2018年10月31日

レビツキー&ジブラット2018,川中編2018,Tomini&Wagemann2018

1. レビツキー,S. & D. ジブラット著(濱野大道訳)2018.『民主主義の死に方』新潮社.
2. 川中豪編. 2018. 『後退する民主主義、強化される権威主義:最良の政治制度とは何か』ミネルヴァ書房.
3. Tomini, Luca & Claudius Wagemann. 2018. “Varieties of Contemporary Democratic Breakdown and Regression: A Comparative Analysis,” European Journal of Political Research, 57, 687-716.

最近読んだ3つの研究。相互に関連づけつつ整理してみたい(ほぼ1.のレビューだけど)。


レヴィツキとジブラットの本の主たるアーギュメントはおそらく三つで,

民主主義の内側からの独裁化を防ぐには,
1.最初から潜在的独裁者が候補者にならぬよう,ある種のエリート選出を許容せねばならない。党内民主主義は宜しくない。
2.どれだけ良い憲法でもそれだけでは十分ではない。憲法制度は,一定の規範(相互寛容など)が存在する条件で機能する。
3.政治の二極化が当該規範の浸食を加速させている
(この座談会でもそう整理されている https://www.youtube.com/watch?v=5v4NTtS2f5k)

というところ。論旨に反対ではないけれど,それは特殊アメリカ的な議論なのではないか,というのが感想である。本書自体,幅広い比較的検討がなされる物と期待して入手したが,世界各地の事例が触れられているとはいえ最終的に説明したい対象はアメリカという特殊な国におけるトランプ台頭一事例にあるように思われてやや拍子抜けしたのが率直な所である。翻訳はとても良い。解説はひどい(3つのメインアーギュメントのどこにも引っ掛からない解説を書ける本書解説はなかなかすごいですね。本当に読んだのか?)

一部の邦語紹介や日本語版元の煽りで強調されているような,民主主義の死は選挙から始まる,みたいな話は本署の議論上はそんなに核心ではない。そんな話は(本書でも触れられているように)ヒトラーの時からみんな知ってる現象なわけだし,民主化/独裁化の体制変動論の研究文脈[特に本書著者のレヴィツキはその関連分野の大家の一人だ]では,当然の常識/前提知識である。

当該視点は十分な実証研究などもあり,例えば(個人的に決定的研究の一つだと思っている)Maeda 2010@JoPは,世界中の体制維持/変動データを計量分析にかけ,かつ,民主主義の崩壊を,クーデターや騒乱などの「外から」の終焉と,当初民主的に選出された権力者の権力乱用による「内から」の終焉に分けて,それぞれが異なる原因によって規定されていることを明らかにしている。これは,政治制度,経済成長,体制変動という非常に大きな3つの要素間の関係を巡る論争にも一定の決着をもたらしていて,詳細は省くが,「内から」の民主主義の崩壊はほぼ政治制度-具体的には大統領制の採用-によってのみ起こりやすくなっていることを明らかにしている。内側からの民主主義の死には,経済発展度も成長率も民族的分断も都市化度も植民地化の歴史も軍政経験も関係が無い,ただ大統領制を採用しているという制度導入だけが,内側からの民主主義の死をもたらしやすいことが示されている(「外から」の民主主義の終焉には経済状況や民族的多様性が影響を与えるが)

大統領制が民主主義の内からの崩壊を招きやすいという議論は決して新しいものではなく,有名なのがリンス&ヴァレンスエラ1993(邦訳2003)の指摘である。だが,当時のリンスらの議論は民主主義の終焉を「内から」「外から」別には分けなかったし,他の統制変数の効果を幅広く考慮しなかったため,政治制度と体制崩壊の関係は見せかけの相関にすぎなかったのだろうと,しばらく否定気味に扱われていた。

そのこともあってか,レヴィツキらの今回の業績ではMaeda2010もLinz1993も参照・引用されていない。
だが,内からの民主主義の崩壊を議論する際に,唯一国際比較的に有意な効果が出ていると論じられている大統領制がもつ助長効果を議論しないのは重大な欠落である。と自分は受け止めた。

たとえば,上記の議論の2(そしてそこからの延長である3)の議論をする際にこんな問いの建て方がされている。
・南米の多くはアメリカと同じような政治制度を採用した。「にもかかわらず」独裁へと突入した。
・フィリピンは合衆国憲法の忠実なコピーと呼ばれてきた。「にもかかわらず」憲法を骨抜きにしてしまった。

これは先述の先行研究を了解していれば,「にもかかわらず」の部分は「だから」と置き換える方がストレートかつ実証的には根拠のある議論である。問われるべきは,アメリカ型の政治制度/憲法を導入していたにも関わらず諸外国が内側からの独裁化に突入した事ではない(むしろそれは,自然な帰結である)。独裁に突入しやすい政治制度/憲法を持っていたにもかかわらず,これまで独裁化を防いできたアメリカの現象の方が謎であると言える。

そのうえで,内側からの民主主義崩壊という現象に対して脆弱・不利な政治制度/憲法でありながらも,それを何とか防いできたのが,(本書でいう所の柔らかいガードレールとしての)特殊アメリカ的な政治エリート間の規範の体系であった,というのであれば話は分かる。相互寛容や制度的自制の規範が重要だ,という話自体は,そうなのだろうと自分も考える。しかしそれは,大統領制という内からの民主主義崩壊に不利な条件下で,その不利な条件を打ち消すのに重要だ,という事として理解した方が良いのではないだろうか。

