May 08, 2007

学会のお知らせ

 すっかりご無沙汰してしまい、申し訳ない!このところすっかり見上先生に任せていたら、いつの間にやらStravinskyブログじゃなくなっているではないか(笑)!
 ということで、気合い入れて、稲崎、復活宣言!!!

 さて、今週の土曜に日本音楽学会関東支部の例会があり、そこで修論の発表をさせていただくことになっている。今回は、ひとまずそのお知らせ。お時間のございます方、ぜひいらして下さいませ。そして、質疑応答でとどめの一撃をグサっとお願い致します!

日本音楽学会
関東支部第324回定例研究会

日時 2007年5月12日(土) 午後2時〜5時
場所 お茶の水女子大学 共通講義棟2号館102室
(〒112-8610 文京区大塚2-1-1)
司会 白石美雪 (武蔵野美術大学)

修士論文発表
1.「乖離」する「古楽」と「モダン」
−《平均律クラヴィーア》第1巻第8番
プレリュードに関する録音分析−
 長井 悠 (東京大学)

2.1990年代の若者たちによるアナログレコードの消費 
−共有される空間の編成をめぐって−  
 大嶌 徹 (国立音楽大学)

3.ヒッチコック映画と音楽 
−B.ハーマンの“サスペンス的”音楽にみる
古典的映画音楽からの脱却− 
 竹内 麻紀 (東京音楽大学)

4.カプースチンの現代性の考察
 齋藤 大輔 (東京藝術大学)

5.ストラヴィンスキー後期の「声を含む作品」
−12音技法とテクスト解釈−
 稲崎 舞 (桐朋学園大学)


by 稲崎 舞


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April 27, 2007

うなぎ調性

今日の講義はまず、ミランの《ファンタシア第1番》から分析を始めた。これとの関連で、「総合和声」原理篇第2章 和音のゆれ 1 旋法から調へ p.424-432 を熟読し、旋法性が調性に至るまでの分析法について検討した。

その後すぐに、《マタイ受難曲》のNo.35 Aria (Tenor) "Geduld , Geduld "を比較してピアノで弾いてみると、音楽の性格の違いに愕然とする。バッハがなぜゆえ構造の天才になりえたか、感覚的に瞬時にして納得した。つまり、カデンツを積み上げることによって構造を形成しているのである。特に、この曲の場合、様々な調による全終止が決め手となっている。さらに短い間隔で転調を繰り返す最初の4小節のような単位でも、カデンツの積み上げが構造を形作っている。

こうした構築的なバッハの世界からルネサンス音楽を見ると、大まかには調性があると感じさせられるが、なんだかそれはくねくねとしていて、とりとめがない。つかもうとすると手の中からするりと逃げ出してしまうような心もとなさがある。これが旋法性ということなのだろうか? 各教会旋法の解説からこうした音楽の質への説明へは、自分はするりとはつながっていかない。

島岡本は、非常に厳密に吟味された文章で書かれている。実際、島岡氏に能天気な自分が脇の甘い質問をすると、すかさずその論理のあやうさを指摘されてしまう。おそらくかなりの時間とエネルギーをかけて書かれたこの本には、こちらも相当の覚悟をして取り組まないと、その本質まで到達できないのではないかと思うようになってきた。

ブログで展開するには重過ぎるので、音楽分析学研究会ホームページでこれは取り上げることにしよう。また、広島の黒住先生が翻訳した英訳「総合和声」も手元にある。これを検討するように言われて、早1年が過ぎようとしている。そろそろこの検討のプロセスをディスクロージャーすることによって、その中身を深めるきっかけにしてもいいのではないかと思っている。

旋法概念と調性概念の関係を明らかにすることが、この1ヶ月の間の最大の宿題になっている。今日の結論は、

「旋法とは特別なものではない。調性概念の中に包摂されるものである。その性格を簡潔に言い表すならば、”うなぎ調性”とでも名づけるといいだろう。」

by 見上潤

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April 26, 2007

チャーチ・モードの基礎知識

今ここに半世紀以上も前に書かれた本がある。松平頼則 著 「新訂 近代和声学 近代及び現代の技法」(音楽之友社、1955年、1975年新訂)だ。譜例も多いので、一つ一つ教会旋法に関するところ検討することにしよう。

by 見上潤

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April 25, 2007

二つのリズム感覚

昨日はグレゴリオ聖歌式と古典式の二つのリズム感覚の存在について触れた。これはまた教会旋法と調性との関係に似たものがあるとも思っている。さらにこのリズムと音組織の間には関連があるのではないとも踏んでいる。そうすると、教会旋法と調性が表裏一体の関係であることを主張しているわけだから、二つのリズム感覚の関係も表裏一体である可能性があるということになる。

