2011年07月

2011年07月31日

「トポフィリ 夢想の空間」展に行ってきました

東大駒場で開催された「トポフィリ 夢想の空間」展

に行ってきました

110730topophilie_poster_03


案内文によると、


本展覧会は、フランスの哲学者ガストン・バシュラール(1884-1962年)の著作『空間の詩学』(1957年)に基づき、そこで述べられている思想の空間化を目的とした展覧会

家、貝殻、抽出、ミニアチュールなど詩的イメージを喚起する「空間」について研究し、そこから生まれる想像力の拡散、集中→螺旋運動を解き明かす

この生きられた空間において夢想するコギトの探求を、バシュラールは「トポフィリ(場所への愛)」と名付ける

本展では空間化し、来場者が感覚を通して理解し体感できる空間をつくりだすことを目的としている。

これは、人文知のアウトプットの技法のひとつとして展覧会の可能性を探る試みでもある。

本展は、この「トポフィリ」をめぐる思索に形を与え、さらに来場者を各々の「内密の空間」へとみちびく運動をつくりだすことを試みる。いわば空間に詩を刻印する試みである。

ひとの感覚を介して伝わる「詩的イメージ」に牽引される想像力の運動は、展覧会という場所で感覚を通して実現されることになる。それ自体が「詩的イメージ」を喚起し得る場所である。

時計台内部と螺旋階段において、想像力のダイナミックな運動を実感して頂きたい


東大駒場キャンパス1号館時計台は通常は内部見学ができません。そこに入ることのできる貴重な機会でもあります。

110730駒場1号館


会場は時計台内部空間(6階)及びそこに通じる螺旋階段(3-6階)。3階に入り口があります

ある時戸は閉められ、鍵をかけられる。ある時は、開いている。大きく、いっぱいに開いている

110730入り口



会場は螺旋階段から始まります。螺旋階段を登っていきます。

卵色した螺旋階段の上昇運動性を眺める。巻貝の内部のようである。古い硝子壜の気泡には、数十年前の空気がそのまま封じ込められている。夢想は縮小された宇宙を好む。例えば時計の発条や歯車、そして永遠の廻転運動。

110730螺旋階段




ここでは、空間がすべてである。時間はよはや記憶を刺激しないからだ。場所は生きている。場所そのものが息づいている。

110730螺旋階段2



螺旋階段の上から見ると、こんな感じです。人間という存在はなんという螺旋であることか

110730螺旋階段4



螺旋階段を昇った先、時計台の内部で、静かに脈打つ時の鼓動が感じられた。抽出を開けてはオブジェに触れてみたり、紙にメッセージを書き残してみたり。高所から眺める景色も新鮮で、隠れ家のような空間だった。