そもそも議院内閣制であれば,異なる党派間や政治家間の相互寛容の規範なんぞなくとも,立法府と行政府の主流党派が捻じれていたり,行政長官が議会度外視な事をやりつづければ,早い段階で議会からの不信任をうけて権力の座から引きずりおろされるわけである。最初の段階で,変な人間がうっかりリーダーになっても同様である。議院内閣制には,このように良くも悪くも「リーダーの足を引っ張る」制度が内在化されている。

ところが大統領制にはそれがない。出口の部分で他の政治エリートが民主的に選出されたリーダーの足を引っ張る事が(すくなくとも弾劾レベルの事態をやらかさない限りにおいては)できない。だからこそ,レヴィツキらの1の議論もまた重要になってくる。入口の部分で,うまいことエリート主義的に候補者選出を巧みにやらないと,潜在的な独裁者を将来の政治リーダー候補者に据えてしまい,彼/女が民主的なプロセスを経て権力を保有した後に,その手足を縛る事が出来ない(だから,規範という,本書で言う所のガードレールに頼るしかない)。

個人的にはこの1の議論の方は十分に評価されより深く検討されるべき本書の貢献だ。むろん,党内民主主義のような選出方法が常に潜在的独裁者を民主的リーダーの候補者として選ぶわけでもないし,本書でもたびたび触れられているように,エリートの排他的な選出でも,うっかりそういった人物を候補者として選んだり(民主的な手続きのフィクションの元)リーダーとして互選する事がある。だが,そもそも本当にそれらが実証的・体系的に本当に内側からの民主主義崩壊抑止に役立つのか,あるいは実は特に効果が無いのか,おそらく実証的にはまだ誰も知らない。これは,基本的には政党組織論の話になるだろう。政党組織の性質がどういった物かというものは,なかなか国際比較のラージN研究の枠組みには乗せづらい(指標がない?)ので,どういう政党組織構造の方が民主主義の内からの浸食を招きやすいのか,実証的にはまだ知られていない分野である。本書の指摘1は,このテーマに先鞭をつける者と言える。(またアメリカ政治の二極化はしばしば党内民主主義導入の帰結として論じられることも多いので,議論1と議論3は,議論2を媒介しなくても接続されうる領域である)


話は長くなったが,次の川中編(2018)である。論文集ゆえに各国個別事例の部分が本書の大部分を占めるのだが,序章と終章にあたる川中2018と菊池2018を大変興味深く読んだ。それぞれ,理論編と,国際データ編ともいえる。

本書の背景にあるのは,世界の民主主義関連指標の全体的トレンドがここのところ低下してきた件に関し,「民主主義国が民主主義じゃなくなってきている」と論ずるL.Diamond派と「いや中間的な権威主義国が頑健な権威主義国になった結果だ」と論ずるS.Levitsky派(そう,上述のレヴィツキ/レビツキーさんです)の論争をベースに,民主主義[指標?]の「後退」ってものが何なのかもう少し細かく追求しましょうよ問題設定を置いているのが本書である。

〔閏膽腟舛(クーデターなどにより)崩壊した
¬閏膽腟舛(民主的選出を受けたリーダーにより)浸食される。
L閏膽腟舛噺軫Г気譴討い親蛤杣坿峩チ茲坊菽紊つき頑健な独裁になった。
っ羆レベルでの民主主義の確立が地方レベルでの権威主義の確立によって支えられている

´△論莉劼Maeda 2010の「外から」「内から」とほぼ同一といえるだろう。い鬚海海吠体鵑靴燭里本書の枠組みのオリジナリティと言える。はレヴィツキらの議論とも関連しており,い呂い錣罎覿畴流行のサブナショナル権威主義の問題である。

民主主義の死であるとか後退と言われる現象が,その実一様ではなく,質的に異なる現象の集積なのだという理解を大いに助ける業績である。

新興民主主義国における種々の民主主義関連指標の変動に着目している菊池2018によれば,かならずしも全面的な民主主義の「後退」が起きているわけではないので,その点でダイアモンドらの議論が全面的に肯定できるわけではないものの,1)メディアの自由,2)行政長官に対する司法介入などの水平的アカウンタビリティに関する指標(おそらく戦術△離院璽后砲瞭鵑弔砲弔い討鷲分的に退行傾向が見られること,地方政府レベルの民主主義度(先述のい離院璽后砲亡悗靴討枠羈單はっきりと退行傾向が見られることを指摘している。

大文字の「民主主義が退行しているいやしていない」という議論ではなく,それを質的に分別し,「ここはしていない,ここはしているかも,ここはしている」と緻密化する重要な業績であるといえる。


ここで紹介した文脈でも明らかなように,レヴィツキは従来,「世界で民主主義が退行しているなんて嘘でしょう」という論陣を張っていた側だったのだ。このDiamond派との論争の背景は,レヴィツキ&ジブラット2018の第9章でも少しふれられている。しかし,そこで若干の敗北宣言とも取れる?記述があり(邦訳p251),従来のレヴィツキvsダイアモンドの議論を知っている層からみれば,レヴィツキ&ジブラット2018の驚きはそこにこそある。


