2011年07月

2011年07月31日

劇作家、岸井大輔氏トークイベント「芸術ジャンルに潜在する、愛と空間を探ってみる・プロローグ」

に参加します

110730東京の条件


トークイベントであったお話はこんな感じです


・思い出すことは、時として困難だけれど、何かの拍子に思い出すことがある。この瞬間にしゃべって、引き出すことが素晴らしい

・演劇のうまい役者は、予め決まっているせりふを、あたかも今思いついたかの如く話す。しばりがあるのだが、自由にやっているという矛盾。観客は既にわかっているのに感激する

・音楽では楽譜は決まっている。演劇でもせりふは決まっている。しかし、観客の前での演奏、演劇はその場1回きり

・言葉と行為によって、私たちは自分自身を人間世界の中に挿入する

・アクションとは始めることである。「活動する」とは「始める」「創始する」という意味である

・言論を伴わない活動は、その主語を失う。どういう人か?わからない

・パイプオルガン奏者は独奏のパートよりも、コーラスを引き立てているパートで充実を感じる

・多種多様な人がいるということは、活動と言論が成り立つ基本的な条件であるが、平等と差異という二重の、矛盾した性格を持っている

・欧米では対話だが、日本では鍋を囲むと、わかりあえる文化がある。ただ、よい対話と悪い対話、よい鍋と悪い鍋、がある。

・欧米の演劇では、劇作家、俳優が共演者から離れて一人でまとめる作業をすることがある。


「拡張するパーティカルチャー 〜ソーシャルメディア時代の新たなシーンの作り方〜」に参加しました

で、


パーティーは、主催者のシナリオをベースに主催者と参加者が一体で創りあげていきます。

その意味で演劇に通じるものがあります。

演劇であるならば、必ずしも現実ではなく、フィクションの世界を創ってもよいことになります

つまり日常とは少し違うフィクションの世界をパーティーで創ってみても面白いかもしれません

この場合、参加者は観客ではなく、劇を演じる役者になります

参加者は自由に振舞うのではなく、主催者のシナリオにしたがって、役どころを演じる、のかもしれません

固定的にシナリオ通りにもできるし、リアルタイムで参加者を巻き込みつつ、フィードバックしながら、も可能です。

シナリオ通りにする場合でも、演じる役者は、観客の雰囲気を感じます。そして、その感じた雰囲気を自らの演技にフィードバックします

最近は、リアルタイムで観客を巻き込みつつ、役者と観客が一体になって演じる演劇もあります

パーティーはこれに近いのかもしれません

そして「役者がカッコいい」から「参加者が楽しい」への流れがあるのでは、という感じがします


この辺を伺うと、

・講演会、セミナーの質疑応答パートで、質問すべきか?すべきでないか?悩み、葛藤し、結局しない場合がよくある。これは講演会、セミナーに参画している、のである

・観客が参加するのが演劇、参加しないのが映画

・演劇とは、劇作家、俳優と異なる物語を持ち、自由意思で集まった参加者が織り成す一つのストーリー。シナリオ、せりふ、という予め決められた「しばり」をもって、リアルタイムでフィードバックしつつ、創り上げていく

・かつて、演劇の観客の時、本来受けるべきせりふで周囲が受けているのに、つまらなくて体育座りをしたことがある。次のせりふを言う役者と目が合い、厳しい口調のせりふとなったことがあった。もちろん、せりふは決められているけれど、その時の雰囲気、状況でそれをしゃべるのが役者

・演劇には観客も参加していた。観客が演劇がつまらなかった、という時、実は、その観客がいなければ、楽しく面白かったのかもしれない

という回答がありました



































2011年07月29日

東大アメリカ太平洋地域研究センターで開催された

Migration and Empire in U.S. Global Histories

に参加します


以下に書くのは、このセミナーの内容ではなく、これをベースに「TAK」さんが考えたことです

110729global



イギリス、フランス、スペインなどのヨーロッパ列挙国は自国内だけの生産・消費に限界を感じ、ヨーロッパ内での争いから生産資源、安価な労働力、大きな市場を世界中に求めて、東南アジア、アフリカ諸国を植民地としてきました。

「植民地」と言うとあまりよくないイメージですが、先進国が産業、雇用、そこで生産された製品の販路を発展途上国に提供していた、という面もあります。もちろん、現地の天然資源、労働力は搾取した訳ですが

