週刊 奇妙な日々
strange days weekly
  silverboy club presents


2014年03月30日 17:31      [posted by strange_days_2009]

買いだめの論理

明後日から消費税が8%に上がるのでみんないろんなものを駆けこみで買いだめている。僕もウィンドウズ・タブレットやCDのボックス・セット、スーツなどをこの際だと思って買ってしまった。いずれ買うつもりだったものなので購入を前倒しするのは合理的だと思った訳だ。

だが、そうしたある程度値が張る大きな買い物だけでなく、日常消耗品も買いだめている人が結構いるらしく、トイレットペーパーや洗剤、冷凍食品やペットボトルの飲料、ガソリンなどを苦労して買い回り備蓄している人が少なくないらしい。

気持ちは分かる。保存の利くモノなら消費税が上がる前に買っておこうというのは自然な反応だと思う。

だけど考えてみて欲しい。そうやってせっかくの休日をつぶして混んだスーパーに出かけ、駐車場に並び、何とか商品を確保して重い荷物を家に持ち帰る。すぐには使わない買い置きが狭い家の貴重なスペースをふさぐ。そこまでして買いだめ、買い置きをする必要が本当にあるのだろうか。

例えば1万円買いだめしたとして、消費税が8%に上がると差額は286円である。仮に10万円買いだめても2,857円である。買いだめにかける時間、手間、場所にそれだけの価値があるのだろうか。つうか、時間、手間、場所なども立派なコストであるという意識があるのだろうか。

まあ、おいそれと10万円も買いだめできる人はおそらくおカネにも時間にも自宅の余裕のある人なんだろう。買いだめの分の10万円をポンと捻出でき、半日がかりでスーパーへ往復しても仕事の疲労を回復する余暇はまだまだ残っていて、洗剤だのトイレットペーパーをしまっておく場所にも事欠かないのだろう。

そういう人が趣味で買いだめ、買い置きするのは自由にやってもらって構わない。2,857円をケチるためにはそれだけの余裕が必要なのだが、それだけの余裕のある人はおそらくトイレットペーパーなんて買いだめしないだろう。買いだめる前に冷静になった方がいい。





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2014年03月21日 21:59      [posted by strange_days_2009]

景気がいいと物価は上がる

伝統的な経済学理論からは、不景気とはモノが売れないことである。モノが売れず、そのためモノの値段が下がり、売り上げが減って企業業績が悪化し、賃金が下がって失業も増える。それが「景気が悪い」状態である。

逆に景気がいいというのはモノがガンガン売れて売り上げも伸び、賃金は上がるし生産が増えて人手が要るので失業が減る状態のことである。この局面では当然ながらモノの値段は上がる。つまり「物価が上がる」ということは一般に「景気がいい」ということである。

だが、いつの頃からか物価が上がるのは景気が悪いからだという妙な俗説が信仰されている。給料が上がらないことと物価が上がることは生活を苦しくするという点で同類であり、こうした不利益をもたらす現象はひっくるめて「不景気」だということなのだろう。

長いデフレの間、僕たちは価格破壊と称する物価の下落を経験した。そして今、政府はデフレ脱却のため年率2%のインフレ・ターゲットを設定している。それはつまり物価が毎年2%上がるように頑張りますということで、アベノミクスの柱のひとつなのだが、果たして世間の人たちはそれを理解しているのだろうか。

というのも、消費税率の引き上げに合わせて、これまで価格転嫁をこらえていた需要増や円安による原料高の影響もまた物価にハネてくる可能性があると思うからだ。デフレを脱却するというのは結局物価が上がるということで、本当にみんなそれを分かってデフレ脱却を喜んでいるのか。

もちろんデフレを脱却すれば賃金は上がり失業率は改善する。しかしそれには少しばかり時間がかかり物価上昇に遅行するのが普通である。賃上げがついてこない段階で物価だけが先に上昇すると好景気が実感されず困るので、政府がベースアップを後押しする異例の状況になっている訳だ。

