2018年07月
2018年07月31日
日常への帰還―宇宙飛行士とアスリートの当事者研究
という案内が来ました。
オリンピック・パラリンピックは能力主義が先鋭化する舞台であり、その能力主義こそが、社会の中で障害者を苦しめてきたものであるという事実を振り返るとき、この点に関して様々な観点からの検討が必要である。
過剰な能力主義は、ほかならぬトップアスリートにも影響を与える。
能力主義や競争原理の中で心身を消耗し、現役を引退した後、あるいは故障などで一線を退いた後い、新しい人生の目標を再構築し、「平凡な日常」に着地点を見出すことに困難を抱えている。
宇宙飛行士が宇宙から帰還した後に直面する、日常生活における心理的・身体的な困りごとは多岐にわたり、その中には、国家の威信を背負って孤独に邁進してきたアスリートが、日常に復帰する際に直面する困難とも相通じる部分がある。
オリンピック出場者、宇宙飛行士は、ほんの一握りのエリート、と言えるでしょう。
「目指して、なるまで」「なってからの活躍、葛藤」「終わってから」にそれぞれドラマがあります。
「TAK」さんは、田中ウルヴェ京(ソウル五輪シンクロ・デュエット銅メダリスト)さんが主催されていた「アスリートのためのキャリア・トランジション勉強会」
によく参加し、岩崎恭子さん、八木沼純子さんら、オリンピック出場者のお話を伺っています。
メダリストのキャリアデザインとトランジション
銅メダリストたちのの本音トーク
人生は「意義」と「楽しみ」がある仕事をしている時、幸せ!
自分が諦めたら、終ってしまう
頂上(ピーク)はとっても気持ちがいいけれど、いつまでもいることはできない?
キャリアトランジション勉強会 憧れの職業も順風満帆とはいかない
宇宙飛行士の方も、毛利衛さん、
向井千秋さん
スプツニ子!さん×向井千秋さん、サイエンス、アート、キャリアで考える未来のかたち
山崎直子さん
山崎直子さん「宇宙飛行士という人生〜宇宙に出るまで、帰って来てから」
土井隆雄さん
宇宙旅行から宇宙開発、宇宙コミュニティーへ
のお話を伺ったことがあります。
それぞれの方の「目指して、なるまで」「なってからの活躍、葛藤」「終わってから」に異なるドラマがあり、とてもひとくくりにはできないのですが、
個々の方の物語は、場をあらためて書くとして、ここでは相通じるお話を書くこととします。
オリンピック出場者と言っても、フィギュアスケートの羽生結弦選手、浅田真央選手、水泳の北島康介選手、体操の内村航平選手、白井健三選手はだれもが知っていますが、マイナーな競技だと、たとえ、メダリストであっても、一般には知られず、その業界だけの有名人だったりします。
宇宙飛行士も毛利衛さん、向井千秋さん、山崎直子さんくらいまでは、日本中に知られていましたが、それ以降は、日本人飛行士が増えてきて、初期のころほどの注目度ではなくなってきました。
さて、皆さん「目指して、なるまで」にも、様々な苦労、紆余曲折がありますが、何しろ「なった」方々ですから、一応は順調です。
問題は「なってからの活躍、葛藤」以降でしょうか。
上に書いたように、一般への知名度にはレベルがあるとしても、オリンピック出場者、宇宙飛行士は、本人だけではなく、周囲あるいは、一般、社会を巻き込む存在です。
すると、周囲が抱く期待、イメージが形成されます。それに応えようとして、さらに厄介な「本人が考える、周囲が抱く期待、イメージ」が形成されたりします。
調子には好不調の波がありますが、右肩上がりでよくなっていないと、世間は納得しません。
このレベルでは結果が全てです。優れた結果、良い結果はすべてを正当化する一方で、どれほど努力し、頑張り、環境、状況に不運があったとしても、よくない結果に対し、世間の反応は冷たいものとなります。
オリンピック出場者、宇宙飛行士という非日常を「終わってから」、日常へ帰還できるか、というとそうではありません。
少なくとも、オリンピック出場者、宇宙飛行士という非日常を「目指して、なるまで」以前の日常には戻ることができません。
「周囲が抱く期待、イメージ」は薄れかかっているのですが、「本人が考える、周囲が抱く期待、イメージ」が強固に残っています。
講演者の元バスケットボールオリンピック出場者小磯典子さんの、
・バスケットボール関係者が集まる、コーチの結婚式当日に、生理痛がひどくて、欠席を連絡したとたんに、生理痛が引いた
・思い出すことと言えば、忘れたい人、コトばかり
・「頑張ろう」をやめたら、つらくなくなった
・貯金がなくなったら、開き直ることができた。元オリンピック出場者のプライドなどなくなり、接客業でも、清掃業でもできる。
が、それを物語ります。
かつて世界トップレベルだった伊達公子選手、高橋大輔選手、三浦知良選手が、引退から復帰し、全盛時よりもずっと低いレベルでも現役を続けるのも、プライドなどかなぐり捨てていることが伺えます。
価値観の再定義と新たな価値の創造
に
>
引退後のセカンドキャリアについて、
価値観の再定義を常に続けて、新たな価値を創造していく
という言葉が印象に残りました。
>
と書きました。
逆説的ですが、宇宙飛行士のキャリアは、宇宙から帰って来てからが、本番だったりします。
宇宙を経験した、元宇宙飛行士の方々もとして、価値観の再定義を常に続けて、新たな価値を創造していく最中かと思います。
今後、オリンピック出場者、宇宙飛行士という非日常の経験を活かして、どう活躍していくのか?楽しみです。
パラリンピックについては、障害との闘い、克服など、あらたな問題がありますので、場をあらためて書きます。
という案内が来ました。
オリンピック・パラリンピックは能力主義が先鋭化する舞台であり、その能力主義こそが、社会の中で障害者を苦しめてきたものであるという事実を振り返るとき、この点に関して様々な観点からの検討が必要である。
過剰な能力主義は、ほかならぬトップアスリートにも影響を与える。
能力主義や競争原理の中で心身を消耗し、現役を引退した後、あるいは故障などで一線を退いた後い、新しい人生の目標を再構築し、「平凡な日常」に着地点を見出すことに困難を抱えている。
宇宙飛行士が宇宙から帰還した後に直面する、日常生活における心理的・身体的な困りごとは多岐にわたり、その中には、国家の威信を背負って孤独に邁進してきたアスリートが、日常に復帰する際に直面する困難とも相通じる部分がある。
オリンピック出場者、宇宙飛行士は、ほんの一握りのエリート、と言えるでしょう。
「目指して、なるまで」「なってからの活躍、葛藤」「終わってから」にそれぞれドラマがあります。
「TAK」さんは、田中ウルヴェ京(ソウル五輪シンクロ・デュエット銅メダリスト)さんが主催されていた「アスリートのためのキャリア・トランジション勉強会」
によく参加し、岩崎恭子さん、八木沼純子さんら、オリンピック出場者のお話を伺っています。
メダリストのキャリアデザインとトランジション
銅メダリストたちのの本音トーク
人生は「意義」と「楽しみ」がある仕事をしている時、幸せ!