1960年前後に主にイギリス、フランスの植民地だった東南アジア、アフリカ諸国が一斉に独立しました

独立とは、政治的な自由を勝ち取る一方で、先進国が提供していた産業、雇用、販路および暫定的なルール、治安を失うことでもあります

これらが貧困、内戦へとつながり、不幸な結果をたどった国も数多くあります。

他国へ移れる人は移民、そうでない人は難民、となります

この移民、難民は、スムーズに移転先の先進国でなじめる訳でもなく、相当の摩擦を起こし、最近のノルウェーでの銃乱射事件などにもつながっています



一方、アメリカはもともと400年前に宗教の自由を求める清教徒がイギリスから移住した、植民地でした。その後もヨーロッパ諸国からの移民を受け入れ、やがて当時世界最強だった本国と戦い独立を勝ち得ます。

ただ、農業等では、労働力が足りず、アフリカから奴隷をつれてくる、などの問題もありました。その後南北戦争を経て、第1次大戦後には世界最強国になります。

ヨーロッパからの移民同士がすぐに融合した訳でもなく、また、インディアンなどの先住民との衝突、黒人等との人種問題はいまだに大きな問題です

その後、第2次大戦、米ソ冷戦を経ても世界最強国の立場を守っています。

アメリカが本格的に帝国主義を強めるのは、米ソ冷戦の頃からで、世界中に基地、拠点を作ります

現在でも、ハーバード、MIT、スタンフォード、シリコンバレーなどは世界中の頭脳を集めています



グローバル化には、ここに挙げた植民地型と移民受入型がありそうです

もちろん、植民地型と言っても、現代の植民地は現地の資源、人々を搾取する訳ではありません。

海外に拠点を設け、そこに産業、雇用、製品の販路を提供し、現地の資源、労働力を有効活用し、経済を循環させるWin-winのものでしょう。

一方、移民受入型は、今のアメリカのように、ハーバード、MIT、スタンフォード、シリコンバレーなど世界中を引き付ける魅力がある場合には、有効です。世界中の頭脳が集まりますから

そうでない場合で移民を受け入れる場合、受入側には安価な労働力を利用したい、というのが主な理由でしょうか?これについても、双方がwin-winでないとうまくいきません


グローバル化社会で情報もお金も移動する時代に、国境を考えることはナンセンスかもしれませんが、以前として国という枠組みはあります

日本がグローバル化するには、一部、移民受入型もありますが、主に植民地型の方が適しているのでは?と思います

もちろん、戦前の帝国主義ではなく、世界各国に拠点を作り、現地の国々とWin-winの関係を構築する、というものでしょうか




2011年07月27日

今日は通常と全く違うテーマです

最近考えているのですが、

・変化の激しい社会では、予め作成しておいた計画はあまり役に立たず、とっさの判断、臨機応変の対応など、刻々とリアルタイムで修正していく行動が欠かせない

・古典的な線形計画法、ゲームの理論等では、初期条件、境界条件は固定、ルールは当面変わらない、とされていたが、現在では、初期条件、境界条件は変動し、アクションごとにルールなどゲームの性質自体が変わる

・メディア等でわかるように、技術の進展により、少し前まではプロが長時間、お金をかけてやっていたことが、素人が短時間、無料でできてしまう、のように、人々ができることが急速に広がった

ために、ゆとりがなかったり、リラックスすることができなかったりしています

身体と思考、精神、感情はつながっていますが、このバランスが崩れてしまうのが現代の生活だったりしています

そこで、

「瞑想でココロすっきり、リフレッシュ!!」 〜基本から学ぶ、現代人のための瞑想法〜

という勉強会に参加しました

瞑想の効果としては、

・精神が安定する(落ち着く、癒される)

・健康になる

・集中力、直観力が高まる

・潜在能力が発揮される

・洞察力が高まる

が挙げられています


瞑想の導入(コツ)は、全身の力を抜いて背筋を伸ばし、意識をはっきり保ちながら、脳(思考)を鎮めることです。

大地にしっかりと根を下ろし(グラウンディング)、自身の中心を知覚して軸を定めます(センタリング)