螺旋階段、時計台の中という会場自体がトポフィリ(場所への愛)を感じさせる空間となっています

螺旋階段の先の小部屋は「秘密」の感覚に満ち満ちていて、この空間自体がまずもってきわめて魅力的

時計塔の中という異空間で、バシュラールの思想に導かれた作品とテキストが互いに絡み合っている

110730会場風景


時計塔の中からの眺めはこんな感じです

作品の写真での紹介は、著作権の関係で難しいので、ガストン・バシュラールのテキストで紹介します

110730時計台眺め


人文知のアプトプットして、書籍や論文などのテクスト以外の、メディアとしての展覧会(作品)の可能性を追究する

世界を大きくするには、野原に寝転がり、空を見上げればよい。小さくするには、ビー玉を取り出し、それを覗き込むだけで十分である

我々が片隅に避難する時、しっかりとかくまわれた、と信じる我々の肉体の周囲には空想の部屋が建築される

家は集中した存在として想像される。家は我々に求心性の意識を呼び起こす

内部からいきられ、外在性を失った存在は円であるほかはないのだ

はるかな記憶が事実を思い出すのは、事実に一つの価値を与える時に限られる。その価値が抹殺されれば、もはや事実は持ちこたえられない

110730fryer



なお、

『TOPOPHILIE 夢想の空間』展 見学レポート


トポフィリ 夢想の空間


に詳しいレポートが載っています




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2011年07月29日

「創造性を育む場としてのミュージアム」 に参加しました

「創造性を育む場としてのミュージアム」

に参加します

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案内文によると、


工業社会が行き詰まりをみせ終焉して以降、人の創造性や知恵が最大の資産として考えられるようになって久しいです。

そうした考えから、人生のある一定時期に学校などで受動的に知識を教わる「教育」ではなく、「教育」以外のもの……小さい頃から大人になってまで続く「学び」、自分で考え、新しい物を生み出していく力の重要性が注目されるようになりました。

ミュージアムは、そういった学習が行われる場のひとつとして捉えられていますが、実際には、どうすれば豊かな人生の学びの場となるか、試行錯誤と日々実験が続けられている状態だと言えると思います


講師は、フィンランドにてミュージアム、図書館からメディア教育、自然学校などなどを実際に取材し、「学びのデザイン」がいかになされているかを研究、先日書籍を出版された大橋香奈さん、裕太郎さんです

これについては、

フィンランド 学びのデザイン

を見ていただくとして、伺ったこと、感じたことを以下に書きます


・Learning by Doing. Not for School but for Life.

学びはやりながら行うもの。また学校だけではなく、あらゆる生活シーンで、また学生の時だけでなく、学びは一生続きます


・Information Gas Station

人にとっての情報は、自動車にとってのガソリンのようなもの。それがなければ動けない


・教育とは対話から始まるテーラーメイドプログラム。対話こそ学びの源泉


・ミュージアムは教育、研究、楽しみを実施提供し、創造力を活性化する。観客はミュージアムの共同プロデューサー


・芸術、美術を歴史、経済、技術、科学と組み合わせ、教科横断的に教える。芸術で社会の問題を解決する


・教科横断的なテーマの例

個人の成長

文化的アイデンティティと国際化

メディアを使うスキルとコミュニケーション

シチズンシップと起業家精神

健康で幸せな暮らし

科学技術と個人

持続可能な未来に対する責任

など


参加された方の感想が印象的なので、紹介します


・生き生きとみんなが生きていくには日本はやっぱり窮屈すぎる。

感じたのは○○の専門家となることにこだわり過ぎるのは良くないんだなと。

2足も3足も草鞋を履くコトをみんなが受け入れればいい。

プロかどうかにこだわらない。お互い教えあう。興味をもったらすぐ学ぶ。


・プロであると自負するコトは自分を成長させる大事な礎だけどそれを他人に向けると社会が縮こまる大きな原因。

フィンランドのミュージアムと学校はかなり深く連携して子供を行き来させているそうで、どちらが教育のイニシアティブを取るかでもめたりはない。


・目的に向かってお互いのお節介を尊重するコトを当たり前と社会が考えているのが大きい。

幼い頃から大人と同じレベルで教わったことを年齢なりに表現する教育が色んな世代の人と対等に尊重し合うこと、人の失敗を過度に意識しないことに通じている。


・大人になってからも常に学びたい時に学んでブラッシュアップすること、ひとつの分野にこだわらずに横断的に学んでいくこと、それを常に表現してカタチにして適宜変化させていくこと、が豊かな生活への柱





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2011年07月26日

エージェントベース技術経営〜技術経営学の新しい潮流となり得るか?

東大イノベーション政策センター政策研究会〜エージェントベース技術経営〜技術経営学の新しい潮流〜 

に参加します

案内文によると、


社会的に価値のある新しい財やサービスが社会に受け入れられるためには、旧来の財やサービスに適合される形で構築されている制度や人的要素が障害となるケースも少なくない

したがって、新しい財やサービスの受容過程や、人と人、人と制度のインタラクションを理解しながら、イノベーションにつながていく必要があり、エージェントベーストシミュレーションはそのような過程をモデル化し理解するためのツールとして期待されている