ともかく、これから物価の上昇が始まるし、それは僕らがデフレ脱却、好景気を望んだからだということは理解しておきたい。




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2014年03月16日 16:28      [posted by strange_days_2009]

コピペ博士

STAP細胞を作成したと話題になった研究者の博士論文にコピペが続々と見つかりいったいどうなってんだ的な騒ぎになっているようだ。

確かに、ネット環境が完備し論文執筆もパソコン打ち込みの現代では、それなりのネタを探して電子的に切り貼りするなんて簡単にできてしまう。以前は丸写しだって少なくとも書き写す手間くらいはかかったが、電子的なコピペなら一瞬ですんでしまうのだ。

こういう情報環境が所与の世代に、「世界は巨大なデータベースであり既知の事実は共有財産であって必要なものは自分が新たに書き下ろさなくてもコピペすればいい」みたいな、切り貼り的、「オレは端末」的世界観が形成されても不思議ではない。

とはいえ、さすがに学部のゼミ論や卒論じゃあるまいし、博士論文で100ページ中20ページがほぼ完全にコピペというのはマズいだろう。仮に既知の事実を敢えて書き下ろすことに意味が見出せずコピペするのを許容したとしても、引用の事実と出典は明示するんじゃないのかな、普通。

僕は一介の文系学士なのでこの辺の詳しい事情は知らないが、こうした分野の博士論文ではこんな雑なコピペによる乱造は珍しくないことなのだろうか。それともこの研究者のやり口がよほどいい加減なのだろうか。

この博士論文が特に雑だということならこの人物に学位を与えたこと自体がどうよということになるし、この程度はよくあるんですよということなら学位も所詮コピペで取れちゃうということだからユーキャンの通信教育でAKBが博士になるのも近いってことだろう。

この研究者の論文が批判的に検証されなければならないのは当然だと思うが、本当に彼女一人の問題なのかどうかも併せて確認するべき。みんなやってるからいいという話でないのは当然としても、みんながやってる中でこの人だけをやっつけるのは、納得感がないし何より問題の解決にならない。

まあ、本人の「下書き」という言い訳もどうかと思うけどな。




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2014年03月09日 13:33      [posted by strange_days_2009]

対立しているのは何か

ウクライナがもめていて、ロシアがクリミア半島を事実上占領しているとか新冷戦だとかという見出しも見られる。ウクライナといえばもともと例の「オレンジ革命」の頃からバタバタしている印象があるが、ヤヌコビッチ大統領の権限を剥奪して国外に追い出したあたりからかなり剣呑な情勢になっているのは間違いない。

今回の一連の動きは、我々の目からは、親欧米的で民主的な、ウクライナの西半分を中心とする勢力と、親ロシア的で強権的な東半分の勢力とが存在し、民主的な勢力が強権的な勢力から権力を奪還したのにロシアがこれに軍事介入して邪魔している、と見える。

こう整理すると、民主勢力頑張れ、軍事介入するロシアはクソったれ、みたいな気にもなるのだが、これって果たしてそういう問題なのだろうか。

もちろん、個々のできごと、全体の中の特定の部分を見れば、どう考えてもおかしい、まずいということはある。だが、それならそこを解決すればすべてうまく行くかといえば、たいていはそこに別の善悪、新しい対立が発生するのである。

すべての問題は細かい善と細かい悪との複雑なモザイクで織りなされている。そこにあるのは総合的な善と総合的な悪の対立ではなく、部分的な善と部分的な悪との組み合わせであり、ほとんどの場合、総合的に見れば対立しているのは善悪や正誤であるよりむしろ利害である。

それは何もウクライナ情勢に限ったことではない。原発を巡る議論についても同じことが言えるかもしれない。ヘイトスピーチも従軍慰安婦もそうかもしれない。善悪、正誤でものを語り始めると、異論に対して原理の応酬になるだけで対立は解消しない。

そしてまた、善悪、正誤に関する議論はたいてい不寛容で峻険なものになる。悪きもの、誤ったものに譲る余地はないと互いに考えるからである。対立しているのは善悪、正誤ではない、利害なのだと考えてみることで、問題の本質が見えてくることは少なくないはずだ。




