2009年06月

2009年06月18日

心に響く唄

2009年6月15日、PAINTBOX/TRIP,TRANCE&&TRAVELLING発売。

ここ数年、俺はCDやレコードを発売日に買う、予約をする、なんてことはそう無かった。それは音楽に限らず、別のジャンルの物でもなかなか無いことだ。
しかし、何故かこの作品は珍しく発売日に手にしたかった。
時間の空いているときにレコード屋に行けば手に入れることが出来るのに、わざわざ6月15日という日にこれを聴きたかった。
そして期待通り、キッチリと俺の手元に届いた。
長い人生の中でいえば一つのちょっとした出来事でしかないのに何故か普通じゃいられない…。何らかの趣味や楽しみを持っている人ならば、そんな気持ちになったことは何度もあるとは思うのだが、今回ばかりは少々封を開ける時の気分が違ったような気がする。

結論から言うと、最高という以外には無い内容だった。
片方の耳が聞こえないので、臨場感というのには少々欠けるが、俺の中では名盤中の名盤の一つとして一生手放すことの無い一枚になるだろうと思うくらいに最高の一枚だった。
歌詞なのか、音なのか、ノリなのか、その全てなのか、それすらもどうでも良いと思えるほどに、ただただ心にグッときた。
謳い文句と次第点とイイトコ取りが主流の世の中で、ここまでのオリジナリティーとガツンと芯の通ったストレートさは、少なくとも俺の心のコアにはガンガンに訴えかけてくる。

PAINTBOX_ TRIP,TRANCE&TRAVELLING









DEATH SIDE、POISON(POISON ARTS)という若かりし日の俺の心を揺さぶった伝説のバンドたち。その中に存在していたCHELSEAというカリスマ。
そして、そのカリスマが最期に残したアルバムが、このTRIP,TRANCE&&TRAVELLINGである。
CHELSEAこと岸田裕之氏は2007年8月17日、熱中症に倒れ亡き人となった。
この作品はそれよりも前に(ある程度のレベルまで)作られていながら、無期限の発売延期状態となっていた、いわば氏最後の作品である。
それが、長き時を経て最期の完成をみた。そしてリリースに至った。

しかし、俺は、そんな死が関した作品だからここまで思い入れているわけではない。
俺は、死した人を必要以上に美化しようなどとは全く思わない。
例えばこの作品一つとってみても、死んだから素晴らしいわけではない。
日の目を見たのは死から2年近くの時を経た今ではあるが、そもそも、その中に詰まっている音・空気・瞬間は死の欠片も見えない時のものでしかないのである。
死した事実は覆らないとしても、生死など関係無く、心を動かし、心を惹きつけ、心に生き続けるという事実。これもまた紛れも無い真実なわけだ。

誰しも、死した友を思う時、生きていた時の姿を思い出すだろう。
葬儀の棺の中や埋葬された墓地のことを思い出すのが主となることは、そう無い。
そして、その後に「もし生きていれば」と仮定しながら想いをめぐらせるのかもしれない。
例えば今の俺であれば、これらの曲を演奏しているCHELSEA氏の姿、過去に見たライブでの勇姿を想像し、『ライブハウスという空間の中でこれらの曲を彼による演奏で見ることがもし出来たなら…』と決して叶わぬ想像をするだけだ…。
しかし、そんな、たかが想像を現実に変えることは永久に無理だとしても、この作品には諦めとは違う現実を感じさせてくれるパワーが十分過ぎるほどに溢れている。目の前に、大きな命の叫びの壁が広がっている。
死から2年の時を経て、私の前にそんなエナジーの塊が届いたのだ。
さらに言うならば、そのタイムラグを感じさせないどころか、スピーカーの向こうからリアルな生き様と息遣いを目一杯に感じさせてくれているのだ。