民主制の崩壊に関して質的に弁別するのではなく,量的な深度で場合分けし,それらをもたらす条件をQCAで検証したのがTomini & Wagemann 2018 @ EJPR である。
どちらかといえば,民主主義の質の議論にのせられやすかった,民主制内での指標変動(たとえばFHであれば1->2.5のようなもの)と,体制変動の議論に乗せられやすかった民主制から他制度への指標移動(たとえばFHでいえば1->6)について,どちらも,民主主義制度から独裁制方向への指標移動としてひとまとめにし,前者を民主主義の退行(regression),後者を民主主義の崩壊(breakdown)の語で整理する(まぁここまでは良くあるかな…?)。

FH指標をベースに,全ての退行および崩壊事例を対象として,fQCAを行う。(なにもおこらなかった国・年は,サンプルには入ってこないので,このQCA内でのOutcomeで0を取るのは,“最小の退行を経験したケース”になる。これが良いのかよいのかはよくわからんのだが,著者的には民主主義の「退行」は,民主主義の「崩壊」に至らず,それを押しとどめたケースと見做しているようなので,その視点に立てば変ではないのかもしれない…

QCAの分析結果はおおよそ次の通り

民主主義の「崩壊」をもたらす条件セット
1.高い経済不平等
1.1 ×強い行政権限×多い抵抗運動
2.低い経済発展度×民族的多様性
2.1 ×高い選挙ボラティリティ×強い行政権限
2.2 ×高い選挙ボラティリティ×多い抵抗運動
2.3 ×強い行政権限×多い抵抗運動

民主主義の「退行」をもたらす条件セット(メイン結果報告はオンライン)
1.長期にわたる民主制×多党的な政党システム
2.低い経済不平等×多党的な政党システム×少ない抵抗運動
3.低い経済不平等×長期にわたる民主制×低い選挙ボラティリティ

本書の中での民主主義の「退行」の位置づけがいまいち不明で,崩壊と同方向性の減少と見做しているのか,崩壊の失敗(防止成功)事例と見做しているのか,が良くわからない。


stebuklas0311 at 13:45コメント(0)読んだ物政治 この記事をクリップ!このエントリーを含むはてなブックマーク

2018年10月17日

ウプサラ大学

ウプサラ大学ロシアユーラシア研究所で,先日のラトヴィア総選挙に関するラウンドテーブルで話してきました。
初めての海外招聘です(といっても,極東から呼び寄せる想定の予算になっておらず,こちらの科研も折半はできないので,航空券代はこちらで出したのですが)

NAKAI, Ryo "Support Bases of Latvian Political Parties in 2018 Elections: An Approach from Survey Data"
Roundtable discussion "Latvian Parliamentary Elections 2018" 16 Oct. 2018. Institute for Russian and Eurasian Studies, Uppsala University
http://www.kalendarium.uu.se/Evenemang/?eventId=37100

2018年10月15日

日本政治学会

日本政治学会で討論者と,企画パネルでのスピーカーを務めました

2018年10月12日

Nakai 2018

Nakai, Ryo (2018) "Latvia’s Same Old Story: the rise of new parties and a never-ending inchoate party system" Who Governs Europe? October 9th, 2018.

web媒体ですがラトヴィア総選挙に関する速報的分析の記事を頼まれて書きました。

少し裏話を。このサイトに限らず,大抵の欧州選挙の分析記事は欧州人(同国人)が書くでしょう,日本の政治学者が書いて「なんだこいつわかってない」と思われるのは癪でございます。それなりに準備は致しました。同時に,単なる報道的な速報記事ではありませんから,政治学者ならではの記述も必要だと考えました。

凡百の国際メディアのように,結果だけをみて文脈を見ず,第一党から「親露派勝利」「新党台頭で民主主義の危機!」などといった論調には絶対にしませんでした。親露派政党が第一党なこと,新政党が議席をとるの毎度の事です。その意味で,いつものよくある話,というタイトルを付けました(イディオム自体はサイト管理者,ピーターメイアの後継者?CasalBertoaさんの案です)。

写真の選択は結構こだわりました。上記の意図がありますから,もちろん親露政党の画像などは使いません。また,少し前から着目されていた新興ポピュリスト政党のリーダーの写真も使いません。あえての第三党党首の写真です。それなりに,ラトヴィア内から見れば「わかってる」シグナルになることを期待しての事です…。この時点でBordansに着目した記事あんまないんじゃないですかね…,これで首相指名が彼になりでもすれば,ちょっと自慢できるでしょう。

他方で,いつものラトヴィア選挙結果以上に顕著な側面として,かつメディア記事等では出てこない観点として。有効政党数の変動は見ました。それを見たところ,過去2番目に高い数値が出てきたので,いままで以上に流動化するだろう,連立政権の構築や維持も難しいだろう,という論調を差し挟みました。これは,ラトヴィア内向けというよりは,広く政治学者に向けてのメッセージです。また,世論調査データも持っていますので,軽い回帰分析を入れました。ここの結果は,一部のラトヴィア国内研究者からもリアクションがあり,嬉しいです。



2018年09月24日

フンボルト大学BIM

先週の事ですが,ドイツのフンボルト大学の移民統合研究所(BIM)という所で研究会があり,僕はバルト圏の対移民態度についてお話してきました。

NAKAI, Ryo "Statistical Analysis of the Attitude toward new Migrants in Baltic Countries" BIM-KAKEN joint workshop Dynamics of Refugees and Perception toward their Integration, Berliner Institut fur empirische Integrations- und Migrationsforschung, Humbordt Univeristy

2018年08月25日

Schulze 2018




Schulze, Jennni L. 2018 Strategic Frames: Europe, Russia, and Minority Inclusion in Estonia and Latvia, Pittsburgh UP.


