2015年11月

2015年11月30日11:41道徳科における問題解決的な学習と学習課題の関連性とは?
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 11月中旬に所属ゼミの学生たちと広島へ平和学習を目的に訪れました。あいにくの雨模様で移動にはやや難儀したのですが、現地に行かなくては分からない沢山の収穫を得ることができました。本日の画像は、カメラのレンズを向けることにやや躊躇した大和ミュージアムこと呉市海事歴史科学館と原爆ドームの画像をアップしましたが、過去の同じ過ちを繰り返すことがないよう再度心に刻んだ機会ともなりました。
 さて、今回のテーマは「道徳科における問題解決的な学習と学習課題との関連性とは?」と致しました。その理由は、平成26(2014)年10月21日に示された中央教育審議会答申「道徳に係る教育課程の改善等について」の中の記述、「道徳的習慣や道徳的行為に関する指導、問題解決的な学習や体験的な学習、役割演技やコミュニケーションに係る具体的な銅座や所作の在り方等に関する学習などの指導を、発達の段階を踏まえつつ取り入れることも重要である」という部分、この解釈が未だに釈然としないまま今日に至っているからです。特に、問題解決的な学習とは何なのか、明確な「納得解」が得られていません。自分なりに考え、説明付けたいと思い、敢えてテーマに設定したような次第です。

1.問題解決的な学習とは何か

 平成27(2015)年3月27日に告示された一部改正小・中学校学習指導要領「第3章 特別の教科 道徳」の「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」2の(5)では、「児童(生徒)の発達の段階や特性等を考慮し、指導のねらいに即して、問題解決的な学習、道徳的行為に関する体験的な学習等を適切に取り入れるなど、指導方法を工夫すること」と述べられています。
 問題解決とは何を意味するのか、問題解決的の「的」とは何を意味するのか、具体的な道徳課授業をイメージしつつ、自分なりの納得がないことには自分自身にも、他の皆様にも、うまく説明することが叶いません。
 特に、「問題解決」というフレーズの「問題」をどう捉えるのかということも大きな問題?ではありますが、そこに接尾語としての「的」が付くとどうなるのか、具体的なイメージを見いだせないというのが正直なところです。
 これらについてまず検討し、そこから学校の教室の中でどう定着させていくのかという本質的な部分を考察していきたいと思います。
 まず、「問題」の捉え方なのですが、学校の試験や入試など、決まった正答がある問いに対して解答を必要とする‘question’なのか、それとも‘problem’といった類いなのかとまず考えます。クエスチョンやプロブレムということであれば、やはり道徳授業の中でその「解」、つまり道徳的価値に基づく「明確な望ましさ」を見いだせるような指導展開が必要です。
 また、‘subject’や、‘issue’といった意味でも考えられます。そうなってくると、道徳的な語り合いのための主題という意味であればサブジェクトが適切であろうし、容易に「納得解」が見いだせないような論点ということであればイシューが適切なのかもしれません。
 しかし、小・中学校学習指導要領解説「特別の教科 道徳」の第2章「第2節 道徳科の目標」に述べられている道徳授業の特質を捉えていくと、自ずと答えは見えてくるように思います。そこでは、「道徳科の授業では、特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたずに言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育の目指す方向の対極にあるものと言わなければならない。多様な価値観の、時に対立がある場合も含めて、自立した個人として、また、国家・社会の形成者としてよりよく生きるために道徳的価値に向き合い、いかに生きるべきかを自ら考え続ける姿勢こそ道徳教育が求めるものである」と明確に記されています。
 ならば、「問題解決」とは単なる解答探しではなく、容易には辿り着けないよりよい人間としての在り方や生き方を生涯追い求める「道徳課題」ということになろうかと考えます。それに「的」が付くのですから、道徳的課題を追求することを学ぶ場としての道徳科授業の位置付けることが大切ではないのかと朧気ながら意図することが見えてきます。要は、「他者と共により善く生きる」ことを道徳科授業で学ぶために子ども達に意図的に課せられた‘task’が正しいのかという結論に至ってきます。果たしてこれが正答なのかどうかは分かりません。しかし、道徳科授業を授業者がどう自分なりに意味付け、納得して日々の指導にあたるのか、ここが何よりも大切な部分であろうことは容易に察しがつくことです。
 子ども達が、これから続く自らの生涯にわたる生き方の基礎を学ぶために義務教育9年間を費やして考え続ける場としての「道徳科授業」、それは道徳的問題に対して多面的・多角的に考え、判断し、適切に表現できる汎用的資質・能力を培う場として機能しなければ実効性あるものにはならないように思います。全国の学校、全国の教室でこのような視点から道徳科授業が展開されるなら、もう「形式的な指導に陥っている」とか、「学年段階が進むにつれて受け止めが悪い」といった批判は回避されるに違いありません。大いに期待したいところです。