何一つ死んでいるわけではない。

今、俺は、片方の耳が聞こえなくなってしまった。治るかどうかもわからない。
それが現実である。
しかし、だからといって悲観にとらわれながら逃げ道を探している場合ではない。
真正面の真実は一つだけであり、それをなるべく正直な形で全うするしかないのだと思う。そう感じている。
俺は、まだ、運良く生き長らえていて、何故かいつの間にか、人前に立ち、作り上げた物を世に送り出す立場となってしまった…(音楽ではないし、影響力も立場も違うが)。
しかし、人前に立つ資格があるのか? 誰かが満足のいく物を送り出すことが出来ているのか? 正直なところ、いまだにわからない。理解できていない…。
ただ、それでも、自分を信じてくれる人が少しは存在している。裏切れない人が幾人かは存在していることくらいはわかる。
そう思えば、生きているのに『死んでる』ような生き方はできない。
そして、逆に、『人の何倍も生きている』かのような虚栄を張って生きることも出来ない。
上手く着飾ったり誤魔化したり偽ったりした方が、楽に美味しく生きられる世の中だ。そうやって生きた方が、普通に生きる何倍も良い目を見られるだろう。馬鹿正直に生きたって、何のメリットも無いのかもしれない。
しかし、そんな虚像で俺は感動することは出来ない。俺の心はまるで震えない。派手な謳い文句とキレイな見た目の『カッコイイモノ』より、形振り構わず覆いかぶさってくるような方が何倍も感動する。
少なくとも今この瞬間、俺が心を動かされているのは、目の前のスピーカーから本気で訴えかけてくるアウトローの唄だ。
そう思えば、俺は、ドロ臭くても古臭くても、カッコ悪くても本気で生きていくしかないんだなと思う。
派手な車や、高価な服や、有名な知り合いもイイけれど、縁の無いものは仕方ない。
そもそも俺なんか日々の暮らしと仕事に追われて寝る暇もほとんど無く、家族とも40日以上会っていないのに…(苦笑)、スターへの道を歩んでいる暇なんて無いんだよなぁ(笑)。まだまだ、仕事と日々の小銭稼ぎで一杯一杯。カリスマも、有名人も遠い御伽話の世界の話。裕福なゆとりのある暮らしなんて夢のまた夢だ。
ただ、そんな現実の生活で一杯一杯の毎日だけど、腐らず威張らず生きていきていたい。
利益、肩書き…。そんなもの目指すものじゃない、縁があれば時がくれば勝手についてくるし、縁が無ければついてこない。
揺らぐことの無い結果、それは目指すものではなく、いつか訪れるもの。
結果だけなら、人間最後は死ぬのだ。
ようは、そこまでの過程を、その間の瞬間瞬間を、出来れば可能な限りは自分の一番カッコが付くやり方で生きていくということ。
そうすれば、何らかの答えが勝手に出る。
それを繰り返し生きていく。
それでいい。
だけど、それも俺の生き方、考え方。
俺が正しいなんて思ったりもしない。
どっちが幸せか? それは自分の足が勝手に進んでいる方向で決まること。
それは、自分で決めること。
少なくとも俺は、自分中心の小さな世界の王様になるよりは、その他大勢で大いに結構。
色んな奴がいて、俺がいて、誰かがいて…。
ショボイ見栄なんか張っても、しんどいだけだ。
あとは、…、…。

そんな風なことを、この作品を聴きながら考えた…。

自分の現実を目一杯曝け出し思いっ切りカッコつけるのと、トリッキーに人の目を惹き付け都合の良いハッタリをかますのとは、まるでモノが違うんだよ!!


P.S.
昨日、このBLOGにひとことコメントとかという存在があるという事実を知りました。
無駄に長くて、携帯では非常〜に読みにくくて、釣りとかほとんど関係無い文章なんですけど…(苦笑)。読んで下さってる方、本当にスミマセン…(苦笑)。いろいろと、メッセージまで頂き、ありがとうございます。
今は、コメント一つ一つに考えながら返事を書く時間もなかなか無いし、いろいろ煩わしいトラブル(?)を避けるためコメント欄は設置してないので直接返事することは出来んですけど、ホント、まぁ、いろいろと…。
ありがとうございます。

ところで、新たにリンクを追加させて頂きましたが cocotaroh的考察 これはね、俺の一つの理想系的ブログ。このノリが最高です。無駄な冗談なんか無くても最高に面白い。ただのボヤキでも何でも、空気感がある。
当ブログも、いつか、早く、こんな感じのブログに生まれ変われるように頑張りたいと思います(笑)。
あと、俺も、釣り系のことも書かなきゃいけないんですが…。まぁ、その点も、頑張れるように頑張ります(苦笑)。
で、この人は誰かって? 俺の個人的カリスマブロガーです(笑)。

