2014年05月

2014年05月05日20:09風薫る季節の風に道徳授業への夢を託す
 房総御宿海岸御宿海岸月の沙漠像










 風薫る5月となりました。世はまさにゴールデンウィークです。暦の上では立夏となりましたが、今春から新任教師となったゼミ学生たちは相変わらず4月の延長線でゴールデンウイーク中も職務に勤しんでいるようです。そんな近況メールを読みながら、「あまり背伸びしないで、息長く頑張れよ」と見えないラインの向こうに呼びかけたくなります。
 かくいう私も相変わらず、パソコンにしがみついています。ただ、先日、千葉県の外房を訪ねる機会に恵まれました。それが一服の清涼剤となりました。ふらりと立ち寄った御宿海岸で、何と40年ぶりに「月の沙漠」像と対面しました。急に今は帰らぬ当時の友人たちと過ごした日々が思い起こされ、何だかとても切なくなってしまいました。きっと、「月の沙漠」の物悲しい歌詞と旋律が脳裏を過ぎったからかも知れません。まさに、道徳資料と同じ人生ドラマそのもののような歌詞です。若い王子とお姫様はどんな事情があって、お供も従えずに旅に出たのでしょうか。そして、行き着く先には何が待っているのでしょうか。

◆はじめに〜道徳資料ありきでよいのか

 道徳教材の善し悪しは、そのまま道徳授業の可否に直結すると言われています。それ故に、様々な機会に様々な人が「はじめに道徳資料ありき」といった発言を繰り返すことになってしまいます。道徳資料とは、それを道徳授業で活用するための素材です。多くは文字による文章化された間接的道徳体験です。ただ、それがそのまま道徳授業でイコール教材として用いられるわけではありません。その道徳資料に含まれる道徳的価値を踏まえて主題のねらいを検討したり、ねらいに迫るためにどう資料を提示して子どもの興味関心を引き出せるかを検討したりします。それが、道徳資料の教材化という手続きです。また、その過程で資料構造を分析することで、子どもたちにより深いレベルで価値追求させるための方法論も模索されることとなります。このようなことから、一つの道徳資料を巡っては授業者の様々な試行錯誤が重ねられることとなります。
 ところが、道徳授業の現実としてはこのような手続きが軽視されているように思えて仕方ありません。つまり、道徳資料イコール道徳教材そのものといった活用方法が圧倒的です。道徳資料をそのまま読んで聞かせるパターンが結構多いのではないでしょうか。パネルシアターやペープサート、場面絵や人物絵を用いながらの語り聞かせ、再現構成法、劇化といった様々な手法での資料提示、つまり教材化手続きを踏んでの教材提示も小学校低学年を中心に様々取り組まれてはいるものの、学年進行と共に道徳資料をそのまま提示することが至極当然となってしまいます。勢い「この資料を使えば授業はうまくいく」とか、「この資料での授業の流し方は・・・」といった、ある意味では教師の自由な発想に基づく授業開発意欲を阻害するような語り草的に置き換えられ、その結果、盲目的な「資料主義道徳授業」へと陥ってしまうわけです。そして、そこで最も重要視されるのは主人公の気持ちの変化です。言わば、「気持ちを問うことで道徳的価値に気付かせ、自らもそうありたいと願う心情を呼び覚ます」という「心情主義道徳」にとっぷりと浸かってしまうこととなります。これでよいのでしょうか。
 もちろん、よいのでしょう。だから、このような発想を大切にして道徳授業は半世紀の歴史を刻んできたに違いありません。ならば、これから半世紀も同じような方法論でいけるのでしょうか?資料イコール読み物資料という発想、読み物資料イコール道徳教材といった発想、決して否定はしませんが、実効性の伴う道徳授業へという改革を前提にした「特別の教科 道徳」でも、やはり気にせず「資料主義道徳授業」、「心情主義道徳」を繰り返していくのでしょうか。いつもこのような道徳授業一辺倒では、「特別の教科 道徳」は間違いなく全国民的レベルでのバッシングを免れ得ないのではないでしょうか。実効性の伴う道徳授業とするためには、道徳資料の在り方そのものの議論が先決のような気がします。