とあります。

これまでのMOT(技術経営)は主としてマクロな立場からのアプローチでした。

企業、競合、株主、顧客などをある組織体として取り扱っており、顧客と言っても、ひとりひとりの顧客ではなく、あるセグメントの集合体としての顧客層として取り扱っていました

企業も組織として扱い、企業に所属する人々それぞれについては扱ってきませんでした


企業では経営者(CEO)の立場で考えることはあったとしても、従業員は経営者(CEO)の決断に必ず従う、ことを前提としています


しかし、

社会の本質を探るとやはり「ヤバい経済学」

に書いたように、


企業に勤める人は、企業のため、顧客のため、株主のため、社会のため、、その働く個人のために働くことになっています。しかし、それぞれの目的に基づく個々の行為は、往々にして矛盾します

実際に社会、組織を動かしているのは、個々人なのですから、「社会、組織はこう機能すべき、こうやって機能するはず」という「べき論、はず論」と「個人のインセンティブ」を一致させなければならないのですが、往々にして「ずれて」います

つまり、「社会、組織はこう機能すべき、こうやって機能するはず」という「べき論、はず論」は成立する訳がなく、実際には「個人のインセンティブ」で動く


とするならば、マクロだけでなく、ミクロな立場から人と人、人と制度のインタラクションを組み入れた検討を行う必要があります

その過程で、「社会、組織はこう機能すべき、こうやって機能するはず」という「べき論、はず論」と「個人のインセンティブ」の「ずれ」が明らかになり、修正などが可能になります

もちろん、手作業ではとても不可能ですから、大型コンピューターの利用が不可欠です


現時点の課題としては、

・人と人、人と制度のインタラクションは研究者がある仮定のもと入力するがその妥当性を検証できない

・初期条件、境界条件などは固定として解くのが原則だが、実際にはあるアクション、環境の変化によって、これらが変動する

・ゲームの理論はゲームのルールが変わらない条件下でないと扱えないが、上記に書いたように実際にはゲームのルール自体が変化する

など、まだまだハードルが多い感じがします


ただ、この分野まで踏み込まないと、「個人のインセンティブ」まで検討した経営は扱えません。

上記のようにハードルは多く、高いですが、この分野の研究が望まれます





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2011年07月25日

サービス提供者と顧客が価値交換から価値創造へ

東大弥生講堂で開催された「サービス工学研究会」

に参加します

110723サービス工学


案内文によると、


消費者ニーズの多様化により、従来のものづくりは量的な充足から質的な充足への転換を迫られています。

我々はこれらの問題を解決する鍵となりうるキーワードの一つがサービスであると考えています。

サービスとは,一般に顧客に便益を与える行為であると考えられていますが、その無形性等の性質から今まで工学的に扱われることはありませんでした

大量生産と大量消費という製品主体の産業構造から、人工物のライフサイクル全体を考慮したサービスと知識主体の産業構造へのパラダイムシフトを可能とするための学問体系として位置づけられます


サービスとは、人によって、定義もまちまちで、まだ学問分野としては確立しているとは言えない状態ですが、発表者、パネリストのお話から参考になった点を拾っています


・サービスとはユーザーが感じる価値、モノを売って終わり、ではなく、オペレーション、サービスまで含めて売る

・サービス提供者は価値創造の仕組みを提供し、顧客を巻き込む役割も果たすことができる

サービス提供者と顧客が「価値を交換」する時代から「共に価値を創造」する時代に
Co-designer、Co-producer、Co-creation

サービス提供者と顧客が、製品と対価という、価値を交換する時代か?ら、共に製品、サービスを通じて価値を創造していく時代へ


・サービスは(明瞭:コスト競争)→(多様化:カスタマイズ、豊富な品揃え)→(不確定:顧客本人もわからない 時、場所、シチュエーションでリアルタイムで変動)と推移してきた

