聖霊と共に生きる
2016.5.15 聖霊降臨の主日
(9時半のミサ)
聖霊があなたがたにすべてのことを教えてくださる
福音☆ヨハネ14・15―16,23b-26
○入祭のあいさつ
今日は「聖霊降臨」の祭日を迎えております。
聖霊降臨は教会の誕生日と呼ばれる日です。聖霊降臨が教会の誕生日と呼ばれるのは、主イエス・キリストの霊である聖霊がわたくしたちの中に注がれ、わたくしたちの中に、主イエスが立ち上がり、誕生するからです。「教会」と訳されている言葉はもともとギリシャ語で「エクレシア」という言葉で、エクレシアの意味は建物のことではなく、「神に呼び集められた人びと」という意味です。
本当に神さまに呼ばれて「はい」と答えて生きることが出来るのは、イエスさまというお方ただお一人です。そのイエスが聖霊という“霊”をわたくしたちに注ぎ、わたくしたちの中に立ち上がり、一緒に生きる“いのち”となってくださいます。
それゆえ聖霊によってわたくしたちも、神の呼びかけに答えて生きる教会(エクレシア)として誕生します。それが「聖霊降臨」が教会の誕生日と呼ばれる所以(ゆえん)です。
今日もご一緒に、主であるお方の霊がわたくしたちに内に生きていてくださることを感謝し、今日も、教会として誕生することが出来ますように、ご一緒にお祈りをいたしましょう。
✛ お 説 教
今日、「聖霊降臨の祭日」に読まれました福音書は、ヨハネの福音書の14章というところです。この箇所はイエスが「最後の晩餐」の席上で愛する弟子たちに向かって話したいわば「告別説教」ともいわれる、そういう内容の箇所です。
今日の箇所は「聖霊降臨」の今日、わたくしたちが聞かせていただくのに相応しい箇所になります。わたくしたちが日々を生きるためにはっきりとした、そして具体的な「拠り所」を与えてくれる箇所ではないかなと思うからです。
今日の箇所は、日本語の翻訳ではほとんど分からないのですけれども、もともとのギリシャ語の表現ではほとんどの箇所が未来形で書かれています。ごく一部分以外はみんな未来形で「何々~だろう」という意味の言葉で書かれています。ごく一部分、現在形で書かれている以外はみんな未来形なのです。
こんなふうにです。
「あなたがたは、わたしを愛しているならばわたしの掟を守るだろう。」
また
「わたしは、父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださるだろう。」
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守るだろう。」
「わたしの父は、その人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住むだろう。」
「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」
これは、はっきりと現在形です。
「あなたがたの聞いている言葉はわたしものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」
ここも現在形です。
「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださるだろう。」
ここは未来形です。みんなこういう形になっています。
今一度読ませていただいた、今日の福音の箇所で、みんな「~だろう」、「~だろう」という未来形で書かれている中で、中心に一対だけ現在形で書かれている箇所がありました。
それは
「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」
そしてもう一方は
「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」
でした。
この二つははっきりとした「対比」です。
一つ目は「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」という「人間」のことです。
もう一方の「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」というのは何かというと、
「父を愛しているから、父の言葉を守る」
という「イエス」のことです。
わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らないという「人間」と、父である神を愛しているから、父の言葉を守って、その言葉と一緒の向きで生きている「イエス」の対比です。
この二つのはっきりとした対比が、わたしたちの「今日の日の今」の生活を支えてくれる「拠り所」になる、とわたしは今日そう思いました。
「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」
この言葉ですけれども、この言葉には深い意味があります。
なぜなら・・・、「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を・・守ら・・ない・・。」この言葉は・・・決定的に書かれています。
「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」
なぜなら、わたくしたち人間は「守ろうとしても守れない」からです。それはイエスと弟子たちの生涯の物語を見る時、明らかです。人間は神さまの言葉を守ろうとしても守れないのです。守ろうとしても守れないのだから、「愛さない者は(守ろうとしない者は)」、・・・わたしの言葉を守らない、ということになります。