さて、実際にやってみると、自分ではっきりと認識できるくらい、身体の各部位の感覚、感じ方に変化が起こります

理屈はよくわかりませんが、効いていることは間違いありません


ただ、ちょっとした注意事項が必要です

・期待しないこと

瞑想をするような状態の時って、具体的な悩みを抱えていて、その即時の解決を切に願っていたりいます。

ただ、その悩みが瞑想をしたからと言って、すぐに解決できるとは限りません

あまり過剰な期待をすると、期待外れ、なんてことになってしまいます

気長な対応がいいでしょう

・かつての体験に執着しないこと

時として、物凄い頂上体験をすることがあります

一度、物凄い体験をすると、それ以降やった時に、その体験に及ばないと、「なんであの時の体験が得られないのか?」と焦ってしまったりします

瞑想経験とは、その時々で違います。かつての素晴らしい体験にとらわれ過ぎないことも大切です

・雑念は流す

瞑想をしていると、ネガティブな雑念が湧いてくることがあります

これは極めて自然な反応であり、無理に打ち消す必要はありません。

起きてきた雑念はそのまま流せばよい、とのことです

・眠くなったら、瞑想は一旦中止する

これはよくあるのですが、瞑想をしていると眠くなることがあります。

もちろん、そのまま眠ってしまってもよいのですが、瞑想としては効果がありません

そんなときは、一旦中止すればよい、とのことです





2011年07月25日

早稲田大学で行われた映画「ヤバい経済学」上映会&講演会

に参加します

110724ヤバい経済学


案内文によると、


経済学者レヴィットがジャーナリストのダブナーと、“常識の裏側にあるホント“を解説した、400万部を誇る世界的大ベストセラー「ヤバい経済学」を見事に映像化し、アメリカでも大ブームを起こした本作。

おカタい経済理論を振りかざすのではなく、誰でも分かるような、独自のオモシロ理論を展開し、

中でも、大相撲の八百長問題をデータで証明している点は必見!

さまざまなテーマを鮮やかに斬り、ポップな映像とテンポの良いストーリーテリングに思わず引き込まれてしまうこと間違いなし

◎大相撲の八百長は、データで証明されていた!
◎子供は親に付けられた名前で人生が決まってしまう?
◎不動産屋さんが自分の家を売るコツは?
◎NYで90年代に犯罪が激減した、まさかの理由とは?
◎○○で中学生の成績がアップする!?  


ヤバい経済学は、人間の経済的に不合理な行動を示した行動経済学ではなく、人々はインセンティブに従って経済行動をする、といういわば本質的な経済学です

この場合の、「個人のインセンティブ」には、経済的のみならず、社会的インセンティブ、道徳的インセンティブも含まれます

実は、映画を見た時には、「なぜヤバいのか?」よくわかりませんでした。「個人がインセンティブで動く」当たり前じゃないか、と

しかし、よくよく考えてみると、ヤバいことがわかってきました

なんで、ヤバいのか、と言うと、

「社会、組織はこう機能すべき、こうやって機能するはず」という「べき論、はず論」の、いわば建前を、「実際には、そのようには機能せずに、個人のインセンティブで動く」という本音を説明しているからでしょうか

例で挙げられているのは、

・「不動産エージェントは顧客に最大利益をもたらすべき」と考えられているが、実際には自分の手数料が最大になるように業務を行う

しばらくすると顧客の不動産価格の上昇が見込まれるが、すぐに売った方が自分の手数料が稼げるので、顧客にすぐ売るように勧める


・「相撲で力士は正々堂々戦う」とされているが、千秋楽に8勝6敗の力士と7勝7敗の力士が当たる場合、前者は後者に勝利をある程度の対価で譲り、逆の立場の時は、融通を受けた方がよい。その方が当事者同士にとっては、はるかに合理的。


などです


例えば、企業に勤める人は、企業のため、顧客のため、株主のため、社会のため、、その働く個人のために働くことになっています。しかし、それぞれの目的に基づく個々の行為は、往々にして矛盾します

実際に社会、組織を動かしているのは、個々人なのですから、「社会、組織はこう機能すべき、こうやって機能するはず」という「べき論、はず論」と「個人のインセンティブ」を一致させなければならないのですが、往々にして「ずれて」います

