2016年07月12日

テレビ番組の礎を築いた永六輔さん マルチな才能、戦争に厳しい目

永六輔さんの訃報を聞いて、涙が止まりません。

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「TAK」さんが永六輔さんにお会いしたのは、

永六輔さん、ラジオの深夜放送による中高生への音声による開放空間の創作

に書いたとおり、1年前に東大福武ホールで、一度だけ、です。

この時も、車いすで来られて、独特の語り口も、なくなり、ちょっと心配な気がしました。

上記記事に書いたとおり、

永六輔さんは、「上を向いて歩こう」の作詞、1970年代には愛川欽也さんとのラジオの深夜放送による中高生への音声による開放空間の創作してきました。

永六輔さんはラジオという音声によるメディアを縦横無尽に利用して、多くの人々に夢、希望さらには想像力を提供してきました。

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1970年代と言うと、既にテレビが普及しており、ラジオは全般的には「隅に追いやられた」感がありました。

ただ、テレビが普及したといっても、まだまだ高価で、大きくて、20万円以上しました。薄型の液晶テレビなどなく、ブラウン管の大きなテレビの時代です。また、当時の20万円とは、今の感覚で言うと、50万円くらいの感覚です。

1人1台ではなく、1家に1台、茶の間にあり、家族みんなで見る、ものでした。

一方、その頃、ラジオは小型で安価で中高生でも手に入るものでした。

それゆえ、みんなで見るテレビに対し、中高生がパーソナルユースで1人で聞くラジオ、という感じでした。

受験勉強をしながら、ラジオを聞く、「ながら族」という言葉が生まれました。

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もちろん、インターネットなどない時代で、孤独な中高生にとって、ラジオとは、深夜放送という開放空間へ導いてくれる、今のスマートフォーンのような存在でした。

深夜放送、一人で勉強している受験生にとって、DJが読むリスナーからのハガキは、「苦しいのは自分だけでなないんだ」とリスナーを勇気づけた。ラジオがみんなの中心で結びつける役割を果たしていた。

ラジオは映像がない、文字がない、ため、トークが聴取者の想像力を掻き立て、共感を呼びます。

聴取者は時折、葉書を放送局に送り、さながら、今のSNSのような存在でした。

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永六輔さん、小沢昭一さん、斎藤安弘さんら、ラジオ全盛時代を築いた人たちは、音声メディアを駆使して、人々の「第3の場 サードプレイス」である、開放空間を創作してきたのだな、

そんなことを回想しました。

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作詞家として「上を向いて歩こう」「こんにちは、赤ちゃん」など多数のヒット曲を世に出している永六輔さんですが、数ある名曲の中でも、「TAK」さんが一番好きなのが、


「見上げてごらん夜の星を」


手をつなごう、ぼくと。追いかけよう、夢を。二人なら、苦しくなんかないさ。

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落ち込んで、元気をなくしている時に、優しく手を差し伸べてくれる歌詞を口ずさんでいると、涙が出てきます。

残念ながら、永六輔さんはなくなりましたが、永さんが作った歌は時代を超え、歌い継がれ、また、築いた文化は、これからも受け継がれていきます。





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