2016年12月06日

真珠湾を安倍首相が訪問へ 現職首相の慰霊は初めて

<首相、真珠湾へ>「戦争ない世界作って」被爆者期待と注文

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1974年にフォード大統領が、アメリカ大統領として、初めて訪日、その際に、昭和天皇のアメリカ訪問を要請し、1975年に昭和天皇のアメリカ訪問が実現。それから40年経て、オバマ大統領が広島訪問、安倍首相が真珠湾訪問。遅まきながら、戦後の収拾が進んでいきます。

今回の安倍総理のアメリカ真珠湾慰霊訪問は、率直に言って、オバマ大統領の広島訪問に対する返礼です。外交とは「相互主義」が原則です。相手国がするから、自国もする、というものです。

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ここで、これまでの背景を整理しておきます。

世界平和、日米関係とオバマ大統領の広島訪問について

国際社会でのパートナーシップとは、複雑で、常に動き、変化する生態系


日米両国は戦後は協調関係を築いてきましたが、真珠湾の奇襲攻撃、広島、長崎への原爆投下、

東京大空襲など、非戦闘地域への爆撃、など、戦争時点までさかのぼると難しい話がたくさんあります。

非戦闘地域への爆撃に関しては、日本も、偏西風を利用した風船爆弾を上げており、仮に空母、戦闘機が十分にあったならば、ロスアンゼルス、サンフランシスコなど西海岸の街は空爆していたでしょう。

つまり、今後の協調関係を築いていくうえで、過去の難しい話を蒸し返すことは得策ではありません。

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発散しがちなのですが、ポイントをまとめると、

・パートナーシップ構築には、周辺国との状況も重要

・今後の協調関係を築いていくうえで、過去の難しい話を蒸し返すことは得策ではない

・イギリスの歴史家イアン・ニッシュ「同盟がひとつの状態にとどまっていることはありえない」

・「外交とは可能性の芸術である。状況が激しくうねる中で、一瞬のチャンスを捉えて可能性を追求する」


上記のように、「今後の協調関係を築いていくうえで、過去の難しい話を蒸し返すことは得策ではない。」のですが、両国の世論、状況のタイミングを見計らいながら、過去の修復の努力もしてきました。

日米の氷解

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1974年に当時のフォード大統領が、戦後初めて、どころか、1858年に日米修好通商条約が締結されてから初めて訪日します。

フォード大統領は、その際に、昭和天皇のアメリカ訪問を要請し、1975年に昭和天皇のアメリカ訪問が実現します。

日米が戦った太平洋戦争は、1951年にサンフランシスコ平和条約により、終結していますが、このフォード大統領の訪日、昭和天皇の訪米により、わだかまりも大きく解消することになりました。

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オバマ大統領についても振り返ってみます。

バラク・オバマの半生

かつての黒人奴隷が、いまや大統領になる、変革の国アメリカ

に書いたように、バラク・オバマ大統領は、父親がアフリカ人の黒人で、ハワイ州の出身、フィリピンにも住んでいました。

に書いたように


あまり名前が知られていなかった、上院議員時代に、民主党大統領候補指名の党大会で、基調演説を行うという役割を与えられ、その時の演説により、

一躍、民主党の新星として、当時、民主党大統領候補として確実視されていたヒラリー・クリントンを破り、大統領に選ばれました。


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大統領の主流は、東海岸出身の白人、その中で、父親がアフリカ人の黒人で、ハワイ州の出身、フィリピンにも住んでいた、バラク・オバマ大統領は、完全な「亜流」です。

主流ではなく、亜流だからこそ、イノベーションができたりします。


イギリス国民投票、EU離脱と60年日米安保

憲法と安保関連法案、戦争と平和の条件



サンフランシスコ講和条約(1951年(昭和26年)9月8日調印、1952年(昭和27年)4月28日発効)により、日本がアメリカの統治から、主権を回復するに際して、日米安全保障条約が締結されることになりました。

当時の国際環境は、朝鮮戦争の勃発に見られるように、冷戦下の東西対立の激化を反映し、極めて厳しいもので、日本の独立と平和を守るためにはアメリカ軍の駐留を前提とし、米国の協力を得ることが不可欠と認識されていました。

旧安保条約と呼ばれる、この条約「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」では、日本の防衛だけでなく、「内乱条項」など国内の治安維持にまでアメリカ軍に依存するものでした。

本来であれば、アメリカの統治下から離れるに際して、日米安全保障条約に併せて、憲法九条第二項「陸海空軍その他の戦力は保持しない。」についても、「陸海空軍その他の戦力は、自衛のための、最小限に限り、有することができる。」などと改正すべきであった、と考えます。

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1960年に安保条約が改定され、新安保「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」となりました。

新安保は「相互条約」という対等条約に一応は格上げし、アメリカ軍を駐留軍ではなく在日米軍として新たに駐留を認め、防衛上の問題が起きた時は”相互間で協議”して対処しようと対等性を協調したものになりました。この他に在日米軍化による法整備の為に、地位協定を取り交わす事になりました

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新安保条約は国会で強行採決されたましたが、与党自民党による慎重審議なくして強行採決を行ったことに関して反発した国会議員、労働者や学生、市民が国会周辺を取り囲み、大きな混乱となりました。当時の岸信介(安倍首相の祖父)内閣は混乱の責任を取り総辞職に追い込まれました。

後世から見れば、極めて妥当な選択なのですが、反発した国会議員、労働者や学生、市民が国会周辺を取り囲み、大きな混乱となりました。当時の岸信介(安倍首相の祖父)内閣は混乱の責任を取り総辞職に追い込まれました。

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当時予定されていたアメリカ・アイゼンハワー大統領の来日も取りやめになりました。

1960年時点では太平洋戦争を戦った日米は、まだまだ友好関係など、とは程遠かったのかもしれません。

安倍首相の言動をみると、後世から振り返れば、いいことをしたのに、当時の国民には受け入れられず、退陣を余儀なくされた、祖父の岸信介首相の無念を晴らそうとしている感もあります。


国際社会でのパートナーシップとは、複雑で、常に動き、変化する生態系

外交とは可能性の芸術である。状況が激しくうねる中で、一瞬のチャンスを捉えて可能性を追求する


昭和初期の日本は軍部主導で、日米開戦のまっしぐらのような印象がありますが、実は日米開戦前夜まで、日米双方で開戦回避の努力もされていました

日米両国の国力の圧倒的な差を知っていたのは、ほかならぬ陸海軍、特に海軍であったでしょう。

ところが、当事国同士がいくら戦争を回避しようとしていても、戦争してもらいたい国もあります。

ヨーロッパでドイツ・ナチスはパリを占領し、ロンドンにミサイル攻撃を加えていました。

日本軍がイギリス、フランスの植民地がある東南アジアに進駐しましたが、両国に援軍を派遣する余力はなく、アメリカの参戦を望んでいました。

また、日中戦争で手を焼いていた中国もアメリカの参戦を望んでいました。

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事実上のアメリカからの最後通牒となった「ハルノート」は、日本が、特に陸軍の「意地と面子」が到底、受け入れられない内容で、日米開戦となってしまいました。

ほんのつまらないことから、「意地と面子」の問題になり、抜き差しならない事態に発展し、とんでもない結果を招く、のは、社会のいたるところで見ますが、国際関係では避けてほしいものです。


「外交とは可能性の芸術である。状況が激しくうねる中で、一瞬のチャンスを捉えて可能性を追求する」という言葉で締めくくります





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