2012年12月28日

銀座の柳

銀座はもともと日本初の街路樹として松や桜、楓といった木が植えられた。
しかしかつて島だったため湿地帯で木が育たず、柳が植えられることになった。
そこから柳は銀座のシンボルとなり、今では毎年5月に銀座柳祭りが行われ、銀座の最大の祭事となっている。

現在では、「中央区の木」にも指定されている。

東京行進曲(1929年)
東京ラプソディ
東京音頭
などで銀座の柳が歌われている。

出典:wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E5%BA%A7

2012年12月13日

銀座の橋、新橋、京橋、三原橋、数寄屋橋

銀座はもともと島だった。
銀座に入ってくるには橋を渡らなければ入って来れませんでした。

より詳しくはyahoo知恵袋にこんな回答がありました。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
正確にいうと、半島状になっている陸地と、入り江を埋め立て場所が銀座です。
家康が江戸に来る前までは、日比谷のあたりまで入り江が迫っていて、皇居前広場あたりは海沿いでした。
家康が関ヶ原の戦いで勝利し、江戸に幕府を開くことになり、街が発展すると考え、入り江を埋め立て、人工の島を造りましたこれが今の銀座です。四方が川や江戸城外堀で区切られていましたが、それも、埋め立てや高速道路に転用されるなどで陸続きになり、今に至っています。
機械はありませんから、手作業です。人員の規模はわかりませんが、「天下普請」といって幕府が全国の大名に号令をかけて、金銭と人員を出すよう命じています。1600年に第1回の天下普請が行われ日比谷の埋め立ては開始しましたが、銀座の街を整理し始めたのは、1612年の天下普請からでした。
埋め立て用の土は、2通りあったようです。一つは山の土を持ってきて埋め立てる。これは今の神田あたりに山がありそれを切り崩し埋め立て用にしたようです。もう一つは、江戸の市内にめぐらされた堀や水路の残土を埋め立て用に使ったようです。

出典:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1238513832
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^


今はだから今でも銀座の周りには新橋、京橋、数寄屋橋、三原橋と橋のつく地名があるのです。
そして東京湾から採ってきた魚はイケスに入れて泳がせていたそうです。当時冷蔵庫などありませんから新鮮な魚を食べられるのは銀座くらいだったのですね。そこで有名なおすし屋さんなどが銀座に出来て、皆しょうゆを使った。だから関東はしょうゆの文化なのです。逆に京料理などは海から遠く、手間をかけなければならなかったゆえに京料理という細工の凝った料理が流行りました。
その後観世金春の能楽師や狩野派の絵師達が銀座に住むようになり、良い食、良い文化を求めて人が集まり、歌舞伎小屋が出来るに至りましたとさ。









銀座の一番地

銀座には一番地が無いそうだ。(※泰明小学校と数寄屋橋交番以外)
日経にはこんな記事があった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「実はこの辺りでは中央区と隣の千代田区との境界が画定していないのです。ちょうど東京高速道路がある場所です。もし境界が決まったらそこが1番になると考えられるので、2番から番号を振ったのです」


中央区銀座と千代田区有楽町の境にある東京高速道路の場所にはかつて、外濠(そとぼり)川という川が流れていた。江戸時代に徳川家康が造成した人工の川だ。戦後、道路整備のために川を埋め立て、そこに高架を築いて1階を店舗とした。それが銀座インズだ。

 もとは川の真ん中が区の境だったが、埋め立てに伴い新たに境界を定める必要が生じた。その協議が今なお決着していない。

 区の境界が定まっていないのはここだけではない。東京高速の高架下はどこも同じ状況だ。宝くじで有名な西銀座チャンスセンターがある「西銀座デパート」や「銀座ファイブ」も中央区と千代田区の境界上で、「銀座ナイン」は中央区と港区との境にある。いずれも「正式な住所のない番外地」だ。

 境界が画定すれば銀座1丁目1番になりそうな場所には現在、東京高速道路の本社がある。住所は「銀座1丁目3番先」となっていた。

 ちなみに中央区によると、銀座1~8丁目には2カ所、1番地が存在している。1つは4丁目。数寄屋橋交差点の交番があるところだ。2つ目は5丁目で、こちらは泰明小学校がある。

出典:http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0503K_W2A201C1000000/?df=3&dg=1


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~







2010年02月18日

銀ブラの語源 ~銀座カフェーパウリスタ~

一般には「銀座通りをブラブラ散歩する」の意味で使われる「銀ブラ」だが、本当の語源となったのは、カフェーパウリスタでブラジルコーヒーを飲むというところから、当時の慶應義塾の学生たちが作った言葉である。


カフェーパウリスタの創業は1909年(明治42年)。

まだコーヒーを飲む習慣もない時代に、サンパウロ政府からサントス珈琲豆の輸入販売権を取得し、日本でのコーヒー文化を創ってきたお店である。

カフェとはブラジル語でコーヒー、パウリスタはサンパウロっ子という意味である。今は銀座8丁目の長崎センタービルにあるが、かつてのカフェーパウリスタは今の交詢社(銀座六丁目)の向かいあたりにあった。


今年で101年目ということになるわけだが、その間に多くの著名人がこの店に通っている。


大正時代には菊池寛、正宗白鳥、芥川龍之介、久保田万太郎、広津和郎、佐藤春夫、獅子文、六水上滝太郎、吉井勇といった文学者が多く出入りしていた。

その関係で、昔を懐かしむ人たちがこの店を訪れるのも少なくないそうだ。

ジョン・レノンもオノ・ヨーコとともにここに通った。
時にはブルーマウンテンを3杯おかわりしたこともあるそうだ。

因みにカフェパウリスタでコーヒーを飲むと銀ブラ証明書を貰える。


参考
http://www.paulista.co.jp/cafe_paulista.html
http://blog.goo.ne.jp/kuore-mn/e/fee5ffb70ce9f8333435457ad67fc2d9
http://allabout.co.jp/travel/sanpo/closeup/CU20090904Y/