あと、その流れで、クルクルなどで御馴染みのJA-DOのホームページを見たら、何故かこのブログのリンクを貼って頂いておりました。う〜ん、何故だろう(笑)。何一つお役に立てるようなことはしてないんですが…(笑)。まぁ、「何故JA-DOが?」などと、いろいろと詮索したい人もおるかもしらんですが、深読みされても、この件に関して裏も何も無いです。
まぁ、シーバス行く時は絶対と言っていいほどクルクルは持って行きますが…。
あと、俺という人間が正統派ではなく邪道だというのはありますがね…(苦笑)。
というか、でも、知らん顔というのは礼儀に反する、ということで、こちらもリンクに追加させて頂きました。


ということで、まぁ、いろいろあったりもしますが、心に唄を忘れないよう、ボチボチ頑張っていきましょう。
俺は、また、デスクワークに戻ります。
今日もまた、デスクワークで、夜が明ける…。

では、また。



strugglearts at 04:38 

2009年06月15日

命を懸けた戦い

一昨日、プロレスリングNOAHの社長兼選手三沢光晴が心停止で病院に搬送された。試合中のことで、相手選手のバックドロップを受けたのが原因だった。
そして、その数時間後、三沢光晴の訃報が伝えられた…。
一昨夜、私は、デスクワーク中にその事実を知った。

GHCタッグ選手権として行われた一昨日の試合。
K-1や総合格闘技に人気を奪われてしまった感のあるプロレスの地方興行の一試合に対して、一体どれだけの現役のプロレスファン以外の人が、その一喜一憂の結果に注目をしていたのだろうか…。
2009年6月14日の大きなニュースの一つとなったこの出来事だが、三沢光晴の死んだ試合という以外にその意味合いは無かったのだろうか?
プロレスに興味のある人以外にはあまり関係ないことかもしれないが、実際には昨日の試合は、GHCタッグ選手権という冠が付けられていた。
17代GHCタッグチャンピオンのプライドを懸けた闘い、18代GHCタッグチャンピオンをつかむための命を懸けた闘い。それが2009年6月13日の三沢光晴の闘いであったのだ…。

極端な言い方になるが、団体ごとに興行を行うプロレスにおいて、チャンピオンベルトを獲得したところで『世界最強』という称号を与えられるわけではない。あくまでも一団体の一タイトルである。K-1などのようにゴールデンタイムのテレビで放送されることも無ければ、いまやスポーツ新聞以外の一般紙に取り上げられることも無い。
大々的に『世界最強』を掲げてきたK-1や総合系の格闘技の台頭と共に『プロレスはガチじゃない』という常套句が蔓延し、多くのファンがK-1や総合系の格闘技に流れた。
今、プロレスファン以外の一般人に聞いたところでK-1選手の名前はいくつも出てきても、プロレス選手の名前はほぼ一握りでも出てくれば良い方だろう。
そして、実際にそんな時代の流れと共に『世界最強』を追い求めK-1や総合格闘技のリングに立つプロレスラーも少なくはなく、事実、数多くのプロレス出身の『世界最強』と称される戦士が生まれた(いまだにプロレスラーという肩書きにこだわりつづける桜庭和志などのような人も少なくないのだが…)。
しかし、そんなメジャーな舞台とは別に、いわゆる現在のプロレスは存在し続けている。
自転車操業のように自らが会場設営の手伝いをしながらでも興行を続ける団体もある。
毎回が大会場でのタイトルマッチのような賑わいを見せるK-1などと違い、小さな地方の体育館でも観客席の2/3が空席の時でも、常にベストを尽くして闘い、自分自身の男の生き様を叩きつける選手達がそこにはいる。一般的なメジャーシーンから(完全にではないが…)外れてしまっても、体を張って、危険と隣り合わせでも闘い続ける。
そんな彼らが闘う理由の一つは『自分なりの最強』という大きなこだわりがあるからだろう。
そして恐らく一昨日の三沢光晴も『NOAH最強』の称号に対して100%以上本気の気持ちで臨んだのであろう。