リズム感覚と音組織の関連については別の機会に論じることにして、とりあえずはこの二つのリズム感覚について論じることにしよう。

誤解を恐れずに問題を極度に単純化して言えば、グレゴリオ聖歌式は曲線リズム、古典式は直線リズムととりあえず定義できるのではないか。直線リズムは楽譜上の見た目にも小節線があるので、小節を単位としたデジタルなリズム構造を持っている。

ただし、音楽はある種の持続であって、この持続をデジタルな構造の中にはめるために、弱起強結(アウフタクト型)のリズム構造が形作られたとも言えるかもしれない。

さらに、人間の息は小節線を越えても一つの歌を持続させる。この点で、いかに古典式のリズム構造の枠組みを持っていても、旋律としては必ずグレゴリオ聖歌式の曲線リズムが演奏の際に留意されるべきであると考えられる。

また別の方向からも考えてみよう。ホモフォニックなテクスチャーが古典式のリズム感覚を要求し、ポリフォニックなテクスチャーがグレゴリオ聖歌式のリズム感覚を要求する。

さらにまた、後日述べる予定のベルカント式では、故pPadre Luigi Dal Fiorが繰り返し強調していた、"Dare giro la voce"(「声に回転を与えよ」)とは、まさに曲線リズムに対する示唆なのではないだろうか。

こうした話は実技を伴わないと単なる抽象論に終わってしまう可能性があるが、ある程度は机上で概念を展開しておくことにも意味があろうと思って書き始めたが、やはり少し虚しいものを感じた。またこれは、まだ書きこなせるほどには問題がこなれていないということかもしれない。

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April 24, 2007

The Owl and the Pussy-Cat (1966) その2 しゃっくり

ここでのストラヴィンスキー分析であまり触れていなくて、かつ重要な要素はリズムである。12月7日の記事で、軽く「メシアンが法則化したリズム語法の中にストラヴィンスキーの謎を解くヒントがあるかもしれない。」とほのめかしている程度である。

さて、この《ふくろうと子猫ちゃん》は、8部音符3つ単位の部分が多い。そうすると、基本的には3/8拍子、ないしは6/8拍子を主体としているように見える。最初にこの曲を見たときには、「タランテラ」?と思ったくらいだ。そこから8部音符分マイナスしたり、プラスしたりして、あのメシアンの「付加された時価」(V.A.)のようなリズムが作られているのではないだろうか。

この、「古典的でない不規則なリズムの拡大と縮小」という技法もまた、中世に起源を求めることができる。そこでまたまた登場するのはギョーム・ド・マショーだ。彼の代表作である《ダヴィデのホケトゥス》や《ノートルダム・ミサ曲》に見られるイソリズムの技法が使われている。このイソリズムの技法こそまさに我々が解明しなければならない問題が含まれているようである。

ところで、このイソリズムの技法のひとつにホケトゥスというものがある。かつて音楽史を勉強したときに、”ああ、しゃっくりね。面白い。”と思った記憶がある程度だったが、ある曲を聞いたときこの学生時代の知識がにわかによみがえった。その曲とは、ブーレーズ《ル・マルトー・サン・メートル》だった。当時は鳴り物入りで現代音楽の最先端の傑作と言われていたが、なあんだマショーの焼き直しではないかと一人で酷評をしていた。

《ふくろう》は、小節線がないという点でも古い音楽との共通点がある。しかし本当に小節線が不必要だったのかどうかは検証に値する。なぜならば、歌詩の英語が持つリズム構造はむしろ古典的な枠組みを要求するからである。一旦、歌の部分だけ書き出して、英語のアクセントを確認して、古典的な小節構造にはめてみた上で、そこにピアノの部分を書き込んでいくとどうなるだろうか。元の小節線がない楽譜で演奏するときとなんらかの差異は生じるであろうか?

