2013年01月29日

衆議院選挙で自民党が政権を奪回し、安倍首相が掲げる

大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略の3つを基本方針とした、いわゆるアベノミクス、

への期待感から、1ドル78円前後の歴史的円高から1ドル91円前後まで円安に推移し、株価も好調です

野村総合研究所2013年〜2060年、1945年〜2012年「過去年表」

なるものがありますが、未来を予測するには、まず近い過去を検証するのが肝心、ということで、

国際経済の基本のおさらい

日本経済の現代史を振り返り、再生の道を探る

国際情勢を理解するには近現代世界史が必修:アルジェリアの事件と「カスバの女」

に引き続き、ここ数十年の経済、政策、国際社会を振り返ってみます。

130116経済成長



日本の経済成長率、実質GDPの伸びを見ると、次の3つのステージに分かれることがわかります。

1.高度経済成長(年率9%の伸び 〜1974年)

2.安定成長(年率4%の伸び 1974年〜1990年)

3.低成長(年率1%の伸び 1990年〜)


各ステージごとに経済、政策、国際社会を見てみましょう

1. 高度経済成長(年率9%の伸び 〜1974年)

東京オリンピック(1964年)へ向けての新幹線、高速道路の整備、その後も霞が関ビル(1968年)竣工、大阪万博(1970年)など、都市社会整備のための建設ラッシュが続き、経済は成長し、国民は豊かになっていきます。

この高度経済成長が終わるのが第1次オイルショック(1973年)第4次中東戦争が勃発し、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国は原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げ、その後、さらに5.12ドルから11.65ドルへ引き上げる、と決定しました。

さらに、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国はイスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国(アメリカ合衆国やオランダなど)への経済制裁(石油禁輸)を相次いで決定しました。

列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレーションが発生していましたが、石油ショックにより相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレーションが加速されることとなりました。日銀はインフレ抑制のために、公定歩合(現在の政策金利)を9%まで引き上げます。

130129公定歩合


ところで、第1次オイルショック(1973年)の影響に隠れがちですが、アメリカのニクソン大統領が1971年に金とドルの交換停止、いわゆるニクソンショックがありました。

これは、アメリカが1960年代後半のベトナム戦争などによる、財政支出を受けてインフレーションの加速や貿易黒字減少など、景気過熱気味で経常収支が悪化するアメリカは、歳出が増大する一方で歳入が減少し財政赤字が急拡大し、急増する失業者を前に国内雇用維持のためには財政支出が必要と考えられており、ジレンマに悩まされます。

そこで、金とドルの交換を停止し、第二次世界大戦後の通貨の枠組みであったブレトン・ウッズ体制が終結させ、固定相場制度を軸にした通貨体制から、金融政策の独立性が高い変動相場制度へ移行しました。

130129ドル


それまで1ドル360円の固定相場制でしたが、1971年に308円への切り上げが実施され、その後1973年に変動相場制に移行します。

2. 安定成長(年率4%の伸び 1974年〜1990年)

1979年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする、ことを決定し、再び原油価格が上昇します。

130129石油価格


ところが、日本は第1次オイルショックの教訓を活かし、GDPの落ち込みも、第1次オイルショックに比べ、ずっと小さいものとなっています。日銀はインフレ抑制のために、公定歩合(現在の政策金利)を再び9%まで引き上げます。

政府は2度のオイルショックを経て、石油依存を軽減するために、石油代替エネルギー法を成立させ、エネルギー源を石油から、石油以外の石炭、天然ガス、原子力などへの移行を促すとともに、省エネルギー法を成立させます。この石油代替、省エネルギーは日本のエネルギー政策の基本となり、第2次オイルショック直後には70%以上あった一次エネルギーの石油依存率は2007年には40%程度まで低下します。

130129石油依存


この頃、アメリカの対日貿易赤字が顕著であったため、莫大な貿易赤字が計上され、財政赤字も累積していき、アメリカの金利低下により、基軸通貨であるドルの魅力が薄れ、ドル相場は次第に不安定になっていきました。先進5か国は、協調的なドル安を図ること、実質的に円高ドル安に誘導する内容で合意しました。これが『プラザ合意』(1985年)です。

120806ドル円


1ドル230円程度であった、ドル円相場は、一気に1ドル120円まで円高が進み、製造業は大きな打撃を受けることになります。ただ、GDPの伸びの落ち込みは1986年だけで、すぐに回復し、当時の日本の製造業の強さを伺わせます。

当時は、日本とドイツで景気が過熱していました。おそらく両国とも金利を引き上げるのではないか。そうなれば、ニューヨーク株式市場から資金が逃げ出し、ドイツや日本に向かうのではないか。こう考えた投資家たちが、株価が下がる前に株を売却しようと考えます。そして、ついに1987年(昭和62年)10月、ニューヨーク株式市場で株価が暴落します。これは「ブラック・マンデー」と呼ばれます。

ここで、ドイツがさっさと政策金利を引き上げたのに対し、日本は政策金利を低金利のまま据え置き、これが「バブル経済」へとつながります。


3. 低成長(年率1%の伸び 1990年〜)

低成長時代については、

日本経済の現代史を振り返り、再生の道を探る

に書いておきましたので、その復習です。

土地の値段が下がるということは、銀行貸し出しの担保になっていた土地の値下がりにもつながります。貸出金額より担保価値が低くなってしまったのです。これが不良債権です。

この不良債権により、1997年11月の1か月で、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券、徳陽シティ銀行の4金融機関が破綻します

上述のように、金融機関、本業は健全なのに、不動産で焦げ付いた企業を救済するために、政策金利は6%から0.5%に下げられましたが、バブル経済崩壊後は経済成長率もなかなか回復しなかった、ことがわかります。

130116主要国


日本では上述のように1995年以降ずっと1%以下のゼロ金利政策を取ったため、2008年のリーマンショックの際には各国の中央銀行が政策金利を下げて対応したのに、下げる金利代がありませんでした。

本来2002年から2008年までの「いざなみ景気」と呼ばれる時期には、2%程度まで政策金利を上げておけば、リーマンショックの際にも余裕代があったのでは、と考えられます。

バブル経済崩壊以降は、企業も個人も収入が伸びませんから、税収も伸びません。かと言って、すぐに歳出を削減する訳にもいかず、赤字国債の発行につながります。


この低成長からの脱却がアベノミクスで、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略の3つが基本方針となっています。これがどうなっていくのか、見ていきたい、と思います。




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