イエスの弟子たちはイエスが十字架に架かる前、「わたくしたちは、死んでもあなたのことを知らないなどと言わない。」(マタイ26・35参照)と言っていたのです。豪語していたのです。しかしイエスが十字架に架けられた時、弟子たちはみんな逃げてしまいました。
守ろうとしても守れなかったのです。弟子たちは人間の愛でイエスを愛していたけれど、守れなかったのです。
しかし、人間に出来ないそのことを、神の言葉を守って生きる“いのち”であるキリストの霊が、わたくしたちの所へ来るとき
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守るだろう。」
とイエスさまはおっしゃっているのです。
イエスは死んで復活し、ご自分の霊といのちを注がれました。だから今日、キリストの霊といのちは、わたくしたちの中にあります。洗礼という恵みをいただいている者は、聖霊という恵みの出会いによってはっきりと、「神さまが共にいてくださる」ことを“しるし”として、受けております。
でも洗礼を受けておられない方にも、キリストと共に生きたいと望む者の内にキリストの霊である聖霊が注がれます。その聖霊がわたくしたち一人ひとりのいのちの内側に立ち、
「父を愛しているから、父の言葉を守る」
というイエス・キリストの“いのち”を、わたくしたちの内側に立ち上がらせてくださいます。
そこで今日の福音の言葉の
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」
「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」
という言葉が、わたくしたちの日々の生活の中に迫ってきます。
わたくしたちはこの世にあって、いろいろな「誘惑」だとか「悩み」だとか「苦しみ」だとか、いろんなものに囲まれて生きております。わたくしたちは弱い「人間」に立って生きるならば、自分をも人をも、その悪いところにしか目がいきません。
あの人の「欠点」、「足りないところ」、「嫌なところ」、そんなところばかりを探し出すかもしれません。同時にこんな自分の、「あんなところ」、「こんなところ」、「嫌なところ」ばかり見つけるかもしれません。
しかし「共にいてくださる」キリストに立つなら・・・、キリストというお方は人間の中に悪を見つけ出す方ではなく、どれほど悪や、罪や、誤りがあっても「人間の中には神さまの“いのち”がある」というその真実を見出し、照らしてくださるお方でした・・・。
だから、そのお方の霊に従って生きるならば、たとえ人の中に悪いところがあっても、過ちがあっても、弱さがあっても、欠点があっても、その最も奥深くに神の“いのち”があることを見出して生きる“いのち”にさせていただきます。
同様に、自分自身も厭なところがあっても、嫌いなところがあっても、「何で自分ってこうなんだろう?」という思いがあっても、その最も奥深くに愛である神さまが「共にいてくださる」真実に光を当てて生きるようになります。
この時、今日の福音の言葉が、わたくしたちの日々の生活に迫ってきます。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」
「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」
神さまを愛して、神の言葉を守ることができる“いのち”、イエスの霊がわたくしたちと一緒にいてくださいます。「守れない人間」に立つのでなく、「守ることができるイエス」に立つように。
「今日も、わたくしと一緒に生きようよ。」
「生きて、相手の中に神の“いのち”を見出して歩もうよ。」
そういう招きと、幸いへのお誘いを、聖霊というお方がわたくしたちに、いつもいつも働きかけてくださっています。
その言葉に従って生きるならば、
「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネ14・23)
と言われます。
一方、
「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」
というところに行ってしまう時、「人間」に立ってしまう時、わたくしたちはその中におられる神の“いのち”よりも、外側の欠点や足りないところ、弱さ、嫌なところ、そんな事ばかりをあげつらって生きるいのちになってしまいます。そのとき一緒にいてくださる聖霊は悲しむことになるのです。
悲しませずに生きるようにと、呼びかけを受けています。
聖霊の呼びかけに応えて、聖霊と一緒に生きる時、わたくしたちは教会になります。聖霊降臨は「教会の誕生日」です。
昨日、失敗してしまったことがあったかもしれません。でも今日、また新たに、神さまはわたしたちの中に聖霊というお方の“いのち”を送って、わたくしたちの家を新しく教会として建てることがお出来になります。
たとえ昨日駄目だったとしても、今日新しい太陽を昇らせてくださったように、わたくしたちを教会として立ち上がらせることがお出来になります。
そのことに信頼をして一緒に歩みますように。
今日、ミサに与かれずにいる人が大勢おられると思います。また「ミサのことを知らない」という人だって沢山おられます。また「ああ、あの方こそ、ミサに与かったらいいのになあ」と思われるような方もいらっしゃると思います。
その方がたのことも思いながら、ご一緒にこのごミサをお捧げし、「すべての人の中には神の“いのち”がある」というこの真実を伝える「教会」になっていくことが出来ますように祈りたいと思います。
(20160527)
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