2016年07月09日

南蛮菓子の伝来と貿易―グローバル・ヒストリー的に

南蛮菓子の伝来と貿易―グローバル・ヒストリー的に

という案内が来ました。

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「南蛮貿易」の最大の意義は、戦国時代の軍事物資の輸入が主なきっかけとなって、日本の歴史が世界史の大きなうねりと一体化し、社会に様々な変革を生じさせたということである。

この時代、日本と東南アジアは様々な担い手による多様なルートで繋がれており、マカオと日本の通商は、そのうちのひとつであった。

長崎の開港は、まさに日本が東アジアを超えた世界へとつながる契機を生み出したが、そこを舞台に繰り広げられた商人たちの活動の痕跡は、現在、我々の食生活や衣服、芸術などに多々見出すことができる。

今回の講演では、長崎の文化混淆を代表するものとして、カステラなどの南蛮菓子やその歴史を取り上げたい。


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ポルトガルと日本〜海がつないだ友好の絆


日本にとってポルトガルはヨーロッパの中でも最も長い友好の歴史を持つ国の1つであり,2010年は日本とポルトガルの修好通商条約締結150周年です。

室町・安土桃山時代から江戸時代に至るまで,ポルトガルは南蛮渡来の貿易品だけでなく実に様々なものを日本に伝えました。

例えば,16世紀末,豊臣秀吉はきらびやかな刺繍を施した深紅のビロードのマントやカッパなどの南蛮ファッションを好んで着用し,家臣にも勧めたと言われています。

京都では,ポルトガル人が着ていた袴(カルサン)や下着(じゅばん)などが,庶民の間で大流行し,南蛮モードを安価で仕立てる店まで出現しました。

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また,当時の日本人が初めて見聞きする品物にはポルトガル語がそのまま使われ,徐々に日本人の暮らしになじんでいきました。

今でも日常的に使われるボタン(botao),パン(pao),タバコ(tabaco),てんぷら(tempero),こんぺいとう(confeito)などは,ポルトガル語が転じて日本語になったものです。


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歴史の授業で室町、安土桃山時代の「南蛮貿易」の話を聞いた時、スペイン、ポルトガルなど西洋との貿易、鉄砲など進んだ西洋文化を取り入れたのに、なぜ「南蛮貿易」、南方の野蛮な国との貿易なのか?疑問に思いました。

スペインがフィリピン、ポルトガルがインドネシアを東南アジアの拠点とし、砂糖などのプランテーションを行い、また、これらがタイ、ベトナムなど東南アジア諸国も合わさる形で「南蛮貿易」となった訳ですが、これらを考えるには15〜16世紀の大航海時代を振り返ってみるとよさそうです。

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グローバル社会と言われるようになって久しいですが、塩、胡椒などの香辛料、絹などの繊維の東西交易、それに伴う文化の伝達は大昔からありました

食物の冷蔵手段がなかった、この時代、食物の長期保存のために、塩、胡椒などの香辛料は重要で、その主要産地インドとの交易は大切だったのですが、陸路では輸送量が限られ、大量輸送が可能な航路の探索が重要な課題でした。

そうだったのか コロンブス(1492)、バスコ・ダ・ガマ(1498)、マゼラン(1522)

トルデシリャス条約とサラゴサ条約


ポルトガルに援助を申し入れるが断られ、スペインの援助を得て、インド航路を発見すべく、大西洋を東に進み、出発した、イタリア人コロンブスは、1492年に諸島群を発見し、、インドに到達したと誤解し「西インド諸島」と名付け、その後、アメリカ大陸を発見します。

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1494年にはローマ法王が仲裁する形で、

トルデシリャス条約

西経46度37分を分界線とし、そこから東で新たに発見された地はポルトガルに、西の地はスペインに権利が与えられることとなりました。

1498年にポルトガル人バスコ・ダ・ガマが、アフリカ大陸南端を通る、喜望峰回りのインド航路を発見します。

一方、スペインの援助を受けた、ポルトガル人マゼランは西回りインド航路を発見すべく、南アメリカを回って、南アメリカ大陸南端に、マゼラン海峡を発見し、太平洋を東に進み、1521年にフィリピンに到達し、そこで死亡してしまいます。