これはまさにグレゴリオ聖歌の演奏解釈と同一の問題を提起している。グレゴリオ聖歌は古典的な「アップ・ダウン」のリズム感覚とは異なる「アルシス・テーシス」のリズム感覚を要求しているとされている。したがって、小節線を必要としないしあってはならない。

しかし一方、このグレゴリオ聖歌にみられる回転する曲線の感覚は、その後の歴史の中で、「アップ・ダウン」の古典的なリズム構造にとって変えられたのではなく、一見するところ背景に退いただけであって、実は音楽そのもの基本的なありようとして息づいてきたのではないかと思っている。その流れの一つが19世紀前半のベルカントとして歴史の中に浮かび上がったのだ。

では、この《ふくろう》はどのような演奏スタイルが相応しいのだろうか。グレゴリオ聖歌スタイルか、古典的スタイルか、ベルカントか、さもなくばしゃっくりか?

次々と興味の尽きない問題が出てくる。

by 見上潤

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April 23, 2007

Luis Milan 《Fantasia》

このルイス・ミランの《ファンタシア》第1番は、5月の音楽理論研究会で小川伊作先生が、「旋法的和声理論の構築」と題して研究発表する曲だ。これもまた音楽分析学研究会公開講座で”予習特別講義”が行われる。

小川先生の詳細な分析が付記された楽譜を3月にいただいたが、最初はピンと来なかった。とにかく、ビウエラの音色を想像しながらピアノで繰り返し弾いてみた。すると次第に、あれあれピアノでも結構美しく響くではないか。本当に上手に弾けたら、ピアノのレパートリーとしても悪くないのではと思うほどだ。

そうこうしているうちに、何やら遠くのほうから別の響きが聞こえてきた。何だろうとかと思って耳を傾けると合唱の響きが見え隠れするではないか。しかもそれはまさにパレストリーナの響きだった。

ルイス・ミラン (1500年頃 - 1561年以降?)
パレストリーナ (1525年?-1594年2月2日)

生没年を単純に比較するとミランのほうが先だ。同時代なので実際の作曲がどちらが先か判定することはできないが、パレストリーナの作品の完成度の高さを思えば、やはりパレストリーナが当時のヨーロッパの様々な音楽を集大成と見るほうが妥当なのではないだろうか。ルネサンスにおけるパレストリーナはバロックにおけるバッハのような存在だったのだろう。

ところで、パレストリーナと言えば、《ミサ・ブレヴィス》が有名だ。これもまたピアノで弾いても非常に美しい。バッハの《平均律クラヴィア曲集》のフーガにもこの様式を模しているものがある。だったら、これもピアノのレパートリーにしても面白いのではないか。中世・ルネサンスだけでピアノ・リサイタルをする(!?)・・・あまりに渋すぎて、聴衆はついてこないかもしれませんが、誰か大家がやったら流行るかもしれませんね。

さて、この時代の作品の分析についてですが、「総合和声」p.427以降にこの時代の作品の分析があります。しっかり島岡式ですが、全然OKです。たった5ページだけですが、ここの分析と解説を十分に理解してからミランの作品の分析に取り組んでみようと思います。

研究発表当日、小川先生自身のビウエラによる演奏が聞けるらしい。とても楽しみだ。

PS. 《ふくろうと子猫ちゃん》も稲崎教授による弾き語り演奏があるとのこと。近頃は、音楽学者もパフォーマンスができて当たり前のご時世になったようだ。さてさて、これでは自分も何か”かくし芸”を披露しなければならないのだろうか。ああ・・・

by 見上潤

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April 22, 2007

変節!

えぐいぜ!と思った曲が2曲ある。そのひとつは、ギョーム・ド・マショー《ノートルダム・ミサ曲》であり、もうひとつは、ストラヴィンスキーの《結婚》である。600年も時代が異なるが、何か通じるものがあるような気がしている。

昨日話題にしたストラヴィンスキーの《ふくろうと子猫ちゃん》の対位法的作風は、同じくギョーム・ド・マショーの3声逆行カノン《わが終わりはわが初めなり》まで遡れるものではないかと推定している。

バッハの没年である1750年からシェーベルクの没年の1年前(?)である1950年までの200年間を、12平均律の解放とその極限まで発展したエポックとして、柴田南雄の歴史解釈に倣って「古典・ロマン時代」と私は呼んできたが、こうして考えていると、その上の大概念として、もう500年ないし600年前からもひとつのエポックとしてとらえる考え方もありだと思えてくる。この時代を命名すると、「複音楽=ポリフォニーの時代」と呼べるのではないだろうか。

そのような認識の上に立つと、現在の我々が関わっている多くの音楽のメタな基本類型をほとんど中世ルネサンスにもとめることができるのではないかという大胆不敵な仮説を、証明できないだろうかという気になってくる。(ああなんと、大言壮語もいいところだ!)