自分が諦めたら、終ってしまう
頂上(ピーク)はとっても気持ちがいいけれど、いつまでもいることはできない?
キャリアトランジション勉強会 憧れの職業も順風満帆とはいかない
宇宙飛行士の方も、毛利衛さん、
向井千秋さん
スプツニ子!さん×向井千秋さん、サイエンス、アート、キャリアで考える未来のかたち
山崎直子さん
山崎直子さん「宇宙飛行士という人生〜宇宙に出るまで、帰って来てから」
土井隆雄さん
宇宙旅行から宇宙開発、宇宙コミュニティーへ
のお話を伺ったことがあります。
それぞれの方の「目指して、なるまで」「なってからの活躍、葛藤」「終わってから」に異なるドラマがあり、とてもひとくくりにはできないのですが、
個々の方の物語は、場をあらためて書くとして、ここでは相通じるお話を書くこととします。
オリンピック出場者と言っても、フィギュアスケートの羽生結弦選手、浅田真央選手、水泳の北島康介選手、体操の内村航平選手、白井健三選手はだれもが知っていますが、マイナーな競技だと、たとえ、メダリストであっても、一般には知られず、その業界だけの有名人だったりします。
宇宙飛行士も毛利衛さん、向井千秋さん、山崎直子さんくらいまでは、日本中に知られていましたが、それ以降は、日本人飛行士が増えてきて、初期のころほどの注目度ではなくなってきました。
さて、皆さん「目指して、なるまで」にも、様々な苦労、紆余曲折がありますが、何しろ「なった」方々ですから、一応は順調です。
問題は「なってからの活躍、葛藤」以降でしょうか。
上に書いたように、一般への知名度にはレベルがあるとしても、オリンピック出場者、宇宙飛行士は、本人だけではなく、周囲あるいは、一般、社会を巻き込む存在です。
すると、周囲が抱く期待、イメージが形成されます。それに応えようとして、さらに厄介な「本人が考える、周囲が抱く期待、イメージ」が形成されたりします。
調子には好不調の波がありますが、右肩上がりでよくなっていないと、世間は納得しません。
このレベルでは結果が全てです。優れた結果、良い結果はすべてを正当化する一方で、どれほど努力し、頑張り、環境、状況に不運があったとしても、よくない結果に対し、世間の反応は冷たいものとなります。
オリンピック出場者、宇宙飛行士という非日常を「終わってから」、日常へ帰還できるか、というとそうではありません。
少なくとも、オリンピック出場者、宇宙飛行士という非日常を「目指して、なるまで」以前の日常には戻ることができません。
「周囲が抱く期待、イメージ」は薄れかかっているのですが、「本人が考える、周囲が抱く期待、イメージ」が強固に残っています。
講演者の元バスケットボールオリンピック出場者小磯典子さんの、
・バスケットボール関係者が集まる、コーチの結婚式当日に、生理痛がひどくて、欠席を連絡したとたんに、生理痛が引いた
・思い出すことと言えば、忘れたい人、コトばかり
・「頑張ろう」をやめたら、つらくなくなった
・貯金がなくなったら、開き直ることができた。元オリンピック出場者のプライドなどなくなり、接客業でも、清掃業でもできる。
が、それを物語ります。
かつて世界トップレベルだった伊達公子選手、高橋大輔選手、三浦知良選手が、引退から復帰し、全盛時よりもずっと低いレベルでも現役を続けるのも、プライドなどかなぐり捨てていることが伺えます。
価値観の再定義と新たな価値の創造
に
>
引退後のセカンドキャリアについて、
価値観の再定義を常に続けて、新たな価値を創造していく
という言葉が印象に残りました。
>
と書きました。
逆説的ですが、宇宙飛行士のキャリアは、宇宙から帰って来てからが、本番だったりします。
宇宙を経験した、元宇宙飛行士の方々もとして、価値観の再定義を常に続けて、新たな価値を創造していく最中かと思います。
今後、オリンピック出場者、宇宙飛行士という非日常の経験を活かして、どう活躍していくのか?楽しみです。
パラリンピックについては、障害との闘い、克服など、あらたな問題がありますので、場をあらためて書きます。
2018年07月26日
東大ヒューマニティーズセンター東アジア研究拠点開室記念講演会
という案内が来ました。
ヒューマニティーズセンター(HMC)は、東京大学の8部局による連携研究機構として、2017年7月1日に設置されました。
思想・歴史・言語・文学・教育・芸術・建築・生活等にわたる新たな協創のプラットフォームを目指しています。
文系学科、特に人文科学系が軽んじられる風潮の中で、あえて人文科学の研究拠点が設置されるところが、東大らしいところでしょうか。
「いつまでに、何を研究して、どういう成果を出し、社会に貢献する」という具体的な目標なしに、
「とりあえず、各部署にまたがる、人文科学研究者の研究プラットフォームをつくる」というゆるさ
さらには、この研究拠点が科研費などではなく、LIXIL潮田会長からの寄付によるもの、というもの興味深いところです。
「メディチ家の財産はなくなったけれど、ルネッサンスの文化は今も世界中に根付いている。」
「層が厚く、豊富な人材」の東大、「知の巨人たち」の東工大、トップ大学は教養教育を重視
に書いたように
>
日本全体では人文社会系学部、教養課程の削減、廃止し、理工系学部、実学の重視という流れの中、東大、京大、東工大などのトップ大学は、あえて、この流れに反するかのように、教養教育を重視を打ち出しています。
それも、1、2年次の教養課程だけでなく、3年以降の専門課程、大学院進学後の教養教育の大切さも指摘しています。
>
理工学研究には人文・社会が不可欠
専門家の哲学と街の哲学
専門を深化する工学と俯瞰し、つなげる人文・社会科学
に
>
工学が、個々の専門の技術を深化させる
その進化した個々の技術を、
社会的なニーズに基づいてつなげるのが、経済、社会、法学などの社会科学
自分の中で、ある考えに基づいて、再構築するのが哲学などの人文科学
学問をするにも、ビジネスを行うにも哲学が必要です。つまり、哲学は専門家だけが行うものではなく、すべての人に不可欠なものです。
>
人文知の手法を導入するのは、理工学者かもしれない
に
>
ICT、バイオテクノロジー、人工知能、ロボットなどの急速な発達を生み出す、理工学者の哲学は、人文学者とはほとんど無関係に、急速に発達しているのですが、
その発達を受け入れ、活用して、変化していく社会における人々の考え方、生き方を、人文科学がうまく取り扱えていない、ということでしょうか。
つまり、哲学など人文科学は、理工学の急速な進化と共に、進化しているのですが、実は、人文学者が対応できず、学問として機能しない段階に達しつつある、というのが実際でしょうか。
>
理工学の研究開発には、哲学、ストーリー作りが不可欠です。
この技術をどう進化させて、どの分野に導入し、どう活用し、どうしていきたいのか、わからなければ、理工学の研究開発などできません。
ただ単に、実験、データ分析だけをしているのではありません。