それゆえ、マニュアルによる画一的なサービスはもやは通用せず、刻々変化する状況下での、リアルタイムの臨機応変のサービスが求められる

・定量化、数値化できるものは管理、評価、改善などがやりやすい。サービスをどうやって定量化、数値化するかが課題

・実務では、実験室と異なり、必ずノイズが入る。ノイズが入った状態で解決しなければ意味がない


こういった分野に工学が踏み込んでいくと、新たな発見が見つかり、展開がありそうで楽しみです





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2011年07月19日

東大立花隆ゼミ主催の池上高志氏 × 村山斉氏トーク「繰り返す問い、終わらない科学」に参加しました

東大駒場で開催された立花隆ゼミ主催の池上高志氏 × 村山斉氏トーク「繰り返す問い、終わらない科学」

に参加しました

110719科学


配布資料が面白いので抜粋して紹介します

●物理学のおこり

「学問」の源流は古代ギリシャで、数学と物理学もその例に漏れません

真理への執着から、「哲学」を生み出し、ヨーロッパの学問の基礎になりました

特に、「幾何学」は「公理、定理、証明」という強力な枠組みを提供しました

「物理学」は自然哲学から分離し、ガリレオやニュートン以降、「自然現象の中から数量的関係を見出す」方向へ進みます

この過程で、数学と二人三脚で「微分積分」「フーリエ級数」などの道具が生まれました

この過程の中で、自然科学に、個人の主観から脱却した客観的な視点と、予測能力を与えました


●物理学の基本精神

自然科学とは「自然現象をとらえて論理的に記述する」営みと言うことが出来るでしょう


誰がどこで観測や思考を行っても結果が変わらない、普遍的なかたちが求められます

論理的、普遍的な精神を実現するために、研究者間のコミュニケーションツールとして、数式と数学の体系が利用されます


●物理学の2つの側面

物理学には、観測のための環境を整えて実験を行う「実験科学」、複数の実験事実を論理的に一貫した形で結ぶ「理論科学」という2つの側面があります

ある自然現象への理解が一旦理論体系として確立されると、「次にどのような実験を行えば新たな推論を行えるか」を考える手がかりを得ることが出来ます

この実験と理論のサイクルが重要なのですが、実際には得意分野から「実験屋」と「理論屋」に分かれているのも事実です

●物理学と工学の関係

自然科学は「自然をより深く理解する」ことを目標としています。さらに言えば「社会に役に立つことを、そんなに目指さなくてもよい」ことになります

一方、工学は自然科学の知見を活かして、社会のニーズを満たしていきます

また、自然科学の実験環境整備には「工学」の進歩が欠かせません

物理学と工学は、時には「理屈者」「製品工」と互いをののしり合いながらも、この持ちつ、持たれつの協力し合う関係です


さて、対談ですが、配布資料が興味深かった割には、対談はちょっと、という感じでした

漫才でも、ボケ役とツッコミ役がいて、楽しい話が進行していきます

尖った科学者同士が相手よりも「気のきいたことを言おう」「聴衆をあっと言わせることを言おう」と張り合っていると、意外に中身がない対談になってしまいます。本人たちは「そんなことはない」と言うかもしれませんが、とにかく、そうなってました

1+1が2ではなく、0.5になってしまった例でしょうか?


そんな中から気になる話をピックアップします

・物理学は自然科学の基本となっているが、数学はもはや自然科学ではない

・コンピューターの急速な発展により、自然科学者が仮説を提案するのではなく、コンピューターの大規模シミュレーションの結果より、仮説が示唆されるようになった

上に書いた「実験科学」における実験データの分析、「理論科学」における複数事実の理論付け、などは、人がやっていましたが、最近では、これらもコンピューターが行います。

人がやることとコンピューターがやることの役割分担の変動が進行中です


・金融において数学理論は破綻したといわれるが、利用者がネグリジブルスモールの時は成立した理論は、ネグリジブルスモールでなくなった時には成立しない。新たな系へ移行した訳で、その系での理論を検討することになる

ウォール・ストリートなど金融の世界でも多くの数学者、物理学者が働いています

さらに複雑な数学体系が金融分野で確立するかもしれません





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2011年07月14日

クリエイティブなライフスタイルとは?