なかなか面白かったです。最近,日本と英語の雑誌一つづつから,書評を頼まれているので,どちらかあるいはその両方で本書を扱おうと決めました。でも概要だけちょっとレビューします。

トピックとしては,エストニアとラトヴィアのマイノリティ政策(言語政策・国籍政策・教育政策)はなぜ変化したりしなかったりしたのかという問いです。本当にレッドオーシャンな領域なんですが,理論的拡張としてはBrubakerのTriadic Nexus(に欧州機関を入れこんで東欧に拡張したSmithらのQuadrics Nexus)の精緻化が書籍全体としての貢献のようです。

ただ,この理論的貢献の部分は少し曖昧というかマージナルかな?と個人的には思っていて,むしろそれよりは地域研究の観点から,外交的圧力による国内マイノリティ政策に対するロシアの(欧州機関との)インタラクションの影響を論じたことと,膨大な議事録を追っていき簡潔な数量的な議論も含めたところが,貢献だろうと思います。また補足的にですが,このバルト圏のマイノリティ政策にまつわる関連議事がどの法案で何月何日にどこで行われたのかのレファレンスとしての価値もあるかなと思います。

バルトに限らず東欧の民族政策なんかがリベラル化すると,いまだにEU(というよりはCoEやOSCE)の圧力で〜という議論がされがちなのですが,実際にはEU加盟前でも各国は政策を変更したりしなかったりしましたし,あるいは加盟後(もう圧力をかけられないはずの時期)にもリベラル化させたりしてきたわけです。そのため,最近の潮流としては,欧州機関の圧力なんてのは絵空事で,結局は国内政治のダイナミズムが重要だったんだ,というのが議論のメインストリームを占めてきています(例えばAgarin & Cordell eds 2016)。欧州機関の圧力の様なものは,国内で政策変更するときの言説として都合よくつかわれることはあるだろうけれど,実際に圧力があっても政策が変更されないことは多々あったよね,結局使うか使わないかは国内政治(家)が決めるよね?というスタンスです。僕の研究も,大きな意味ではその文脈での一つです。

本書はここで,欧州機関の圧力というIVだけでは確かに意味がないけれど,ロシアとの外交的緊張・ロシアとの圧力,という交差項になれば,外交圧力だけで,国内政策を変える効果を持ったのではないかという議論を展開します。

なぜなら,大抵,欧州機関からの政策変更圧力に抵抗するのは,国内のナショナリスト勢力なわけですから,彼らを国内的に説得させる(あるいは彼ら自身が頼る)言説が調達できるか否かが,国内政治のダイナミズムに影響を与えます。そしてバルト圏の場合,欧州機関の圧力に屈すること以上にナショナリストが嫌悪するのは,ロシアの影響を受けることです。そのため,ロシアとの外交危機が高まったり,ロシアがある種の国際紛争を抱えると,バルト圏内では「ロシアの圧力に対抗するためにEUをもっと利用しよう。そのために欧州機関の言説にもある程度妥協しよう。これは戦略的選択で,欧州機関の圧力に屈して我が国の権益を脅かすものではない,むしろそれを強めるものである」という言説を,ナショナリスト自身が採用し始めるのです。結果,国内のマイノリティ政策をリベラル化することに,ナショナリストでさえちょっと妥協し始める,と。

そんな込み入った理屈が本当にあるのか…という疑問が出そうですが,本書の強いところは,議事録を徹底的に洗っていて,本当に現地国会での議論でそういった議論が展開されていることをバシバシ示してくるところです。地域研究的にはここ本当に貢献ですね。また,議事録の議事の言説フレームを欧州フレーム,ロシアフレーム,その他に弁別していって,欧州フレームだけが議事で扱われているときには(つまり欧州からの要請が議論されている時には),その数がどれだけ多くても政策変更は行われていないのに対し,欧州フレームとロシアフレームの両方が議事で上がっているときには,政策変更がなされたタイミングと一致していることを示します。(1例例外があるようですが) シンプルな記述統計だけですが,強力な議論です。

議事録は現地協力者が英語化して著者がカウントしたようです。ですから,その数え上げ自体が妥当なのかはわかりません。その実態は本書からは見えません。まぁ信じるしかないでしょう。仮にそこの数え上げが多少ブレていても,いろいろ発言内容の質的部分から前述のロジックが確かにあること自体は言えそうです。

一つ論点があるとすれば,はたしてでも議場発言において,政策変更において有利な言説が使える・使えない,という差があるとしても,本当にそれが政策変更に直結するのか?という所でしょう。たしかに,ナショナリスト政治家にとって,ナショナリストにとっても納得できる言説が与えられることは,支持者からの離反を防ぐという意味では大事です。でも,一般の支持者って,そこまで議会の発言って追ってるんでしょうか?おそらく大多数の有権者は,ある政策への賛否くらいは見ても,どんな議論を議会で展開したかはみない/みれない わけです。「おー,今回はEUの圧力に屈して政策変更しやがったから,けしからんぞー」とか,「そうか今回はロシアの脅威があるからEUと仲良くなるのは戦略的に重要だなー」とか,一般有権者がいちいち議場での発言を調べてみて投票行動を変えますかね?前者の様な考えをする人は,政治家が議場でどの発言をしようと,前者の考えを持つでしょうし,後者の様な考えをする人は,政治家が議場でどの発言をしたかに左右されず,後者の考えを持つように思うのですよね…