◆道徳教材を多様にするための引き出しは?
 確かに道徳教育での実効性、さらに言うならカンフル剤としての即効性を求められるのは酷なことです。しかし、昨今の学校教育が抱える子どもたちの心の闇から生ずる問題行動の解消には道徳教育が重要であり、その中核となるのが道徳授業であるという世論の期待には、やはり応えていかざるを得ません。正直に申せば、多くの学校で日常的に実施されている道徳授業で子どもたちの道徳生活が変わるのかと問われれば、すぐにそうだとは即答できかねます。「やがていつかは・・・、今は分からなくても・・・」と言葉を濁すのが関の山といったところでしょう。
 教育再生実行会議第1次答申(平成25年2月)で道徳の「教科化」が示され、文部科学省で本腰を上げての検討段階に入ってから、実効性のある道徳授業をどう創ることが可能なのかと悩み続けて今日に至っています。基本的には何でもあり、それが結論です。もちろん、道徳的な価値を押しつけてもその当事者である子どもが心底納得しなければ個に内面化されるはずもありません。ですから、事態はやはり深刻です。
 思いつくのは、「なすことによって学ぶ」体験型の道徳授業、頭で解っていなければ実践などあり得ないという立場で道徳的価値をみっちり学習する道徳授業、道徳的価値を理解してその実践スキルを習得するトレーニング型授業等々、あまり芳しくない方法論しか思いつきません。総花的に申せば、これらの要素をすべて盛り込んだ道徳授業が効果的なのでしょう。もちろん、1単位時間での学習内容としては多すぎますから、ショートプログラムとしてのパッケージ型道徳授業というのは妥当な発想であると考えます。学校や教師がもっている引き出しの中の全てのものを総動員するような道徳授業、これからはそんなダイナミックな実効性の伴う道徳授業構想が求められると考えています。指導効果が検証できる道徳授業、目に見える結果が多少なりとも説明できるような道徳授業、これからはそんなことを念頭に授業構想していく必要がありそうです。

◆これからの道徳授業構想法を考える
 指導の成果を求められ、それに対してきちんと説明できるような道徳授業、つまり、道徳授業評価が伴うものへ改善していくためには、いったいどうすればよいのでしょうか。まず考えられるのは、授業目標として設定される「ねらい」の再考です。「〜を〜することで、〜しようとする心情を養う」といった、形式的な目標設定では、成果を追い求めることなど不可能だと思います。
 道徳授業評価をするためには、まず、その主題で目指す目標を明確にすることが先決です。1単位時間の授業では認知的な側面での目標も必要でしょう。また、道徳的学びを支える情意的な側面での目標も必要でしょう。さらには、具体的な日常生活場面への敷衍化を目指すための行動的側面での目標も必要でしょう。それらの幾つかの側面の目標を含んだトータルな授業設計をするなら、当然そこには設定目標に即応した評価観点が生まれてくるはずです。さらには、その観点で子どもの道徳的学び評価を見取るための指標や尺度が必要となってきますし、授業の中でどうやってそれを見取るのかという具体的な手立ても当然のことながら必要となってきます。
 このような社会科学としての道徳授業構想論が展開できるようになることが学校教育における道徳授業を現代化することであろうし、活性化する上で欠かせない学問的背景となる「道徳教育学」の定立につながっていくのだと考えます。
 やはり、教科「道徳」になるということは、そこに当事者である教師が道徳的な内容を、目的を明確にし、その達成のために意味ある道徳教材として利活用するという姿勢が重要なのだと思います。そのための道徳資料の道徳教材化手続きはどうあればよいのか、どのような指導法を駆使することで道徳教材が学習効果を引き出すのかといったことが見えてくるのではないでしょうか。

◆まとめに変えて
 道徳授業で目指すのは何かという点について、最近自分なりに考えていることを述べて終えたいと思います。
 このことは、道徳教科化問題とか、「特別の教科 道徳」だからといった事情ではなく、子どもにとって意味ある道徳授業とは何かという自問を繰り返す中で朧気ながら見えつつあるように思っていることです。
 結論的には、「道徳的価値を受け入れようとしている自分への気付き」をもたらすことがそうであろうと考えています。まず、道徳授業では取り上げる道徳的価値を理解し、その価値理解を通して共に生きている自分や他者への洞察を深め、最終的には道徳的価値を「善いもの」として受け入れようとしている自分自身への気付きを促すことが最終的に日々の日常的道徳生活を充実させるのではないかと考える次第です。