明後日から消費税が8%に上がるのでみんないろんなものを駆けこみで買いだめている。僕もウィンドウズ・タブレットやCDのボックス・セット、スーツなどをこの際だと思って買ってしまった。いずれ買うつもりだったものなので購入を前倒しするのは合理的だと思った訳だ。だが、そうしたある程度値が張る大きな買い物だけでなく、日常消耗品も買いだめている人が結構いるらしく、トイレットペーパーや洗剤、冷凍食品やペットボトルの飲料、ガソリンなどを苦労して買い回り備蓄している人が少なくないらしい。気持ちは分かる。保存の利くモノなら消費税が上がる前に買っておこうというのは自然な反応だと思う。だけど考えてみて欲しい。そうやってせっかくの休日をつぶして混んだスーパーに出かけ、駐車場に並び、何とか商品を確保して重い荷物を家に持ち帰る。すぐには使わない買い置きが狭い家の貴重なスペースをふさぐ。そこまでして買いだめ、買い置きをする必要が本当にあるのだろうか。例えば1万円買いだめしたとして、消費税が8%に上がると差額は286円である。仮に10万円買いだめても2,857円である。買いだめにかける時間、手間、場所にそれだけの価値があるのだろうか。つうか、時間、手間、場所なども立派なコストであるという意識があるのだろうか。まあ、おいそれと10万円も買いだめできる人はおそらくおカネにも時間にも自宅の余裕のある人なんだろう。買いだめの分の10万円をポンと捻出でき、半日がかりでスーパーへ往復しても仕事の疲労を回復する余暇はまだまだ残っていて、洗剤だのトイレットペーパーをしまっておく場所にも事欠かないのだろう。そういう人が趣味で買いだめ、買い置きするのは自由にやってもらって構わない。2,857円をケチるためにはそれだけの余裕が必要なのだが、それだけの余裕のある人はおそらくトイレットペーパーなんて買いだめしないだろう。買いだめる前に冷静になった方がいい。
STAP細胞を作成したと話題になった研究者の博士論文にコピペが続々と見つかりいったいどうなってんだ的な騒ぎになっているようだ。確かに、ネット環境が完備し論文執筆もパソコン打ち込みの現代では、それなりのネタを探して電子的に切り貼りするなんて簡単にできてしまう。以前は丸写しだって少なくとも書き写す手間くらいはかかったが、電子的なコピペなら一瞬ですんでしまうのだ。こういう情報環境が所与の世代に、「世界は巨大なデータベースであり既知の事実は共有財産であって必要なものは自分が新たに書き下ろさなくてもコピペすればいい」みたいな、切り貼り的、「オレは端末」的世界観が形成されても不思議ではない。とはいえ、さすがに学部のゼミ論や卒論じゃあるまいし、博士論文で100ページ中20ページがほぼ完全にコピペというのはマズいだろう。仮に既知の事実を敢えて書き下ろすことに意味が見出せずコピペするのを許容したとしても、引用の事実と出典は明示するんじゃないのかな、普通。僕は一介の文系学士なのでこの辺の詳しい事情は知らないが、こうした分野の博士論文ではこんな雑なコピペによる乱造は珍しくないことなのだろうか。それともこの研究者のやり口がよほどいい加減なのだろうか。この博士論文が特に雑だということならこの人物に学位を与えたこと自体がどうよということになるし、この程度はよくあるんですよということなら学位も所詮コピペで取れちゃうということだからユーキャンの通信教育でAKBが博士になるのも近いってことだろう。この研究者の論文が批判的に検証されなければならないのは当然だと思うが、本当に彼女一人の問題なのかどうかも併せて確認するべき。みんなやってるからいいという話でないのは当然としても、みんながやってる中でこの人だけをやっつけるのは、納得感がないし何より問題の解決にならない。まあ、本人の「下書き」という言い訳もどうかと思うけどな。
東京都知事選挙が終わった。思ったのは、選挙前にツイッターの自分のタイムラインに流れてくるツイートでつぶやかれている意見と、実際の選挙結果が全然一致してないということ。選挙前にツイッターで大量に名前を見かけた候補は実際の選挙では大敗する一方、当選者を持ち上げるツイートは事前にはほとんど見かけなかった(けなすツイートはたくさん見た気がするが)。それはなぜか。まず、デジタル・デバイスに親しみ、ソーシャル・ネットワーク・サービスを積極的に利用するような人は社会の中でもまだまだ多数派ではなく、そこで主流になっているような議論が必ずしも社会全体の中の平均的な関心と一致していないということだろう。ネット社会の世論は、少数の人のいささか偏った意見に引っ張られているのかもしれない。敢えてネットで発言したいという人は、現状に対して何らかの不満なり改善欲求を持っている人だと推測できる。だとすれば、そこで語られる意見がいきおい現状否定的で変革志向型になりがちだということは容易に想像できる。それを見て「世の中は変革を求める声で満ちている」と考えるのはいかにも早計だ。加えて、ツイッターのタイムラインは、自分が選んでフォローした人たちの発言である。フォローしたということは当然何か趣味が共通しているとかツイートが面白いとか主張が自分と似通っているとか、何かがあって自分が選んだ人たちである。そこで聞かれる意見に偏りが出るのはある意味当然だろう。そんなのは考えればすぐに分かることだ。ところがネットでは「予想外の大敗」等と、ネット上での評判と実際の選挙結果のギャップに驚く声が結構ある。この人たちの、自分の周囲の人たちの声が世論を一般的に代表しているはずだという呑気な確信はいったい何なのだろう。デモに集まった人を見てこれが民意だとか言っちゃう無邪気で単純なメンタリティ。要は多様性に対する想像力が欠けているのだ。