つまり、「社会、組織はこう機能すべき、こうやって機能するはず」という「べき論、はず論」は成立する訳がなく、
実際には「個人のインセンティブ」で動く、ということを発表したことがヤバいのです



物の売買、取引から教育まで、「べき論、はず論」ではなく、「個人のインセンティブ」で見てみましょう。

社会の組織、仕組みは、正しく機能するように、「個人のインセンティブ」がデザインされていないところだらけのことがわかります

これらを是正することは大変なので、自分たちの周囲から、実際にはどういうメカニズムで動くのか?ずれているならば、どう直せばいいか?考えてみるといいかもしれません











2011年07月21日

文部科学省情報ひろばで開催されたサイエンスカフェ「スポーツのジェンダー構造を読む」

に参加します

コメンテーターがなんとこの間東大を退官した上野千鶴子さんです。

震災の影響で、最終講義に出れなかったので、今日のコメントを伺うのが楽しみです

それにしても、「文部科学省情報ひろば」は1Fにあるのですが、情報ひろば周辺にトイレがありません。

トイレに行くには別棟の3Fまで100m以上歩かなければればなりません。これは「お役所仕事」と言われても仕方ありません。これではみんなが集まる「ひろば」にはなりません


さて、スポーツはオリンピック、世界選手権級まで含めて、現時点ではテレビ放映されるかどうか?がキーポイントになっています。つまり、テレビ放映されないと、人々に見てもらえず、感動を与えることも、普及を促進することもできません

最近では、女子サッカーのなでしこジャパンがワールドカップ優勝を果たしましたが、「なでしこ」は「可憐、しとやか」というイメージから、世界的には「ガッツ、パワフル」というイメージに変わるかもしれません


近代オリンピックは1896年にアテネで始まりましたが、女子は第2回1900年のパリ大会からです。当初は、女子はテニス、ゴルフなど、男性と社交のためのスポーツでした

日本は男子は、1912年の第5回ストックホルム大会から、女子は1928年の第9回アムステルダム大会から参加しています

日本はオリンピックに出るようになった当初から、男子は織田幹雄、南部忠平、女子は人見絹枝、前畑秀子など、メダルを取る活躍をしていました

さて、男女という点から見ると、ほぼすべてのスポーツ競技で、男子の記録、結果は女子を上回ります。女子選手は男子より劣る「二流の」スポーツ選手という「暗黙の了解」があります

女性スポーツも当初のテニス、ゴルフから柔道、レスリングなどの格闘技も行うようになりました。このように男女のジェンダーの接近が見られますが、男女別の枠組みの撤廃、ということになると、実は女性も要望していないのでは?と考えます

この男女別の枠組みは、スポーツでは、性差による体力の差から、理解できますが、囲碁、将棋などでも男女別で、特に枠組みの撤廃は求められていません

男女効用均等法のように、何から何まですべて同じ条件、と言うよりも、今のジェンダーの枠組みって、そこそこ、うまく機能していたりします

知的活動におけるジェンダーの違いは今後、要検討でしょう

さて、女性の職業、キャリアを考える時に、セクシャリティーの問題は避けられません。これはスポーツの世界も何ら例外ではなりません

オリンピック級の女性アスリートが自ら進んでヌードになるなど、スポーツ以外のセクシャリティーによる活動を行うことが、スポーツにおけるジェンダーの問題を否が応でも突きつけます


この問題に対して、嫌悪感むき出しの人と、そうでない人がいるのが、印象的でした




2011年07月19日

「拡張するパーティカルチャー 〜ソーシャルメディア時代の新たなシーンの作り方〜」

に参加しました

110719partyculture


案内文によると


ソーシャルメディア上でのコミュニケーションやustreamなどの動画配信サイトでのイベント中継が一般化しつつある現在、会場に人が集まることの理由や意義について考えます。