新たな共感、自己創出の場 リアルな対話とネット上の「しゃべり場」

で、


ある人がTwitterでつぶやいたことを始まりに、いろいろな人が自分の見解をしゃべりだします。

話題、テーマは固定ではなく、どんどん移っていきます。その移っていくテーマに、臨機応変にしっかりと自分の見解を述べることが大切です

「しゃべり場」では移り変わっていくテーマに対して、誰かの発言について、自分の考えを引用を含めて140字以内にまとめます

このテーマについて考え、その考えを短く言語化し、発信するというプロセスで、自分に対する気付き、再発見、新たなアイデアの顕在化、他者からのフィードバック、それに対する更なる発見があります

つまり、自己に対する再発見、言語化による自分の考えの明確化、新たなアイデアの創出、発信、フィードバックを繰り返す、という、とてつもないことをやってのけています

これは新たな共感、自己創出の場と言ってもよいでしょう



と書きましたが、これが面白いので、紹介します


●クリエイティブなライフスタイルとは?

石油王のカーネギーが世界長者の頃は、石油を掘り当てれば一生安泰であったが、スティーブ・ジョブス、ビル・ゲイツらのITによる世界長者はすぐに他に取って代わられる。世界長者とて安泰な時代ではなくなった



自分の人生を自分で舵を取るというのは相当の精神力と信念が必要で。他の人の言う通りにやれてそこそこ食えるのは楽

指示命令した人がいついなくなるか?わからない。自分の価値は自分で創造しておく



クリエイティブ気質の人はある意味で生きやすい世の中にはなっていくのでしょう。既存ほど楽なものはなく、新しく生み出すことほど楽しくて苦しいものはない

新しいことを起こすには常に抵抗がある。だけど、新しいことを起こす流れは面白い



起業家やフリーランサーや「クリエイティブ階級」として注目。工業化社会の規律訓練型教育の「出来損ない」が活躍

工業化社会の画一的な間違いなく指示をこなす人たちは陳腐化したが、これらの人が社会を支えているのも現実


●「べき論」から「臨機応変、とっさの判断でリアルタイム」へ


「べき論」を外して、臨機応変、とっさの判断でリアルタイムを生きると、人生充実して楽しくなりそうな気がする


何でも自分がやればよい、と言う訳でもないので、敢えて、やるべき人がやるまで待つ



誰かを批判する人って、自分自身が嫌いなんだと思う。与えることよりも求めることが多い人って、人を愛せないんだと思う。じゃあ、優柔不断な人って何だろう。

すべて、自分に自信がない人かな



ご縁があれば、それは手に入る。手に入らないということは、ご縁がないのかもしれない。別のご縁のために。

ご縁は引き寄せるもの、引き寄せられなかった、ということは、きっと手に入らない方がよかった、ということ



規則正しい生活とは、自然の摂理と自分に適した行動の融合で規則正しい生活ができ上がる



●自分の知識、活動のオープン化

自分の活動を表現、発信する、しないで大きな格差がついていく

自分の知識を積極的にオープンにすることで、知識を評価してくれる1%の人に出会える可能性が生まれます



●プロ vs アマ、職業 vs 道楽

顧客から金を取ってやるのがプロ、道楽でやるのがアマ、道楽の方が質が高い場合もあるし、道楽に金がつくこともある。それゆえ、この領域がカオスになりつつある

文学、芸術などは飯のタネではなく、道楽でなければならない。儲けようとすると、読者、見る者に媚びようと、世辞の一つも考える。すると、自分が表現したことが表現できなくなる(夏目漱石)


●アートとビジネス、科学技術

アーティストは作品に「心血を注いで」いる。どんな事情があって行けない、見れない、であっても、がっかりする。わざわざ伝えないほうが良い


科学技術がどう役に立つか?など、実のところわからない。研究者、技術者の当初の意図をはるかに超えたところで役に立っているケースがたくさんある。当初、大学間の高速データ通信のためのインターネットについて、現在の使われ方等、誰も想定し得なかった

