wo1_cross1i暗闇に射し込んだ光 わたしたちの中に住まわるために


2017.1.22 年間第三主日

(9時半のミサ)

悔い改めよ。天の国は近づいた

福音☆マタイ4・12-23


○入祭のあいさつ

 

年間第3主日を迎えました。

今、「新しい歌を主に歌え」という歌が歌われ、この感謝の祭儀が始まりました。すべての新しさの源は神さまです。天地万物をお創りになられた神さまが、すべての新しさの源です。そして新しさの源であるお方が、わたくしたち一人ひとりと一緒にいてくださいますので、それで、わたくしたちは「新しい歌」を歌うことが出来ます。

今日共にいてくださる、新しさの根源であるお方が、わたくしたちの今日をまた新しく作ってくださいます。ですからその根源的な希望に支えられて「新しい歌」を歌い、お互いの中に神さまの“いのち”を見て歩む新しい歩みになりますように、またわたくしたちが今日から新しく歩む事が出来ますように、ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 

 

 お 説 教 

 

「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」

 

とありました。

このヨハネとは12人の弟子のヨハネではなく、「洗礼者ヨハネ」です。洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞き、イエスはガリラヤに退かれました。

「そして、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」

とあります。

 

イエスがガリラヤ湖のほとりのカファルナウムに来て住まわれたことを見て、マタイの福音書は「ああ、これは預言者イザヤの言ったことが実現したのだな」と考えました。

預言者イザヤが言っていたことというのは、イエスさまが誕生になるよりも、そうですね・・・700年くらいは前の預言です。

 

イザヤの預言はこうです。

「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が差し込んだ。」

 

イエスの登場という出来事に対して、マタイの福音書は

「ああ、このことが起こったのだ」と考えました。

つまり、一言で言うならばイエスという方の登場とは、「光が現れた」という出来事だったと、そう理解されたということです。

 

イエスというお方が来られて、その宣べ伝えた言葉、行い、それはみな「光が来た」という出来事であると理解されたということです。

イエスさまは「世の光」です。まさに暗闇に住む我々の中に光が差し入れてくださった。イエスの登場とはそういう出来事であったということです。

 

ところで、今日の福音で現れるイエスのメッセージとは何か。

こうあります。

 

「その時から、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」

 

とあります。

このメッセージが「光の到来」であった、ということになります。

 

どうですか?みなさん。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」というメッセージに

「ああ、光が来た」

という雰囲気を何か読み取るのでしょうか。どうですか?

もしかしたら、そんなでもないかもしれない。「悔い改めよ。」と言われると「反省しろ!」と言われているみたいな響きがありますね。(笑)

「反省しろ!」「はい」・・・、あまり、光というイメージではありません。

でもイエスさまの到来は「光」だったのですね。

 

今日の「悔い改めよ。天の国は近づいた」というこのイエスさまのメッセージ、少し思い巡らしてみたいのです。

「悔い改めよ。」と言われるこの「悔い改め」ですが、新約聖書はギリシャ語で書かれておりますが、「悔い改め」のことを「メタノイア」という単語で表されています。

「メタノイア」とは「方向転換」です。わたくしたちの的外れになっている“いのち”の向きを根源的に向かうべきところに向け直すこと、向き直ること、それが「メタノイア」という「悔い改め」です。

 

「天の国は近づいた」とはどういうメッセージでしょうか。

「天の国」・・・、「天」という言葉ですが、わたくしたちは天と聞くと上の方とか、場所を思い巡らすかもしれませんけども、ユダヤ人たちは神さまのことを恐れ尊ぶあまりに、「神さま」という言葉を使いませんでした。代わりに「天」という言葉を使いました。

ですから「天の国」とは、「神の国」という意味になります。

 

「国」という言葉ですが、細かい説明が続きますがこれもギリシャ語では「バシレイア」という単語です。

バシレイアを「国」と訳していますが、根本的な意味は「支配」です。

ですから「天の国は近づいた」とは、「神さまの支配が、もうわたくしたちのところに近づいた」と、そう言っていることになります。

 

ところで、ところで、イエスさまというお方はその神さまの支配をどういう風に受け取っておられたのでしょうか。

わたくしは一言で言ったら、愛である神さまがご自分と一緒に向きで生きてくださるのだ。そういうこととしてイエスさまは受けてっておられたのではないかなと、わたくしは思っております。

人は本当にその人を愛すると、その人と一緒の向きで生きるようになっていくのではないでしょうか。父である神さまはイエスさまを愛し、イエスさまと一緒の向きで生きてくださるお方であるとイエスさまは理解し、それこそが「神の国」の支配という愛なのだということをイエスさまはお分かりになられたのだと思うのです。

それで今度はイエスさまも一緒の向きで生きてくださる神さまと、一緒に生きるという一生を生きてくださることになられたのだと思うのです。

 

イエスさまの宣教が始まる前にイエスさまはヨルダン川で洗礼を受けました。洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのです。するとその時、

 

「天が裂けて、“霊”が鳩のようにご自分に下って来るのを、ご覧になった。

すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マルコ1・10-11)

 

とあります。

わたくしは思います。「愛する子」と呼ばわる神さまは、顔と顔とを向き合わせて、いつも睨めっこしているような方ではなく、愛するがあまり一緒にいて、一緒の向きで生きてくださるお方なのだと、イエスさまはそのように深く出会われたのではないでしょうか。