『自分なりの最強』『自分の追い求める最強』という類のモノは本来、『世界最強』のような普遍的なモノとは必ずしもイコールではない。例えば、フルマラソン完走を目指している人がオリンピック選手と自分を同じ目線では語らないだろう。また、逆も然り。そういったものではないだろうか。
しかし、現在の様々な情報の溢れる世の中では、『絶対』と断言する方がわかりやすいせいか、実に様々なカリスマが存在している。また、それを上手く利用し、自分が『最強』でいられる世界でのみの現実で世に『最強』を振りかざすカリスマたちも少なくない。
そんな中で世界各国からファイターを集め『世界最強』を決めるようなやり方のK-1や総合格闘技などは、多少の団体などの柵はあれど、一種の普遍的な強さを見せようとする戦いであり、格闘技に詳しくない人にも非常にわかりやすいモノとなっている。
しかし、K-1や総合系格闘技と違い、あくまでも団体内のチャンピオンを決める世界であるプロレスは、現在では少々地味で華の無いモノと思われてしまうのは、ある意味仕方ないのかもしれない。
しかし、だからといってプロレスが『狭い世界』『所詮、自分たちの土俵でやっていること』かといえば、決してそうではないと私は思う。
「プロレスってなんか地味じゃん」という考え方も、それは非常に寂しい考え方だと思う。

レスラーとしてNOAHのリングに上がり戦い続けてきた三沢光晴。
その裏ではプロレスリングNOAHの社長としての顔もあった。
プロレスファンにとっては『最強クラス』の偉大なカリスマでもあり、時にはGHCチャンピオンというNOAH最強の称号を手にしてきた。
しかし、だからといって彼が、自分が『カリスマ』『最強』でいられるからプロレスやNOAHのリングにこだわっていたわけではないだろう。恐らく、というか絶対的にそれは違うだろう。
『自分なりの顕示欲』『エリート意識』に則り、『最強』を追い求め『最強』を語る人たちは今の世に少なくない。一般社会にも、芸能人でもないのに芸能人にでもなったような振る舞いをする人も少なからずいるようなな世の中だ。短絡的な凄さ(強さ)や地位を絶対とし、王様にでもなったかのような振る舞いをする人というのはどの世界にもいる。そういう方が派手さもあるだろう。
しかし、三沢光晴は決してそんな驕りは見せなかった。少なくとも一プロレスファンである我々に対してそう見えることは無かった。
自分で立ち上げたNOAHという団体に対する責任感、そこに集まる選手やスタッフそして家族の生活、自分自身のプロレスラーとしての誇り、etc.…。それら全てに対するプライドと意地と愛。そして何よりもその勇姿を渇望するファンへの誠意…。それらを一気に背負い、自分の道として、自分の信じ愛するものを大事にし、闘い、真剣に生きてきた。
「大切な友達だから」という理由で他団体の社長である故・冬木弘道の引退記念興行を行ったこともある。
総合格闘技に挑戦する高山善廣に対して「プロレスをまだ続けたいなら、いつでも帰ってきていいよ」と言ったというエピソードも、彼が自分の価値観を持った上で、他人の価値観をも認めることの出来る人だったということを大いに表している。
世の中には、自分の世界観こそが絶対だという態度で周りにも示そうとする人や、自分の価値観こそが素晴らしく自分中心に物事が進むよう押し通そうとする人も少なくない。
しかし、三沢光晴はあくまでも周りを否定することなく押し付けもせず、しかし、自分の信じる道はキッチリ歩んできた。
また、バラエティー番組などへも出演し、笑顔で語り、時には幼稚園児たちに引き摺られる姿を晒したこともある。昨年には「みんなで力を合わせていじめをなくそう!」というキャッチフレーズのもとにノア・キッズプロジェクトというイベントも行っている。
こういった単に強さを誇示したいだけの人間には出来ない行動、単なる勝ち負けとは違う部分も、三沢光晴として見せ示してきた。
そして、それこそがの三沢光晴の『強さ』であり魅力だったのではないかと私は思う。