2.何よりも大切にしたい子どもの当事者性

 ここまで述べてきたことから、道徳科における「問題解決的な学習」とは、どのような子ども達の道徳的学びをイメージするのか見えつつあるのではないでしょうか。
 道徳科の目標では、「道徳的価値についての理解を基に、自己を見つめ、物事をより広い視野から多面的・多角的に考え、児童(生徒)一人一人が人間としての自分の生き方について考えを深めること」が授業での最終ゴールとなっています。ならば、人間の在り方や生き方に関わる道徳的な問題とそれを考える道徳学習促進のための課題はどう意味付けられるのが適切かということに尽きます。
 結論的には、学習指導要領解説「第3章 道徳科の内容」の「第1節 内容の基本的性格」に述べられている通り、内容項目は「教師と児童(生徒)が人間としてのよりよい生き方を求め、共に考え、共に語り合い、その実行に努めるための共通の課題」という位置付けを大切にすることなのだと思います。
 よって、毎時間の道徳授業では、子ども一人一人が将来にわたって遭遇するであろう様々な道徳的問題に対し、自らの在り方や生き方に関わる切実な問題に対処のための構えや方法を「自分事」として身に付けられるような学習展開を工夫することが重要なのだと思います。つまり、子ども一人一人の主体性と当事者性を発揮させることで、「生きて働く道徳的な力」を育成できるように毎時間の授業構想をすることが何よりも大切であろうと思うわけです。
 要は、道徳科授業では道徳的問題を解決できるような資質・能力を育成するため、その時間で問題とする道徳的価値を多面的・多角的に課題追求できるよう、本時の学習課題を明確化して子ども自身の「自分事」意識をもたせられるよう、主体性や当事者性を引き出すような「学びのしかけ」を工夫していくことが重要であると結論付けられます。
 今般の学習指導要領では、アクティブ・ラーニング(Active Learning)がとても重要視されています。子どもが主体的、能動的、協働的に学び合うための方法論的視点としてのアクティブ・ラーニングですが、単なる授業活性化のための手立てとしてだけではなく、子ども一人一人が授業の中で多様な感じ方や考え方に接しながら、自らの道徳的なものの見方・感じ方・考え方を深化させるプロセスとして実現できるような授業構想法にまで考えを致さなくてはならないのではないでしょうか。
 一見すると、子どもはとても楽しそうに互いに関わり合いながら活動しているようですが、その内容に耳を傾けると道徳的課題に対して全く皮相的な思考に留まっているといったことは、よく散見されることです。つまり、「活動あって学びなし」の道徳授業となっていることが往々にしてあるわけです。それでは、1時間の道徳授業を設定する意義を失うことになってしまいます。子ども一人一人が道徳的課題を追求する意図を明確に共有し合って語り合えるなら、それは外面的な活発さのあるなしに関わらず、多様な道徳学習が展開されていると評価されるのではないでしょうか。つまり「頭が働き、心が動く」、これこそが道徳科アクティブ・ラーニングのあるべき姿だと思います。

3.結びにかえて

 再度、述べたいと思います。道徳科授業で‘問題解決的な学習」を展開して行く上で重要なことは、1時間の授業の中で子ども一人一人が自らの問題として道徳的課題を捉え、「頭を働かせ、心を動かす」ことができるということです。
 これが授業の中で体現できているなら、それこそ「考える道徳、議論する道徳」となっていると言えるのではないでしょうか。アクティブ・ラーニングという用語が、徐々に各学校へ浸透しつつある昨今です。道徳授業の多様な展開という面では、とても歓迎されるべきことに違いありません。ただ、子どもが活発に発言し合っているから本時のねらいを達成しているとか、子どもが互いに自分の考えを楽しそうに語っているから授業は大成功といった学習形態の多様さを競うような本末転倒のものとならぬよう心したいものです。(了)