2017年03月15日
3月14日(火)東大教養教育高度化機構シンポジウム『教養教育と自然科学』
という案内が来ました。
日本全体では人文社会系学部、教養課程の削減、廃止し、理工系学部、実学の重視という流れの中、東大、京大、東工大などのトップ大学は、あえて、この流れに反するかのように、教養教育を重視を打ち出しています。
それも、1、2年次の教養課程だけでなく、3年以降の専門課程、大学院進学後の教養教育の大切さも指摘しています。
教養教育を重視する一方で、
人工知能に大学、産業、ビジネスはどう対応する?
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人工知能、データサイエンス、ロボットなど、の進展に対応して、プログラミング、数理、統計、情報技術などを文系、理系を超えて教育することが急務
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のように、最先端の技術への対応もしなければなりません。
そもそも、文系、理系のような区分けが、今の社会には既にふさわしくないのかもしれません
理工系学生がビジネス界、あるいは生活でも、法学、経済、社会学は必要だし、文系学生だって、コンピューター、人工知能は不可欠です
このテーマについては、これまでずっと考えてきました。
考えてきたことのエッセンスを紹介するだけでも長くなるので、取りあえず、今日の新たな発見としては、
・1、2年次に教養課程、3年以降の専門課程、大学院進学で研究に専念、ではなく、教養教育は3年以降の専門課程、大学院進学後も不可欠
・変化が激しく、先が見えない時代には、細分化され、すぐに陳腐化する、おそれがある実学よりも、全体を俯瞰するベースとなる教養科目が結果的には役に立つ。
人工知能に大学、産業、ビジネスはどう対応する?
シミュレーションによる展開とその限界、基本工学の大切さの再認識
に
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最先端の「役に立つ」学問は、すぐに陳腐化し、ムダになってしまうことがあるが、基本工学は、裏切られることなく、必ず、結果として「役に立つ」
工部大学校と日本の工学形成
>
当時の工部大学校でも、学問理論重視か?実地経験重視か?で、だいぶ意見が分かれていたことが伺えます。
いつの時代も、すぐに役に立つ、という点で、学問理論よりも実地経験の方が望まれます。
一方で、新しい技術を生み出すには、学問理論をベースとした研究開発があり、それが実地に展開することが大切であることは、後の歴史が示す通りです。
結果的にみれば、工部大学校は帝国大学令により東京大学工芸学部(前年に理学部より分離)と合併、帝国大学工科大学となり、理論と実践を融合させることになり、日本の技術の原動力となりました。
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多分野の研究が生み出す、応用と相乗作用
「TAK」さんが学生だった1980年代、科学技術の計算には、大型計算機が利用され、工学部の学生はプログラム言語としてFORTRANが必修でした。今から考えれば、「過去の遺物」なのですが。
いつの時代も、コンピューターの最先端の「役に立つ」学問を重視し、基本となる、古典、教養的学問である、材料力学、流体力学、機会力学、熱力学などを軽視する傾向があります。
最先端の「役に立つ」学問を学ぶことは、もちろん大切なのですが、上記のプログラム言語FORTRANのように、陳腐化し、ムダになってしまうこともあります。
決して、裏切られることなく、必ず、結果として「役に立つ」基本となる、古典、教養的学問を学ぶことも大切です。
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博士の能力はアカデミアだけでなく、産業界、ビジネス界にも活用しないともったいない
研究生活、狭まる世界と広げる工夫
に
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大学院生になり、研究生活を始めると、生活が研究室だけに限定されてしまい、毎日会う人も、ほとんどが研究室の先生、スタッフ、大学院生、とタコツボのような生活で、知らぬ間に、行動範囲、交際範囲、思考領域が狭くなる
>
と書いたように、研究自体だけでなく、研究を取り巻く生活も、社会を狭め、「博士は使えない」につながっているのかもしれません。
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知をひらく、知をつなぐ。『知の技法』新たな普遍性をもとめて
理工系大学のリベラルアーツ、教養教育はどうする?
