2005年10月01日

斉藤一の生涯

斉藤一 来年新撰組の続編をやると聞いたんですけど、タイトルが、土方歳三最後の一日と言うタイトルで私が好きな斉藤一が、回想シーンだけみたいなんでチョットがっかりしました。

それで今日は斉藤一について語りたいと思います。新撰組では無敵の剣と言われ永倉、沖田に次いで3番目強かったと言う斉藤一は、弘化元年正月1日(2日とも)、明石藩足軽・山口祐助の次男として江戸に生れる、母はますと言う。

19歳の時に、旗本を殺してしまい、京へ上り、父の知人の吉田某の道場で代稽古を勤めていたといわれている。

文久3(1863)3月、浪士組上洛直後に、京都で入隊し副長助勤となる。

元治元(1864)年6月5日の池田屋事件では、土方の組におり、到着後、戦闘に参加、報奨金17両を賜っている。

元治元年(1864)8月頃には、近藤勇増長に不満を抱き、永倉新八、原田左之助らと共に会津藩に上書を提出している。

伊東甲子太郎入隊後の再編成では三番隊組長、剣撃師範に就任する。

武田観柳斎を殺害したのは斎藤であるというのは後世の作り話の可能性が高い。

伊東らが、新撰組を離脱すると、斎藤も同調し高台寺党に参加した。
これは、近藤の密命を受け、間者として潜り込んだものであるらしく、近藤暗殺計画があることを伝えた。その後帰隊する。
そして、油小路の変で伊東らの暗殺へと繋がっていく。

鳥羽・伏見の戦いでは、永倉と共に殿軍を務め、甲州、会津と転戦。白河では、負傷した土方に代わり新撰組隊長を務めた、この間に山口二郎と改名する。

榎本艦隊に乗っての蝦夷行きに反対し、離脱する。
その後、山口(斉藤一)に同調した20数名と共に会津藩の一員として戦い続けた。
敗戦後は塩川村にて謹慎、その後越後高田城下に送られる。

会津藩が斗南3万石として再興を許されると、山口は斗南藩士として下北半島に移住した。
また、同時に一戸伝八(一瀬傳八)を名乗る。

明治5(1872)年、警視局に入り、後に警部補に任ぜられる、そしてこの間、本仲人・松平容保、下仲人・山川浩、佐川官兵衛により、高木時尾と結婚している、その際に、容保から藤田五郎の名を与えられた。

警視二番小隊、半隊長として、西南戦争にも出陣した。

その後は、博物館、学校などに奉職した。

大正4年9月28日、床の間に座ったまま往生した。
享年72歳。なぜ、新撰組出身の斉藤一が警視局(今の警視庁)の警部補までなれたのは、会津戦争で降伏した時、斉藤一は「山口二郎」として降伏しています。

当時は戸籍とかそういうのもありませんでしたし、戦中でしたので、確かめる手立てもありませんから。

つまり、当時では、斉藤一は戊辰戦争で死んだことになっていました。
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ssg03hazime at 21:20│Comments(1)TrackBack(0)clip!斉藤一 

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この記事へのコメント

1. Posted by 伊藤哲也   2008年08月18日 03:46
3 少々、史実と異なる所を。斗南の所は
全面的に× 移住前から藤田五郎。
 一戸伝八は間違い。一瀬傳八が正しい
けれども旧字は使用せずに一瀬伝八が
一番良いですよ。
 警視局に入ったのは数年後で高木
時尾と結婚したのも数年後。明治
5年ではないのでした。
 戊辰戦争の時は部隊ごとの名簿が
ありました。活字化されていないもの
多し。斎藤一の史料で活字化されてい
るのって少ないですから。ある時が
来れば公にできるでしょう。

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