2011年08月

2011年08月05日10:58死別体験による悲嘆のプロセスを考える5
薬師寺東塔西塔
 8月は鎮魂の季節。広島・長崎原爆投下の日、終戦記念日、旧盆等々、葉月は人々の心の奥にある魂を揺さぶるソウルフルな月でもあります。もう残り枚数の方が少なくなってしまった暦を捲りながら、少しずつ齢を重ねると共に自分を包み込んでいる時空間がそのスピードを速めているような気がしてなりません。当たり前のことですが、人間の一生というのは、ただ単調な時系列に従って物事が構成されるわけではありません。その時々の節目となる事柄に応じて、極めて起伏に富んだ時空間を構成しながら推移するものであることを改めて実感しているような次第です。特に、近親者との死別体験があったような時は、なおさらそれを強く感じます。
 忌まわしい東日本大震災から早、半年近くの時が経過しようとしています。多くの人々を思考停止状態に陥れたあの日から心痛の時を経て、犠牲になられた方々の御霊を新盆で迎えるご家族の心中はいかほどかと心が痛みます。特に、何の前触れもなしに、心の準備もないまま突如として近親者と永久の別れを体験した方々の心中は察するに余りあるものを思わずにはいられません。もちろん、それは災害でなくても同じです。死別の悲しみは、逝く人のみならず、残される人にも深い心の傷を残します。例えば、近い将来に訪れるであろう死別を予感し、心の準備を整えてきたとしても、やはりそれは無意味なことが多いのかもしれません。今回のテーマは、自分自身の死別体験から得た悲嘆の回復プロセスについてです。
 あの忌まわしい東日本大震災で混乱が続く最中、実母が逝きました。前年末から病床に伏していた母ですが、その別れが日一日と現実のものになっていく切なさを実感しました。高齢であったことも幸いしたのでしょうが、母は奇跡的に大雪だった今冬を持ちこたえ、越後の山々が遅い春色に包まれ、桜花がちらほら開花する日を待っていたかのようにあっけなく逝ってしまいました。大震災で未来の希望を無残にも断ち切られた多くの方々のことを思えば、わが家の出来事などささやかな日常に過ぎないことです。しかし、それからの私は、自分でも不思議な時の感覚の中を現在進行形で今も歩み続けています。
 具体的に述べれば、こんなことです。例えば、日にちや曜日の感覚、季節の実感がうまくもてないのです。もちろん仕事柄、手帳等にはきちんと全ての予定を留めています。そうでないと、多くの方々に迷惑をかけることになります。ところが、困ったことにそれを見る気がしないのです。職務上の文書を作成する際も、日にちすら浮かんでこないのです。学内・外の方々と電話でやりとりするのも非常に億劫で、感情面での抑揚のぶれが激しいようにも感じています。その大きな要因は、やはり母との死別体験であったとこの頃ようやく感じています。大震災の直後に身内との死別体験というのもやや気が引けるのですが、この問題は社会生活を送っている誰しもにとって不可避な事柄ですので、敢えて「近親者との死別の悲しみを乗り越えるための癒しのプロセス」をテーマと致しました。その体験的考察について、以下に述べたいと思います。
 数えで卒寿という高齢の母ですが、思いもかけない病気を発症し、意識も定まらないまま4ヶ月余りの闘病期間を経て逝きました。その間、時間を見付けては病床まで足を運んだのですが、それ以前の認知症等の発症期間もあったので、何となく母を見送るための心の準備はしてきたというのが偽らざるところです。しかし、死に至る病を得てから見舞う度、それも怪しいことに自分自身で気付き始めました。訪ねる度の容体の悪化は明白で、母の死が現実の重しとなって覆い被さってきたことを正視せざるを得なくなったのです。それまでは、もし母の身に何かあっても動揺することなく事実を冷静に受け止め、これまでの恩顧に感謝しつつ野辺の送りをしようと決意していたのですが、それが実に怪しい覚悟であったと気付き、うろたえた次第です。情けないことです。これは、少し専門的に分析するなら、親との死別による「精神的遺棄」状態です。幼子が母親から離れることで抱く恐怖感、「孤児(みなしご)」にされるという恐怖感と同様です。いい歳をして、既に他界した父親に続いて、最後の精神的保護者であった母親を失うことの恐怖は、それこそ想像以上のものでした。死別体験は、逝く者も辛く、それを見送る者も同様に辛いのです。その悲嘆をどう緩和するのかという問題が、わが国でもようやく社会的に広く認知されるようになってきました。