さらに、アーティストの創作活動におけるパーティカルチャーの影響についても議論していきます


Twitter、Facebookなどのソーシャルメディアによって、いつでも時空を超えて、いろいろな人と話が出来るようになりました

だからと言って、リアルで人と会うことが減った訳ではありません

むしろ、ソーシャルメディアによって、リアルで会う意味が変化し、さらに重要性が増しています

これについて、演劇プロデューサー、シェアハウス主催者の方々からお話がありました




パーティーには原則的に「着飾って」出かけます。つまり日常とは、少し離れた非日常の場であり、創作、フィクションの要素があります

パーティーはいつも会うメンバーだけではつまらないし、さりとて、誰も知らない人たちのパーティーにひとり行くのも大変です。

ある程度の知り合いをベースに未知の素敵な人たちとも出会いを期待します。

最近会っていない、懐かしい人とのも含まれます。

この辺はシェアハウスと通じるところがあります。

Twitter、Facebookなどで、いつもネット上で話す人とリアルで会うのは、「日常」ではなく「非日常」の場かもしれません

パーティーは、主催者のシナリオをベースに主催者と参加者が一体で創りあげていきます。

その意味で演劇に通じるものがあります。

演劇であるならば、必ずしも現実ではなく、フィクションの世界を創ってもよいことになります

つまり日常とは少し違うフィクションの世界をパーティーで創ってみても面白いかもしれません

この場合、参加者は観客ではなく、劇を演じる役者になります

参加者は自由に振舞うのではなく、主催者のシナリオにしたがって、役どころを演じる、のかもしれません

固定的にシナリオ通りにもできるし、リアルタイムで参加者を巻き込みつつ、フィードバックしながら、も可能です。

シナリオ通りにする場合でも、演じる役者は、観客の雰囲気を感じます。そして、その感じた雰囲気を自らの演技にフィードバックします

最近は、リアルタイムで観客を巻き込みつつ、役者と観客が一体になって演じる演劇もあります

パーティーはこれに近いのかもしれません

そして「役者がカッコいい」から「参加者が楽しい」への流れがあるのでは、という感じがします

ゼロ年代の想像力 宇野 常寛
動物化するポストモダン オタクから見た日... 東 浩紀
シングルズ ワーナーミュージック・ジャパン


2011年07月15日

「「3・11後の世界」を考える!」宮台真司氏×大澤真幸氏 対談」

に参加しました

神戸の震災が「大震災」であったのに比べると、3・11は「広大被害をもたらした震災」に加えて「原発事故」という極めて複雑な問題をもたらしました

これは、単に電力、エネルギーのバランスだけではなく、原発に関わる社会すべてを考え直す必要があります

ただ、何もない時に社会を変えるのは難しいですが、今は社会を変革する好機かもしれません


以前、鉄腕アトムというテレビ漫画がありました。アトムのお兄さんはコバルト、妹はウラン、という名前です

この頃は、原子力が未来の社会に、明るい夢と希望を与えてくれる、という期待があったのでしょう


「原発事故」を受けて、ドイツ、イタリアでは国内世論が大きく脱・原発に傾きました

ところが、福島以外の原発がある地域から脱・原発の声があまりあがってきません。むしろ、脱・原発の声を向けると「俺たちの生活にケチをつけるのか」という反発があるくらいです。

スリーマイル、チェルノブイリの直後の欧米との大きな違いです

マスコミが少しだけ触れていますが、原発を設置する地元には、電源三法により、大きな金額の金が流れ、雇用も生まれ、地元は潤います

老朽化した原発を停止していくとは、地元はこの金、雇用も喪失することになります

それゆえ、原発を既に設置した地元は、原発と共に生きていくことが前提となっており、脱・原発の声を向けると「俺たちの生活にケチをつけるのか」となります

人間関係資産がある場合、合理的な解決に向けて議論が行われますが、ない場合は、誹謗中傷を繰り返すだけで、合理性についての議論など、なされません。原発誘致は権益を巡り、賛成派、反対派に分かれると後者のパターンをたどります。この問題は議論が難しいことになります


以前は、自分たちで危険に注意を払い、事故を未然に防いできました。ところが、3・11で明らかになったのは、自分には責任がない、とし、管理責任を追及するようになりました。不幸な事態が降りかかると誰かに責任を取ってもらおうとします

