今年も24時間テレビが終わった。僕自身はふだんからサッカー中継以外ほぼテレビを見ないので、24時間テレビも当然見ないのだが、まあ、年に一度くらいはそういう祭りみたいなのがあってもいいということか。そういう趣旨なら別にそれがチャリティである必要もないと思うのだが、敢えて人気タレントを動員し、節電のさなかに夜を徹して番組を放送して視聴率を取りに行くためには、チャリティという大義名分もまた必要なのだろうか。
その辺はもう好きにやってもらえばいいし、どういう人がこれを好んで見ているのか知らないが見たい人は見ればいいと思う。ただ、僕が首をひねってしまうのは、この番組で毎年やっている、有名人が24時間マラソンに挑戦するという企画である。調べてみると、1992年の間寛平から20年も続いている伝統ある企画らしいのだが、何でチャリティのためにタレントが何十キロも走る必要があるのか、僕にはどうしても理解ができないのである。
もちろん、人が自ら困難にチャレンジする姿は心を打つ。しかし、そこにはその人が困難に立ち向かい目標を達成することへの強いコミットメントと必然性、内発性があるのが普通である。この企画も間寛平の頃はそうだったのかもしれない。しかし、今では走ることへのタレント自身の内発的必然性はほとんど感じられず、マラソンありき、ゴールの感動ありきで、今年はだれが走るかというだけの「見せ物」に変わってしまっているようだ。
歯を食いしばって走る絵、ゴールして涙する絵、番組としての感動的な絵作りとしてマラソンは重宝なのだろう。しかし、そこには感動の裏づけになる「私はどうしても走らねばならない」という強い動機がすっぽりと欠落しており、いうならば「感動のマッチポンプ」。何もないところに自己目的化した薄っぺらい感動だけが捏造されている感が払拭できない。結局、僕たちの感動はその程度の安っぽいものだと値踏みされているんだろうな。