さて、「星の王子様」の翻訳者である、長谷川洋二郎元教養学部長が、フランス文学の大家の蓮實重彦元総長を紹介するなど、面白い場面がありました。
蓮實重彦元総長のポスト資本主義、ポストモダニズムのような、
ポストはそれまでの資本主義、モダニズムなどを否定し、殺戮さえする一方で、生き延びる機会を与えている、
というお話に加えて、
「人文科学はエリートの学問である」
というお話が興味深いものでした。
人文科学は、単なるエリートの教養のたしなみ、ではなく、
エリートがエリートらしく、社会を導く活動、生活をしていく基盤となるもの、
そんな感がしました。
という案内が来ました。
ヒューマニティーズセンター(HMC)は、東京大学の8部局による連携研究機構として、2017年7月1日に設置されました。
思想・歴史・言語・文学・教育・芸術・建築・生活等にわたる新たな協創のプラットフォームを目指しています。
文系学科、特に人文科学系が軽んじられる風潮の中で、あえて人文科学の研究拠点が設置されるところが、東大らしいところでしょうか。
「いつまでに、何を研究して、どういう成果を出し、社会に貢献する」という具体的な目標なしに、
「とりあえず、各部署にまたがる、人文科学研究者の研究プラットフォームをつくる」というゆるさ
さらには、この研究拠点が科研費などではなく、LIXIL潮田会長からの寄付によるもの、というもの興味深いところです。
「メディチ家の財産はなくなったけれど、ルネッサンスの文化は今も世界中に根付いている。」
「層が厚く、豊富な人材」の東大、「知の巨人たち」の東工大、トップ大学は教養教育を重視
に書いたように
>
日本全体では人文社会系学部、教養課程の削減、廃止し、理工系学部、実学の重視という流れの中、東大、京大、東工大などのトップ大学は、あえて、この流れに反するかのように、教養教育を重視を打ち出しています。
それも、1、2年次の教養課程だけでなく、3年以降の専門課程、大学院進学後の教養教育の大切さも指摘しています。
>
理工学研究には人文・社会が不可欠
専門家の哲学と街の哲学
専門を深化する工学と俯瞰し、つなげる人文・社会科学
に
>
工学が、個々の専門の技術を深化させる
その進化した個々の技術を、
社会的なニーズに基づいてつなげるのが、経済、社会、法学などの社会科学
自分の中で、ある考えに基づいて、再構築するのが哲学などの人文科学
学問をするにも、ビジネスを行うにも哲学が必要です。つまり、哲学は専門家だけが行うものではなく、すべての人に不可欠なものです。
>
人文知の手法を導入するのは、理工学者かもしれない
に
>
ICT、バイオテクノロジー、人工知能、ロボットなどの急速な発達を生み出す、理工学者の哲学は、人文学者とはほとんど無関係に、急速に発達しているのですが、
その発達を受け入れ、活用して、変化していく社会における人々の考え方、生き方を、人文科学がうまく取り扱えていない、ということでしょうか。
つまり、哲学など人文科学は、理工学の急速な進化と共に、進化しているのですが、実は、人文学者が対応できず、学問として機能しない段階に達しつつある、というのが実際でしょうか。
>
理工学の研究開発には、哲学、ストーリー作りが不可欠です。
この技術をどう進化させて、どの分野に導入し、どう活用し、どうしていきたいのか、わからなければ、理工学の研究開発などできません。
ただ単に、実験、データ分析だけをしているのではありません。
さて、「星の王子様」の翻訳者である、長谷川洋二郎元教養学部長が、フランス文学の大家の蓮實重彦元総長を紹介するなど、面白い場面がありました。
蓮實重彦元総長のポスト資本主義、ポストモダニズムのような、
ポストはそれまでの資本主義、モダニズムなどを否定し、殺戮さえする一方で、生き延びる機会を与えている、
というお話に加えて、
「人文科学はエリートの学問である」
というお話が興味深いものでした。
人文科学は、単なるエリートの教養のたしなみ、ではなく、
エリートがエリートらしく、社会を導く活動、生活をしていく基盤となるもの、
そんな感がしました。
2018年07月22日
お茶大生による「ビジネスプラン発表会」
という案内が来ました。
「こんなビジネスあったらいいな」「これってビジネスにならないかな?」
マーケティングを学んだお茶大生5チームが、独自に考案したビジネスプランを発表します!
以前にも同じ発表会があり、その様子は、
「こんなビジネスあったらいいな」「これってビジネスにならないかな?」
に書いております。
お茶の水女子大学は、
次世代アントレプレナー育成事業(EDGE-NEXT)
の協働機関に選定されています。
変化が激しい時代におけるデザインの役割、「技術イノベーションをいかに人間的にするかの方法」、「デザインとビジネス戦略を繋げる」、「インタラクティブなコミュニケーションや商品をデザインするためのメソッド」「デザインとビジネスを融合する」「ユーザー価値と経済価値を繋げる」などなど、
技術、イノベーション、ビジネス、コミュニケーションなど、いろいろな分野、あるいは分野融合を起こす方法として、デザインに対する期待は高まっています。
このように社会、時代が急速に進展する中、従来の大学の仕組みでは対応が難しい事例が出てきています。
これは、東大、東工大のようなトップ大学でも例外ではありません。
EDGE-NEXTの他大学の事例は、
共創エコシステムの形成、次世代アントレプレナー育成
東工大
アイデアをプロトタイプにし、社会に実装すると、何かが始まる
東大
人間中心イノベーションと技術革新のかかわり
などに書いてあります。
さて、以前の参加に比べて、今回感じたことは、
・来るたびに確実にレベルアップしています。急速に伸びるステージにあります。プログラムとしての進化が着実にでています。
・プレゼンのアピール、タイムマネジメントは、プロのビジネスマン、研究者顔負けのレベルです。
とても学部生とは思えません。プレゼンの練習を相当積んだことが伺えます。
惜しむなくは、質問への回答でしょうか?質問が自分たちの用意した想定では対応できないことがあります。
この時に、無理に自分が持ち合わせるもので対応しようとするとボロが出ます。せっかくいただいたアイデアはこれからに活かしましょう。
「これ、いいんじゃない」のレベルから「もう一歩でビジネス」まで来ているので、次はスモールスケールでいいから、実際にやってみて、実際にフィードバックを得る段階にきています。
今後の展開について、無責任な私見を述べると、
お茶の水女子大学の中にとどまるのではなく、何人かの代表が
・スタンフォード大学d.schoolなどを訪問し、実際の起業成功例を学ぶ
・EDGEプログラムから継続しているEDGE-NEXTの先進大学とのコラボ
などがあると、さらに進展するのかな、と感じました。
今後の展開を期待します。
という案内が来ました。
「こんなビジネスあったらいいな」「これってビジネスにならないかな?」
マーケティングを学んだお茶大生5チームが、独自に考案したビジネスプランを発表します!