東大イノベーション政策研究会「震災後の科学技術と科学技術外交」に参加しました

に書きましたが、


指定されていた避難所が津波の被害を受け、多くの人が亡くなっています

「行政から指定された避難所だから安心」ではなく、「この状態では危ない」という、刻々と変化するリアルタイムの状況下での瞬時の判断が生死を分けています


生死を分けたのは、なまじの知識、経験よりも臨機応変の判断、決断、行動です。この臨機応変、とっさの判断の重要性が再認識されたのが、3・11の大きな教訓のひとつです



さて、経済的には豊かになったのに、多くの人が「幸せ」ではありません。便利・快適と「幸せ」は違う、と言えます

ネット上を含めたコミュニティーの重要性も指摘されています

逆説的ですが、「自立」するには信頼できる「依存」構造が必要です

華僑、ユダヤ人は世界中に広く、強いネットワークを張り巡らせています。このような信頼できるネットワークがあるからこそ、各個人が活躍できます。

1950年代までは地方の村で東大に合格した学生等出ると、村じゅうが大騒ぎになり、大壮行会が開かれたりしました。当時の地方から東京へは、今の海外留学のようなものでした

東京へ出た学生は、くじけそうになっても、自分を支えてくれたムラの人たち、いざとなったら帰る場所があったので、頑張れたりしました

やがて中央官僚となった彼らは中央と地元のパイプ役も果たしました

コミュニティーには、「絆」と「コミットメント」が必要です

この「絆」と「コミットメント」について、面白い例が示されました

地縁・血縁がなくても、農作業など辛い労働集約的作業を共同で、一緒に唄(田植唄など)を歌いながら行うと、作業者同士に「絆」が生まれました

何かにコミットするには、報酬だけでなく、社会全体へのつながり、が感じられることが必要です

黒部ダムは、当時の関西地区の電力不足を解消するための世紀の大偉業とたたえられて、「黒部の太陽」の映画も作られました。ずっと後まで多くの感動を巻き起こし、当時はこの映画のおかげで電力会社に入社を希望する学生が殺到しました。

実は、完成時点では25万KWの黒部ダムは、その機能を1基で100万kWの大規模石油火力発電に代替されていたことは、あまり知られていませんが



まだ、結論が言える段階ではなく、発散気味ですが、現時点でまとめると、

・何もない時に社会を変えるのは難しいですが、今は社会を変革する好機

・臨機応変、とっさの判断の重要性の再認識

・コミュニティーには、「絆」と「コミットメント」が必要、何かにコミットするには、報酬だけでなく、社会全体へのつながり、が感じられることが必要

なんてところでしょうか?




2011年07月13日

京都造形芸術大学・東北芸術工科大学外苑キャンパスで開催された

110713東京芸術学舎


藻谷浩介×山崎亮 対談「経済成長が無ければ、僕たちは幸せになれないのか」

に参加します。

藻谷浩介さんは「デフレの正体 経済は「人口」の波で動く」、山崎亮さんは「コミュニティーデザイン 人がつながる仕組みをつくる」という本を書いています

どちらの本も読んでいないので、対談を伺いながら、これらを類推します

戦後日本は、モノのない時代から、高度経済成長、オイルショックによる高度成長の終焉、安定成長成長への移行、
プラザ合意による円高容認、それによる生産拠点のアジアへの移転、国内生産の空洞化、バブルの崩壊、低成長、リーマンショックによる世界大不況、という流れを経ています

オイルショック、プラザ合意等はあっても、バブルの崩壊までは経済は右肩上がりで成長していました。それ以降は経済成長は低水準にとどまっており、大きな成長は期待できません

ここで一つの疑問が起こります

例えば、高度経済成長時代に人々は「幸せ」であったか?ということです

明日は今日よりもよくなる、努力すれば、勉強すればきっと報われる、という「希望」はありました。でも「幸せ」ではありませんでした

ただ、インターネットも携帯電話もなく、カラーテレビ、冷蔵庫、クーラー(エアコンを当時はそう呼んでいた)が3種の神器ともてはやされる時代で、生活レベルは現代の方が、はるかに豊かです

学生たちは将来を見つめることが出来ず、学生運動が全国に広がりました

コミュニティーですが、コミュニティーデザインとは、アメリカから入ってきた考え方で、ニュータウンと呼ばれる新しい街が形成される時に、
住民が知らない同士の状況から、どのようにコミュニティーを築いていくか?という考え方で、主に「ハコモノ」を整備して、
同じ道、場所を必ず通るようにする、などの工夫をしました

