週刊 奇妙な日々
strange days weekly
  silverboy club presents


2012年02月11日 16:41      [posted by strange_days_2009]

不気味な正義

僕は京王線の沿線に住んでいるのだが、京王線を利用すると、駅やら車内やらにマナー、エチケットを訴えるシリーズ広告がずっと掲出されている。利用者から募集した標語をメインに、人気漫画家のイラストを添え、ソフトに、しかし明確に、例えば「イヤホンの音漏れ」とか「駆け込み乗車」とか「邪魔なリュック」とか「車内での飲食」とか、そういう迷惑行為について注意を促しているのである。

どれもこれももっともなものばかり、僕のような善良で小心な利用者にすれば「そうだそうだ、もっと言ってやれ」的な話であることは間違いないし、たいていの人は異論のないところだろう。しかし、こういうのを見ていると、どうも落ち着かないというかケツがムズムズするというか、何か窮屈な感じがするのもまた事実だ。

確かに迷惑行為はやめて欲しい、とはいえ直接注意するのも勇気がいるし逆切れされたりしても困るので、ポスターなどで注意喚起しマナーの向上を訴えて行こうという考え方自体は理解できる。だが、川柳もどきの標語をせっせと作って鉄道会社に投稿している人たちのことを考えるとちょっと不気味な感じがしてくるのは僕だけだろうか。

まあ、僕自身、マナーの悪い輩がいても注意するどころか見て見ぬふり、最悪寝たふりを決め込むヘタレなのでエラそうなことは書けないが、結局、自分では注意できないことの責任を鉄道会社に押しつけて、その背後から冷たい目を向けるだけの、匿名の「市民」の群れの無表情な「正義」の怖さを思ってしまうのだ。

このコラムでも何度か書いていることだが、正しいこと、だれも表だっては反論できないようなことを、権威ある人が正面から振りかざすとき、それは何よりも強力な抑圧になり得る。たかが電車の駆け込み乗車かもしれないが、それをよってたかって、しかも自分自身は安全な場所から指弾することに、気味の悪さ、気持ちの悪さを覚えることはあっていいのではないかと思う。



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2012年02月04日 15:21      [posted by strange_days_2009]

マイナーチェンジ

この「週刊 奇妙な日々」もスタートして3年が経った。もともと「奇妙な日々」というコラムをサイト内で展開していたのだが、掲載は不定期で、月に一度にも足りないくらいだったのを、字数を決めてしっかりした文章を書く訓練をしようと思って週刊化したのが2009年1月のことだった。

それから毎週末、土曜日か日曜日に800字のコラムをほぼ休みなく掲載してきた。自分の仕事に関することについては一切書かないということと、党派的な主張に亘る政治ネタは基本的に避けるということ以外には、取り上げるネタも時事的なものから事件や裁判、卑近なできごとまでなるべく限定しないでいろいろ書いてきたつもりだ。

しかしながら、自分で読み返してみると書いてることがだんだん同じような話になってきたり、以前に書いたことをすっかり忘れて同じネタを使い回したり、ちょっとさすがにマンネリかなと思うところも目につくようになってきた。自分でもそうなんだから読者の方は余計そう思うだろう。

読者がそれを教えてくれればいいが飽きの来た読者は静かに去って行くだけだ。自分では別に読者を求めて書いている訳じゃないと思ってはいるが、せっかく書いているのだから読んでもらえれば嬉しいし飽きられれば悲しい。リフレッシュの意味で毎年1月は休筆期間にし、ネタを集めたりしていたが、そろそろやり方を変えてみるのもいいかもしれないと思う。

そこで、これまで200字ずつの四段落にきっちり分割していたコラムの体裁の枠を取っ払ってみようと思う。字数の800字というのは変えないが、その中での文章構成はちょっと自由にやってみようかと思うのだ。文章を四段落にきっちり整えるためには結構技巧的な調整が必要で、段落のケツを合わせるために肝心の文章が食い足りないモノになることもない訳ではなかった。