以前にも同じ発表会があり、その様子は、
「こんなビジネスあったらいいな」「これってビジネスにならないかな?」
に書いております。
お茶の水女子大学は、
次世代アントレプレナー育成事業(EDGE-NEXT)
の協働機関に選定されています。
変化が激しい時代におけるデザインの役割、「技術イノベーションをいかに人間的にするかの方法」、「デザインとビジネス戦略を繋げる」、「インタラクティブなコミュニケーションや商品をデザインするためのメソッド」「デザインとビジネスを融合する」「ユーザー価値と経済価値を繋げる」などなど、
技術、イノベーション、ビジネス、コミュニケーションなど、いろいろな分野、あるいは分野融合を起こす方法として、デザインに対する期待は高まっています。
このように社会、時代が急速に進展する中、従来の大学の仕組みでは対応が難しい事例が出てきています。
これは、東大、東工大のようなトップ大学でも例外ではありません。
EDGE-NEXTの他大学の事例は、
共創エコシステムの形成、次世代アントレプレナー育成
東工大
アイデアをプロトタイプにし、社会に実装すると、何かが始まる
東大
人間中心イノベーションと技術革新のかかわり
などに書いてあります。
さて、以前の参加に比べて、今回感じたことは、
・来るたびに確実にレベルアップしています。急速に伸びるステージにあります。プログラムとしての進化が着実にでています。
・プレゼンのアピール、タイムマネジメントは、プロのビジネスマン、研究者顔負けのレベルです。
とても学部生とは思えません。プレゼンの練習を相当積んだことが伺えます。
惜しむなくは、質問への回答でしょうか?質問が自分たちの用意した想定では対応できないことがあります。
この時に、無理に自分が持ち合わせるもので対応しようとするとボロが出ます。せっかくいただいたアイデアはこれからに活かしましょう。
「これ、いいんじゃない」のレベルから「もう一歩でビジネス」まで来ているので、次はスモールスケールでいいから、実際にやってみて、実際にフィードバックを得る段階にきています。
今後の展開について、無責任な私見を述べると、
お茶の水女子大学の中にとどまるのではなく、何人かの代表が
・スタンフォード大学d.schoolなどを訪問し、実際の起業成功例を学ぶ
・EDGEプログラムから継続しているEDGE-NEXTの先進大学とのコラボ
などがあると、さらに進展するのかな、と感じました。
今後の展開を期待します。
2018年07月15日
スマホで覗く美術館ー鑑賞体験のゆくえ(文化資源学会シンポジウム)
という案内が来ました。
長い間、美術館展示室での写真撮影は著作権保護を理由に禁じられ、誰もそれを疑いませんでした。
ところが、最近では写真撮影を許すどころか、逆に推奨する美術館が増えてきました。
日本で最初に美術館構想が盛り上がったのは、大正デモクラシーの時代
武者小路実篤、柳宗悦ら白樺派と言われる都市エリートが、ロダン、セザンヌ、ゴッホなど、
西洋美術に魅せられ、日本でもアートに直接触れる機会の大切さを、白樺という雑誌で発信したのが始まりでしょうか。
コミュニティーデザイン、多様な人が集まり、つながる「場」をつくるには
将来への架け橋としての博物館、美術館、図書館
に
>
「箱物」行政と言うと、建築物を作って、職員も雇うのだけれど、ほとんど利用されず、税金の無駄遣い、のような言われ方をしていたことがあります。
ところが、最近では博物館、美術館、図書館などの「箱物」が元気です。
来る人を待っているだけではなく、活動の幅を広げて、いろいろなイベントを行っています。
「箱物」のいいところは、とにかく、人が集まる、物理的な「場」があること
共通のテーマに関心がある人が集まると、人と人のネットワークが生まれ、また、新しい動きが起きます
>
文化の醸成に大切なのはふれあいの場
に
>
文化的環境の整備を目的に帝国劇場が作られたが、劇場で上演される演劇もさることながら、実際にはより重要だったのが、開幕までの時間を過ごす場、通路では政財界の知名人、文化人が挨拶を交わし、談笑するサロンの役目を果たした、ということ
>
ということで、人が集まる「場」の重要性が見直されてきています。
ネットの時代だからこそ、リアルな「場」が大切だったりします。
>
と書きました。
美術館は開設当初の、人々が本物のアートに直接触れる場、という意味から、
アートを媒介に、人々が集まり、ふれあい、対話が生まれる場、になりつつあります。
さて、人々の生活ですが、スマートフォーンの登場で急激に変わり始めました。
カメラが旅行、卒業式、運動会など、非日常のイベントの記録のための装置から、
日常いつも持ち歩き、ちょっとした日常の一コマを記録し、
スマートフォーンにより、発達したFacebook,InstagramなどのSNSに発信し、共有するようになりました。
日常の生活、感動体験をスマフォで撮影した写真と共にSNSに発信し、友人と共有する、自分の行動のアーカイブとする、
ようになりました。
そういった人々の生活の変化にもかかわらず、美術館が相変わらず、撮影禁止、では、集まった人々は「どうして?」となってしまいます。
美術館関係者の方々の、美術館では撮影禁止、の理由を伺うと、
「製作者の著作権の保護」「撮影行為は鑑賞する人にとって迷惑」
などが出てきますが、
そのほとんどが商用目的ではなく、個人としての感動体験の共有であり、それほどたいした問題でもなさそうです。
それよりも、長い間、美術の世界にいた方々の「美術館は撮影禁止が当たり前」という固定観念が揺さぶられている、「撮影されたら来館者が減るのでは」という心配が、専門外の「TAK」さんの印象です。
撮影許可の美術館で、SNSにアップされる写真も、アート作品そのものよりも、
アートと自分のインタラクション、アートを鑑賞する自分、だったりします。
鑑賞体験もSNSで発信し、共有する時代。美術品を撮影するだけでなく、自分のフレームワークで、美術品を鑑賞する自分の写真、など、美術品と自分のインタラクションを表現する、あらたなアートも始まっています。
閉ざされた空間として、閉ざしたままでは、閉ざされたまま、
時代、社会の変化に合わせて、美術館もパラダイムの変化が必要、と感じたシンポジウムでした
という案内が来ました。
長い間、美術館展示室での写真撮影は著作権保護を理由に禁じられ、誰もそれを疑いませんでした。
ところが、最近では写真撮影を許すどころか、逆に推奨する美術館が増えてきました。
日本で最初に美術館構想が盛り上がったのは、大正デモクラシーの時代
武者小路実篤、柳宗悦ら白樺派と言われる都市エリートが、ロダン、セザンヌ、ゴッホなど、
西洋美術に魅せられ、日本でもアートに直接触れる機会の大切さを、白樺という雑誌で発信したのが始まりでしょうか。
コミュニティーデザイン、多様な人が集まり、つながる「場」をつくるには
将来への架け橋としての博物館、美術館、図書館
に
>
「箱物」行政と言うと、建築物を作って、職員も雇うのだけれど、ほとんど利用されず、税金の無駄遣い、のような言われ方をしていたことがあります。
ところが、最近では博物館、美術館、図書館などの「箱物」が元気です。
来る人を待っているだけではなく、活動の幅を広げて、いろいろなイベントを行っています。
「箱物」のいいところは、とにかく、人が集まる、物理的な「場」があること
共通のテーマに関心がある人が集まると、人と人のネットワークが生まれ、また、新しい動きが起きます
>
文化の醸成に大切なのはふれあいの場
に
>