そこから、ハードからソフトへという流れの中で、仕組み、仕掛けなどが考えられました

最近では、「場」という考え方から、設備の置き方、配置等、ハードも再び見直されるようになっています

ただ、地域コミュニティーのように、同じ地域に住む人が仲良くしなければならないのか?のような課題もあります

すなわち、地縁・血縁で「がんじがらめ」のムラ社会から都会に出てきた人にとっては、人間関係が希薄な都市の生活が却ってよかったりします


さて、前置きはこれくらいにして、本題に入りましょう

上に書いたように、経済成長は止まりましたが、生活は豊かになり、ゆとりも生まれました

そうだからこそ、「コミュニティーデザイン」とか「都市の孤独」のようなことが考えられるようになりました。食べるのに困っている時には、そんなこと考える余裕もありません

ただ、「経済は成長する」という、これまでの暗黙の前提が崩れました

それゆえ、経済が成長しなくても、やっていけるストーリーを作らねばならなくなりました

「金で買えないものはない」と言ったのはホリエモンだったでしょうか?これは一面では真実であり、そうではない面もあります

例えば、「儲からないけど、やってて楽しい」なんてことがあります。繰り返しになりますが、これは生活が豊かになり、ゆとりが生まれたので言えることです。食べるのに困っている時には、そんなこと考える余裕もありません

すると、居住だって、豪邸を建てて、高い固定資産税を払って定住するよりも、ライフステージに合わせて、いろいろなところを移住した方がよかったりします

結論めいたことを出す対談ではありません。だって、そうしたら、「経済成長が無ければ、僕たちは幸せになれないのか?」「そんなことはない」「その通り」のどちらかで終わってしまいます


参加した方々のtogetter

を参考にしていただければ、もっと対談の様子がわかると思います




2011年07月12日

政策研究大学院大学で開催された知的財産マネジメント研究会(Smips)

に参加します

110712政策大学院


知財キャリア分科会では、

テーマ:「企業・官庁における知財業務とプロフェッショナル〜弁護士の場合〜」

と題して、企業・官庁で勤務している、あるいは勤務経験のある弁護士の方々のお話です


弁護士と言えば、

・一流大学法学部、法科大学院より最難関と言われる司法試験に合格し

・事務所を構えて、刑事、民事訴訟を扱い、主として後者で儲けて、社会的な地位もあり、裕福な生活

と考えがちですが、そうでもないそうです


法科大学院の制度ができてから、弁護士が増え、地方では弁護士不足が叫ばれていますが、東京では明らかに余剰気味です

法律事務所に就職したくても、できない弁護士も多いんです。司法試験に合格すれば一生安泰、なんて甘いものではありません


都市部の法律事務所は明らかにサービス業です

仕事がしっかりして、裁判にも勝ち、対応もよい事務所は依頼が増えるし、そうでない事務所は仕事が減っていきます

訴訟をやって負けた場合、クライアントが相手方の法律事務所に次回以降依頼する、なんてこともあります

ただ、大企業は大きな事務所を選びます。

訴訟、折衝に不調な場合でも、企業担当者が社内で言い訳できますから

ただし、クライアントと一蓮托生で判決を待つ個人事務所は精神的に辛過ぎるそうです



弁護士も国内法だけでなく海外の法律を扱えたり、あるいは知的財産法を扱う、など、今後需要が期待される分野への進出が欠かせません

しかし、これらについての十分な訴訟の依頼業務が法律事務所にない一方で、官庁、企業がこれらの人材を任期付き、あるいは任期無しでも募集しています


官庁、企業は職員、社員に十分な法的知識を持つ人材がこれまでは少なかったのですが、法律事務所へ依頼という形ではなく、職員、社員として採用したい例が増えているとのことです

こういった新しい選択をする場合、いろいろ悩むそうです

・新しいキャリアを伸ばす可能性があるが、ポシャるおそれも大きい

・当面の生活を支えるにはよいが、将来的なキャリアにはつながらないかもしれない

などなど


「実は長期的な将来キャリアビジョンがあるか?と聞かれるとノーになります」

「こういった変化が激しい世の中では、自分が持っていたキャリアビジョンに自分をはめ込もうとしても却って窮屈です」

「ただ、新しい展開にすぐに対応できるように備えておきたい」



弁護士という、伝統的に安泰と考えられているキャリアも転換期に来ている、と感じました








2011年07月11日

ワールド・カフェ テーマ『組織』

という案内が来ました。

この主催者は大手電機メーカーの社内ワールドカフェを他大手企業にも広げ、現在では一般も参加できるようになっています。まだ主体は大手企業の若手社員の方々です

「組織」というテーマでワールドカフェが成立するのかしら?と思いました

すなわち、カフェでは、

・他人の意見を否定しない

・一人が長々としゃべらずに、場の全員に発言の機会を

・ファシリテーターは、自分が頑張るのではなく場の活性化を図る

という原則があります。そして、参加者との対話をネタに、他参加者の発言から気付きを得て、自らの考えを再構築し、自分の発言する際に更に言語として結晶化する、なんていうプロセスを楽しみます