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2014年03月02日 16:34      [posted by strange_days_2009]

こんなの推薦じゃない

東京大学が平成28年度から推薦入学を実施することになり、その推薦基準が公表されたのだが、それが科学オリンピックでの入賞歴やら高い語学力やら論文やら自作のソフトウェアなど水準の高い資質を要求するものであったことから、「難しすぎる」「普通の学生にはムリ」といった反応が出ているようだ。

東京大学はもともと普通の学生が簡単に入ることのできない難関大学である。「難しすぎる」と文句を言っている人たちは、一般入試で簡単に入れない東大でも、推薦なら少しは楽に入れると思っていたのだろうか。そんなうまい話はないということくらい普通に考えれば分かりそうなものだが。

まあ、確かに、推薦入学が、学力の見劣りする生徒をそれなりの大学に確実に押し込みたい高校と、少子化の中でそれなりの学生を一定数確保したい大学との間で、要はそれなりの学生をそれなりの大学にローリスクで流し込むためのシステムとして機能していた面があることは否定できない。そのような現状を前提に見れば、この東大の推薦入学は「こんなの推薦じゃない」ということになるのだろう。

しかし、推薦入学というのは、もともと、一発勝負の入学試験では評価しきれないぬきんでた能力を持つ学生を、それを間近に見ている高校が大学に対して推挙するものだろう。むしろ一般入試より難しくて当たり前。東大がそうした推薦入学の本来の姿を問うような高めの推薦基準をぶつけてきたことにはそれなりの納得感がある。

推薦入学の背景には、一発勝負で人生にとって大事な進学先が決まってしまう入試への抵抗や躊躇があるんだと思うけど、じゃあ、「人物」とか「潜在能力」みたいなものをどうやって公平に評価して見極められるのか、実際にはとても難しく危うい。もともと「試験で測れないようなぬきんでた才能」なんてそんなにあるもんじゃないってことだろう。敢えて「推薦」するのはこれくらいバーが高いってことなのかもしれないな。




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2014年02月22日 16:06      [posted by strange_days_2009]

雪の日に考えたこと

1973年暮れから翌74年にかけて、トイレットペーパーが全国のスーパー、雑貨店の店頭から姿を消し、消費者が右往左往する騒ぎが続いた。背景にはオイルショックによる物価の高騰や物不足があったが、トイレットペーパー自体の需給には問題はなく、些細な誤解を発端とした買占めが品薄とさらなる買占めを呼び、連鎖的に買占め、売り惜しみを招いた一種のパニックであった。

1993年、日本の稲作は記録的な不作となった。秋ごろから米の価格が上がり始め、政府はアメリカ、タイなどから米を緊急輸入したが、品薄状態は解消せず、国産米はスーパーから姿を消した。米屋の店頭には不人気のタイ米が少しばかり並べられているだけ。コメの売出日にはスーパーに長い列ができるなど、買占め、売り惜しみは翌94年の夏ごろまで続いた。

2011年の東日本大震災の時にはさまざま物資の生産拠点が被災した上、物流が致命的に滞り、地震とは関係のない地域でも意外な物資が入手できない事態が起こった。原油の精製、輸送がダメージを受け、被災地で深刻なガソリン不足が起こった他、例えば僕の住んでいる東京でもなぜかスーパーから納豆やヨーグルトが消えた。これは記憶に新しい。

大雪で東日本の交通網があちこち寸断された週末から週明け、うちの近所のスーパーにはパンの入荷がなかった。ふだんスーパーに行けば欲しいものが手に入るのは当たり前のように思っているが、こういうことがあるとそれは誰かが絶え間なく生産し、誰かが絶え間なく運んでいるからこそ成り立っている危うい綱渡りにすぎないのだということがよく分かる。

それがどこか一カ所でも破綻すればたちまち思いもよらないところに大きな影響が出るのが現代の高度産業化社会。そしてひとたび均衡が崩れると不安が不安を呼んでパニックが連鎖する。快適な生活なんていつでも簡単に崩れてしまうのだということを僕たちたまにしっかり思い出した方がいい。雪の日に考えたこと。