まぁでもあくまで議場行動をするのは政治家なので,政治家自身が主観的に「こういう言説なら説得できる/できない」と考えることが重要というのは間違いないのかもしれない。ある意味では,有権者の能力を非常に高く見積もって政治家は議場発言し議場行動をするはずだ,という世界観が背景にあるのかもしれません。

最後に,この本にはとってもいいところがあって,僕の論文をたくさん引用・参照してくれてるという所です!自分の仕事が元になって次のもっと大事な仕事につながってるというのが視覚化されるのは,やっぱりうれしいですね。

stebuklas0311 at 01:51コメント(0)政治読んだ物 この記事をクリップ!このエントリーを含むはてなブックマーク

2018年07月25日

IPSA 2018

IPSAの25th World Congressに来ています。すでに最終日です。報告とチェアをしました。

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ブリズベーンはいいところです。なんだかいろいろとすることがあり,
市内の中心地の方すら見れずに帰ることになりそうです。







2018年05月15日

Gangof 2018

Gangof, Steffen (2018) "A New Political System Model: Semi-Parliamentary Government" European Journal of Political Research, vol.57, no.2, 261-281

半大統領制ならぬ,『半議会制(半議院内閣制)semi-parliamentarism /-ry system』なる新分類の提案と,その位置づけの提唱。(むかしドゥヴェルジェさんがちょっと言ってたのとは違うもの)

大統領制は行政長官が民選議会の支持を要しない。議会制は行政長官が民選議会の支持を要する。
執政者の「一部」が民選議会による支持を要するのが半大統領制だとして,
執政者が民選議会の「一部」による支持を要するのが半議会制と定義している模様。

著者によると,大統領制でも議院内閣制でもなく,両制度の悪い点を打ち消しあう,どちらよりも優れた?政治制度で,該当例は(先進国では?)オーストラリアと日本とのことだそうだ。論文本体は日本の話は無くて,オーストラリアの話のみ。日本の場合上下院が両方民選だが,首相の任命権と解任権が事実上下院にある,というあたりの話のみはある。

すごいエポックメイキングな事を言ってるような予感もするが正直僕には全く評価ができませんでした。これは有用で緻密な分類法なのか,ただの大言壮語なのか?同業者の評価が知りたい。文京のI井さんとか好きだろうか。ちなみに調べたらオーストラリアではちょっとこの「半議会制」論が一般にも流通?し始めているらしい。

stebuklas0311 at 16:10コメント(0)政治読んだ物 この記事をクリップ!このエントリーを含むはてなブックマーク

2018年05月10日

Przeworski 2018

Why Bother With Elections?
Adam Przeworski
Polity
2018-02-27



Przeworski, Adam (2018) Why Bother with Elections? Polity

昨年度末の休み期間に読んだ本であります。比較政治業界における民主化論/民主制論のビッグネーム,プシェヴォルスキPrzeworskiの民主制論のエッセンスを,一般向けを想定して書いた本と言えそうです。約150ページ,膨大な文献表なし,数式なし(脚注での一か所のぞく),回帰分析表なし。誰でもわかる記述的な数字とグラフでエビデンスを示しつつ,他方で規範的な?民主主義論にも架橋しようと試みる,大変すばらしい本です。どこか早く翻訳権をとって訳書をだすんだ!

思うに本書の通奏低音は,社会を二分する,富・パワーをもつエリートとしてのrich層と,富もパワーも持たない一般大衆としてのpoor層の,インタラクションとして,選挙〔そのものやそれにまつわる諸制度〕を分析すること。なぜ,わざわざ権力をもつエリートとしてのrich層は,自らの権限を薄めるような民主化/選挙権拡大を実施するのか? 選挙というゲームにおいてpoor層は数で優位に立つが,本当にそれによる便益を得ているのか,など。

非常にシニカルな視点ですが,他方でAcemoglu&Robinsonの民主化論などともリンクする,今日のスタンダードな分析視点ともいえます。(狭義の)政治過程研究者,憲法学者,公共選択論者ともすこーし経路が違う,比較政治学者たちの選挙勧/民主制観を知るにも良い本といえそう。

使うデータがWW2戦後だけではなく,1788年以降可能な限りすべての選挙という点も重要(独裁制の選挙も含む)。より大きな歴史的視点が入っている。

章立てはこんなかんじ
Chap1: Introduction
Part1: How Elections Work
Chap2: The Idea of Electing Government
Chap3: Protecting Property
Chap 4: Jockeying for Partisan Advantage
Chap 5: Conclusion: What is inherent in Elections?
 Part2: What Elections Can and Cannot Achieve
Chap6: Introduction II
Chap7: Rationality
Chap8: Representation, Accountability, and Control over Government
Chap9: Economic Performance
Chap10: Economic and Social Equality
Chap11: Civil Peace
Chap12: Conclusion