テーマは参加者が第三者的に眺められるものが望ましく、あまりに直接的に関わるものだと、熱い議論になってしまい、カフェの対話にはなじみません

予想通り、このイベントは知的対話を楽しむカフェにはなりませんでした。

だから、「ハズレ」かと言うと、そんなことはありません。上に書いたように、それは想定の範囲内です

カフェそのものよりも、いろいろな大企業の方々の自社組織(本社、各事業本部、現場)に対する暗黙の考え方を知ることができました。今日はカフェの参加者ではなく、参加者同士のやり取りの観察者に徹します

以下にこの場での経験、私見を書いていきます


・参加者はワールドカフェに参加するよりも、とにかく自分の話がしたくて、それを誰かに聞いてほしかった

・自分が属する企業が、事業部間の足の引張合い、本社と現場のコミュニケーションの悪さを指摘して、中高年者がいなくならないと組織は変わらないと。あなたも相当組織に染まっているんだけれど自分ではわからない

・このワールドカフェも先日参加した東大ワールドカフェも参加者の多くが「他人の意見を否定しない」などのマナーを守らないが、東大の方がずっと「まし」だった。東大と大企業、問題は後者に根深そう

・「私がこんな場で話すのはまずいのだけれど」と、おもむろに出した名刺は大手電機メーカー。この企業の役員から平社員まで数十人の名刺を既に持っているが。会社員の立場で話せないならば、個人の立場で、会社関係以外の話をすればよいのでは?

・テーブルホストが参加者に自分の意見を押し付けて、それ以外の意見を論破しようとする。相手にされずに彼の提案以外で対話が始まるとそれをつぶしにかかる。何のためにカフェに来たんだ?自分顕示欲を満たすため?

・「私は係長、課長を飛び越えて部長と話すのだけれども、尖ったやつと嫌われて」と自慢気に話す若手。コミュニケーションが最も通じる人同士がフラットな立場で直接話すのは大変なことらしい

・理想のカフェなんてなくて、現実のカフェは多かれ少なかれ、理想形とはギャップがあります。むしろ、こういったいくつかの大企業社員が集まる、ドロドロした場にワールドカフェを適用して行こうと言う試みは素晴らしい

・ワールドカフェは目的ではなく、あくまで手段。例えば、東大ワールドカフェでは世代を超えた東大卒業生が知り合うために、「ワールドカフェ 組織 by 大企業若手主体」では、参加者同士が共通の
テーマについて話し合うことにより、気付きを得るために、というふうに目的はそれぞれ異なる

・ある企業の組織内コミュニケーション改善など、組織体質改善のためにワールドカフェを導入が試みられたのが「ワールドカフェ 組織 by 大企業若手主体」参加する企業も増え、また一般参加 もあるなど、取り組みに相当の進展が見られる

・「ワールドカフェ 組織 by 大企業若手主体」は主催が企業では、参加者はその企業関係者が中心で、その企業の文化が暗黙の前提に持ち込まれる。大学、ベネッセなどに主催を切り換えると参加者が多様化し、気付き、出会いは向上する



この場を苦労されて設定された主催者の方には申し訳ありませんが、観察者の立場で書かせていただきました

大企業若手にとって「組織」というのは、ゆるやかな対話よりも、関係者(上司などはいない場で)同士、大企業同士でガンガン議論する方がよいのでは?というのが実感です

議論している場で、コメンテーターでもない第三者がゆるやかな対話をしても「おまえはうちの部のこと知らないだろう」なんてことになってしまいます

ワールドカフェをいろいろな場に適用するのはよいけれど、カフェの限界、場に集まる人によるテーマの適切性も知ることができました









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