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2014年02月15日 11:09      [posted by strange_days_2009]

多様性に対する想像力

東京都知事選挙が終わった。思ったのは、選挙前にツイッターの自分のタイムラインに流れてくるツイートでつぶやかれている意見と、実際の選挙結果が全然一致してないということ。選挙前にツイッターで大量に名前を見かけた候補は実際の選挙では大敗する一方、当選者を持ち上げるツイートは事前にはほとんど見かけなかった(けなすツイートはたくさん見た気がするが)。それはなぜか。

まず、デジタル・デバイスに親しみ、ソーシャル・ネットワーク・サービスを積極的に利用するような人は社会の中でもまだまだ多数派ではなく、そこで主流になっているような議論が必ずしも社会全体の中の平均的な関心と一致していないということだろう。ネット社会の世論は、少数の人のいささか偏った意見に引っ張られているのかもしれない。

敢えてネットで発言したいという人は、現状に対して何らかの不満なり改善欲求を持っている人だと推測できる。だとすれば、そこで語られる意見がいきおい現状否定的で変革志向型になりがちだということは容易に想像できる。それを見て「世の中は変革を求める声で満ちている」と考えるのはいかにも早計だ。

加えて、ツイッターのタイムラインは、自分が選んでフォローした人たちの発言である。フォローしたということは当然何か趣味が共通しているとかツイートが面白いとか主張が自分と似通っているとか、何かがあって自分が選んだ人たちである。そこで聞かれる意見に偏りが出るのはある意味当然だろう。そんなのは考えればすぐに分かることだ。

ところがネットでは「予想外の大敗」等と、ネット上での評判と実際の選挙結果のギャップに驚く声が結構ある。この人たちの、自分の周囲の人たちの声が世論を一般的に代表しているはずだという呑気な確信はいったい何なのだろう。デモに集まった人を見てこれが民意だとか言っちゃう無邪気で単純なメンタリティ。要は多様性に対する想像力が欠けているのだ。





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2014年02月08日 21:27      [posted by strange_days_2009]

音楽以外の何か

クラシックの作曲家としていくつも作品を発表していた人物が、実は自分で作曲しておらず、ゴースト・コンポーザーとでもいうべき「本当の作曲家」が存在していた、というニュース。まあ、僕はその「作曲家」も作品も知らなかったけど。

これが特に注目を集めているのは、その作曲家が広島の被爆二世でしかも全聾という「設定」だったということもあるのだろう。全聾の作曲家ということで「現代のベートーベン」などとも称される有名な人で、作品も高く評価されていたとか。作品のひとつはソチ・オリンピックで日本人選手のフィギュアスケートのプログラム使用曲に採用されている。

面白いのは「騙された」「裏切られた」という声があちこちから上がっていること。確かにAさんの作品だと思っていたものが実はBさんの作品だったという意味では「騙された」のであり「裏切られた」のだろう。

だが、そのことで発表された作品、楽曲そのものの価値はなくなったり壊れたりするのだろうか。素朴に考えれば今後は作曲者の名前をBさんと書きかえればいいだけのような気がする。それとも、それらの作品はAさんの作品だからこそ素晴らしい、Bさんの作品ではダメだという何か特別な理由があるのだろうか。

まさか、Aさんが「全聾」だからこそこれらの作品には意味があったのだ、耳の聞こえるBさんが作ったのなら大した作品じゃないのだ、ということなのか。もしそうだとすれば、それは耳の不自由な人を随分見下した、失礼なものの言いようではないか。

そしてそれはまた、音楽というものの価値についても随分と失礼な態度だ。本来取るに足りない作品なのに、それが全聾の作曲家の作品だからということで「プレミアム」をつけて評価していたというのであれば、その人が聞きたいのは音楽そのものではなく、音楽以外の何かだ。

「全聾なのにこんな曲が書けるのはすごい」という物言い自体が差別的だってもはや常識じゃなかったのか…。



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2014年02月01日 19:58      [posted by strange_days_2009]