そういうスタイルのオートマティズムみたいなのを今年はちょっと破壊してみることにしよう、これに限らず。



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2011年12月25日 16:39      [posted by strange_days_2009]

新しい神さま

今日はクリスマスである。僕の通っていた幼稚園はカトリックで、日曜日は礼拝のために教会に集まり、その代わり月曜日は休みだった。この時期には当然クリスマス会があり、毎年キリストの生誕劇をすることになっている。僕の役柄は供物を手に生まれたばかりのキリストの許に駆けつける当方の三博士だったと長い間思っていたのだが、親に確認したら本当はどうも星を見てキリストの誕生を知った羊飼いだったらしい。おかしいな…。

もちろん、今の日本のクリスマスにそのようなキリストの生誕を祝うという要素はない。敬虔なクリスチャンを別にすれば、普通の人たちにとってクリスマスというのは、年末に巡ってくる年忘れイベントのことである。ある者は酒を飲み、ある者はケンタッキーフライドチキンを食べる。ある者は子供にプレゼントを贈り、ある者は恋人と夜を過ごす。半年前から作り置きされたケーキを食べながら、しかしキリストを思う人はまずいない。

もちろん僕はこうした状況を憂えるつもりも批判するつもりもない。なぜなら、21世紀の僕たちの世界で祝福されるべき対象は、2000年前に生まれた救世主よりも、チキンやケーキやワインやプレゼントそのもの、つまりは大衆消費資本主義だからだ。僕たちの神さまはショッピング・モールであり高級レストランでありシティ・ホテルでありセレクト・ショップなのだ。僕たちはせっせと彼らに浄財を献納し、彼らが世界を司っているのだ。

だとすれば、僕たちのクリスマスがこんなに騒々しく、華やかで、しかもしっかりとパッケージ化されているのは当たり前のことなのだ。神の子の生誕を祝う祭りが、大衆消費資本主義の狂い咲きみたいに見えるのは至極当然なのだ。十数年前、僕たちはそれを世紀末と呼んだが、世紀が変わってももちろんそれは落ち着いたりしなかった。世界の運動原理のことを神と呼ぶならば、僕たちの消費行動そのものが神だというのはもはや自明だ。

 

 



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2011年12月10日 17:17      [posted by strange_days_2009]

公的年金制度清算の提案

必要な年金の種類の切替を怠り本来納めるべき年金保険料を納めなかったのに、切替を行ってきちんと保険料を納めた人と同じように年金がもらえるという現象が起こっていて、政府がその対応に苦慮している。この現象は、もともとそのような切替が必要だという周知が不十分だったために、図らずも未納となり無年金になる人が続出しかねないという危惧から設けられた救済措置なのだが、この救済措置が不公平だと批判されているのだ。

確かに、ずっと保険料を納めていなかった人が、きちんと制度を知り正直に切替を行って毎月真面目に保険料を納めてきた人と同じ年金を受け取ることができるというのは理解できない。このような救済措置の恩恵に与っている人に対しては、年金の支給額を然るべく減額し、過去に払いすぎた年金については返還を求めるのが筋だという議論は説得力があるが、「高齢者への配慮」などから政府はこうした対応に二の足を踏んでいるらしい。

まあ、こうした話も我が国の公的年金が長い間丼勘定でやってきたことのツケのひとつだろう。納められた年金保険料を運用して本人に年金として支払うのではなく、今の年金保険料収入を今の高齢者にいわば「移転」するような形で年金として支払う仕組みは、経済が右肩上がりで成長を続け、国民の大半が勤労者であった時代ならともかく、高齢者の比率が高まる一方の現代においてはそもそも思想として破綻しているという他ないのだ。

そんな世界で「高齢者への配慮」なんてことを言っていたら近い将来に公的年金という仕組み自体がクラッシュせざるを得ない。いや、いっそ公的年金をいったん清算し、今の高齢者にはこれまでに自分で支払った保険料からこれまでの年金支給額を差し引いた額だけをお返ししてはどうだろう。そしてその後は、自分が納めた保険料を自分のために運用してもらう仕組にガラッと変えてしまうのだ。そうすればこんな問題で悩むこともない。

