wo1_cross1i腰を据えて考える。どっちに付くか考える


2016.9.4 年間第23主日

(9時半のミサ)

自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ

福音☆ルカ14・25-33


○入祭のあいさつ

 

今日は年間第23主日を迎えています。

今日のミサの福音の中で、イエスさまはわたくしたちに

 

「わたくしの弟子になりなさい」

 

と強く呼びかけられます。

「弟子になる」とは、一緒にいてくださるイエスさまと一緒に生きることです。イエスさまと一緒に生きるとは、人間の中に神さまの“いのち”があることを見出して生きることです。そのように今日も呼びかけを受けておりますので、一緒に生きさせていただきますように心を新たにさせていただきたいと思います。

教皇フランシスコが、この日曜日を「被造物を大切にする世界祈願日」として祈るように呼びかけました。全世界の造られたものは神さまの御手の業(わざ)です。そのことの前にわたくしたちが感謝をして生きる歩みになっていきますように、ご一緒にお祈りをいたします。

 

 

 お 説 教

 

今日の福音の中でイエスさまは、3回繰り返して

 

「わたしの弟子ではありえない。」

「わたしの弟子ではありえない。」

「わたしの弟子ではありえない。」

 

と言われます。

イエスさまは何をおっしゃいたいのでしょうか。

 

「自分のいのちであろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」

「自分の持ち物を一切捨てないならば、わたしの弟子ではありえない」

 

そう言われるのです。

 

イエスさまは何をおっしゃいたいのでしょうか。こういうことです。

「自分のいのちを、これを憎んで、わたしの弟子になりなさい。」

「自分の十字架を背負って、わたしについて来て、弟子になりなさい。」

「持ち物を一切捨てて、わたしの弟子になりなさい。」

そうおっしゃっている、ということになります。

 

ところで、「憎む」という言葉が出てきました。何となく分かりにくかったかもしれません。「父、母、妻、子供、兄弟姉妹、さらに自分のいのちであろうとも、これを憎め」と言われるのですから、どういう意味なのかなと思ってしまいます。ここは一つ説明が必要です。お聞きください。

ヘブライ語には比較級という、そういうかたちがないのだそうです。ですから「より少なく愛する」という意味で「憎む」という言葉を使うそうです。つまりイエスさまというお方を愛するということの第一番の前に、自分のいのちも持ち物も二番三番にして、「より少なく愛して」第一番を第一番にしていく歩み、これが「イエスさまの弟子になる」ということなのだと思います。

 

ミサの始まりにも申し上げましたが、「イエスの弟子になる」ということが、第一番のことです。「イエスの弟子になる」とはイエスと一緒に生きることです。

 

「イエスと一緒に生きる」というのはどういうことなのかを考えるためには、イエスというお方がどういう方であったかを、まず思い浮かべる必要があります。イエスというお方は「インマヌエル」というお方でした。つまり「神が我々と共におられる」という真実を第一番にして生きてくださったお方だということです。

 

「イエスと一緒に生きる」とは、「神が我々と共におられる」という真実を第一番にして生きてくださったイエスと、わたくしたちも一緒に生きるということです。ですからわたくしたちの目の前にいる人、周りの人に「神さまが共にいてくださる」という真実を認めて生きること。何があってもそれを第一番にして生きることを「イエスの弟子となる」という意味だと捉えて良いと思います。

 

「自分のいのちを憎む」というのはどういうことかと言うと、自分のまわりの人に対して、「神さまが共におられる」という神さまの真実を認めようとする時、「認められない」という思いもあるかもしれません。納得いかないこともたくさんあるでしょう。何でそんなことを認めなくてはならないのか、という気持ちあると思います。「絶対そんなことしたくない」、という思いもあるかもしれません。

でもそれを置いて、「神さまが共にいてくださる」という神さまの真実を一番にする。これを「自分を憎む」という表現で表しています。「自分の思い」よりも、「神さまが共にいてくださる」真実を先にして生きること、これが「自分のいのちを憎む」の意味です。

 

イエスさまは、これをしないなら、「わたしと一緒に生きるといいうことにならないよ」とおっしゃるのです。「わたしと一緒に生きてほしい」とおっしゃるのです。そして、「ただついて来るだけでは一緒になれないよ」とおっしゃるのです。

 

わたしはあなたがたの中に神の“いのち”を見出して生きる。だから、あなたもわたしと一緒に、自分の周りの人の中に神さまの“いのち”を認めて生きてほしい。

これが今日のイエスさまの教えだと思います。

 

「自分の十字架を背負ってついて来る。」

 

「イエスについて来る」とは、人の中に神の“いのち”があることを認めて生きる、ということと言い換えて良いと思います。

「自分の十字架を背負ってついて来る」という言葉ですが、「自分の十字架」とは人の中に神の“いのち”を認めるということが、時にわたくしたちには非常に難しいからだと思います。

 

みなさま、ご自分の中に、「あの人だけは許せない」という人がいらっしゃいますか?

「あの出来事だけは許せない」というようなことがおありになりますか?