文化的環境の整備を目的に帝国劇場が作られたが、劇場で上演される演劇もさることながら、実際にはより重要だったのが、開幕までの時間を過ごす場、通路では政財界の知名人、文化人が挨拶を交わし、談笑するサロンの役目を果たした、ということ
>
ということで、人が集まる「場」の重要性が見直されてきています。
ネットの時代だからこそ、リアルな「場」が大切だったりします。
>
と書きました。
美術館は開設当初の、人々が本物のアートに直接触れる場、という意味から、
アートを媒介に、人々が集まり、ふれあい、対話が生まれる場、になりつつあります。
さて、人々の生活ですが、スマートフォーンの登場で急激に変わり始めました。
カメラが旅行、卒業式、運動会など、非日常のイベントの記録のための装置から、
日常いつも持ち歩き、ちょっとした日常の一コマを記録し、
スマートフォーンにより、発達したFacebook,InstagramなどのSNSに発信し、共有するようになりました。
日常の生活、感動体験をスマフォで撮影した写真と共にSNSに発信し、友人と共有する、自分の行動のアーカイブとする、
ようになりました。
そういった人々の生活の変化にもかかわらず、美術館が相変わらず、撮影禁止、では、集まった人々は「どうして?」となってしまいます。
美術館関係者の方々の、美術館では撮影禁止、の理由を伺うと、
「製作者の著作権の保護」「撮影行為は鑑賞する人にとって迷惑」
などが出てきますが、
そのほとんどが商用目的ではなく、個人としての感動体験の共有であり、それほどたいした問題でもなさそうです。
それよりも、長い間、美術の世界にいた方々の「美術館は撮影禁止が当たり前」という固定観念が揺さぶられている、「撮影されたら来館者が減るのでは」という心配が、専門外の「TAK」さんの印象です。
撮影許可の美術館で、SNSにアップされる写真も、アート作品そのものよりも、
アートと自分のインタラクション、アートを鑑賞する自分、だったりします。
鑑賞体験もSNSで発信し、共有する時代。美術品を撮影するだけでなく、自分のフレームワークで、美術品を鑑賞する自分の写真、など、美術品と自分のインタラクションを表現する、あらたなアートも始まっています。
閉ざされた空間として、閉ざしたままでは、閉ざされたまま、
時代、社会の変化に合わせて、美術館もパラダイムの変化が必要、と感じたシンポジウムでした
2018年07月12日
(ワークショップ)エビデンス・ベースドの大学の研究機能のマネジメント:産学官連携のあり方を中心に
という案内が来ました。
いま産学連携はどのように推移し、社会からは何を達成することが目指されているのか?:「イノベーション創出に向けた産学官連携」
産業界から大学に期待するものはなにか?
社会との関係で大学はどのような研究力向上を目指し、成果還元を進めて行くべきなのか?
産学連携と言うと、共同研究、技術移転、ライセンス契約などが思い浮かびますが、最大の産学官連携は、教育、研究を通じて、優れた人材を育成し、企業、官庁、研究機関などで活躍してもらうことではないでしょうか?
ここでは、理工系の博士課程を中心に議論が進みました。
欧米では、理工系の博士は、高給で引っ張りだこですが、日本では、企業からの評判はあまりよくありません。
「特定分野の専門知識は持つものの、業務には活かせない」
研究業務についても、
「専門分野以外の研究活動は行えない」
と厳しいものになっています。
博士と仕事をすることが多い「TAK」さんの実感としては、「半分当たっているし、半分外れている」という感じでしょうか。
さらに調査結果が紹介されます。
理工系大学院では、研究テーマの選定、仮説構築など研究ストーリーの展開、実験計画立案などの、上流工程は教員が行い、実験、解析、論文執筆など下流工程は学生が行うことが多い。
上流工程も主体的に行い、専門外の研究も取り込んだ学生が活躍しているケースが多い。
早稲田地球再生塾に行ってきました
に
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工学分野の研究者、技術者には、
・垂直方向、バーティカル 自分の専攻を掘り下げて、例えば、これまでのない高効率化、高性能化を目指す
・水平方向、ホリゾンタル、他の分野の研究成果を取り入れて、自分の分野の拡大、進化を図る
の2種類の人々がいます。
一般的にですが、
垂直方向の研究者、技術者は、他分野の研究には、あまり関心を示しません。
一方、水平方向の研究者、技術者は、他分野の旬な研究、例えば人工知能、ロボット、IoTなどには、興味津々です。
垂直方向に、掘り下げる際にも、他分野の研究成果が、きっかけとなることが少なくありません。
断っておきますが、水平が大切で、垂直はダメ、と言っているのではありません。両方とも大切で、それぞれが影響しながら、進歩していきます。
学部から大学院、学生から社会人、になると、一般的に専門が分化していき、他分野のことに関心がなくなっていきます。
そうは言いつつ、リベラルアーツなど、時間外に学ぼうとする大学院生、社会人もたくさんいます。
これって、「これ、面白そうじゃん」という好奇心の違いかな、などと思いますが
>
と書きました。
垂直方向に掘れる人、水平方向に広げられる人、は、研究分野だけでなく、企業でも活躍できます。
専門を深化させて、これまでよりも優れた技術を開発する、技術を新分野に適用し、新たな価値を生み出す能力があるわけですから。
専門外の知識、研究成果を活用できる人はなおさらです。
問題なのは、教員の指示通りに、実験、解析をルーティン作業で行い、論文も教員の指示通りのストーリーにしたがい、執筆する場合でしょうか。
これは学部、学科、研究室の雰囲気によるので、何とも言い難いところです。
人工知能、ロボット、IoTなど最先端の分野では、研究成果をタイムリーに発表するために、研究者が足りずに、大学院生が研究成果の執筆を下請け、という事態も起こり得ます。
変革を拒むのは、かつての王者、あの栄光をもう一度、は絶対にない
「自分たちは負けていない」という間違った現状認識によって、日本の電機産業は衰退した
に書いたような、少し時流から外れた分野では、採択される論文を出すために、やはり大学院生が研究成果の執筆を下請け、にもなりかねません。
昔は研究は個人ベースで行うことも多かったのですが、最近はチームで行います。
チームと個人の関係は、
タコツボのルールと社会のルール、優先されるのは圧倒的にタコツボのルール
に書いた、スポーツの監督とチーム、プレーヤーと同様に、チームとしての業績と個人の関係もあり複雑です。
人文知の手法を導入するのは、理工学者かもしれない
に
>
ワークショップでお会いした方々は、歴史、科学史、思想史、経済史など、歴史系の研究者が主体でしたが、
「私の専門は18世紀後半のイギリス政治史です」「私の専門は17世紀のフランス思想史です」
という方々が多かったです。
お話を伺っていると、文献調査の研究が主体で、その中から、先行研究者との解釈とは異なる、自分オリジナルの解釈を導き出すのが主体で、急速に進歩、変革していく時代、社会における人々の考え方、生き方を取り扱う、には関心を感じませんでした。
ICT、バイオテクノロジー、人工知能、ロボットなどの急速な進歩に対応する、人文知を形成、導入するのは、理工学者かもしれない、そんな感じを持ちました。
>
と書きました。
急速な進化が進んでいる理工学は、あらゆるとことにチャンスが隠れている、
という発散気味な結論で、ここはおさめます。
という案内が来ました。
いま産学連携はどのように推移し、社会からは何を達成することが目指されているのか?:「イノベーション創出に向けた産学官連携」
産業界から大学に期待するものはなにか?