 逝く者の悲嘆のケアは、回復の見込みのない患者の苦痛をいかに緩和し、精神的に支え、生をどう全うさせるかというQOL(quality of life)に基づく介護・医療という発想でターミナル・ケアが行われます。しかし、アメリカの精神科医であるエリザベス・キューブラー・ロス(E. K.Ross, 1926〜2004)は、名著『死ぬ瞬間〜死とその過程について〜(On Death and Dying, 1969)』の中で、「死は死に至る過程が終わる瞬間に過ぎない(中略)、患者にとって死そのものは問題ではなく、死ぬことを恐れるのは、それに伴う絶望感や無力感、孤独感のためである」と述べています。確かに、 今夏17回忌の法要を済ませたばかりの実父の最期にも同じようなことを感じた経験があります。不肖の息子とは違って温和だった父の感情変化は、傍目には分からなくても、家族はそれとなくロスの言う「死の受容プロセス:否認→怒り→取引→抑うつ→受容という5段階」を実感していました。母に関しては、意識が混濁していた部分も多かったので、その死への旅立ちに関しては正直なところ、不明な部分を残したままになってしまいました。ただ、最期に家族へ迷惑をかけないようにと、50歳代頃から信仰していた「会津ころり観音詣(西会津町の鳥追観音、会津美里町の中田観音、会津坂下町の立木観音:三観音をお参りして一生を健康に過ごし、長わずらいをしないで、ころりと安楽往生がしたいとの願いを込めた信仰)」の御利益を受けられなかったことは、返す返す残念なことでした。ただ、セラピストであったロス自身が述べているように、多くの人の死は流れ星のように穏やかなもので、恐ろしい苦痛に満ちたものではなく、身体機能の穏やかな停止であるということです。そして、特別の事情がなければ、孤独な中での死の受容にはならないという事実です。それについては、大いに納得しているような次第です。
 では、逝くのを見送る側(つまり逝く者から精神的に遺棄される側)のケアは、どうなっているのでしょうか。残された者の悲嘆のケアは、グリーフ・ケア(grief care)と呼ばれています。グリーフ・ケアとは、身近な人と死別して悲嘆している人が、その悲しみから立ち直れるよう傍らに寄り添って支援することを意味します。私が母の死を通して経験したのは、この遺棄された側の悲嘆です。『死別の悲しみを癒すアドバイスブック』(2000年 筑摩書房刊)で知られる キャサリン・M・サンダース(C.M. Sanders,)は、「第1段階:ショック→第2段階:喪失の認識→第3段階:引きこもり→第4段階:癒し→第5段階:再生」というプロセスを紹介しています。もちろん個人差もありますから、明確な段階を必ずしも示すわけではなりません。しかし、このような一連の悲嘆回復プロセスがあることは、漠然としつつも死別による喪失体験された方なら誰しも納得することではないでしょうか。サンダースはその著書の中で、「死別の悲しみは忙しすぎる私たちに、立ち止まり、人生から本当に何を求めるかを考えるチャンスを与えてくれる」と述べています。私たちの魂が深いところで求めている豊かさ、人生のQOLは、死別というその喪失体験に遭遇することで再認識する機会となり、精神的に成長する機会を与えてくれていることは間違いありません。そして何よりも、死別という悲嘆プロセスは「今を自分が生きている」という当たり前すぎる事実を再認識させてくれます。だから、日々巡る今この時を精一杯充実させる生き方をしなければならないのです。
 私は今、悲嘆回復プロセスの後半に差しかかりつつあるのかもしれません。かといって、それほど前向きに自分の人生を前向きに見つめられるほどの余裕もありませんが、日一日と変容しつつある自分を感じる時があります。この度の東日本大震災で同様の喪失体験をされた方々もそれぞれの悲嘆回復の時を紡いで、人生の精神的再出発を果たされんことを願うばかりです。
 最後に、宗教学者で生命倫理の立場から発言をされている島薗進先生は、「いのちとは本来、『生まれる』ものです。あるいは人間を越えたものから『さずかる』、そのような感覚に根ざした人生の喜びや意義深さがあったはずです。ところが科学は、いのちを『つくる』方向へとどんどん進んでいます。最終的には人間をモノに近づけることを意味します」(朝日新聞2011.7.22『耕論』より)と警鐘を鳴らしています。生命倫理という視点に立つなら、科学技術の進歩は近未来において喪失体験や悲嘆回復プロセスすら変貌させかねない危険性を孕んでいるように思えてなりません。人間が生きることの意味やその人生がもつ価値、そんなことを改めて考えさせられた私的死別喪失体験でした。 

☆本日の画像は、120年ぶりに解体修理が進められる奈良薬師寺の東塔です。およそ1,300年前に創建された東塔、平成30までその壮麗な姿を望めないということなので、5月末に仕事の足を伸ばして訪ねてきました。