理工系大学こそ、リベラル・アーツが大切
>
リベラル・アーツは学んでいる時には、「実用的でない。役に立たない。それゆえ、学ぶこと自体が無駄」と感じる人も多いが、ある時を過ぎてから、アイデアの基盤となり、視野を広げ、俯瞰的な思考のベースとなる、大切なものであることに、振り返って気づくもの
会場の若い学部学生から、
「実用性を考えると、リベラルアーツ、教養って役に立つのですか?無駄じゃないですか?小説を読んだり、クラッシック音楽を聴くのって娯楽じゃないですか?」
という質問がありました。
この質問に対して、パネリストがどう答えるのか?楽しみだったのですが、残念ながら、あまり明快なものではありませんでした。
この質問は、リベラルアーツ、教養がテーマである場合、かなりの頻度で出る質問です。
「TAK」さんの回答としては、
リベラルアーツ、教養って、若い、学んでいる時は「役に立たない」と思われることが多いが、ある時を過ぎてから、アイデアの基盤となり、視野を広げ、俯瞰的な思考のベースとなる、大切なものであることに、振り返って気づくものかもしれない。
というものです。
大切さを経験した人は、まだ経験していない人に対して、何とか伝えようとするのですが、残念ながら、うまく伝わらない。
そして、経験していない人が、ある時に「こういうことだったのか」と悔やむことになる。
東大も駒場の人文・社会科学の幅広い、豊富な人材、講義が非常に素晴らしいのですが、
駒場の時はその良さをわからずに講義をさぼってしまい、
大学院、あるいは社会に出てから、必要性、重要性に気づいて、聴講に来ることがよくあります。
「高度に専門化し、専門ごとに分化しがちな理工系だからこそ、リベラル・アーツが大切」
についてですが、もちろん、数学、物理などの理工系は大切です。これがあることが前提です。
これが確保された前提で、最先端の研究活動を行うには、アイデアの基盤となり、視野を広げ、俯瞰的な思考のベースとなる、リベラル・アーツが大切、ということです。
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教養とは、よくわからずに学んで、後から学び直すもの
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東大駒場の教養学部のカリキュラムは、人文科学、社会科学、自然科学が幅広く、内容も豊富で、講師陣も多様です。
特に、人文科学、社会科学は優れたもので、これだけの陣容を誇るのは、東大ならでは、です。
ただ、20年前までは、ほとんどの授業は、「確立された知」を先生が、学生に教える、ものでした。
この『知の技法』は、学問のやり方、を教えるもので、「知」をもとに、考える、議論する、活用する、という、当時としては画期的なものでした。
学問のやり方、「知」をもとに、考える、議論する、活用する、ということは、それまでは、授業で教わるものではなく、先生、先輩から盗み見て、身に着けるものでした。
教わるだけではなく、教わったことをもとに、考えて、活用する、文理融合「知の技法」を作成された小林康夫先生。同じく「知の技法」を作成された船曳建夫先生らも駆けつけ、あらためて駒場のリベラルアーツの層の厚さを感じます。
東大の強さは、この駒場の人文・社会・自然科学、文理融合俯瞰プログラムなど教養課程の充実にある、と考えます。
この駒場のリベラルアーツを築き上げた先生方は卒業されますが、多くの後進の方々を育てられてきました。
この先輩を引き継ぐ、若い方々の一層の活躍が楽しみです。
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駒場の二年間で「教養課程」は終了し、その後は「専門課程」でもっぱら特定分野の勉強をするのだと思っている人がいたら、まずはその先入観を捨ててください。
「教養」と「専門」の関係は前後関係ではなく、ましてや上下関係でもなく、車の両輪のように連動した同時並行的・相補的な関係です。
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理工学研究には人文・社会が不可欠
専門家の哲学と街の哲学
専門を深化する工学と俯瞰し、つなげる人文・社会科学
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工学が、個々の専門の技術を深化させる
その進化した個々の技術を、
社会的なニーズに基づいてつなげるのが、経済、社会、法学などの社会科学
自分の中で、ある考えに基づいて、再構築するのが哲学などの人文科学
学問をするにも、ビジネスを行うにも哲学が必要です。つまり、哲学は専門家だけが行うものではなく、すべての人に不可欠なものです。
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東工大リベラルアーツ研究教育院シンポジウム「役に立つ」からではなく、「人間に基礎を築く」ため
リベラルアーツ教育、「層が厚く、豊富な人材」の東大、「知の巨人たち」の東工大
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これまでの東工大の教養、スター教授の「一本釣り」「点」の集まりで、つながっておらず、「線」「面」にはなっていなかった。
その一方で、鶴見俊輔、江藤淳、宮城音弥らの「知の巨人」の影響は、受講した東工大生にとって計り知れないほど大きかった。
絶望しかけた時、深い悲しみの淵に立たされた時、役に立つのは、いつもは役に立たない、文学、哲学、誌だったりする。
「役に立たないもの」は、ある位相において、非常に意味があることがある。
戦場に1冊だけ持って行った「岩波文庫」のゲーテの詩に救われた。
東工大卒業生も、東大卒業生と同様、社会で技術だけでなく、経営者として活躍されている方がたくさんいます。
この方たちのマインドの基礎を築いたのが、鶴見俊輔、江藤淳、宮城音弥らの「知の巨人」によるものでした。
自前では輩出できず、寄せ集めであっても、集まった「知の巨人」たちは、学生たちのその後の人生に計り知れない影響を与えました。
だから、私たちは理工系大学であるにもかかわらず、「文系廃止、理工系重視」の追い風にもかかわらず、あえて、リベラルアーツ教育を充実させたいのです。
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という案内が来ました。
日本全体では人文社会系学部、教養課程の削減、廃止し、理工系学部、実学の重視という流れの中、東大、京大、東工大などのトップ大学は、あえて、この流れに反するかのように、教養教育を重視を打ち出しています。
それも、1、2年次の教養課程だけでなく、3年以降の専門課程、大学院進学後の教養教育の大切さも指摘しています。
教養教育を重視する一方で、
人工知能に大学、産業、ビジネスはどう対応する?