社会との関係で大学はどのような研究力向上を目指し、成果還元を進めて行くべきなのか?
産学連携と言うと、共同研究、技術移転、ライセンス契約などが思い浮かびますが、最大の産学官連携は、教育、研究を通じて、優れた人材を育成し、企業、官庁、研究機関などで活躍してもらうことではないでしょうか?
ここでは、理工系の博士課程を中心に議論が進みました。
欧米では、理工系の博士は、高給で引っ張りだこですが、日本では、企業からの評判はあまりよくありません。
「特定分野の専門知識は持つものの、業務には活かせない」
研究業務についても、
「専門分野以外の研究活動は行えない」
と厳しいものになっています。
博士と仕事をすることが多い「TAK」さんの実感としては、「半分当たっているし、半分外れている」という感じでしょうか。
さらに調査結果が紹介されます。
理工系大学院では、研究テーマの選定、仮説構築など研究ストーリーの展開、実験計画立案などの、上流工程は教員が行い、実験、解析、論文執筆など下流工程は学生が行うことが多い。
上流工程も主体的に行い、専門外の研究も取り込んだ学生が活躍しているケースが多い。
早稲田地球再生塾に行ってきました
に
>
工学分野の研究者、技術者には、
・垂直方向、バーティカル 自分の専攻を掘り下げて、例えば、これまでのない高効率化、高性能化を目指す
・水平方向、ホリゾンタル、他の分野の研究成果を取り入れて、自分の分野の拡大、進化を図る
の2種類の人々がいます。
一般的にですが、
垂直方向の研究者、技術者は、他分野の研究には、あまり関心を示しません。
一方、水平方向の研究者、技術者は、他分野の旬な研究、例えば人工知能、ロボット、IoTなどには、興味津々です。
垂直方向に、掘り下げる際にも、他分野の研究成果が、きっかけとなることが少なくありません。
断っておきますが、水平が大切で、垂直はダメ、と言っているのではありません。両方とも大切で、それぞれが影響しながら、進歩していきます。
学部から大学院、学生から社会人、になると、一般的に専門が分化していき、他分野のことに関心がなくなっていきます。
そうは言いつつ、リベラルアーツなど、時間外に学ぼうとする大学院生、社会人もたくさんいます。
これって、「これ、面白そうじゃん」という好奇心の違いかな、などと思いますが
>
と書きました。
垂直方向に掘れる人、水平方向に広げられる人、は、研究分野だけでなく、企業でも活躍できます。
専門を深化させて、これまでよりも優れた技術を開発する、技術を新分野に適用し、新たな価値を生み出す能力があるわけですから。
専門外の知識、研究成果を活用できる人はなおさらです。
問題なのは、教員の指示通りに、実験、解析をルーティン作業で行い、論文も教員の指示通りのストーリーにしたがい、執筆する場合でしょうか。
これは学部、学科、研究室の雰囲気によるので、何とも言い難いところです。
人工知能、ロボット、IoTなど最先端の分野では、研究成果をタイムリーに発表するために、研究者が足りずに、大学院生が研究成果の執筆を下請け、という事態も起こり得ます。
変革を拒むのは、かつての王者、あの栄光をもう一度、は絶対にない
「自分たちは負けていない」という間違った現状認識によって、日本の電機産業は衰退した
に書いたような、少し時流から外れた分野では、採択される論文を出すために、やはり大学院生が研究成果の執筆を下請け、にもなりかねません。
昔は研究は個人ベースで行うことも多かったのですが、最近はチームで行います。
チームと個人の関係は、
タコツボのルールと社会のルール、優先されるのは圧倒的にタコツボのルール
に書いた、スポーツの監督とチーム、プレーヤーと同様に、チームとしての業績と個人の関係もあり複雑です。
人文知の手法を導入するのは、理工学者かもしれない
に
>
ワークショップでお会いした方々は、歴史、科学史、思想史、経済史など、歴史系の研究者が主体でしたが、
「私の専門は18世紀後半のイギリス政治史です」「私の専門は17世紀のフランス思想史です」
という方々が多かったです。
お話を伺っていると、文献調査の研究が主体で、その中から、先行研究者との解釈とは異なる、自分オリジナルの解釈を導き出すのが主体で、急速に進歩、変革していく時代、社会における人々の考え方、生き方を取り扱う、には関心を感じませんでした。
ICT、バイオテクノロジー、人工知能、ロボットなどの急速な進歩に対応する、人文知を形成、導入するのは、理工学者かもしれない、そんな感じを持ちました。
>
と書きました。
急速な進化が進んでいる理工学は、あらゆるとことにチャンスが隠れている、
という発散気味な結論で、ここはおさめます。
2018年07月08日
早稲田理工学術院総合研究所 早稲田地球再生塾第1回勉強会
早稲田地球再生塾
とは、
早稲田理工学術院が定めた7つの重点研究領域それぞれに設置したクラスター研究所間の連携と研究成果の社会還元に向けた支援展開の促進を目的に、異分野の研究者や技術者の新たな出会いの場の提供と、新たな研究の企画や立案と実践や事業化に向けた学内外に開かれた研究会
とのことです。
ここでは、
異分野の研究者や技術者の新たな出会いの場
について考えてみます。
研究者が話題を共有し、みんなで考える場をつくる
に
>
ルネッサンスの頃までは、哲学、科学、音楽、工学などは細分化しておらず、一体となっており、レオナルド・ダ、ヴィンチのように、建築家、芸術家、医者、音楽家をひとりでこなす事例がありました。
その後、専門分化が進み、医学、工学などでも、自分の専門分野以外はわからないし、興味もない、という事態に陥ってきました。
この専門分化の弊害から、学問の垣根を超える「学際化」という動きが見られるようになりました。
工学では学際的という言葉はすでに聞かれません。
医工連携、工学と経済、社会学の協同は当たり前のことであり、人工知能とロボット、金融などのように、時代、社会の動きに応じて、学問の融合、統合が起きています。
「学際的」が聞こえることに、人文学が大切な学問であるにもかかわらず、他分野との連携が遅れていることを示している、とも言えます。
研究分野、テーマ、環境を変えることは今では珍しくないが、やった経験がある研究者は驚くほど少ない、ことがわかります。
複数の分野、テーマを渡り歩くことは、得られる知識以上に、人的交流の幅が広がる効果が大きい、ことがわかります。
研究者は孤独で、他分野の研究のことを知りません。
それゆえ、他分野の研究を知り、交流する場が大切です。
一方で他分野の研究には興味がなく、自分の研究、自分のことだけを語る、という根本的矛盾があります。
>
と書きました。
工学分野について考えてみます。
工学分野の研究者、技術者には、
・垂直方向、バーティカル 自分の専攻を掘り下げて、例えば、これまでのない高効率化、高性能化を目指す
・水平方向、ホリゾンタル、他の分野の研究成果を取り入れて、自分の分野の拡大、進化を図る
の2種類の人々がいます。
一般的にですが、
垂直方向の研究者、技術者は、他分野の研究には、あまり関心を示しません。
一方、水平方向の研究者、技術者は、他分野の旬な研究、例えば人工知能、ロボット、IoTなどには、興味津々です。
垂直方向に、掘り下げる際にも、他分野の研究成果が、きっかけとなることが少なくありません。
断っておきますが、水平が大切で、垂直はダメ、と言っているのではありません。両方とも大切で、それぞれが影響しながら、進歩していきます。
