2009年08月

2009年08月27日08:37心の教育活動評価に意味はあるのか5
c9d52f2c.jpg 子どもの頃、去りゆく夏の夕暮れに胸を締め付けられるような切ない思いを抱いたことはありませんか。めっきり早まった夕闇の訪れに慌てふためきながら季節の移ろいを思い知り、キリギリスのような楽しい精神生活に自らピリオドを打つ、そんな通過儀礼を幾度となく繰り返してきたと改めて思い起こされる今日この頃です。敢えて少年時代との違いを挙げるなら、「閑から忙へ」が逆になったことでしょうか。今夏のフィニッシュ、明日と明後日(前夜祭の特別招待講演は、本日8月27日)に東京大学で開催される日本教育学会第68回大会のテーマ型研究発表で私の夏は幕を閉じます。やや過放電が続いたので、長月の訪れと共に数日はキリギリスになりたいと変身願望を募らせています。
 さて、私自身の今夏のテーマは、やはり目下最大の関心事である「道徳授業評価」についてでした。8月24日〜26日に、モラロジー研究所主催による「第2回モラル・サイエンス国際会議」が麗澤大学で開催され、参加してきました。テーマは、「倫理道徳の理論と実践〜モラロジーにおける廣池千九郎の業績の評価〜」でした。偉大な業績を残された人物の評価と道徳授業評価は同一のものではありませんし、その目指す方向性も異なります。しかし、個としての人間の内面を推し量り、善なる立場から積極的にその有意味性を探っていこうとする姿勢には、何やら通底するものを感じます。
 さて、廣池千九郎博士(1866〜1938年)は1928年に膨大な倫理道徳の提言書ともいうべき『道徳科学の論文』を上辞され、倫理道徳に関する研究と実行の具体的方法を探求する学問体系としてのモラロジー(moralogy:道徳科学)を定立・提唱されました。その概要は、社会をよりいっそう望ましく発展させていくためには普通道徳(因襲的道徳)の良質部分を基礎として最高道徳の根本原理を理解し、実践していくことが肝要であるという大いなる主張です。高次に体系化された道徳科学理論を紋切り型の説明で語ることに抵抗はあるのですが、紙幅の都合でご容赦いただく次第です。
 ここでいう「最高道徳」とは、孔子、ソクラテス、イエス・キリスト、釈迦等(廣池は、四大聖人に皇室神話の天照大神を加えています。だが、そのシンボリックな影響力は理解できますが、その実在性や功績等について四大聖人とパラレルに語る点には少なからぬ抵抗があります)の優れた思想家の実践した道徳原理を指すものです。この高次な道徳原理は、認知発達論に基づく道徳性発達理論で著名なコールバーグ(L.Kohlberg, 1926〜1987年)博士の3レベル6段階(さらに高次な7段階における道徳的推論も含む)の最高段階と相通ずるものがあります。コールバーグのいう第6段階とは、論理的包括性や普遍性、さらには立場の互換性といった視点から構成される「倫理的原理=良心」に従って何が正しいかを選択し、法を超えて行為することができるレベルです。もちろん、コールバーグ博士自身もこの最高段階については幾度も修正を加え、さらにギリガン(C.Gilligan,)のジェンダー的視点からの批判(コールバーグの道徳性発達の視点はもっぱら男性に根ざすもので、女性的な思いやりといった配慮を欠いているという批判)も受けて再検討を余儀なくされており、定立という点では未完な観も否めません。「モラル・サイエンス国際会議」では、ハーバード大学道徳発達・教育センターでコールバーグ博士と共に12年間も研究に従事してきたフォーダム大学教授のアン・ヒギンズ(A.Higgins,)博士も、「『論文』の中心概念である廣池千九郎の正義と慈悲の考えに関する一西欧的見解」というテーマで発表されました。ここで詳細を述べることは控えますが、その中で印象的であったのは、コールバーグ博士の第6段階(宗教性も含む第7段階)と廣池博士の「最高道徳」、両者の主張は生命の尊厳性尊重と人間の発達的変容に対する感受性において通底しているといった見解でした。