>
人工知能、データサイエンス、ロボットなど、の進展に対応して、プログラミング、数理、統計、情報技術などを文系、理系を超えて教育することが急務
>
のように、最先端の技術への対応もしなければなりません。
そもそも、文系、理系のような区分けが、今の社会には既にふさわしくないのかもしれません
理工系学生がビジネス界、あるいは生活でも、法学、経済、社会学は必要だし、文系学生だって、コンピューター、人工知能は不可欠です
このテーマについては、これまでずっと考えてきました。
考えてきたことのエッセンスを紹介するだけでも長くなるので、取りあえず、今日の新たな発見としては、
・1、2年次に教養課程、3年以降の専門課程、大学院進学で研究に専念、ではなく、教養教育は3年以降の専門課程、大学院進学後も不可欠
・変化が激しく、先が見えない時代には、細分化され、すぐに陳腐化する、おそれがある実学よりも、全体を俯瞰するベースとなる教養科目が結果的には役に立つ。
人工知能に大学、産業、ビジネスはどう対応する?
シミュレーションによる展開とその限界、基本工学の大切さの再認識
に
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最先端の「役に立つ」学問は、すぐに陳腐化し、ムダになってしまうことがあるが、基本工学は、裏切られることなく、必ず、結果として「役に立つ」
工部大学校と日本の工学形成
>
当時の工部大学校でも、学問理論重視か?実地経験重視か?で、だいぶ意見が分かれていたことが伺えます。
いつの時代も、すぐに役に立つ、という点で、学問理論よりも実地経験の方が望まれます。
一方で、新しい技術を生み出すには、学問理論をベースとした研究開発があり、それが実地に展開することが大切であることは、後の歴史が示す通りです。
結果的にみれば、工部大学校は帝国大学令により東京大学工芸学部(前年に理学部より分離)と合併、帝国大学工科大学となり、理論と実践を融合させることになり、日本の技術の原動力となりました。
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多分野の研究が生み出す、応用と相乗作用
「TAK」さんが学生だった1980年代、科学技術の計算には、大型計算機が利用され、工学部の学生はプログラム言語としてFORTRANが必修でした。今から考えれば、「過去の遺物」なのですが。
いつの時代も、コンピューターの最先端の「役に立つ」学問を重視し、基本となる、古典、教養的学問である、材料力学、流体力学、機会力学、熱力学などを軽視する傾向があります。
最先端の「役に立つ」学問を学ぶことは、もちろん大切なのですが、上記のプログラム言語FORTRANのように、陳腐化し、ムダになってしまうこともあります。
決して、裏切られることなく、必ず、結果として「役に立つ」基本となる、古典、教養的学問を学ぶことも大切です。
>
博士の能力はアカデミアだけでなく、産業界、ビジネス界にも活用しないともったいない
研究生活、狭まる世界と広げる工夫
に
>
大学院生になり、研究生活を始めると、生活が研究室だけに限定されてしまい、毎日会う人も、ほとんどが研究室の先生、スタッフ、大学院生、とタコツボのような生活で、知らぬ間に、行動範囲、交際範囲、思考領域が狭くなる
>
と書いたように、研究自体だけでなく、研究を取り巻く生活も、社会を狭め、「博士は使えない」につながっているのかもしれません。
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知をひらく、知をつなぐ。『知の技法』新たな普遍性をもとめて
理工系大学のリベラルアーツ、教養教育はどうする?
