2012年12月13日

銀座の橋、新橋、京橋、三原橋、数寄屋橋

銀座はもともと島だった。
銀座に入ってくるには橋を渡らなければ入って来れませんでした。

より詳しくはyahoo知恵袋にこんな回答がありました。
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正確にいうと、半島状になっている陸地と、入り江を埋め立て場所が銀座です。
家康が江戸に来る前までは、日比谷のあたりまで入り江が迫っていて、皇居前広場あたりは海沿いでした。
家康が関ヶ原の戦いで勝利し、江戸に幕府を開くことになり、街が発展すると考え、入り江を埋め立て、人工の島を造りましたこれが今の銀座です。四方が川や江戸城外堀で区切られていましたが、それも、埋め立てや高速道路に転用されるなどで陸続きになり、今に至っています。
機械はありませんから、手作業です。人員の規模はわかりませんが、「天下普請」といって幕府が全国の大名に号令をかけて、金銭と人員を出すよう命じています。1600年に第1回の天下普請が行われ日比谷の埋め立ては開始しましたが、銀座の街を整理し始めたのは、1612年の天下普請からでした。
埋め立て用の土は、2通りあったようです。一つは山の土を持ってきて埋め立てる。これは今の神田あたりに山がありそれを切り崩し埋め立て用にしたようです。もう一つは、江戸の市内にめぐらされた堀や水路の残土を埋め立て用に使ったようです。

出典:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1238513832
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今はだから今でも銀座の周りには新橋、京橋、数寄屋橋、三原橋と橋のつく地名があるのです。
そして東京湾から採ってきた魚はイケスに入れて泳がせていたそうです。当時冷蔵庫などありませんから新鮮な魚を食べられるのは銀座くらいだったのですね。そこで有名なおすし屋さんなどが銀座に出来て、皆しょうゆを使った。だから関東はしょうゆの文化なのです。逆に京料理などは海から遠く、手間をかけなければならなかったゆえに京料理という細工の凝った料理が流行りました。
その後観世金春の能楽師や狩野派の絵師達が銀座に住むようになり、良い食、良い文化を求めて人が集まり、歌舞伎小屋が出来るに至りましたとさ。









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