アートもどう受け取られ、活用されるかは、製作者の手を完全に離れ、ユーザーが決めている。モーツアルトは自分の作曲が数百年後、日本のCMで使われたり、ビートルズの音楽が日本の教科書に使われる等、想定し得ない


アーティストは大体「危険や精神病と隣り合わせ」で作品を作ってますし、自らそこに身を投じます

研究、ビジネスものめり込むと「危険や精神病と隣り合わせ」だからバランス感覚、他分野との関わりが大切


ビジネスのアート化と言われるが、アーティストなんてものはいってる存在なわけで

アーティストに対する特殊な才能、孤高な存在、という固定観念がなくなり誰もがアーティストって、ならないかしら?


よい創作物は私を泣きそうにさせる。それらは現実から目を背けさせるために存在しているかのように見せかけ、実際は現実を直視せざるを得ない状況に人を追い込む。現実は想像の上に、想像は現実の上に、存在する。

想像と現実はあざなえる縄のように一体になっている



●色香とは?

立ちのぼる色香はまだ要らないけれど。忘れたころに、ふわり香る残り香で誘惑したいものです。

「立ちのぼる色香」は若い時期に獲得できるかもしれないが、「ふわり香る残り香」は本当にいい女にならないと獲得できない





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2011年07月12日

産油国の砂漠での太陽光発電プロジェクト

東京大学で行われた

公開シンポジウム「太陽光を主要エネルギー源とした文明の構築は可能か?」

に参加します

原発問題を機に日本でも、太陽光発電が脚光を浴びていますが、この公開シンポジウムは、


石油資源保有国と協調して、太陽光発電所を低緯度砂漠地帯に建設し,そのエネルギーを大口消費地まで輸送し利用するにあたって必要となる,要素技術研究,システム研究,社会制度研究,実証実験等を産業界と連携して行い,持続可能なグローバルエネルギーシステムへの移行プロセスの検討を行う、という遥かに大規模なものです

・赤道から太陽を輸入
低緯度乾燥地域で、太陽光、太陽熱によって発電し、欧米、日本などの大消費地、あるいは中国、インドなどの発展著しい大生産地域に送電し、そのエネルギー需要を賄う

・赤道に産業を輸出
石油を代表とする化石燃料とは異なり、電力はそのまま輸出するとさしたる付加価値がつかないという問題があり、生産国のメリットが 少なく、開発のインセンティブが働きにくい。基本的に
はその地域で利用して付加価値を高めること、すなわち生産国の工業化を積極的に進めることが当該国にとっては望ましい。

110712太陽熱発電2


ここで、太陽光発電(シリコンパネル等による発電)よりも太陽熱発電が注目されています。この太陽熱発電は日本ではあまり知られていませんが、Wikipediaによると、


太陽電池で発電を行う太陽光発電と異なり、太陽光を太陽光をレンズや反射鏡を用いた太陽炉で集光して汽力発電やスターリングエンジンの熱源として利用する発電方法である。

太陽光発電に比べて、高コストな太陽電池を使う必要がない、太陽電池より反射鏡のほうが製造・保守の面で有利、エネルギー密度が低い自然エネルギーを利用するのにも関わらずエネルギーの集中が可能、蓄熱により発電量の変動を抑えることが可能で夜間でも稼働できる、発電以外にも熱自体を利用することが可能、火力発電との共用が可能など種々の利点がある。


