2018年04月11日

その知識、本当に正しいですか?

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「モデルは物じゃない」水原希子が撮影の無理強いを告白

荒木経惟の写真モデルを長年務めていたダンサーのKaoRiさんが、荒木について綴った記事を公開し、波紋を呼んでいます。

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記事は読んでいただくと、わかりますが、

KaoRiさんは2001年から2016年まで荒木氏の「ミューズ」としてモデルを務めていたとのこと。その中で撮影の際に同意書がなかったことや、ヌードの強要、無報酬の仕事もあったことなどを告発しています。

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有名芸術家ならなにをしても武勇伝になって正当化されるというメディアの判断に不信感 

一度撮られたら死んでも消してもらえない写真芸術という行為の恐ろしさ 


この記事は有名芸術家とモデルという、アンバランスな力関係によるパワハラのMe,tooと言えるでしょうか?

アンバランスな力関係によるパワハラ、セクハラが許容され得ないのは言うまでもありません。

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ただ、この記事を別の切り口から、読むと深く、難しい課題も見えてきます。

一方で、芸術家がモデルを媒体に表現したいこと、オーディエンスが媒体として表現されるモデルから感じること、それらを保とうと自らのアイデンティティーを失ってしまうモデル、一方でモデルが自ら表現したいことの葛藤も大切なテーマです。

もっと広義には、自己と他者が抱く自分への期待、ギャップに対する悩み、にも通じるかもしれません。

単なる、パワハラのMe,too、と考えてしまうのは、一種の思考停止、の感があります。

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自分と対象とのインタラクション、さらに、その受け手へのコミュニケーション


写真は直感、ひらめき。光の照射、撮影する方向などは当然検討するが、結局は一瞬のひらめき、直感、臨機応変

被写体がどう撮ってほしいか?感じ取る

最初に撮った1枚を、何枚撮っても超えられないことがよくある

一芸に秀でた人は、それだけではないところを見せたがる

写真家と被写体の間の壮絶なコミュニケーションがある、しかし、それを表現するのは難しい。そういう時は演出する

風が吹き抜けていく感じで、自分の存在が感じられない、写真を撮りたい

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サイエンスとは自分と自然とのインタラクション、文学、アートとは自分と自分の考え、思い、アートの対象とのインタラクション、

と言えるでしょうか。

インタラクションとは双方向に影響し合うものですが、自然は大きくて、ほぼ不変と考えられます。

それゆえ、自然に働きかける、よりも、自然の真理を解き明かすプロセスになります。

一方、法律、経済、工学、農学、薬学、医学は社会、文学、アートは自分の考え、アートの対象とのインタラクションです。

ここでは、自分と自分の考え、思い、とのインタラクションについて考えてみます。

「写真家と被写体の間の壮絶なインタラクションがある、しかし、それを表現するのは難しい。そういう時は演出する」

文学は自分と自分の考え、写真、絵画などは自分と被写体など、アートの対象とのインタラクションです。

それに加えて、文学、アートの受け手とのコミュニケーションがあります。

写真の場合、自然体を撮影するのがよいのか、と思いますが、それでは受け手に伝わらないことがあるそうです。

それゆえ、受け手に伝わるように、被写体に自然体ではなく、演出してもらう、そうです。

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篠山さんによると、セクシーグラビアの撮影は、自分とその女優、モデルとの「疑似セックス」だそうです。

ただ、それをそのまま表現するのではなく、読者が女優、モデルの「疑似セックス」を感じるように表現する、ことになります。



アートとしてのセクシャリティーあるいはエロス




「男性の読者と私の間の、疑似セックスくらいのイメージでグラビアをやっています。“この顔はあの時のこんな瞬間かな”なんてふうに妄想してほしいんです。

こちらが本能的に撮られなかったら、インパクトのある写真は上がってきません。恋愛やセックスの時の切ない気持ちや欲望などを思い出して撮られています。

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アダルトビデオ、セクシーグラビアを見るのは、「疑似セックス」です。

その女優、モデルを対象に、想像上のセックスをしています。

セックスをする時の興奮、その後の脱力感、ちょっとした倦怠感をもたらすことができてこそ、最高のアーティストかもしれません。


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文学、言語による表現の可能性、無限性


文章とは言語という媒体を使って、自分が表現したいことを表現するアート、ということができます。

文章を書く場合、絵画、写真のように、風景、人物、モノ、事象を、言語という媒体を使って、表現する場合があります。

この場合、風景、人物、モノ、事象を忠実に観察し、その結果を言語を使って表現することになります。

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これはサイエンスの観察、観測に似ています。

写真の場合、同じ被写体であっても、写真家によって、全く異なる印象を受けるように、同じ風景、人物、モノ、事象の記述であっても、

筆者により、全く異なる記述になる場合が少なくありません。

風景、人物、モノ、事象を記述するだけでなく、自分の考え、アイデアも言語という媒体を使って表現します。


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研究活動とは美しいアートである


アートの作品は発表した時点から、作者の手を離れ、見る人、聞く人にゆだねられます。

作者の考えとは関係なく、見る人、聞く人から、予想外の点が好評をいただいて、次の作品へとつながっていくことがあります


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人生は演劇、演じた役が人格を形成していく、たとえ強いられたものであっても


俳優は別人格を演じる。そして演じた人格の影響を受ける。

自分の中に、いくつもの人格が存在する。どれもが自分。「それは本当の自分ではない」と言うが、どの人格も本当の自分。たとえ演じることを強いられたとしても。

監督が求めるものと、自分が表現したいものを整合させる。

人間を理解する手法としての演劇。

社会があるから自分がある。社会とのかかわりの中での自分。

自分だけ幸せ、ということはない。幸せとは、自分も周囲も幸せなこと。

演じている自分と、それを見ている自分がいる。 


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自分の作品、表現、アイデア、演技を人前でさらすことは?


「社会学者、人文学者は、自分の考えを、すべて人前にさらけ出さなければならない。

まるでストリッパーのように裸をさらしだしている。ああ、恥ずかしい!」

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これは何も、社会学者、人文学者に限ったことではありません。

アーティストの作品、作家の文学作品、俳優の演技、研究者の論文なども同様かもしれません。

人前にさらした瞬間に、自分の作品、表現、アイデア、演技でありながら、自分の手を離れて、観衆など、見る人、評価する人の手に移ります

自分がアピールしたかったことが伝わらず、逆に自分が意識しなかったことが、関心を呼ぶことも少なくありません。

有効なフィードバックを受けることもあれば、ボロクソに批判されることもあります。あるいは、全く相手にされないこともあります。


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「わたし」の表現とは、同時に「時代」の表現、「器」としての「わたし」に何ができるか?


「原石」は,それを磨いてくれる人,磨かせてくれる環境,さらにはそれを磨くことに専念させてくれる人びとの支えがあってはじめて輝きを得ます。

「わたし」というのは,銘々がそう思っているほど確固としたものではありません。

「わたし」の表現とは,じつは「わたし」の存在が負っているものすべての表現でもあります。

その意味でいかにプライベートに見える表現も,同時に「時代」の表現なのです。

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制作する「わたし」,演奏する「わたし」とは,じつは時代がみずからを表現するときの〈器〉のようなものだということになります。

そういう〈器〉として「わたし」に何ができるのか。

芸術を人生の軸として生きるとは,独創的な表現の〈主体〉になることではなくて,社会の〈器〉になることだということを心に留めておいてほしい





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