 


2010年02月15日

銀座の歴史③ 銀座とキリスト教 ~銀座教会と教文館~

1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが薩摩に上陸した。そして初めて日本にキリスト教を伝えた。

その後、秀吉や家康らはキリスト教を禁教とし、キリシタンを弾圧したが、明治になると明治維新で西洋の文化を取り入れるようになった。

西洋の文化を真似するときにどうしてもキリスト教の思想が入る。そうして政府はだんだん禁止することが出来なくなってきて、1873年(明治6年)町に立っていたキリシタン禁制の札を取り外して黙認するようになった。

それまで医者とか別の肩書きで説教したりしていた人たちはいたが、解禁されてからは色んな教派の宣教師たちがアメリカからやってきた。
当時、横浜と霞が関の窓口であった銀座にも大勢の宣教師が集まった。

アメリカで生まれたプロテスタントの「メソジスト・エピスコパル・チャーチ」という教会の宣教師たちが、日本でメソジストの頭文字MEを取って「日本美以協会」を作った。
 
メゾシストという教会は、18世紀のイギリス人、ジョン・ウェスレーが起こしたプロテスタント派の教会であり、イギリスの産業革命の時代に起こった。田舎から都会にたくさんの労働者が都会に出てきてそういう都会の労働者を相手にキリスト教を伝えようとした派である。
 
産業革命の時代に生まれた教会なので、非常に近代的な手法を積極的に取り入れた。その一つは印刷物の出版である。印刷物を通して伝導する。キリスト教の書物を作って本屋を作って販売する。この宣教活動として銀座で作られたのが教文館である。
 
もちろん教会を作って伝導もした。これが今の銀座教会である。

さらに日本美以教会は教育も熱心に行った。教育の場として作られたのが今の青山学院である。

青山学院、教文館、銀座教会は全部同じ宣教師たちが最初の基礎を作った。

参考
新銀座学 http://www.amazon.co.jp/新銀座学-三枝-進/dp/4902386372 
 

strayhoneybee at 16:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0)銀座の歴史 

2010年02月10日

銀座の歴史② 銀座大火と煉瓦街 ~何故銀座は高級な街になったか~

1872年(明治5年)銀座大火という銀座全体を焼き尽くすような大火災に襲われた。

これは銀座で出た火では無く江戸城の中の屋敷から出た火だったが、風に乗って銀座を襲い、当時の木造住宅であった銀座の街が壊滅的に焼けた 。

その後に出来たのが銀座の耐火レンガの煉瓦街である。 3丁目の老舗洋食レストランの煉瓦亭などの由来もここが煉瓦街であったことに由来する。

この煉瓦街はトーマス・ジェームス・ウォートルズというアイルランドの設計士を大蔵省で雇い、国家プロジェクトとして作られた。 

なぜなら横浜から外人が来て新橋で降りて銀座を通って霞が関の役所に行っており銀座は玄関口だった。こうして家はレンガ、舗道もレンガ、街には街路樹を植え、ガス灯をつけましょうという当時非常に先進的な街づくりを進めていった。
 
国は完成したレンガ家屋を民間に払い下げたが価格が物凄い高く、銀座大火で焼け出された人が買えるはずもなく、皆泣く泣く故郷の銀座を離れていった。

誰が買ったかというと薩長のお役人なんかの偉くてお金を持っている人たちが「売れないからお前も買え」と割り当てられた。
 
その後この先進的な街で文明開化の新しい商売をやろうという冒険的な市民が銀座に住んでいった。

こうして国のプロジェクトや街づくりなどを背景として銀座には優秀な人材が集まっていった。
 
参考
新銀座学 http://www.amazon.co.jp/新銀座学-三枝-進/dp/4902386372 

strayhoneybee at 15:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)銀座の歴史 

2010年02月06日

銀座の歴史① 町の区分と名称の変化

銀座という地名は、江戸幕府が銀貨鋳造所をこの地に置いたからである。

他に金座、 枡座、秤座、朱座、などがあった。

金座は今の日本橋の日本銀行の近くにあった。

その関係で日本橋は今も日本の道路の起点となっている。

初めは金座、銀座などは役所の通称にすぎなかったが、

1869年(明治2年)銀座という町名に変わった。
 
明治2年の時点では今の1丁目から4丁目までしかなかった。

その先は5,6丁目は尾張町、7丁目は竹川町、8丁目は出雲町と南金六町と続いていた。 

1930年ごろ区画整理により銀座の5丁目から8丁目を銀座とし、同時に今の数寄屋橋辺りの外堀に囲まれた地域を銀座西1~8丁目とした。

昭和通りの南東もかつて木挽町と呼ばれる地域だったが、三十間堀川の埋め立てにより銀座と地続きになったことで1951年に銀座東と改名し、そして、1960年後半に銀座西と共に銀座に統合された。

今では銀座はすべて銀座で新も旧も、西も東も付属はいっさいない。

町は碁盤の目のように整然としており、銀座を初めて歩く人にも分かりやすい。


参考
ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/銀座
銀座学入門 http://www.ginza.jp/ginzagaku/story/yurai.html

strayhoneybee at 10:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0)銀座の歴史