2008年11月16日

公開シンポジウム「軸の時代機深瓦了代 ―― いかに未来を構想しうるか?」の見田宗介東大名誉教授の基調報告の続きです。

世界が無限ではなく、「有限」だと明確に感じられたのは、人工衛星からの青く丸い地球の映像が見えるようになってからでしょうか?

船で大海に漕ぎ出した時代には、無限に思えた「世界」が、実は「有限」だったことがわかってきた訳です。

でも、無限だと思ったものが、有限だと感じられたのは、もっと以前からです。

例えば、豊臣秀吉が天下統一したとき、無制限と思っていた天下が有限だった訳です。

アメリカの西部開拓史でも、どんどん開拓するうちに、無限だと思っていたフロンティアが、実はロッキー山脈を越えると太平洋で終わり、です。

無限と思われたいたものを制覇して、満足か?というと、そうでもない、のです。それどころか、絶望、虚無感に襲われます。

無限だと思っていたものに、実は限界があった。

今までと同じ、無限のものをどんどん獲得していく方法はもはや通用しません。新たな方法が必要になります。

上の例であれば、豊臣秀吉は朝鮮半島へ、近代の欧米列強は植民地開拓と、海外へ乗り出しました。どのような結果になったか?は歴史が示すとおりです。

でも、その地球も結局は有限です。

携帯電話、デジカメの市場も数年前は爆発的に伸びましたが、既に行き渡り、市場が飽和してきました。

さて、有限な世界では、どうすればよいでしょうか?

このように、二つの考え方があります。

高度成長市場の継続とポスト高度成長の二つです。

高度成長市場の継続は以下の通りです。

有限な世界の中でも、中国、インドなど、成長が見込める市場があるかもしれません。

あるいは、「飽和した」と思われている市場にも、まだ気付いていない潜在的な市場があるかもしれません。

新しい技術、情報、環境が新たな市場、需要を生み出すことがあります。

しかし、高度成長市場の継続の幻想を抱いて、虚構の上に虚構を築いて破綻に至る恐れもあります。

バブルの崩壊、サブプライム問題はこのいい例です。

ポスト高度成長は以下の通りでしょうか。

最近「三丁目の夕日」という1960年代のアニメがはやりました。

「今は貧しいけれども、明日はきっとよくなる」希望がある時代でありました。

無限の高度成長時代には、自分でどんどん「獲得」していけばよかったのです。

有限のポスト高度成長には、「獲得」ではなく、「共存」がキーワードです。

「共存」とはみんなで我慢しながら、分け合うことではありません。

それぞれが得意なこと、ほしいことをバランスさせる世界ではないでしょうか?

この究極の形態が「花と昆虫」でしょうか?

花は、その美しさで昆虫を引きつけ、蜜を与えて、その代わり、子孫を残す受粉をしてもらいます。

すると、同質の人たち、同じ目的の人たちだけでは、ポスト高度成長は生きていけません。

多様な人たちが、得意なこと、ほしいことをバランスさせて、「共存」する世界になりそうです。













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