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さて、スペイン、ポルトガル共に、塩、胡椒などの香辛料の主要産地インドとの航路は開発されましたが、それだけにとどまらず、上記のように、スペインがフィリピン、ポルトガルがインドネシアを東南アジアの拠点とし、砂糖などのプランテーションを行いました。


その後、日本へも1543年種子島への鉄砲伝来、1549年キリスト教伝来へとつながるのですが、

イタリアと日本、国交樹立150周年によせて




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時代は室町、安土桃山までさかのぼります。種子島に鉄砲が伝来、フランシスコ・ザビエルのような宣教師が日本にわたってきた時代です。

インターネット、テレビどころか、写真もない時代に、西洋の宣教師が、西洋の文化、リスボン、ローマの反映を伝えようとしても、当時の日本人は、生れた村を一生出ることもない生活をしていましたので、「作り話」として、全く信じてもらえません。

この頃、都には、それなりに海外の情報も伝わり、文化も洗練していたようなのですが、中央と地方の格差は、今とは比べ物にならないレベルでした。

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宣教師たちは、日本人の目で見て、日本人が語り、伝えることが大切、と考え、九州の大名に遣欧使節を提案しました。

織田信長の時代は、信長の勢力は中国地方の毛利どまり、九州の大名たちは、中央からの支配勢力は特になく、自由に貿易、布教を行っていました。

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当時、貿易は、西欧の先端技術をもたらし、代わりに、日本の特産品を輸出し、利益も生む、重要なものでした。

当時、ヨーロッパはスペイン、ポルトガルによる大航海時代を迎えていましたが、産業革命の前ですから、蒸気船はまだなく帆船です。

それゆえ、日本からヨーロッパに行くのは、いい風が吹く季節を待たねばなりませんでした。

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また、西欧人と話すのは、当時ラテン語ですから、宣教師によるセミナリオの優秀な生徒が、大名の名代として選抜されました。

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例えば、正使の伊東マンショは、大名同士の戦いに敗れた城主の子息、など、大名直接の子息ではなかったようです。

遠い西欧までの、命がけの旅ですから、大名も自らの子息は出せずに、一族の優秀な子弟に託したようです。

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遣欧使節はヨーロッパではトスカーナ大公国メディチ家、ヴァチカンでは教皇グレゴリウス13世に謁見するなど、歓迎されますが、8年後の1590年に帰国した時は、日本の情勢が大きく変わっていました。

天下を統一した豊臣秀吉の勢力は、九州の大名たちにも及んでいました。

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秀吉は、当初は貿易、布教を奨励していましたが、キリスト教について、一向宗と同様に危険なものとして、1587年に伴天連追放令を出し、宣教師たちに20日以内に国外退去を命じます。

さらに、徳川家康はキリスト教を禁止し、遣欧使節を派遣したキリシタン大名たちもそれに従い、遣欧使節の立場はなくなります。


大航海時代のスペイン、ポルトガルは、塩、胡椒などの香辛料の主要産地インドとの航路の開発に加えて、その航路の周辺国を植民地としていきましたから、豊臣秀吉の伴天連追放令、徳川幕府の鎖国による、オランダだけとの長崎出島での交易、は、賢明な策であった、と言えます。

さて、スペイン、ポルトガルがフィリピン、インドネシアなどで、プランテーションで行った砂糖栽培がカステラなど南蛮菓子として伝来し、日本も17世紀以降、輸入品として貴重だった、砂糖の国内栽培を開始することになります。

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これが一時、日本領土だった台湾での米、砂糖などの輸出農業育成にもつながっていきます。

日本は台湾を「植民地」よりも「自国領土」として、米、砂糖等を輸送する台北〜高雄の縦貫鉄道、輸出のための港湾の整備を行い、その後の台湾のICT産業の集積、輸出にもつながっています。

日本は中国、韓国とは植民地時代のことが、今でもよくない印象、となっているようですが、台湾とは良好な関係なのは、こんな事情かもしれません。






stake2id at 22:01│Comments(0)TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加

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