 

 



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2011年12月04日 21:02      [posted by strange_days_2009]

下劣な社会

ドイツにいた頃、同じようなインプット・シートを、リストを見ながら何十枚も作るという仕事をしたことがある。シートの雛形はエクセルになっているので、リストから顧客の名前とか取引の金額とか日付とか諸々のデータを転記というかコピペしてプリントするという作業を繰り返すことになる訳だが、面倒臭いので、リストから必要部分を一件ずつ雛形にコピペしては印刷してデータ消去するというマクロを作って対応することにした。

そのマクロのおかげで仕事は飛躍的に早く仕上がったのだが、それでも急造のマクロなので本来入っていなければならないコードがひとつ抜けてるとかその程度のエラーは起こる。最初は手書きか手作業で一件ずつコピペかと思っていた仕事なのだから、主要部分が自動化できればあとは手書きで修正でも追記でもすればいいと思うのだが、現地人の職員からは「ここが抜けてる」「ここが違ってる」という指摘が容赦なく噴出したのだった。

僕にすればみんなでやる仕事を少しでも効率よく進めたいという、まあ、いわば親切心から、本来なら作らなくてもいいようなマクロを作って仕事を楽にしてやったくらいに考えてたので、「まあ、まだ若干の手作業は残るにしてもおかげで随分仕事がはかどったよ」とかって礼を言われることこそあれ、文句を言われるとは思わなかった。人というのは自分に都合のいいことは当然だと思い、不都合に文句だけ言うものなのだと思い知った。

そんなのは仲間内のやりとりなのでどうでもいいのだが、考えてみると世の中には自分のためにだれかが何かをしてくれるのが当然だと思ってる人がたくさんいて、そういう人ほどだれかのちょっとした間違いや至らなさを大きな声で追及する傾向があるように思う。自分では何もしないクセにブーブー文句だけ言う人は昔からいるのだと思うが、市民とか消費者とか弱者とかいう名前でそれが正当化されるような下劣な社会は勘弁して欲しい。

 



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2011年11月27日 22:02      [posted by strange_days_2009]

永久欠番

松本山雅の松田選手が練習中に倒れそのまま死去したのは今年の8月のことだった。松田はもともと日本代表でも活躍した有名な選手であり、その夭逝はサッカーに関わる人たちに大きな衝撃を与えた。我々FC東京も震災によるリーグの中断中に山雅とプレシーズンマッチを行い、その時には松田の元気な姿を見ていただけに(僕も現地に出かけて見た)にわかには信じられない気持ちだった。死亡時にはニュースでも大きく取り上げられた。

松田の死去を受け、前年まで松田が所属していた横浜F・マリノスは、松田が在籍時につけていた背番号「3」を永久欠番にした。なるほど、前年シーズン終了時に松田を戦力外としたときには多くのサポーターが契約の継続を求めて署名を集めクラブハウスに押しかけたりもしたほど、実績があり、クラブの顔でもあり、また何よりサポーターに愛された選手が、移籍後とはいえ死去したのだから何らかの弔意を表すのは当然かもしれない。

だが、考えてもみて欲しい、本当に松田のことをそこまで評価していたのであれば、戦力外で放出するなとまでは言わないものの、せめて移籍時に「3」を欠番にすればよかったのではないか。チーム事情で功労者といえども泣く泣く戦力外にすることはあり得るとしても、長年チームの顔として例外的に大きな功績を残した選手でありそれを形に残すべきという認識があれば、死のうが生きていようがやるべきことは変わらないはずだろう。

移籍時には何のアクションも起こさなかったクラブが、松田が死んだからといってその背番号を永久欠番にするということは、それは松田の功績に対する敬意ではなく、松田が死んだことに対する「香典」のようなものではないのか。松田だけではなく、どんな選手も、どんな人もいつかは死ぬ。松田以上の功績のある人もあるだろう。彼らが死ぬたびに横浜はその番号を欠番にするのか。僕にはどうもバランスの悪い対応に思えてならない。