というものです

110712太陽熱発電1



こういった構想は原発事故以前からあるのですが、驚くことは、サウジアラビアという世界有数の石油産出国で行われていることです

中東の石油産出国は石油は出ますが、砂漠が多く、水が不足しています

水を入手するのに、海水を淡水化したり、建物の冷房に、相当なエネルギーを使います


石油がふんだんにあるのだから、それを使えばよい、というのがこれまでの発想でした


しかし、広大な砂漠があり、晴天率が高い、という、これまでの制約は技術の進歩により、太陽発電に適した環境になります

これまで石油でまかなっていたエネルギーを太陽でまかなうことができれば、石油はエネルギーではなく化学材料にも使うことが出来ます

豊富な石油という自分たちの売り、を別の用途にも使えることになります

これはこれまでの産油国にはなかった発想です

石油以外のエネルギーを産出するとは、石油という自分たちが持つ資源の価値を相対的に低めることにつながります

ここには産業の導入という面も見逃せません

中東産油国はオイルマネーによるキャッシュが潤沢です。しかし、このオイルマネーは、いろいろな状況により、コントロールできない乱高下状態に陥ります

「石器の時代は石がなくなったから終わったのではない。同じく、石油の時代も石油がなくなるから終わるのではない」

とは、サウジアラビアのヤマニ元石油相の言葉です



さて、産油国の砂漠での太陽光発電プロジェクトが今後どう展開していくか?楽しみです





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2011年07月07日

幅が広く、奥が深い数学の世界 ラマヌジャンの数式

「TAK」さんは、工学系なので、数学の素養はあると思っているけれど、ラマヌジャンという数学者は知りませんでした

東工大で開催された

ラマヌジャンを求めて──南インド探訪記


案内文が興味深いものでした


すべては奇妙な一つの数式からはじまった。その発見者こそシュリニバーサ・ラマヌジャン(1887-1920)。

今から100年前、英国ケンブリッジ大学の数学者ハーディもラマヌジャンの仕事に魅せられていった。

名も無き南インドの片田舎の事務員だった男をハーディは正式なパートナーとしてケンブリッジに招聘する。はたしてラマヌジャンは世界に知られる存在となっていった。

それほどまでに力のあるラマヌジャンの数式。数学史に名前を残したハーディをして人生で最大の業績はラマヌジャンの発見であると言わせしめた。

3254個の数式を残しラマヌジャンは32歳の若さでこの世を去っていく。

3254個の公式が書かれたラマヌジャン手書きのノートが残されている。その3冊のノートはいつしかラマヌジャン・ノートブックと呼ばれるようになった。



数学においては、定理の証明が重要ですが、ラマヌジャンは証明よりも、いろいろな公式を導出したそうです

「どうやって導いたか?」と聞かれると、「女神さまが自分の舌に書いてくれた」

20世紀後半のスーパーコンピューターによる円周率πの計算の桁争いは、ラマヌジャンが提示した公式によるもの

それにしても、「TAK」さんが小学生の頃、円周率πは707桁までしか計算されていなかったけれど、2011年中には10兆桁まで行きそうとか


さて、ラマヌジャンの数式をもとに、数学全般について、以下に考えたことを書きます



・芸術なき科学、技術は世界をリードすることはできない(東工大世界文明センター)


・万物は数なり(ピタゴラス)

・公式は黙っているだけで、眠っていない(クライン)

・詩人でなければ、数学者になることはできない(クロネッカー)

・数学者になることはできない。数学者として生まれてくるのである(ポアンカレ)

・大昔から測量技術者は長さが3,4,5の割合の三角形は直角三角形になることを経験的に知っていた。それを数学的に証明したのがピタゴラス

・連続した10個の整数の和 1+2+・・10=55、777+778+・・786=7815 掛け算しなくても、5個目の数+5、」でOK (桜井 進)

・小学校で、円周と直径の比率として習う円周率πが、その後、数学、物理学、工学だけでなく、社会科学のあらゆる分野で、おおよそ円周率とは縁がなさそうなところでも、登場するのは驚きを禁じ得ない

・関孝和、建部賢弘など江戸時代の和算は当時世界最高峰。測量、税収などの実用面と富裕層の道楽の二面性があった。もし、関孝和と同時代のライピニッツが国際学会などで交流できたら、どうなったのだろう?