正直に告白しよう! 刺激の強い現代音楽をやっていた頃は、この中世・ルネサンス音楽に関心のある人たちは懐古趣味であり、そんな毒にも薬にもならない音楽をやっていったい何の意味があるのかと本当に思っていた。女の子に声もかけることができないひ弱なヲタクたちを内心でバカにしているプレイボーイのように。

それから数十年が経過した今、耳が退化したのか、洗練されたのか、どちらか断定することは微妙であるが、中世・ルネサンス音楽が、他のどの時代の音楽よりも高く、部厚く、かつ色鮮やかに、自分の前に屹立しているのだ。

by 見上潤

stravigory at 20:14|PermalinkComments(1)TrackBack(0)clip!by 見上 潤 

April 21, 2007

The Owl and the Pussy-Cat (1966) その1 カノン、可能かのぉ〜?

しばらくぶりのストラネタです。

この《ふくろうと子猫ちゃん》は、5月の音楽理論研究会で稲崎教授が研究発表する曲だが、音楽分析学研究会公開講座でこの例会に向けた”予習特別講義”が例年と同様に行われることになったので、やっとの思いで自分で楽譜を読み始めた。何せストラヴィンスキーを本格的にアナリーゼするのはこれが初めてのことのなのである。

この曲は、ストラヴィンスキー最後(なんと84歳!)の作品で、歌とピアノのために書かれている。ピアノ部分は終始ユニゾンで、還元すれば2声のインヴェンションのようなテクスチャーによって書かれていると考えることもできる。12音技法で書かれていることと、そのシンプルさはヴェーベルンを想起させる。ヴェーベルンが死んで20年以上も経過しているので、その作風を出会っていなかったとは考えられにくいが、またその影響があったかどうかについては不明である。

教授の精密な分析によると、ひとつの12音列の原形(O)、反行形(I)、逆行形(R)、逆行形の反行形(RI)を、その移置形を使わずに作品の中に配置してあり、その配置の仕方が歌詩に関連しているとのこと。

さて、楽譜の1ページ目を開いてにらめっこを始める。う? な、なんとこれはかなり手の込んだカノンではないか! しかも作品全体に行き渡った、拡大・縮小・反行・逆行カノンである考えることができるではないか。《かえるの歌が聞こえてくるよ》だの、《パッヘルベルの〜》だのもカノンだが、そこから遥かに手の込んだものであるにしても、やはりカノンであると考えることができるように自分には見えるのだが、それは読み間違いだろうか?

カノンという形式は、ルネサンスの時代に頻繁に用いられ、バッハは多くの傑作を作曲した。シェーンベルクは多くのカノンを書き、ヴェーベルンの多くの作品もカノンである。このある種究極の形式で最晩年のストラヴィンスキーが作曲しているということは非常に興味深い。新古典主義の時代に過去の多くの作品を研究したと考えられるが、その過程でその技法について研究したのだろうか? 他の作品ではカノンをどれだけ使ったのだろうか? ストラヴィンスキーの作品史の中にカノンという技法はいかに位置づけられるのだろうか? またカノンの歴史の中にこの作品はいかに位置づけられるのであろうか?

いきなり疑問噴出だ!

by 見上潤

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旋法理論 再構成の試み 3  教会旋法の巻

音楽理論研究会第10回例会の予告編です!
最初はかな〜りくだけた文章を目指していたのですが、結局は堅苦しくなってしまいました^^;

〜今日からあなたも旋法の達人!〜

どうしたら教会旋法を簡潔かつ明快に理解できるであろうか? 
どうしたら教会旋法と調性との関係をとらえられるだろうか?
どうしたら教会旋法をアナリーゼに応用できるだろうか? 

以上の問題にこたえるために、教会旋法およびその周辺の問題を、「総合和声」原理編の成果を踏まえながら研究した。
「ギリシア旋法」、「変格旋法」、「第X旋法」、「教会旋法におけるドミナント」等の、混乱を生じさせる可能性がある情報を捨象することによって純理論的にシステムを構築し、立体的な知識の織物を形成することを目論みつつ、従来の教会旋法理論を以下のような過程を経て再検討した。
各教会旋法の構造をテトラコードの組み合わせととらえ、cを主音にして比較検討し、7つの教会旋法を妥当な順序に並び替え、「調の枠組み図」によって意味づけることによって、”翳り”概念との関連を明らかにした。これによって移動ド的分析もクローズアップされた。また、各教会旋法の各音度の上に生じる和音の構造を比較によって各教会旋法の性格を明らかにし、調性の分析も併記することによって、教会旋法と調性の関連を明らかにした。さらに、各教会旋法の固有和音を主和音とする調性すべての領域を、「ハイパー固有和音調」と命名し、主調に対する各内部調の性格を明らかにした。
このようにして、表裏一体の関係であると考えうる調性と教会旋法の2重の観点から、ルネサンスから近代までのいくつかの実作品を、「ブレインストーミング法」を用いて分析した。教会旋法の周辺の問題としては、「ジプシー音階」、「トリコードと5音音階」についてのみ言及する。
今後の建設的な議論の土台になることを願って行ったこれらの教会旋法の研究を通じて、その面白さ・楽しさ・必要性を感じていただければ幸いである。 