 

 



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2011年11月20日 22:10      [posted by strange_days_2009]

出版社なんかいらない

音楽が曲単位でダウンロード購入できる世界が到来して久しい。日本では携帯電話が独自の進化を遂げたこともあって、着メロ、着うたなどのように音楽を携帯電話にダウンロードして聴くという買い方も現れ、音楽の流通の仕方、聴き方もかつては想定できなかったほど変化し、多様化している。そして、そんな中、CDを買うという、僕たちの世代にすれば当たり前の流通方法は衰退しつつあり、レコード会社は減収に苦しんでいるらしい。

音楽をCDという有体物に収録してそれを売るという、既存のレコード会社のビジネスモデルがワークしなくなってきていることは確かだが、それでは世の中の人が音楽を聴かなくなってきているかというとそんなことはまったくないと思う。だとすれば、著作権も含めた製作者とリスナーの利益を確保しながら、音楽を流通させる何らかの方法があるはずで、ただ、その新しいモデルにはレコード会社が必要とされないというだけの話だろう。

電子書籍についても同じようなことが言える。ユーザが自分で本をバラしてスキャンし電子データ化する「自炊」がポピュラーになりつつあり代行業者も現れているというニュースなどを見ると、少なくともユーザのニーズは明らかに文学作品の電子化にあるように思える。ところが出版社の対応が立ち遅れているために既成事実がどんどん積み上げられ、結果として出版社は自分の利益も著作者の利益も守れずにいるのではないのだろうか。

音楽の製作者や文学作品の著作者の利益がきちんと確保され、情報が潤沢に流通してエンドユーザであるリスナーや読者のもとにきちんと届くのなら、そこにレコード会社や出版社が介在しなければならない理由はまったくない。デジタル・データが一瞬でデリバリーされる世界で、どうやったら音楽作品や文学作品の発表、流通がビジネスとして成り立ち得るのか。情報流通の革命に対応できない業態はいずれ淘汰されてしまうことだろう。

 

 



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2011年11月13日 23:31      [posted by strange_days_2009]

どうでもいい話

読売巨人軍の球団代表が涙ながらに自社の会長のことを批判する記者会見を開いて話題になっている。会長の方も反論の談話を発表したりして部外者である僕たちを面白がらせてくれているのだが、考えてみればこれって単なる読売の内輪もめだ。そんなことは会社の中で人知れずやってくれればいいのであって、専務と会長がメディアを通じてののしり合うなんて、これでは、ここの会社はいったいどうなっているのかと思われてしまう。

代表は会長が内定済みの人事を覆したことを「コンプライアンス上の問題」としているようだが、社内での人事プロセスやそこにおける公正性、透明性の確保はどちらかといえば内部統制の問題であって法令遵守の問題ではないように思う。そして内部統制の観点から言えば、すぐれて社内的な問題である自社の人事問題を、会長のやり方が気に入らないからと記者会見で世間様に訴えることの方がよっぽど異常なことだと言うべきだろう。

だが、いちばんの問題は、自社のそのような人事上の問題、例えばヘッドコーチをだれにするとかGMの肩書きを外されたとか、あるいはそうしたことがだれかの鶴の一声で決められているとか、そんなことが記者会見までして世間様に訴えるほどの価値のある重要な問題だと代表が思っていることだろう。別に株式を公開している訳でもない会社の役員が「ウチの会長ってひどいんです」とテレビで悲痛な声を上げていること自体が滑稽だ。

メディアも娯楽も多様化した結果、プロ野球や巨人が国民的なキラー・コンテンツであった時代は確実に終わろうとしている。プロ野球そのものがどうやって生き残るかを考えなければならないときに、この騒動はあまりに内向きだという他ない。多くの人にとって、読売のヘッドコーチがだれになろうが、それを決めているのがだれであろうがどうでもいい話だ。少なくとも20代の連中が中心のウチの職場ではその話はまったく出てない。

 