廣池博士の中心概念として「最高道徳」の実践的方途である「自我没脚(自己中心的傾向を内省し、それを克服する努力)」の前提となっている仏教の「貪(とん:むさぼりの心)」、「瞋(しん:憎み・怒る心)」、「痴(ち:無知の心)」、つまり煩悩の克服といった問題があります。道徳教育が「自我没却」あるいは「私利滅却」的なものであるなら、それはあくまでも個の内面の問題であり、自己評価はあっても他者評価など不要なものであることは言うまでもありません。そこが道徳教育、特に道徳授業における暗黙の教育評価不要論になっているような気がしてなりません。しかし、それで済まされるのでしょうか。公教育として編成された各学校の教育課程の一環として通年的に実施義務を負う道徳の時間での子どもの学びがどうであったのか一切不問に処す等いう暴挙が通るのか、規範意識の低下を危惧する保護者・地域住民に一切説明責任を果たさなくてよいのか、避けて通れない問題であることはあまりにも自明であります。この点に関する主張が、私の道徳授業評価積極推進論の立場です。以下にもう少しだけ述べたいと思います。
 私たち一般社会に生きる人間にとって、「善くありたい」、「善く生きたい」と思うのは自然性(喜怒哀楽といった感情に根ざした感覚)に基づくものです。しかし、先に挙げた「最高道徳」といった人生の高見を目指しつつも、仰ぎ見る自分の道徳生活はコールバーグ理論で申せば、言い過ぎかもしれませんが、3段階(行為がしばしばその動機によって左右される段階)、4段階(既にある社会秩序を尊重し、従う段階)周辺でうろうろ留まっている人が圧倒的に多いというのが現実かと思います。ならば、それを後押しする教育活動が当然のごとく必要なはずです。段階上昇そのものを目指すといった誤謬に陥るのではなく、『学習指導要領解説 道徳編』の引用ではありませんが、「善くありたい」、「善く生きたい」という思いを後押しするところに道徳教育の意義があるのだと思います。また、そのプロセスでは自己評価だけでなく、他者評価もしくは共に高まるための相互評価が必要なのは言うまでもないことだと思います。もちろん、その評価の視点は他者との比較ではなく、あくまでも個人内評価が原則です。
 しかし、こんなことを具体的に語っていくと「なら、評価する心はどこにある」、「実体のない心のことなど評価できるか」という反論を浴びることになるわけです。でも、どうでしょうか。明日をも知れぬ我が身を案じて、今日より少しでも満ち足りた明日を望まない人はいるでしょうか。明日のことすら定かでない「はかない生命」を生きる人間だからこそ、自らの夢や希望といった自己実現に向けて精一杯の努力をするのではないでしょうか。心とは具体的な場所ではなく、生きるあり方、生きる姿勢というべきでしょう。それを個人内評価として肯定的評価を前提に行うことに、何ら問題はないと思います。むしろ、個のあり方や生き方を認め、励ます積極的評価をしない教育の方が不自然ではないでしょうか。
 もちろん、心の教育評価には難しさがあります。何をもって評価するかという問題です。確かに評価指標なしに、個の内面を推し量れと言われても困ります。実体の伴わない七変化の心を解剖宜しくメスで切り刻むわけにもいきません。ならば、限定された具体的場面でというのが、私の道徳授業評価必要論の前提です。特に、その評価においても、他者評価として道徳的な心情面を推し量るとか、実践意欲・態度といった内面と表象されたものが必ずしも一致しないであろう行動面から推し量ることにはかなりの困難が伴うような気がします。やはり現実的可能性から結論的に申せば、これまでも多方面での先行研究がある道徳的判断力、つまり道徳的思考・判断の側面から「善さを見取る」というのが妥当な手法であると考えます。そのような可視性のある評価要素を基軸に、知識・理解、状況判断とその理由付け、表現内容、課題発見力、問題解決の方法等々の説明、解釈、応用するといった他者から見て比較的表に現れやすい側面に着目して評価するパフォーマンス評価(performance assessment)の姿勢が何よりも大切であると考えています。
