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ご自分の体験を、わたしたちにも体験させるために、イエスさまはたとえを語られた


2020.7.12 年間第15主日

(9時30分・本郷教会)

ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んであるものは百倍にもなった

福音☆マタイ13・1-9

○入祭のあいさつ

 

まず初めに、九州地方の豪雨災害で亡くなられた方々、被災された皆さんのためにお祈りしたいと思います。困難な状況にある皆さんが、支援や助け合いを通して励まされ、何らかのかたちで、神から来る希望に結ばれて生きることができますように、お祈りしたいと思います。

今日は年間第15主日を迎えています。今日のミサの福音は、たとえを用いて人々に語られるイエスさまの姿が描かれています。イエスさまがたとえを用いて語られたのは、ご自分が信仰の目で見ていたものを、皆に見せるためです。イエスさまが信仰をもって体験していたことを、皆にも体験させるためです。神の国がもう来ています。すべての人の中に父である神が共におられ、その尊厳に結ばれています。その真実は、信仰という交わりなしには、見ることも体験することもできません。それで、イエスさまはたとえを用いて話し、ご自分と一緒に見て、一緒に体験されるようにと、わたしたちを招いておられるのです。その招きに答えて、わたくしたち一人ひとりも、イエスさまが信仰の内に見、体験されたことに繋いでいただきたいと思います。

東京教区では621日以来、限定的な形でミサが行われていますが、いまだ、多くの方が参加できないでいる状況が続いています。ミサに与ることができないすべての方々のために、ご一緒にお祈りしたいと思います。また、病院や施設にいて、家族と面会することができないままにおられる方々、医療に従事しておられる皆さん、依然として先行きの見えない状況のなかで、さまざまな不安と恐れの中で闘っておられるすべての皆さんと、心を合せてお祈りしたいと思います。

 

 

 お 説 教

 

ミサの初めにも申し上げましたが、イエスさまが人々にたとえを用いて話されたのは、ご自分が信仰の目をもって見ていたことを、人々にも見せ、ご自分が信仰をもって体験しておられたことを人々にも体験させるためでした。そして、イエスさまが信仰の目をもって見ておられたもの、イエスさまが信仰をもって体験しておられたこととは、「神の国がもう来ている」ということでした。

神の国とは、「神の支配」という意味です。神の支配とは、神の愛の支配です。神の愛の支配とは、神さまがわたしたち一人ひとりを愛して、一緒にいてくださる、ということです。だから、わたしたちはその真実と深く結ばれ、そのお方と一緒に生きるように。それが、イエスさまがわたしたちに望んでおられることです。

そのお方はわたしたちのいのちの根幹を満たし、潤わせ、ご自分の永遠という重さで重くしてくださるお方です。そのお方はわたしたちと一緒にいて、わたしたち一人ひとりに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ111)と呼びかけてくださっているお方です。

そのお方はわたしたちの父であり、親であるお方で「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださる」(マタイ545)お方です。また、「恩を知らない者にも悪人にも、情け深く」(ルカ635参照)、「共にいてくださる」(マタイ123参照)お方です。それが、イエスさまが信仰の目を持って見ておられたもの、そして信仰をもって体験しておられたことです。だから、そのご自分と出会って一緒に生きるように。これが、イエスさまがたとえを通して、わたしたちに望んでおられることです。

 

福音書をよく読むと分かるのですが、イエスさまのその眼差しは、人間だけでなく、神がお創りになったすべての物に及んでいました。今日のたとえもそうですが、イエスさまのお話の中には、たくさんの自然物が登場いたします。イエスさまは自然を愛し、小さな生き物も愛おしまれるお方でした。イエスさまは詩篇をよくご存知であったので、自然を通して神を賛美する「詩篇19番」もきっと覚えておられたに違いありません。

 

「天は神の栄光を語り、

  大空は み手のわざを告げる

  日は日に ことばを語り継ぎ

  夜は夜に知識を伝える

  ことばでもなく、話でもなく、

  その声も聞こえないが、

  その響きは地をおおい、その知らせは世界に及ぶ。

  神は天に太陽の幕屋をすえられた。」(詩篇1927)

 

今日の福音の冒頭に、「その日イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた」とありますが、ガリラヤ湖のほとりに座り、湖面を眺めながら、創られたすべてのものを通して、神さまがそこに「声にならないご自分の存在の響き」を顕しておられることを賛美しておられたのではないかと思います。

そこに、話を聞こうとして大勢の群衆がやって来ます。イエスさまが湖の中に押し出され兼ねない勢いだったのでしょう。そこでイエスさまは舟に乗って、岸から少し漕ぎ出してもらい、そこに腰をかけて岸辺に立っている群衆に向かって、たとえを話し始められたのです。

 

たとえは生活に密着した、人々によく分かる話でした。当時のユダヤの人口の大部分を占めていたのは農民で、皆重税に苦しめられていました。多くの家庭では年貢や税金に、生産物の三分の一から半分を費やしていたと言われています。イエスさまは、自分たちの粗末な土地から最大の収穫を得ようとして、石ころだらけの土地や、茨の中、人々が道として使って土が固くなっているようなところにまで種を蒔いていた、農民たちの苦境をよく知っていたのです。ちなみに当時の種まきは現代と違って、先に種を蒔いてから、後で深く耕して漉き込んでいくという方法だったようです。