学部から大学院、学生から社会人、になると、一般的に専門が分化していき、他分野のことに関心がなくなっていきます。
そうは言いつつ、リベラルアーツなど、時間外に学ぼうとする大学院生、社会人もたくさんいます。
これって、「これ、面白そうじゃん」という好奇心の違いかな、などと思いますが、
発散気味ですが、今後もこの勉強会に参加します。
早稲田地球再生塾
とは、
早稲田理工学術院が定めた7つの重点研究領域それぞれに設置したクラスター研究所間の連携と研究成果の社会還元に向けた支援展開の促進を目的に、異分野の研究者や技術者の新たな出会いの場の提供と、新たな研究の企画や立案と実践や事業化に向けた学内外に開かれた研究会
とのことです。
ここでは、
異分野の研究者や技術者の新たな出会いの場
について考えてみます。
研究者が話題を共有し、みんなで考える場をつくる
に
>
ルネッサンスの頃までは、哲学、科学、音楽、工学などは細分化しておらず、一体となっており、レオナルド・ダ、ヴィンチのように、建築家、芸術家、医者、音楽家をひとりでこなす事例がありました。
その後、専門分化が進み、医学、工学などでも、自分の専門分野以外はわからないし、興味もない、という事態に陥ってきました。
この専門分化の弊害から、学問の垣根を超える「学際化」という動きが見られるようになりました。
工学では学際的という言葉はすでに聞かれません。
医工連携、工学と経済、社会学の協同は当たり前のことであり、人工知能とロボット、金融などのように、時代、社会の動きに応じて、学問の融合、統合が起きています。
「学際的」が聞こえることに、人文学が大切な学問であるにもかかわらず、他分野との連携が遅れていることを示している、とも言えます。
研究分野、テーマ、環境を変えることは今では珍しくないが、やった経験がある研究者は驚くほど少ない、ことがわかります。
複数の分野、テーマを渡り歩くことは、得られる知識以上に、人的交流の幅が広がる効果が大きい、ことがわかります。
研究者は孤独で、他分野の研究のことを知りません。
それゆえ、他分野の研究を知り、交流する場が大切です。
一方で他分野の研究には興味がなく、自分の研究、自分のことだけを語る、という根本的矛盾があります。
>
と書きました。
工学分野について考えてみます。
工学分野の研究者、技術者には、
・垂直方向、バーティカル 自分の専攻を掘り下げて、例えば、これまでのない高効率化、高性能化を目指す
・水平方向、ホリゾンタル、他の分野の研究成果を取り入れて、自分の分野の拡大、進化を図る
の2種類の人々がいます。
一般的にですが、
垂直方向の研究者、技術者は、他分野の研究には、あまり関心を示しません。
一方、水平方向の研究者、技術者は、他分野の旬な研究、例えば人工知能、ロボット、IoTなどには、興味津々です。
垂直方向に、掘り下げる際にも、他分野の研究成果が、きっかけとなることが少なくありません。
断っておきますが、水平が大切で、垂直はダメ、と言っているのではありません。両方とも大切で、それぞれが影響しながら、進歩していきます。
学部から大学院、学生から社会人、になると、一般的に専門が分化していき、他分野のことに関心がなくなっていきます。
そうは言いつつ、リベラルアーツなど、時間外に学ぼうとする大学院生、社会人もたくさんいます。
これって、「これ、面白そうじゃん」という好奇心の違いかな、などと思いますが、
発散気味ですが、今後もこの勉強会に参加します。
2018年07月02日
フランシス・ベーコン「知識は力なり」実験と観察に基づく個々の事実から法則・結論を導き出す帰納法を提唱
に書いたフランシス・ベーコン
>
フランシス・ベーコン(1561年ー1626年)イギリスの哲学者、神学者、法学者。
「知識は力なり」の名言で有名。
真の知識に至るには、正しい認識の妨げになる偏見・先入観を排除しなければならないと説き、さらに実験と観察に基づく個々の事実から法則・結論を導き出す帰納法を提唱しました。
実験と観察に基づく個々の事実から法則・結論を導き出す帰納法を提唱し、自然哲学者として知られていて、知識を得るだけではなく、得た知識を論理で統合し、実践する、実践知の提唱者としても有名です。
自然科学を専攻していたわけではなく、政治、法学の分野の人で、名門に生まれ、13歳でケンブリッジ大学のトリニティーカレッジで学んだが、当時のスコラ哲学的方法に強い不満を抱いた。
その後パリに留学し、1584年には下院議員となり、検事総長を経て大法官となり(1618)最高位にまで登りつめたが、汚職のかどですべての官職と地位を追われ(1621)
という経歴だったりします。
政治、法学の分野に身を置きながら、自然科学に関心を持つのは、奇異な感じがするかもしれませんが、
現在でも、経済、金融などで、ICT、人工知能など最新鋭の科学技術の導入が欠かせないように、
16,17世紀のイギリスの政治、法学の分野では、自然科学により、真の知識を得ることが欠かせなかったようです。
>
と書いたように、事実による検証を行う上で、フランシス・ベーコンが提唱した帰納法は極めて重要で、自然科学、理工学で広く活用されています。
このように、人文学と自然科学、理工学は密接な関係があります。
人文知の明日を見つめて・メディアの刷新と知の変貌
に
>
自然科学の知見を利用した、理工学がインターネット技術を生み、発達させ、ICT、バイオテクノロジー、人工知能、ロボットなどの急速な発達により、社会を引っ張り、社会を進化、変容させ、
経済学、金融学などの社会科学も、この理工学の発達を活用し、進化する中、
哲学など、人文科学は人間を中心に据え、人の考え方、生き方を扱うものですが、十分には機能していないのではないか、急速に進化する時代、社会に追いつかず、学問としての価値を失いつつあるのではないか、
という考え方が出てきています。
理工学研究には人文・社会が不可欠
専門家の哲学と街の哲学
専門を深化する工学と俯瞰し、つなげる人文・社会科学
に
>
工学が、個々の専門の技術を深化させる
その進化した個々の技術を、
社会的なニーズに基づいてつなげるのが、経済、社会、法学などの社会科学
自分の中で、ある考えに基づいて、再構築するのが哲学などの人文科学
学問をするにも、ビジネスを行うにも哲学が必要です。つまり、哲学は専門家だけが行うものではなく、すべての人に不可欠なものです。
>
ICT、バイオテクノロジー、人工知能、ロボットなどの急速な発達を生み出す、理工学者の哲学は、人文学者とはほとんど無関係に、急速に発達しているのですが、
その発達を受け入れ、活用して、変化していく社会における人々の考え方、生き方を、人文科学がうまく取り扱えていない、ということでしょうか。
つまり、哲学など人文科学は、理工学の急速な進化と共に、進化しているのですが、実は、人文学者が対応できず、学問として機能しない段階に達しつつある、というのが実際でしょうか。
問いのアバンチュール、対話から新たな考えが生まれ、問いにより考えが深まる
「科学と哲学と社会」をめぐる哲学対話
>
これは、日本の哲学事情に問題がある気もします。
日本の哲学は、哲学自体を扱うよりも、むしろ、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ヘーゲル、カントなど、
古代から中世、近世の西洋哲学を紹介する段階にとどまり、それらを踏まえた、独自の哲学的思考の展開は、いまひとつ、の感があります。
実は哲学は科学を進める基本であり、原動力でもあるのではないでしょうか?