そして、イエスさまご自身もその天のおん父と一緒の向きで生きる“いのち”を完全に生きられたのだと思います。だからその後イエスさまは、人びとの前に出て

 

「悔い改めよ。天の国は近づいた」

 

と言われたけれども、それはイエスさまの眼差しを通して父である神さまの眼差しが、もうそこに現れていたのだと思います。

すなわち

 

あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

 

と言ってくださった神さまが一緒の向きで生きてくださり、その向きで自分も生きることを通して、イエスさまは出会う人一人ひとりを「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というおん父の眼で人を見るようになって生きられたのだと思うのです。これこそイエスさまがお伝えになった「神の国が来た」、「神の支配が来た」ということの中身だと思います。

 

わたしは、こう意味を言い表してもいいと思います。

イエスさまは、あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われた、そのおん父の眼差しで人を見て、

「神さまがあなたたちを愛して一緒の向きで生きてくださっているのですよ。だからあなたたちも方向転換して、その一緒の向きで生きなければならないんだよ。」

そう宣べ伝えられた・・・。

これが、イエスさまが宣べ伝えた「神の国」の福音、「悔い改めなさい」ということの根本的な意味なのだと思います。

 

神さまはみんなを愛しておられるのですよ。

どれだけ愛しているかと言えば、みなさん一人ひとりの中に住んで、一緒の向きでもう生きてくださっているのですよ。それならば、わたくしたちも方向転換してその向きで一緒に生きなければならないのではありませんか?わたしはこれが、イエスさまがお伝えになっておられることだと思います。もう神さまは一緒にいてくださる。

 

わたくしたちには、悪いところがたくさんあります。胸に手を当ててみるまでもなく、あのことこのこと、人に言えないあのことこのこと、墓場まで持っていかなければならないと思っていることも、一つや二つ持っているかもしれません。でも、そんな悪いところもあるわたしたちの最も奥深くに、「愛」である神さまがもうすでに一緒にいてくださるのですよ。片時も離れず一緒の向きで生きてくださっているのです。

それならば、わたくしたちも神さまのその向きに、わたくしたちのいのちを、向きを、方向転換して生きなければならないのではいけませんか?

これが、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」というメッセージの中身だと思います。

 

イエスさまはガリラヤ中を回って、諸会堂で教えたのです。毎週毎週一つのところに留まって教えたのではないと思います。どんどん移動しながら宣べ伝えて、通り過ぎていったでしょう。そんなに難しいことを教えたのではないはずです。

「神の国」の福音とは、もうすでに愛である神さまがわたくしたちを愛によって支配し、一緒の向きでいてくださるのだ、ということ。

だから、

「一緒の向きで生きるようにしなければならないよ」

それがイエスさまメッセージだと思います。

 

こう宣べ伝えられてもその通りに生きられないのがわたくしたちなのです。それでイエスさまは、十字架の死を通して復活し、聖霊というご自分の“いのち”の霊をわたくしたちに注ぎ、今度はイエスさまがわたくしたちと一緒にいてくださり、一緒の向きでいてくださるので、そのキリストによって、キリストと共に、キリストの内に、わたくしたちもキリストと一緒の向きになって、初めて父である神に向かって「父よ」と呼ばわる関係に入れていただく。

これが「キリストの救い」です。

 

そこまでしていただいても、それでもわたくしたちは、イエスさまが一緒にいてくださることもすぐ忘れちゃう。そういうわたくしたちのために、キリストは「ミサの記念」を残されました。

 

「食べなさい。わたしの体。」

「飲みなさい。わたしの血。」

「これを記念して行いなさい。」

 

そう言われて、今日イエスさまはご自分の体を、司祭を通して、「キリストのおん体」と言って渡されます。司祭は「キリストの体」とい言うけれど、本当はイエスさまご自身が「これはわたしの体である」と言って、わたくしたちにご自分の体を渡しておられる。 

 

「わたしは食べられて、あなたと一緒の向きで生きる“いのち”になるよ。」

「あなたはわたしを食べて、わたしと一緒の向きで生きる“いのち”になる。」

「その交わりに入るけど、いいか?」

と言われて、「アーメン」と答えて、交わるのが聖体拝領という「コムニオン」という交わりです。

 

本当に神さまは、わたくしたちのために至れり尽くせりで「一緒に生きよう」と呼びかけておられるのです。それが神さまからの呼びかけです。

 

「二人はすぐに網を捨てて従った。」

 

「従った」という言ですが、ギリシャ語で「アコールーセオー」といいます。それは「ア」という単語と「ケレウソス」という単語がくっ付いたものです。ケレウソスは「道」という意味です。

「従う」とは「同じ道を行く」という意味のことばです。

 

話が長くなりました。

今日も神さまが一緒にいてくださいます。

一緒に生きようと、言ってくださいます。

そのことが出来ないわたくしたちのために、そのことが出来るイエスさまが一緒にいてくださいます。そのイエスさまと一緒にわたくしたちが生きるために、イエスさまは今日、ご自分の体をわたしたちに食べさせます。

それによってわたくしたちも、イエスさまと一緒の向きで生きる者となるように呼びかけを受けています。それに答えて生きるようにご一緒にお祈りをしたいと思います。

 

 キリストのことをご存じない方もたくさんおられますから、その方がたのことも思いながら一緒にお祈りをし、またすでにこの世の“いのち”を去られた方がたとも一緒に神さまが生きてくださっていますから、その方々のことも祈りながら、ご一緒にこの感謝の祭儀をお捧げいたしましょう。




(20170203)