2010年05月07日16:08道徳の前提となるもの、そして、道徳の内容とは5
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12f7d4ed.JPG 今年のゴールデンウィーク(以下GW)、初夏を思わせる穏やかな好天続きでした。いかが過ごされたでしょうか。私は、この季節になるといつも少し心が乱れます。GW期間の全てが自宅に戻れるとは限らなかった単身赴任生活の頃、どうGWを乗り切るかという実にどうでもよくて、実に心情面で割り切れない恒例課題を抱えていました。その感覚が未だに抜けきれません。GWまで大学の研究室に閉じこもるというのは愚の骨頂、やはり精神衛生上好ましいものではありません。かといって、休日を共有する家族も傍らにおらず、それでいて普段の休日とは心理的に異なるGWという厄介かつ非日常的な時間を、それこそ自分が納得する形で埋めるための腐心はちょっぴり悲しい現実でした。
 さて、今回のテーマは「人間」という厄介かつ愛おしく、不可思議な存在を道徳教育ではどう捉えるのかということについて考えてみたいと思います。冒頭から恐縮ですが、文部科学省刊『小学校(中学校)学習指導要領解説 道徳編』を紐解いてみたいと思います。そこには、「人間は、本来、人間としてよりよく生きたいという願いをもっている。この願いの実現を目指して生きようとするところに道徳が成り立つ」と述べられています。この表記は中学校道徳編でも全く同一です。同じ一人の子どもが小学生から中学生へと成長するのですから、当然と言えば至極当然なことです。さらに、同解説では「道徳教育とは、人間が本来もっているこのような願いやよりよい生き方を求め、実践する人間の育成を目指し、その基盤となる道徳性を養う教育活動である」と続けて述べられています。言わば、性善説に立って不可思議な存在としての人間を捉えようとしているのです。もちろん、私も全く同感で、このスタンス無くして道徳教育は一言たりとも語れないであろうと考えます。ただ、双手を挙げて性善説を唱えるのかと問われれば、そうとばかりも言い切れません。社会的存在としての人間は、様々な顔をその時々に使い分ける変幻自在の存在であることも実感の伴う事実です。先日、武蔵野大学教授、貝塚茂樹先生の著書『道徳教育の教科書』を拝読させていただいた折、私もよく他所で紹介させていただく作家池波正太郎氏の代表作『鬼平犯科帳』の有名な一節が引用されていました。文春文庫(全24巻)2巻「谷中・いろは茶屋」の章で火付盗賊改方長官の長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため)こと鬼平(1989年よりフジTV「鬼平犯科帳」では中村吉右衛門氏が演じた)が、怪我の功名で兇盗・墓火の秀五郎を捉える羽目となった火付盗賊改方同心木村忠吾に「人間というやつ、遊びながらはたらく生き物さ。善事を行いつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事を楽しむ。これが人間だわさ」と、意味深長な労いの言葉をかける場面があります。また、遊びにうつつを抜かして文無しとなった忠吾にこともあろうに仇金を施す墓火の秀五郎が「人間という生きものは、悪いことをしながら善いこともするし、人にきらわれることをしながら、いつもいつも人に好かれたいとおもっている・・・」と、お松という女性を介して間接的に忠吾へ語りかける場面はさらに本作品の読み所でもあります。所詮、これは創作の世界と言ってしまえばそれまでですが、「人間としてよりよく生きたいという願い」の本質はこんなところにあるのかもしれないと常々思っています。いわば、複眼的な性善説に基づく人間理解こそが道徳教育では何より大切なことであろうとしみじみ思う次第です。
 また、「人間理解」という点で、人間の道徳的行動とか規範意識をどう捉えるのかという部分も大いに気になります。例えば、傍目には道徳的振る舞いに写ったとしても、それを本人自身がどう自覚して行為しているのかという問題です。1980年代、認知発達論的な道徳性発達理論が全盛期の時代にあって、どちらかというと日本では一部の心理学研究者の間でしか注目されなかった観のある理論がありました。米国の心理学者チュリエルの(Elliot Turiel)の領域特殊理論(Domain-specific theory)という考え方です。チュリエルの提唱する領域特殊理論とは、人間の社会的知識には質的に異なった独立領域(「道徳:moral」、「慣習:convention」、「個人:personal」)があり、その時々になされる様々な社会的判断や社会的行動は「道徳」、「慣習」、「個人」の各領域での知見が調整された結果であるとするものです。そして、それら各領域での知識獲得の文脈やプロセスはまったく異なっているという主張です。
 チュリエルによれば、「道徳」領域は道徳的価値を土台に構成される知識で、その運用は価値基準に照らしての判断・行動となります。「慣習」領域の知識は、家族や仲間集団、学校、会社等々の社会組織を成立させている要素への理解です。よって、「きまりだから」といったことが運用基準となります。 最後の「個人」領域の知識は、その判断や行為の影響が個の範疇に留まる運用基準です。いわば、個人の許容範囲といった認識です。例えば、「虚言」を取り上げるなら、「道徳」領域で言えば「人を欺く嘘をついてはいけない」ということになろうし、「慣習」領域で言えば「法律で罰せられたり、組織内で批判されたりするから嘘をついてはいけない」となろうし、「個人」領域では「周りに迷惑が及ぼさなければ(虚言でそんなことがあるかどうかは判断に苦しむが)個人の自由だ」ということになろうと思います。もっとも、難病の告知といった高度な、そして人間愛の視点からの虚言もありますので、それぞれの領域の発達的側面も重要であろうと考えます。
 では、なぜこのような話題を敢えて取り上げるのかというと、人間の道徳的行動や規範意識を育んでいく際にどのような方法、指導の手だてを講ずればよいのかがとても気になったからです。きっと、「道徳」、「慣習」、「個人」の各領域がそれぞれに独立したものなら、たぶん固定的な一律の指導方法では対処できないと考えるからです。つまり、教師が一生懸命に指導したとしても、その方法が適切でなかったら打ってもあまり子どもたちの心に響かないのではないかと懸念する次第です。改めて小・中学校学習指導要領「道徳」で示された内容を眺めてみますと、基本的生活習慣や勤勉さ、明朗さ等は多分に「個人」領域へかかわる内容であろうし、それ以外に道徳的価値と思われる内容、慣習にかかわる内容が混在しているように見て取れます。ならば、その道徳指導において内容項目を吟味し、指導方法そのものを適宜変更するといった策をどれだけ講じてきたかということが問われると思います。このような発想も、各学校における道徳教育充実の観点から重要かと考えます。ちなみに、授業研究会等へお邪魔すると、「この内容項目の指導で気をつけなければならないのは・・・」といった議論が交わされますから、きっと指導者は意識するしないにかかわらず分かっていることなのかもしれません。今回はここまでです。

★GWに柴又帝釈天へ行ってきました。日蓮宗寺院の帝釈天は通称で、正式には経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)が山号寺号です。辺りをぶらぶら散策していたら、柴又駅前で車寅次郎こと「フーテンの寅さん」を見かけました。


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