by 見上潤

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April 20, 2007

ガチンコ対決!?

5月の音楽理論研究会の例会では、大分の小川先生と教会旋法について”ガチンコ対決”することになっている。果たして議論がかみ合い、建設的なバトル・トークになるだろうか? 開催までの1ヶ月間、この場を借りて議論の土台となるための最低限のコンセンサスを提示できればと思う。

管見するところ、非常に基礎的なコンセプトであると思われるのだが、”旋法”ないし”教会旋法”について納得ができる記述に遭遇したことはない。どこに問題があるのだろうか? 独断と偏見に基づいて、気がついたところから箇条書きにしてみよう。

1.ウイキペディアなどを見ると、主としてジャズ・ポップス系と思われる人による記述が多い。
2.クラシック系からは、おおかた中世・ルネサンス系、もしくは音楽学系からの発言に限られている。
3.歴史的記述にとらわれすぎている。 → 自然科学的記述を試みよう。
4.ギリシア旋法について触れると混乱を生じる。 → 名称の由来はこだわらないでおこう。
5.”変格旋法”概念は、最初から導入すると混乱を生じる。 → 基本をおさえてから、旋律の性格の一つとしてとらえる。
6.したがって、第?旋法という呼称は実情に合っていない。 → これは廃止して、”ドリア旋法”、もしくは”レの旋法”などに統一する。
7.教会旋法における”ドミナント”概念は、グレゴリオ聖歌を詳細に検討しないと理解できないので、とりあえずは必要ない。 → 廃止!
8.白鍵音のみによって記述していることが多く、各旋法の特徴がわかりにくい。 → cを主音にして各旋法の構造をあぶりだす。
9.したがって、7つの教会旋法の記述順序にも工夫が必要になる。 → イドフリミエロでなくて・・・後述。
10.古典派以降の音楽では使われなくなったという記述は一面的な認識である。 → 逆に、ルネサンスの作品も調性による分析が可能である。
11.したがって、近現代において”復活”したということは言えない。 → 調性と旋法性はコインの裏表の関係である。
12.教会旋法と和声学との関連に関しての言及が少ない。 → 調性理論と旋法理論は歩み寄って一体化させる。
13.総じて、楽典・音楽理論の脆弱性を反映していると考えられる。 → 音楽理論の基礎部分のコンセンサスとして、「総合和声」原理編を据える。
14.「総合和声」p.500の「調の枠組み図」は、音階を理解する上での最低限の基礎であり、これに基づいて教会旋法もとらえなおす。
15.上記の理論は、必然的に移動ド的な分析を必要とする。
16.各旋法の構造は、テトラコードの組み合わせでとらえるとわかりやすい。
17.テトラコードの順列組み合わせをすべて列挙すると、近代旋法への応用編となる。
18.この関連で、ジプシー音階の重要性も忘れてはならない。
19.順列組み合わせの方法をトリコードにも拡大すると、5音音階も理解しやすくなる。
20.これらの問題は、楽典・音楽理論のみならず、ソルフェージュ・音楽分析においても援用される必要がある。
21.近代旋法(メシアンの旋法等)との関連も明らかにする必要がある。

ざっと書き出してみたが、事態はなかなか複雑だ。とりあえず、筆者がこのような問題意識に基づいて話を進めていくということを了解していただければありがたい。

5月の例会の研究発表部分では、あえて論争的な問題提起は行わずに、建設的な議論が巻き起こるような土台を提示しうるように、可能な限り簡潔明快に教会旋法の構造とその応用を啓蒙的に説明し、教会旋法の面白さ・楽しさ・必要性を伝えることにエネルギーを注ぐつもりである。

by 見上潤

stravigory at 03:00|PermalinkComments(12)TrackBack(0)clip!by 見上 潤