 最後になりますが、学校教育の中で道徳授業評価をさらに追求してみたいと思われる方がおりましたら、是非ともご連絡をいただきたたいと思います。機は熟しつつあります。道徳の時間特設半世紀の歴史の中で、そろそろ道徳授業評価の項目を刻む時代に突入したのではないでしょうか。(了)

★本日の画像は、8月8日に勤務先の國學院大學たまプラーザキャンバスで文部科学省の谷田増幸教科調査官、赤堀博行教科調査官の両氏をお招きして開催した「道徳教育実践研究夏季セミナー」での一風景です。会場は100名近い現職教員や研究者、教職志望学生で溢れ、盛夏に劣らぬ熱気に包まれました。関係各位に衷心より御礼申し上げます。

2009年08月17日10:52道徳資料の意義と潜在的カリキュラムについて5
aef04f0a.JPG 今年も、夏が猛烈なスピードで傍らを走り抜けつつあります。教育学にかかわる大学教員の忙しい夏に、今夏は教員免許状更新講習も追加されて悲惨さに拍車がかかりました。久しぶりにブログ更新を致します。
 先日、某教育雑誌に目を通していたら、「社会性は学校でしか育たない」というタイトルの論説に目が止まりました。その真偽はともかく、学校は子どもにとって小社会であり、その生活体験の積み重ねが子ども一人一人の人格的成長、人となりに影響を及ぼします。今年2月、塩谷文部科学大臣が「『心を育む』ための5つの提案」を公表しました。その中の一つに「校訓を見つめ直し、実践する」という提案がありました。教師と子どもが一緒になって、自分たちの学校の校訓を具現化する取り組みを継続的に実践するなら、さらには地域が一丸になって支援するなら、きっと道徳性や社会性の向上に寄与することは間違いないように思います。いわば、潜在的カリキュラムの効用です。
 潜在的カリキュラムとは、長期にわたって一貫して存在し、意識するしないにかかわらず、子どもや教師、保護者等に影響を与え続ける見えない(隠された)教育カリキュラムのことです。それは時として、学校の公的カリキュラム(教育課程として編成された学校知を体現する顕在的カリキュラム)をはるかに凌ぐ教育効果をもたらします。その点で、内実のある校訓の具現化ができれば、とても素晴らしいことだと思います。このような視点に立つなら、「社会性は学校でしか育たない」という表現もあながち否定はできないと思い直す次第です。しかし、根本のところは「子どもの生活経験」が重要なことなのであって、学校だとか、家庭だとか、地域といった線引きはあまり意味をもたないという気がしないでもありません。
 先日、ある爽やかな一風景に遭遇しました。いつも通勤で利用しているJR車内での出来事でした。休日にもかかわらず、車内は少し混雑して蒸し暑く感じられました。リラックスした普段着の人、仕事帰りのクールビズなサラリーマンとおぼしき人(私自身も)、それに、華やいだ浴衣姿の人々。夕方のためか、それとも鉄道に並行して流れる河川で毎年開催される花火大会の影響なのか、いつもとは異なる不思議な光景でした。ある駅を過ぎたところで、私の隣席にいた老婦人が突然立ち上がり、ドア近くに立っていた若い娘さんのところへ歩み寄りました。高校生ぐらいなのでしょうか、金髪に染められたその娘さんの髪にはメッシュも入り、どぎつい化粧も派手さ満点で、浴衣姿とはあまりにも不釣り合いな装いでした。何事かと目を凝らしていると、老婦人は一声かけると娘さんの背中に回り、ごく自然な仕草で浴衣の帯を締め直したのでした。締め終わると、「どうしても気になってねえ。ごめんなさい」と言い残されてご主人が待つ元の席に戻って行かれました。