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2011年07月01日

大学院教育と研究体制について考える 〜スタンフォード大学での経験から〜

早稲田大学で行われた国際シンポジウム「世界で活躍するグローバル人材」

に参加します

中でも、「大学院教育と研究体制について考える 〜スタンフォード大学での経験から〜」西義雄教授(スタンフォード大学)は、世界のトップレベルの頭脳が集まるスターフォードからの報告、提言で本当に考えさせられる内容でした。

110701スタンフォード1


西教授は早稲田大学理工学部を卒業後、大学院では東大に移り、東芝、ヒューレッド・パッカード勤務などを経た後、スタンフォード大学教授に就任しています

日本では、就職がない、社会で使い物にならない、と評判がよくない博士ですが、アメリカでは、就職に圧倒的に有利で、社会的にも認知されている、とのことです


日本とアメリカで、博士のどこが違うか、と言えば、アメリカでは、

・学術だけでなく、産業界にも、大きく貢献できる

・自分の専門に固執するのではなく、新興分野を的確に把握し、柔軟に対応できる

・技術的なチャレンジに加えて、経済的なリターンをモティベーションとする

という特徴があります


さて、東大、京大などは、留学生が増えてきた、とは言え、日本の中のトップレベルの秀才が集まるのに対し、
スタンフォード大には世界中のトップレベルの秀才が集まります


スタンフォード大と東大、京大の違いは、

・グローバル vs 国内主体

・はっきり主張 vs 暗黙の了解

・多様性 vs 一様性

となります


では、スタンフォード大の学生の採用、在学、卒業時に重視されること、特徴は、

採用時

・広い関心とモティベーション

・学術の成績に加えて、優れた学外活動(リーダーシップを取る時に必要)

・それまでに行った研究成果

在学時

・コアとなる技術的な基盤

・幅広い好奇心と正しい質問をする力

・自分だけでなく、他人の殻も破る力

・分野、組織の垣根を超えるネットワーク

・1時間の授業に2時間の予習復習が必要

・他の教授のゼミへの参加を推奨(従来の枠組での研究には限界がある。どれだけ枠組を超えた研究ができるか?が勝負)

・シニアの学生はジュニアの学生のメンターとなる(シニアの学生の成長につながる)

・学生が多様性に富むので、自分と違う視点がある

・アメリカ、中国、インド、中東、ヨーロッパの学生でMTGをやると、彼等彼女等がどう考えているのか?わかる(PCの前にいたのではわからない)

・教授の判断で、他学科の学生の指導を受け入れる(転籍不要)企業が採用する時には、2つの専攻を持つと判断され、有利

・失敗は成功のための準備、もう一度やり直せる

卒業後

・行った先でインパクトを与えること

・技術的知識について、専門性と言う奥行きの深さだけでなく、幅広さを持つこと

・新興分野の技術をすぐに掌握できる

・リーダーシップを取ることができる(分野横断的な研究をすることにより、身につく)



では、日本の大学院教育と研究体制の問題点は、と言うと、

・言語の壁(日本語で書いた論文を英訳、国際学会での活動)、保守的なフランスでさえ、トップ研究機関では言語はBroken English

・博士になるインセンティブがない

・トップの研究者が欧米に留学すると、そのまま居ついてしまい、日本に帰ってこない

・「日本の科学技術は世界一」「Japan as No.1」という幻想

・教員が分野の垣根を超えない、学生が他の教授のMTGに参加するのを嫌う

・学部→修士→博士 を同じ指導教員の場合が多く、視野を著しく狭めている


では、日本の大学にどういう解決策があるか、と言えば、

・分野横断的な研究をする(従来の枠組での研究には限界がある。どれだけ枠組を超えた研究ができるか?が勝負)

・世界中の最高レベルの学生を集める、そうでないと最先端の技術は維持できない

・教員、学生だけでなく、研究室スタッフ、事務部門の職員を含めてBroken Englishを使用言語とする(研究室スタッフ、事務部門の職員を含めた形で大学生活が成り立つ)

・日本でな無理、日本の文化には合わない、という「言い訳」はしない



考えさせられることばかりの講演でした








stake2id at 22:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加
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