理工系大学こそ、リベラル・アーツが大切
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リベラル・アーツは学んでいる時には、「実用的でない。役に立たない。それゆえ、学ぶこと自体が無駄」と感じる人も多いが、ある時を過ぎてから、アイデアの基盤となり、視野を広げ、俯瞰的な思考のベースとなる、大切なものであることに、振り返って気づくもの
会場の若い学部学生から、
「実用性を考えると、リベラルアーツ、教養って役に立つのですか?無駄じゃないですか?小説を読んだり、クラッシック音楽を聴くのって娯楽じゃないですか?」
という質問がありました。
この質問に対して、パネリストがどう答えるのか?楽しみだったのですが、残念ながら、あまり明快なものではありませんでした。
この質問は、リベラルアーツ、教養がテーマである場合、かなりの頻度で出る質問です。
「TAK」さんの回答としては、
リベラルアーツ、教養って、若い、学んでいる時は「役に立たない」と思われることが多いが、ある時を過ぎてから、アイデアの基盤となり、視野を広げ、俯瞰的な思考のベースとなる、大切なものであることに、振り返って気づくものかもしれない。
というものです。
大切さを経験した人は、まだ経験していない人に対して、何とか伝えようとするのですが、残念ながら、うまく伝わらない。
そして、経験していない人が、ある時に「こういうことだったのか」と悔やむことになる。
東大も駒場の人文・社会科学の幅広い、豊富な人材、講義が非常に素晴らしいのですが、
駒場の時はその良さをわからずに講義をさぼってしまい、
大学院、あるいは社会に出てから、必要性、重要性に気づいて、聴講に来ることがよくあります。
「高度に専門化し、専門ごとに分化しがちな理工系だからこそ、リベラル・アーツが大切」
についてですが、もちろん、数学、物理などの理工系は大切です。これがあることが前提です。
これが確保された前提で、最先端の研究活動を行うには、アイデアの基盤となり、視野を広げ、俯瞰的な思考のベースとなる、リベラル・アーツが大切、ということです。
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教養とは、よくわからずに学んで、後から学び直すもの
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東大駒場の教養学部のカリキュラムは、人文科学、社会科学、自然科学が幅広く、内容も豊富で、講師陣も多様です。
特に、人文科学、社会科学は優れたもので、これだけの陣容を誇るのは、東大ならでは、です。
ただ、20年前までは、ほとんどの授業は、「確立された知」を先生が、学生に教える、ものでした。
この『知の技法』は、学問のやり方、を教えるもので、「知」をもとに、考える、議論する、活用する、という、当時としては画期的なものでした。
学問のやり方、「知」をもとに、考える、議論する、活用する、ということは、それまでは、授業で教わるものではなく、先生、先輩から盗み見て、身に着けるものでした。
教わるだけではなく、教わったことをもとに、考えて、活用する、文理融合「知の技法」を作成された小林康夫先生。同じく「知の技法」を作成された船曳建夫先生らも駆けつけ、あらためて駒場のリベラルアーツの層の厚さを感じます。
東大の強さは、この駒場の人文・社会・自然科学、文理融合俯瞰プログラムなど教養課程の充実にある、と考えます。
この駒場のリベラルアーツを築き上げた先生方は卒業されますが、多くの後進の方々を育てられてきました。
この先輩を引き継ぐ、若い方々の一層の活躍が楽しみです。
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駒場の二年間で「教養課程」は終了し、その後は「専門課程」でもっぱら特定分野の勉強をするのだと思っている人がいたら、まずはその先入観を捨ててください。
「教養」と「専門」の関係は前後関係ではなく、ましてや上下関係でもなく、車の両輪のように連動した同時並行的・相補的な関係です。
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理工学研究には人文・社会が不可欠
専門家の哲学と街の哲学
専門を深化する工学と俯瞰し、つなげる人文・社会科学
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工学が、個々の専門の技術を深化させる
その進化した個々の技術を、
社会的なニーズに基づいてつなげるのが、経済、社会、法学などの社会科学
自分の中で、ある考えに基づいて、再構築するのが哲学などの人文科学
学問をするにも、ビジネスを行うにも哲学が必要です。つまり、哲学は専門家だけが行うものではなく、すべての人に不可欠なものです。
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東工大リベラルアーツ研究教育院シンポジウム「役に立つ」からではなく、「人間に基礎を築く」ため
リベラルアーツ教育、「層が厚く、豊富な人材」の東大、「知の巨人たち」の東工大
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これまでの東工大の教養、スター教授の「一本釣り」「点」の集まりで、つながっておらず、「線」「面」にはなっていなかった。
その一方で、鶴見俊輔、江藤淳、宮城音弥らの「知の巨人」の影響は、受講した東工大生にとって計り知れないほど大きかった。
絶望しかけた時、深い悲しみの淵に立たされた時、役に立つのは、いつもは役に立たない、文学、哲学、誌だったりする。
「役に立たないもの」は、ある位相において、非常に意味があることがある。
戦場に1冊だけ持って行った「岩波文庫」のゲーテの詩に救われた。
東工大卒業生も、東大卒業生と同様、社会で技術だけでなく、経営者として活躍されている方がたくさんいます。
この方たちのマインドの基礎を築いたのが、鶴見俊輔、江藤淳、宮城音弥らの「知の巨人」によるものでした。
自前では輩出できず、寄せ集めであっても、集まった「知の巨人」たちは、学生たちのその後の人生に計り知れない影響を与えました。
だから、私たちは理工系大学であるにもかかわらず、「文系廃止、理工系重視」の追い風にもかかわらず、あえて、リベラルアーツ教育を充実させたいのです。
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