貧者の相互搾取

冷凍食品に農薬が混入された事件の容疑者が逮捕された。その容疑者が49歳の妻子ある男性契約社員で、月給が19万円だとか年収が280万円ほどだとかいうことが話題になっている。

まあ、給料が安ければ商売ものの冷凍食品に農薬をふりかけてもいいということにならないのは当たり前だが、容疑者はふだんから「給料が安い」と不満をもらしていたとかボーナスが減ったとか報じられており、さすがに49歳妻子ありでこの給与水準だと確かに不満はあるだろうということは理解できる。

だが、それでは会社が従業員を極端に安い給料で働かせ暴利をむさぼっていたのかといえば決してそんなことはないのではないかと僕は思う。

冷凍食品は決して高価なものではない。むしろきちんと料理をすることができず、かといって外食もできないときに手に取るものだ。安価な輸入品との競争も厳しい。消費者に手に取ってもらうためには1円でも安くする必要があり、ギリギリのコストカットがなければ商売が成り立たないのは容易に想像できる。

その結果が人件費の極限までの圧縮であり、それは商売を持続させ、雇用を維持するためにむしろ必要なことなのだ。つまり、49歳の妻子ある男性に年収280万円の労働を強いているのは、スーパーで1円でも安い冷凍食品を漁る僕たち消費者自身なのだ。

消費者が1円でも安い冷凍食品を漁るのはもちろん給料が増えないからであり生活を防衛するためである。カネがないから安い商品を求める。その結果企業収益は圧迫され賃金はますます切り下げられる。僕にはまるで貧者が貧者を相互に搾取しているように見えてしまう。手っ取り早く言えばこれがデフレスパイラルに他ならない。

「プア充」とか「脱成長」とか、低収入でも、経済が成長しなくても豊かな生活はできるという考え方が流行りだが、そうした考え方はこうした貧者の相互搾取を前提にして初めて成り立ち得るものではないか。そこ、よく考えた方がいい。




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2013年12月14日 11:49      [posted by strange_days_2009]

「伝え方」の技術

横浜Fマリノスの中村俊輔選手がJリーグの年間最優秀選手賞を受賞したのを見ていた。プロサッカー選手としてはもはやベテランだが、今季は骨惜しみしない献身的な働きと確かな技術、戦術眼で横浜を牽引した。今季の横浜の躍進はひとえに中村のおかげと言っていい。文句のない受賞だ。

だが、いただけなかったのは中村のスピーチである。内容はどうでもいい。ただ、張りのない声でぼそぼそと、切れぎれに話す、定まらない視線、表情にもメリハリがなくたまにバツの悪そうな照れ笑いが混じる、聴衆に開かれた「スピーチ」の体をなしていないのだ。

それはプレゼンターの佐藤真海と比べればはっきりする。佐藤のスピーチも決して流麗という訳ではないし、手許の原稿を読んでいるのもはっきり分かるのだが、姿勢や視線の配り方、表情、発声、抑揚など、聞き手に何かを伝えようと働きかける意識が明快に伝わり好感が持てた。

中村を殊更に悪く言うつもりはないが、日本を代表するサッカー選手としてあちこちでコメントを求められたり、人前に出たりする機会のある人間として、このコミュ障の大学生みたいなスピーチはいかにも情けない。大勢の前で話すのが苦手なのかもしれないが、それは言い訳にできない。

なぜならスピーチの巧拙は性格の問題ではなく技術の問題だからだ。話す内容は事前に用意できる。そして話し方は訓練で身につけることができる。佐藤はおそらくオリンピック招致のスピーチのために専門家の特訓を受けただろう。公人がプアなスピーチしかできないのはそれ自体恥ずべきことなのだ。

だが、中村を責めるのは酷かもしれない。だいたい僕たちは人に何かを伝える訓練みたいなものを受けてこなかったのではないかと思うのだ。コミュニケーションが個人の性格とか得手不得手、好き嫌いに任されてきた結果がこの中村のコミュ障的スピーチなら、僕たちは「伝える」ことをもっと真剣に考えた方がいいのかもしれない。




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