以下,各章ごとに個人的な趣味で面白かった点の抜き書きだったり引用だったりメモだったり。

Chap1: Introduction
・選挙の多数決決定下では,数に勝るpoor層がrich層の富/財産をすべて収奪する決定が原理的に可能である。他方,民主制導入の段階では旧体制のエリートすなわちrich層による導入になる。それゆえ(民主制の外見を持つ中で)いかにしてpoor層の影響力を抑制しrich層の利害を代弁する政府を維持させ続けるかが(rich層にとっては)重要な利害となっているはずだ。

Chap3: Protecting Property
・poor層の要望をフィルタリングし既存権限を擁護するものとしての(行政長官の?)間接選出〈選挙人制度〉。間接選出では現職敗北確率が9.7%だが,直接選出では現職敗北確率は23.5%。
・公開投票(←→秘密投票),特定多数決,二院制,王制維持 も現職権限の擁護に役立つ
・上記の諸制度は世界的に減少するのがトレンド,だが,これと同じようなペースで,世界的に増えているものがある。憲法裁判所の導入・中銀独立性規定の導入である。これらは,民主主義の美名を帯びた選挙/多数決による決定から,rich層の自由/人権を守り,彼らの経済的権限への(非合理な)介入を遮断する機能を果たしている。
(Przeworski自身は直接には明言していないが,明らかに「憲法裁や中銀独立は,それが正義だから導入されるのではなく,それがエリートrich層の利益になるから導入されてる」と,利得の均衡点としてこれらの制度を位置付けているといえる。この視点,結構面白かった)

Chap 4: Jockeying for Partisan Advantage
・現職の敗北確率(政権交代発生確率)は1980年代くらいまではだいたいずっと20%以下。つまりオッズは約4:1
・投票することは選出することと同じではないVoting is not the same as electing!
・現職側が(大抵は合法的に)行える現職有利状況の創出は以下の通り
 1)自勢力に有利な法規・規制の導入
 2)与党地位に基づく行政機構の利用/活用(大衆受けする措置実施など)
 3)ライバル勢力の抑圧・非合法化
 4)選挙資金規正/援助のコントロール [←は(1)の延長のようにも思えるが]
 5)汚職
・Competitive elections are not “fair”: elections have to be conducted by some rulers and all rules bias the chances one way or another (p69)! 競争選挙は決してフェアではない。選挙は何かしらのルール下で競われるが,どんなルールも必ず誰かに有利になる。Yet, even if the chances are unequal, as long as results of elections are uncertain, as long as the competition parties can influence only the probability of their victory but must leave room for surprise, elections are competitive (p70). しかしたとえチャンスが平等ではなくとも,選挙結果に不確実性がある限り,勝利の可能性がゼロではなく逆転劇の余地がある限り,選挙は争われる。

最後の視点は,非常にシニカルだが現実的である。この視点からみれば,確実に誰か(多数派)の利害が常に不確実性なく代弁され続ける制度などは,理想の選挙制度ではないどころか,そもそも選挙の実施自体を脅かすという意味において,危険な制度なのである。そこでは,競争は行われない。もしそれによって少数派たるrichエリート層が脅かされるなら,彼らはそもそも民主制を導入しないだろうし,仮にいったんは導入したならばそれを終了させる選択をとるだろう。先日,本ブログでも言及したシャピロの議論を思い出す。また本書の後半の議論にもつながっていく (そしてこの視点こそが,多数の民主制の崩壊・終了などを実証的に分析してきた,Przeworskiの視点の真骨頂であると私は思う)。

Chap7: Rationality
・多くの民主主義論が依拠するような共通の利益(Common Interests)や全体を一体のものとしてみる視点なんて神話では?? 
・Yet the argument that majority rule identifies the right answer makes no sense when interest, values, or norms are in conflict. (p85) 利害・価値・規範が衝突する領域において,多数決によって“正しい選択”を選べるなんてのはナンセンスである。私がプロチョイス,彼がプロライフであるとき,唯一の正しい決定(”the” correct decision)なんてあるのか?
・異なる選択肢が選ばれうるためには,どの勢力にもその勝利の可能性が不確実[に与えられている状態]であるほどよい。(この理由でPrzeworskiはPRよりSMDに親和的な?模様 最後の結論部でもちょっとその話がある)
・選挙は選ばれた人間の知的権威や道徳的権威を生むわけではない,ただ彼らを承認するだけである(p88)。

Chap9: Economic Performance
このページ6ページしかない。競争選挙の結果は不確実だが,独裁制下の(統制にない)不確実性よりはマシ?

