業はそちらへの投資なり応援なりを積極的に進めていき、将来的な発展・強化につなげていく必要がある(そうでない為、幾つかの報道が有り得ない間違い・チンプな発言をするとか、90分喋って何一つ残るものが無い、ペライ解説が出て来てしまう事になる。そうしたものが消えるだけでも、事態としてはましである)。暫くの間は、凱旋試合と言う事で、参加した選手の顔を一目でも見て拍手を送ろうとする動きが出るものと思われるが、その後に続く者達もそうした傾向に水を差さないような努力と汗・質の高いプレーを見せて行く事が求められる。質を上げていく事とファン層を固め・広げていく事が今後の課題である。
 今回我が国のプレーで際立っていたのが、わざわざ指摘するまでもない「団結力」であった。団結しているというのは、我が国がしばしば伝統的に貴ぶ所の「和」であって、それがネガティブに表れたものが、所謂国営企業(過去に消滅させられたもの含め)に頻繁に見られる「馴れ合い」であり、この場合には成長を全く期待していないし、従ってカイゼンされる余地も無い、所謂ダメ企業・ダメ経営として周囲から指摘される所である。この程殆ど「国営のヒコーキ会社」であった何処かも、その伝統を引き継いで破綻傾向にあった為、我が国において展開されたこの方式は、構造的な欠陥を持つものであることが明らかである。次の世代には継承したくないものの筆頭である。
 ポジティブに表れた場合と、ネガティブに表れた場合との両ケースがあるにせよ、こうした事態にあって、視線は基本的に「内部」に向けられている。パラグアイのチームの大部分を構成するのが所謂「グアラニー族」(アルゼンチンやその周辺にも住んでいるが)またはその血を引き継ぐものであって、基本的に彼等の身体能力は優れている。というか非常に野生的であって、全員揃って長時間走らせたら、多分日本は完敗する事であろう。といった次第でそこが何よりも懸念されたのであるが、今回の試合の中で体力の低下(所謂「第4クオーター病」)といったものは殆ど見られず、最後まで振り絞りながら「死闘」を繰り広げた事は誰の目にも明らかである。  
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June 30, 2010

前線にて

 相手の陣地内で得点チャンスを生み出す一歩手前の時点で、必ず一歩待って、(複数:最低3人、願わくは「4人」上がってくるのを待つかのように)センタリングを上げている。「組み立ててから」得点を狙う傾向が見られるので、多分その辺の練習をして来たのだろう。
 もう少し突っ込んで生み出すチャンス、「キラー・スルーパスで一発チャンスを掴んで突っ込んで」みたいな発想ははなから頭に無いといった感じである。人海戦術・人数揃ってから上げる事で、一回目のチャンス、こぼれだまとしての2回目3回目を狙う(密度が濃くなっている為。相手のオウンゴールも十分あり得る)手と思われるが、策に頭が行く余り、「待たずに」一歩伸ばせば生み出せるチャンスまでダメにしてしまわなければと思う。
   
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June 29, 2010

Personal energy generator

http://www.youtube.com/watch?v=HXuDoDgXIz0&feature=player_embedded#!
 我が国にも似たような発明があったが、その現れ方というか「振動」という現象へのアプローチは随分異なっている。大分頑張って色々な分野に手を伸ばしてはいたようだが、受動的passiveか能動的activeかという点で、効率性にも大きな違いが出ており、どうもこちらの方が良さそうである。  
Posted by srv12 at 13:35Comments(1)