もしあったらその出来事や、その人に向かって「神さまがあなたと共におられます」と祈ることは、時に非常に難しいかもしれません。

でも、認める。これが「自分の十字架を背負ってついてイエスさまについて行く」という言葉の具体的な中身だと思います。

 

「神さまがあなたと共におられます」と神の真実を第一番にして歩む歩みこそ、イエスさまの弟子になることの中身です。イエスさまはそういうお方だったのです。

イエスさまは十字架の上で何をなさったかというと、ご存知ですか?「祈っておられた」のです。十字架の上でこう祈っておられます。

 

「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)

 

こうお祈りになりました。

この祈りの言葉を、少し角度を変えてみるならば、こういう意味だと受け取って良いのではないでしょうか。

 

「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分たちの中に神さまが一緒にいてくださることを知らないのです。」

そう祈ってくださったと受け取って良いのではないかと思います。

 

イエスさまこそ、まさに人間の中に神の“いのち”があり、神が一緒にいてくださる真実を生涯の全部で見続けてくださった方・・・。これがイエスさまというお方です。

だからこのお方と一緒に生きるということになるならば、わたくしたちは自分の周りに、たとえそう思えない人がいても、そう思いたくない人がいても、絶対にそう認めたくない人がいても「神さまがあなたと共におられる」という神の真実を一番にして歩まなければならないのだと思います。

これが、「イエスの弟子である」ということなのだと思います。

 

もしそうでないなら・・・、ただ一緒にいるだけでは「わたしと一緒になれないよ」、「わたしは一緒になって欲しい」、「だからこうして欲しい」、そういう切なる思いの発露が、今日のイエスさまの福音なのだと思うのです。

 

それでも、わたくしたちはというと、神さまがもうすべての人と一緒にいてくださるという真実よりも「自分の気持ち」、「自分の納得」、「自分の理解」、「自分の感じ方」、を上にしてしまう・・・。それではだめなんだよ、わたしと一緒にはなれないんだよ、ということを何とかして教えるためにイエスさまは二つの例え話をなさっています。

 

この二つの例えの構造は一緒です。どちらも「自分の力では何ともならない」例があげられています。

まず、一つ目は、

「塔を建てるのに、十分な費用があるかどうか、腰をすえて良く考えないなら、十分な費用がないのに作り始めたら、土台を築いただけで完成できず、見ていた人はみんなあざけって『あの人は建て始めたけど、完成することができなかった』と笑われちゃうだろう?」という話なのです。

 

もう一つの話は、

「二万の兵を率いて進軍してくる敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことが出来るかどうか、腰を据えて考えてみないだろうか。もし出来ないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう?」という話です。

 

当時の戦争は滅ぼしつくすか、滅ぼしつくされるか、どっちかです。中間なんかありません。もし、勝ち目がないと分かったら、使節を送って和を求めます。これはすなわち「完全降伏」のことです。

つまり相手の奴隷になることです。持ち物を含め、命まで、一切の所有権が全部相手の物になるという判断なのです。でもそうしてでも「いのちを守る」ということを意味しています。

 

イエスさまがこの二つの例えを通しておっしゃいたいことは、人間は「永遠のいのち」を自分の力では完成させることは出来ないのだ、ということです。人間は自分の力で「永遠のいのち」を作り上げることは出来ないのです。

 

自分で「永遠のいのち」の完成が出来ないのに、

「自分の力でそのことをしようとするのは愚かだろう?」、

「土台を築いただけで完成できず、嘲笑われることになるだろう?」

「一万の兵で二万の兵に向かって行って、全滅するのは愚かだろう?」

 

こういう例え話です。

 

神さまは、すべての人と共におられる真実です。神さまだけが、永遠のいのちを持っておられるお方です。わたくしたちは感じられても感じられなくても、納得がいってもいかなくても、そのことは真実です。

共にいてくださる神さまの真実にかけますか?

それとも自分の感じ方や、思い方や、納得にかけますか?

 

イエスさまは「神が共にいてくださる」という「神の真実」にかけて、そこで生きるようにしなさいと、おっしゃっているんです。未だに自分の思いや、自分の納得や、自分の感覚の方に期待をおいて生きますか?・・・そうではなく、「共にいてくださる神さま」の真実に望みをかけて生きるべきではないか。これがイエスさまの教えです。

 

さあ、「腰を据えて考えるために」今日もわたくしたちはここに招かれました。依然として自分の理解や、納得や、思いや自分の感覚に頼りますか?永遠のいのちを完成することなど出来ない、そういう頼りない物に頼りますか?

いや、そうではない。共におられる神さまの真実にこそ信頼を置くべきだ。

これが今日のイエスさまの教えです。

 

腰を据えて考えましょう。そしてもし今日、ご自分の中に思いめぐらして、あの人には「神さまがあなたと共におられます」とは認められない人があるならば、どうぞそこに「神さまがあなたと共におられます」というお祈りを・・・どうぞなさってください。一人では絶対出来ないという方がいらしたら、どうぞわたしを捕まえてでも電話をしてでもいいから言ってください。わたしも非力ですけれども、一緒にお祈りをさせていただきます。

 

神さまは共におられます。認めなければなりません。イエスさまは今日わたくしたちにそういうことをおっしゃってくださっていると思います。


(20160920)