Chap10: Economic and Social Equality
・実際のところ,民主主義体制-権威主義体制の体制間で,格差指標にはそこまで大きな違いがでない。なぜかといえば,民主制下では,ある程度格差が高くなると再分配の程度も高まるのだが,さらに格差が高くなると再分配の程度はむしろ減る(Gini40程度が再分配率のピークで,Gini係数がこれより上でも下でも再分配率は下がる)のである。非常に格差が高い所では,経済のみではなく政治的能力についても大きな格差があるためだと思われる(p105-6)
 
・本来再分配を必要とするpoor層の政治的資源/機会は,rich層と比べて平等ではない。

Chap11: Civil Peace
・競争選挙を通じて平和裏に政権交代が行われる/たなんてのは,非常に最近の,しかも限られた国の話に過ぎない。
・「選挙で敗北した側が平和裏に権力を移譲するか,それとも選挙結果を反故にして(政権が持つパワーを利用して)暴力に訴えかけるかは,それを実施するコストや,いったん敗北を受け入れても次に勝てる可能性にかかっている。彼らが(暴力に訴えず)「待てる」かどうかは,新しく政権に就いた側が極端な政策を導入して,前政権支持グループに押し付けないこと,次の選挙戦で勝つ見込みがあるかにかかっている。もちろん,選挙で新しく勝利した側もそれがわかっているので,暴力的反発を防ぐためには,極端な政策は導入しない」。
・「選挙の敗者がそれに従うのは,選挙結果という過程自体に正当性があるからではない」。
・「むしろ投票とは“力こぶを見せる事”(flexing muscle)であり,起こりうる戦闘の見込みを示すものである」。
「選挙は暴力による権力交代を代替している。なぜならば選挙結果は誰が誰に対してどれくらい“強い”か可視化するからである。選挙結果は敗者にこう告げる「これが勢力分布だ。もし君たちがこの結果に従わず,もし暴力的手段にうって出たところで,我々の方が(多くの人員を持ってるので)お前を打ち負かす可能性が高いんだぞ」と。 また,選挙結果は勝者にもこう告げる「もし次もきちんと競争的な選挙を実施しなかったり,自分たちためだけの過剰な政策を行えば,これだけの数の人間が抵抗を展開するぞ」と。」(p117)
”In the end, the miracle of democracy is that conflicting political forces obey the results of voting. People who have guns obey those without them. Incumbents risk their control of governmental office by holding elections. Losers wait for their chance to win office. Conflicts are regulated, processed according to rules, and thus limited. This is not consensus, yet not mayhem either. Just regulated conflict; conflict without killing. Ballots are “paper stones.”” (p118)

個人的には最後の2引用あたりがPrzeworski選挙論の真骨頂に思う。

ちなみに,paper stoneとは(その含意はここまで読まれた方には自明でしょう),プシェヴォルスキの前期の業績の中で代表的な書籍のタイトル名にもなってるんです。すでに高齢で引退間際に著した,一般向けの集大成ともいえる書籍の,最後の方にかつての名作のタイトルが出てくるとか,ちょっと熱くなる展開ですよね。私はもうここ読んでるときに鼻息荒く興奮しておりました。

Chap12: Conclusion
・「選挙というのは,我々の望むもの(良い政府,合理的結果,正義,発展,平等性等)をすべて与えてくれるメカニズムというわけではない。それはひとえに,異なる選好をもつ人々の間にあって,紛争を一定のルールに基づいて処理する仕組みである」(p120)



民主主義/競争的選挙が,なぜ好ましいかの正当化事由は,だいたい,修譴結果合理性を担保するから△修硫當自体が規範的に好ましいから のどちらかの流れをとることが多いと思います。(日本の憲法学だとだいたいそういう整理をすると思います〔異論もありそうですが〕)
ところが,本書は,そういう視点をとりません。,任皚△任發覆ぁい修發修眄掬性などない。単に均衡としてその制度が選ばれたからあるに過ぎない,という視点ともいえるでしょう(そしてこれは必ずしもPrzeworskiオンリーの知見ではなく,実証系比較政治学の人が多く持つ視点であるようにも思われる)。
だが他方で,政治の本質の一面に闘争があり,対立があり,現実の世界ではある正当性を帯びた制度が暴力であっさり覆される現実がある中で,競争選挙は種々の闘争・対立を相当程度平和的に処理する点に,美点があるという論旨といえるでしょうか。Przeworski本人はそこまでは直裁には語っていませんが。

民主政/選挙が好ましい〔そして目指すべき地点がある〕のは,それが正しい結果をもたらすから,とか,正しい手続きを有すからといった,ポジティブな理由ではなく,人が死なないからである,というネガティブな理由にすぎない,といえるかもしれない。

stebuklas0311 at 23:00コメント(0)政治読んだ物 この記事をクリップ!このエントリーを含むはてなブックマーク

2018年03月26日

宇野・坂井2018,シャピロ2010

宇野重規・坂井豊貴(2018)「GDPと民主主義と<私>(『大人のための社会科――未来を語るために』刊行記念トークイベント・抄録)」『書斎の窓』656号,4-15.

シャピロ,イアン著,中道壽一訳(2010)『民主主義理論の現在』慶應義塾大学出版会

坂井先生の一連の業績は非常に素晴らしいと思っていて,よく売れた例の新書は前任校の初年度教育の少人数クラスでも指定テキストに使ったことがあった。自分としては,坂井先生に限らず公共選択論(的なもの)の考え方の前提を一消費者として共有し,その前提内の結論の妥当性は了解しているつもりであったが,最終的な結論そのものについて(比較)政治学的に考えると,違和感を覚えるということも多かった。「議論の前提や演繹について変な事は言っていないと自分は感じているはずなのに,なぜ最終的な結論部分に自分は引っかかるのか…?」という違和感であった。

当時考えていたことは,
・民主主義の視点ばかりで自由主義の視点が抜け落ちている?
・ルソー一般意思的なもの〔あるいはもっと単純な多数派暴政の可能性〕への批判的検討が弱い?
というようなことであったが,根本的には
・少数派が時にうっかり勝ってしまう事はそこまでアカンことなのか…?
(もちろん毎回ないし構造的に少数派が勝ってしまう状況は除く)
というようなことをぼんやり考えていたと思う。