その戻り際、驚いたことに娘さんが向き直り、「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げてお礼を述べたのでした。外見のみからステレオタイプな発想でしか娘さんを見ていなかった自分を恥じつつ、二人の女性の袖摺り合う爽やかなご縁を眺めた次第です。ところが、話はこれだけで終わりませんでした。程なく終着駅につくと、老婦人は再度娘さんに声をかけたのです。その会話を聞くとはなしに眺めていると、老婦人は先ほど締め直した帯の様子が気になっていたので、再度やらせてほしいと申し出ていたのでした。混雑した駅車内で、それに時間も気になるであろうに、そのお節介な申し出を娘さんは快く受け入れて帯を締め直してもらったのです。そして、二人の弾む会話は周囲の人々に至福の一時を与えたのでした。
 この娘さんにとって、日常生活の中の偶然的な老婦人との出会いは、多くの道徳性や社会性にかかわる示唆を得る機会ではなかっでしょうか。もちろん、娘さんに道徳性や社会性が不足しているからといった前提で話しているのではありません。二人が束の間のかかわりの中で交わした言葉は、舌が勝手に言葉を発する「話す」ではなく、吾を語って心通わせる「語り合い」ではなかったかということです。本ブログのテーマである道徳教育、とりわけ道徳授業に目を転ずると、この語り合いがとても重要な意味をもつように思えてなりません。
 先日、必要に迫られて昭和40年代に当時の文部省で道徳教育担当の教科調査官をされていた井上治郎先生の「資料即生活論」関連書籍に久しぶりに目を通しました。井上先生の理論は、当時のわが国道徳教育界を席巻しつつあったL.コールバーグ博士のモラルジレンマ・ディスカッションと共通点の多い道徳教育理論でした。道徳的判断とその理由付けを問うことで自らの道徳を構築させる点(道徳性発達と固有の価値観創造)で類似する点が多々あります。異なる点を列挙するなら、道徳資料がジレンマ提示のみでは不十分である点、教師は子どもの話し合いを促進する単なるファシリティターではなくて話し合いの組織者でなければならないとする点等が挙げられると思います。やはり、単なる「話し合い」ではなく、本来的な意味での価値観創造としての話し合いは「語り合い」は区別されるべきものであろうと考える次第です。つまり、互いの道徳的なものの見方、感じ方、考え方のやりとりを通して獲得する道徳性の高まりを引き出すには、直接的かつ具体的でなければならないからです。そのような語り合いを実現するための道徳教材は「道徳の時間に用いる資料は、特殊具体の状況における、特殊具体の人間の生きた姿を、さながらに描き出したものでならない」とする井上理論の明確な主張に重なり、先程の電車の中での老婦人と娘さんの姿にも重なってきます。
 私たちはややもするとつい1時間の道徳授業での効率性を優先するあまり、特定価値が露わになった資料を道徳教材として求めがちです。しかし、具体的な日常生活の中で形成される子ども個々の道徳的価値観には様々な道徳的要素が複合的に絡み合って構成されているとするのが本来の姿であろうかと思います。ならば、それを道徳授業で内実の伴う価値観形成のための語り合いにしていくためには、具体的な日常場面の煩雑さも含めた道徳的一場面を教材として提示していく必要があるのではないでしょうか。道徳授業における資料として、どのような環境設定が子どもたちの価値観形成に寄与するのか、道徳的価値を教化するのではなく気づかせるためにはどのような諸要件が資料中に含まれていることが必要なのか、再度考えていくへきではないかと思う昨今です。

★本日の画像は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もついには滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ 」という『平家物語』冒頭にある夏椿こと「沙羅双樹」です。大学正門の築山に伸びやかな姿で君臨しています。