聞いていた人々は、いつも経験していたことでしたから、「ああ、そういうことはあるなあ」と思って聞いたに違いありません。そして、「道端に落ちた種」「石だらけの土地に落ちた種」「茨の間に落ちた種」は実らなかった、のに対して「よい土地に落ちた種」は豊かに実りましたから、人々は自然に「そうありたいなあ」と思って聞いたはずです。

お話しになったイエスさまも、ご自分が信仰の目で見ていたものを、人々が見て、ご自分が信仰をもって体験しておられたことを、人々が体験するという「実り」を望んで語られたのです。

 

道端に蒔かれた種は、鳥が来て食べてしまいました。蒔かれた種は大地と何の関わりもないままに、何の関係も始まらないままに取り去られてしまいました。

石だらけで土の少ない土地に落ちた種は、土の浅さゆえ、すぐ芽を出しましたが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまいました。大地との関わりは一瞬にして生じて、一瞬にして終わってしまいました。

茨の間に落ちた種は、茨が伸びてそれをふさいでしまいました。「ふさぐ」と訳されているギリシャ語のプニゴーの意味は「窒息させる」です。枯れて大地との関係が終わってしまうことはありませんでしたが、茨のために窒息させられて「実りません」

しかし、「良い土地に落ちた種」は大地との関係を深く、豊かに育んでいき、「実を結んで」、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなりました。

このたとえ話を、わたくしたちも「実り」を願って聞かせていただきたいと思います。

 

今日の福音の理解のために、アレルヤ唱が今日の箇所のテーマを、短い言葉で、呼び水のように示してくれていました。

「種は神のことば、蒔く人はキリスト。キリストを見出す人は永遠に生きる」アレルヤ、アレルヤ。

「種は神のことば」・・・わたしたちに蒔かれている「神のことば」とは単なる「情報」ではありません。今日、わたしたちに蒔かれている「神のことば」とは、「人となられた神のみことば」であるキリスト・イエスご自身です。

「種は神のことば、蒔く人はキリスト」・・・蒔く人であるキリストが、キリスト・イエスご自身を「蒔く」・・・これは矛盾しませんか? いえいえ、矛盾いたしません。キリストはご自分のいのちを、すべての人間一人ひとりの中に蒔くために、十字架の上でご自分を捧げてくださいました。それゆえ、復活のキリストがすべての人の中に立ち、すべての人の中に蒔かれました。このお方は、ご自分が信仰の目をもって見ていたことを、わたしたちにも見せ、ご自分が信仰をもって体験しておられることをわたしたちにも体験させるために、わたしたちの中にご自分のいのちを蒔かれたのです。

それは、わたしたちが蒔かれたいのちである、イエスさまと一緒に生きることを通して、「神の国」を見、「神の国」を体験するためです。何があってもイエスさまと一緒に生き、実を結ぶためです。イエスさまは、わたしたち一人一人の中に、一緒にいてくださいます。わたしたちが一緒の向きで生きるためにいてくださるのです。

 

わたしたちがイエスさまと一緒に、一緒の向きで生きるなら、信仰の目で、人の中に「神さまが共におられる真実」を見ます。肉眼には見えませんが、イエスさまと一緒の向きで生きる体になって、イエスさまの眼差しでその真実を見ます。「人を色めがねで見る」という言い方がありますが、その反対です。イエスさまの目で、人を見ます。

そして、イエスさまの信仰を通して人の中に「神さまが共におられる真実」を体験します。イエスさまというお方と一緒の向きで生きる体になって、その真実を体験します。何があっても、どんな時も、だれにでも、信仰によって、イエスさまと一緒の向きで生きる体となって、人の中に「神さまが共におられる真実」を認め祈ります。

イエスさまと一緒に、人に「神さまがあなたと共におられます」と祈ります。そう思えなくても祈ります。そう感じなくても祈ります。そう祈りたくなくても祈ります。イエスさまはおん父・神さまが、「悪人にも善人にも、正しい者にも正しくない者にも」共にいてくださるお方だと知っておられたから、そのイエスさまとひとつの体になって祈ります。

実りが百倍、六十倍、三十倍になるのは、自分の中だけでなく、すべての人の中に「神さまが共におられる真実」を認めて祈るからです。今日、どんな時でも、だれにでも、イエスさまと一緒に、人に「神さまがあなたと共におられます」と祈るなら、わたしたちは十倍、百倍の実りを結ぶのだと思います。

 

一方、一緒にいてくださるイエスさまと、なんの関係も始まらない前に、イエスさまを鳥に食べさせてしまってよいでしょうか。いえいえ、決してそんなことがあってはなりません。

日が昇ると焼けて、・・・つまり何か自分に不都合が起こるとイエスさまとの関係から身を引いて、イエスさまを枯らしてしまうようなことがあってよいでしょうか。いえいえ、そんなことがあってはなりません。

茨が伸びてわたしたちを覆い、この世の様々な労苦や雑事、他人の目に見える悪、お金や快楽への執着を一番にして、イエスさまとの出会いを窒息させてしまってよいでしょうか。決してそんなことがあってはなりません。

 

「しかし、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい」

 

聞きなさいとは、「聞き従いなさい」ということです。わたしたちが聞き従うべきお方、イエスさまは、すべての出来事の中に、神さまの存在の響きを認めてくださるお方です。このお方と一緒に、今日、わたしたちが出会う人に「神さまがあなたと共におられます」と祈り、イエスさまの目で「神さまが共におられる真実」を見て、イエスさまの体とひとつになって、「神さまが共におられる真実」を体験するものとなりますように、お祈りしたいと思います。

 

 (20200712)