宇野先生と坂井先生の対談を読んで坂井先生自信が語っている一言でいろいろと納得がいった。曰く「多数決にこだわりすぎている」

例えば上記の対談では政党の位置づけが対象だ。多数決を通じて妥当な決定を導きうると前提し,コンドルセ陪審定理をその正当化の理屈に持ってくるのであれば,意思決定者のNを減らすような政党〔正確には党議拘束?〕の存在は困った存在だ。しかし議会のfunctionは多数決だけではない。そもそもの決定選択肢の形成やアジェンダの設定もある。また,仮に「徒党を組んではいかん」といくら言葉で言った所で,徒党を組むインセンティブが存在する以上徒党は組まれるのだから「野心は野心によって対抗されなければならん」(by マディソン)部分もあり,その時に政党(やその凝集性を維持する党議拘束)は好ましい存在へと転化する。

同じようなことは政党の位置づけ以外にも言えそうだなぁ…,というのが本対談記録を読んだ感想であった。別に,「多数を多数として代表させる」ことだけが民主主義全体の唯一の機能ではない。競争であったり,統治可能主体の選定であったり,(暴力ではなく)言論による利益表出/媒介/調整の維持だって,その機能の一部である。

比較政治学上のテーマにひきつけるならば,多数決にこだわりすぎた結果,もし「多数派が永遠かつ絶対かつ普遍的に勝利する選挙/制度」が設けられたとしても,そこに参加するプレイヤーがその制度を維持するインセンティブを持たなくなる事だってあるだろう。具体的には,悲劇にしかならない可能性である。

比較政治学の実証研究の見地からいえば 民主政が維持できるか否かは選挙の敗者〔少数派〕が将来の選挙での勝利を期待できるがゆえに敗北を受け入れるか否かにかかっている(by Przeworski)。その確信を持たせられない状況があったがゆえに,民主政が崩壊したり,時に内戦や流血をもたらされたりしてきた例は少数ではない。選挙に敗北した少数派が在野にあって選挙無効を訴えて戦闘を開始したり,反対に政権にあって敗北を認めずに多数派とされる側を弾圧・抑圧するといった具合に,である。選挙の敗者がおとなしく政権交代するというのは,多くの比較から見れば限られた場合でしかない。

シャピロの訳書はこの関心に引き付けて楽しく読んだ。実証的な知見と,規範・理論的議論を往復している分,議論が前後してやや難解な部分はあるのだが,基本的には民主主義はいずれにせよ”正しい”結論にたどり着けるから良いのだと擁護するタイプの議論*に対し,いや民主主義は競争があり,結果に不確実性があるから「こそ」好ましいのだと論ずる内容になっている。
(*この意味で,熟議民主主義の議論も,公共選択論的共通善の議論も 実は似ていると論ずる)

コンドルセのパラドックスの話やアローの不確実性定理の話などは,一般に民主的決定で多数派が多数派として必ず勝利できるわけではない理屈として,多数決の根源的不可能性などとして用いられるが,シャピロは一部先行研究を引きつつ「だからこそ良い面もあるのだ」と整理する。
不確実性があるからこそ,戦略次第で少数派でも勝利する可能性がある。だからこそ,少数派は敗北を受け入れ,支配の独占を諦め,民主的な意思決定の基盤を揺るがすようなことも行わない。

多数決や代表にこだわる議論では,「戦略次第で少数派が勝ってしまう」状況というのは,「望ましくない」条件として想定されるだろう。それはそうだろう。多数派の意見を多数としてきちんと「代表」できる制度は何かと考えているときに,うっかり少数派が多数派のふりをして勝利してしまう制度は,望ましくない制度だ。

そこに対し,いわば「多数がきちんと代表されてきちんと統治/支配できることが唯一無二の重要なことか?」とちゃぶ台返しをして,(好ましい)民主主義の擁護を行っている点がシャピロの議論といえるかもしれない。
むしろ,
不確実性を許容し少数派が競争の結果勝利できる余地が残されている事,
多数派と言えども常に多数派として代表され正当性が与えられることが完全には保証されていない事,
多数派が"正しい結論"の美名のもとに多大なる権力を行使し,少数派は司法など〔非民主的〕制度によってその権利と自由を防御的にのみにしか護持できない社会を「もたらさないこと」,
これらこそが重要であるというのがシャピロの議論の主眼ではないだろうか。
(本書の紹介記事では,民主主義とは「支配を極小化するために権力関係をうまくコントロールする手段である」と紹介されている)

このように最終的な結論の到着するところはエリート競争を重視するシュンペーター的な民主主義観と近い。本書自体もシュンペーターの議論を援用している。だが,その途中の理路は少し異なる。



stebuklas0311 at 15:00コメント(0)政治読んだ物 この記事をクリップ!このエントリーを含むはてなブックマーク
都内の大学で働いています→九州の大学に移りました(2016年)。比較政治学(バルト諸国を中心とした中東欧の政治・エスノポリティクスの実証分析)が専門です。 本blogはその日アカデミズム関係で読んだ論文・書籍、聞いた講演・報告、参加した学会・部会の記録です。時々雑記あり。
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