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2011年11月05日 23:12      [posted by strange_days_2009]

為政者の苛烈な運命

1904年に始まった日露戦争で、日本は大国ロシアを相手に緒戦で勝ち進んだ。国内では戦勝気分が高揚していたが、翌1905年には日本の物資面での戦争遂行能力は限界に達しており、早期に戦争を終結させる必要があった。外務大臣小村寿太郎はポーツマスでの講和会議に臨み、難航の末にロシアと講和条約の締結に至ったが、賠償金を獲得できなかったことなどから世論はこれを非難、激しい反対運動が起き、内閣は退陣を余儀なくされた。

国際的に見れば日露戦争の終結は疑いもなく望ましいことであり、また、客観情勢を見れば早期の戦争終結は日本の国益にも適うことであって(現に政府は講和を急いでいた)、当時の日露の力関係から見ても講和条件はむしろ日本側から評価されて然るべきものであった。しかし日清戦争での勝利に続き、大国ロシアを日本海海戦で撃ち破った興奮に浮かれる国民からは散々な評価を受け、小村は調印後にホテルの自室で号泣したともいう。

自国の利益を第一に考える国内での世論と、他国との力関係、利害関係の中で現実的な選択肢から最善のものを採るしかない国際政治の現場とでは、ものの見え方はかなり違ってくる。今回のギリシャ危機でも、ギリシャ人としては緊縮財政に反対して生活水準の維持を訴えるのも当然の反応だろう。だが、一方で、国の財政が破綻しかけて外国に迷惑をかけてる国が何を寝ぼけたこと言ってるんだという債権国の苛立ちもまた正当だと思う。

外交とはその両者を調和させる営みであり、その意味では外交官は常に非国民である。小村は講和に向かう途中、群衆の熱狂的な見送りを受け、「帰ってきたときには自分の人気は逆になっているだろう」と首相に言い残したという。ギリシャの首相が国民にどうやってこの窮状を理解させるか、その苦労は家計が苦しくて子供に欲しいものを買ってやれない親のようなものかもしれない。それが為政者の苛烈な宿命というものなのだろうか。

 



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2011年10月29日 22:50      [posted by strange_days_2009]

文明の衰退

僕はもうタバコを吸わなくなって15年くらい経つが、吸っていた頃は例によって100円ライターを使っていた。買うこともあるし何かの景品でもらうこともある。使い捨てとはいえ実際にはかなり長く使えるので、特にライターに拘りがあるわけではない愛煙家には重宝な道具だ。ところが、この9月からレバーを重くするか、二段階の操作をしないと点火できなくする『チャイルドレジスタンス(CR)機能』の実装が義務づけられたらしい。

これというのも100円ライターを使った子供の火遊びで火事が発生するなどの事故が多発し、子供が簡単に火をつけることができるような道具がその辺に転がっているのがよくないといういつもの議論になったからだ。火をコントロールすることは人類が身につけた最も基本的で重要な技術のひとつであり、自在に着火できる道具はその最先端であるはずなのだが、どうも簡単に火がつくというのは今ではあまりいいことではないらしいのだ。

長い歴史の中で我々人類がせっかく獲得した英知を自ら捨て、不便を耐え忍ばねばならないほど我々は愚かなのか。たぶんそうなのだろう。眼前の危機に対して理性や知性で対応することができず、物理的に「火をつけにくくする」という、進歩とは逆の方向で即物的に対応するしかないということは、我々の文明が衰退し始めていることを意味する。確かに100円ライターすら管理できない人類に原子力を制御するのはムリなのかもしれない。

便利な道具に弊害があるからといって、道具の方を不便にしてしまえという発想には毎度感心するしかない。子供の手の届くところに無造作にマッチやらライターやらを放置しておく親や、火遊びの危険性をきちんと子供に説明して禁止することのできない親のおかげで、僕たちがタバコやキャンプ・ファイアに点火するのに毎回毎回余計な手間をかけさせられるのはうんざり。だいたいライターがなくたってマッチがあれば簡単に火はつく。

 



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