「哲学のデザイン」は言うと、深く進展はしているが、狭い領域にとどまっている感がします。
あらゆる物事のおおもとに哲学を適用していくと、面白い展開がありそうです。
これは哲学の専門家よりも、他分野の人々が哲学を学んで普及していきそうな予感がしました。
>
と書きました。
研究者が話題を共有し、みんなで考える場をつくる
のワークショップでお会いした方々は、歴史、科学史、思想史、経済史など、歴史系の研究者が主体でしたが、
「私の専門は18世紀後半のイギリス政治史です」「私の専門は17世紀のフランス思想史です」
という方々が多かったです。
お話を伺っていると、文献調査の研究が主体で、その中から、先行研究者との解釈とは異なる、自分オリジナルの解釈を導き出すのが主体で、急速に進歩、変革していく時代、社会における人々の考え方、生き方を取り扱う、には関心を感じませんでした。
ICT、バイオテクノロジー、人工知能、ロボットなどの急速な進歩に対応する、人文知を形成、導入するのは、理工学者かもしれない、そんな感じを持ちました。
に書いたフランシス・ベーコン
>
フランシス・ベーコン(1561年ー1626年)イギリスの哲学者、神学者、法学者。
「知識は力なり」の名言で有名。
真の知識に至るには、正しい認識の妨げになる偏見・先入観を排除しなければならないと説き、さらに実験と観察に基づく個々の事実から法則・結論を導き出す帰納法を提唱しました。
実験と観察に基づく個々の事実から法則・結論を導き出す帰納法を提唱し、自然哲学者として知られていて、知識を得るだけではなく、得た知識を論理で統合し、実践する、実践知の提唱者としても有名です。
自然科学を専攻していたわけではなく、政治、法学の分野の人で、名門に生まれ、13歳でケンブリッジ大学のトリニティーカレッジで学んだが、当時のスコラ哲学的方法に強い不満を抱いた。
その後パリに留学し、1584年には下院議員となり、検事総長を経て大法官となり(1618)最高位にまで登りつめたが、汚職のかどですべての官職と地位を追われ(1621)
という経歴だったりします。
政治、法学の分野に身を置きながら、自然科学に関心を持つのは、奇異な感じがするかもしれませんが、
現在でも、経済、金融などで、ICT、人工知能など最新鋭の科学技術の導入が欠かせないように、
16,17世紀のイギリスの政治、法学の分野では、自然科学により、真の知識を得ることが欠かせなかったようです。
>
と書いたように、事実による検証を行う上で、フランシス・ベーコンが提唱した帰納法は極めて重要で、自然科学、理工学で広く活用されています。
このように、人文学と自然科学、理工学は密接な関係があります。
人文知の明日を見つめて・メディアの刷新と知の変貌
に
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自然科学の知見を利用した、理工学がインターネット技術を生み、発達させ、ICT、バイオテクノロジー、人工知能、ロボットなどの急速な発達により、社会を引っ張り、社会を進化、変容させ、
経済学、金融学などの社会科学も、この理工学の発達を活用し、進化する中、
哲学など、人文科学は人間を中心に据え、人の考え方、生き方を扱うものですが、十分には機能していないのではないか、急速に進化する時代、社会に追いつかず、学問としての価値を失いつつあるのではないか、
という考え方が出てきています。
理工学研究には人文・社会が不可欠
専門家の哲学と街の哲学
専門を深化する工学と俯瞰し、つなげる人文・社会科学
に
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工学が、個々の専門の技術を深化させる
その進化した個々の技術を、
社会的なニーズに基づいてつなげるのが、経済、社会、法学などの社会科学
自分の中で、ある考えに基づいて、再構築するのが哲学などの人文科学
学問をするにも、ビジネスを行うにも哲学が必要です。つまり、哲学は専門家だけが行うものではなく、すべての人に不可欠なものです。
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ICT、バイオテクノロジー、人工知能、ロボットなどの急速な発達を生み出す、理工学者の哲学は、人文学者とはほとんど無関係に、急速に発達しているのですが、
その発達を受け入れ、活用して、変化していく社会における人々の考え方、生き方を、人文科学がうまく取り扱えていない、ということでしょうか。
つまり、哲学など人文科学は、理工学の急速な進化と共に、進化しているのですが、実は、人文学者が対応できず、学問として機能しない段階に達しつつある、というのが実際でしょうか。
問いのアバンチュール、対話から新たな考えが生まれ、問いにより考えが深まる
「科学と哲学と社会」をめぐる哲学対話
>
これは、日本の哲学事情に問題がある気もします。
日本の哲学は、哲学自体を扱うよりも、むしろ、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ヘーゲル、カントなど、
古代から中世、近世の西洋哲学を紹介する段階にとどまり、それらを踏まえた、独自の哲学的思考の展開は、いまひとつ、の感があります。
実は哲学は科学を進める基本であり、原動力でもあるのではないでしょうか?
「哲学のデザイン」は言うと、深く進展はしているが、狭い領域にとどまっている感がします。
あらゆる物事のおおもとに哲学を適用していくと、面白い展開がありそうです。
これは哲学の専門家よりも、他分野の人々が哲学を学んで普及していきそうな予感がしました。
>
と書きました。
研究者が話題を共有し、みんなで考える場をつくる
のワークショップでお会いした方々は、歴史、科学史、思想史、経済史など、歴史系の研究者が主体でしたが、
「私の専門は18世紀後半のイギリス政治史です」「私の専門は17世紀のフランス思想史です」
という方々が多かったです。
お話を伺っていると、文献調査の研究が主体で、その中から、先行研究者との解釈とは異なる、自分オリジナルの解釈を導き出すのが主体で、急速に進歩、変革していく時代、社会における人々の考え方、生き方を取り扱う、には関心を感じませんでした。
ICT、バイオテクノロジー、人工知能、ロボットなどの急速な進歩に対応する、人文知を形成、導入するのは、理工学者かもしれない、そんな感じを持ちました。