『プロレスはガチじゃない』そう言われて、スピーディーな展開と『世界最強』的な謳い文句に彩られた格闘技が世の主流となった。
残念ながら、たしかに今の日本でプロレスは主流ではない。しかしだからといって果たして本当に『プロレスはガチじゃない』のか? その完全な答えは裏事情まで知らない私にとっては答え得るものではない。
しかし、危険回避のためのルールがあり、極力危険を避けるためのトレーニングをしているとはいえ、ちょっとのミスが大きな怪我や今回のように命に関わってくるという部分を考えれば、それだけの覚悟が無ければ無理な世界だということだけは絶対的に理解できる。
プロレスもK-1も総合格闘技も、勝負にこだわっていること、危険を承知で戦っていることには変わりが無い。プロレスもK-1も総合格闘技も、選手は常に本気(ガチ)で闘っている。
そして一昨夜の試合も、会場を満員にしていたとはいえ、ゴールデンタイムでテレビ中継されることの無い地方興行の一つであったわけだが、そんな、本来ならプロレスファン以外は目にすることの無い試合の中、三沢光晴はまさに『命を賭け』ガチの死闘を繰り広げた。
そして、それが最期の試合となってしまった…。
結果的に三沢光晴は『ガチで命を賭けて』しまった。
プロレスのことをよく知らない人でも、昨日のニュースで彼の名前を聞いた人は少なくないだろう。三沢光晴の死に大きな衝撃を受けた人もいるだろう。
実際に私もそうだし、結果的に本当に『命を賭ける』こととなってしまった三沢光晴に対して私は、追悼の念というよりは、まだ今は悲哀の気持ちの方が何十倍も大きい。
しかし私は思う。
彼が死んだから、試合に負けたから、彼の人生は負けだったのか?
試合に勝つことで『一番強いという称号を得られる』という単純なものなのか?
逆に、結果的に三沢光晴の命を奪うことになったバックドロップは罪なのか? 真の勝者は誰なのか?
………。
私は、そこは白黒つけるべきだとは思わない。

プロレスには『相手の技を受ける美学』『一方的に決めるのではなく、お互いの力を引き出しあって見せ合う美学』というものがある。
単純に勝ちだけを求めるのであれば、相手に付入るスキを与えず一方的に攻撃する方が手っ取り早い。これはスポーツだけでなくビジネスでも他の趣味的なものでも、勝ちを求めるのであれば共通していることである。
それにも関わらず、『攻め』だけではなく『受け』も大事にする美学にこだわるプロレスラーは少なくない。それどころか、そんなに受けて大丈夫か?という所まで相手を挑発してまで相手の技を受けまくることも少なくない。特に三沢光晴にはそこの部分へのこだわりが強かった。
一つ攻めては一つ受ける、こんな場面を幾度と無く見せ付けてくれた三沢光晴。
これは、『どっちが勝つか』だけでなく、簡単な言い方をすれば『どっちが根性が上か』という部分も非常にこだわっているからこそ出来ることだ。
もっと言うなれば『試合結果としての勝利ではなく、男と男として様々な部分で強さを見せ合う』『相手のこともキチッと見せる』というこだわりと自分に対するプライドと相手に対する敬意が融合することで、この『受けの美学』を成立させてきたのであろう。
しかし、こういった『受けの美学』も、現在の「まず結果を求める」というような社会においては、古臭く、スマートではないという印象を与えてしまうのかもしれない。『相手のことまで考える』という方法論は、浪花節、昔気質、といえばその通りである。
さらにいうなれば、『受け』にこだわった結果、負けるということもある。
戦というのは必ずどちらかが敗者にされる。
しかし、それらを全てわかったうえで『受け』に転じることの出来た三沢光晴は、人を信じ、自分を信じることの出来る強さを持っていたのだと私は思う。
結果、自分の命を亡くしてまでも『受け』に転じることの出来る人なんて、今の時代に、そうそういない。
そして、逆に、その『受け』を信じて真っ向から闘った斎藤彰俊も、結果的には厳しい役目を負ってしまったが、『受け』の意味を知る強い男なのだと私は思う。
相手を信頼していたからこそ本気で闘うことができたという事実。
それを、死亡のニュースや試合中の事故としてだけで終わらせるのは非常に忍びない。

人生とは一人でどうにかなるものでもない。
「それが自分の選んだ道」「自分にはそれしかできないから」「自分は●●が好きだから」といった考え方は非常に大事だが、そうは言っても一人で全てが完結できるなんてことはあり得ない。そもそも自分だけでは非常に味気無い。
相手がいるからこそ何かが出来るということは少なくないし、、スポーツなどではお互いの本気を出し合うからこそ見る者も感動する程の素晴らしいシーンを生み出すことが出来る。
また、相手を素直に理解し認めることや、素晴らしい時間を誰かと共有することで、人生というのはもっと豊かになるし、簡単な言い方ではあるが、思い出も出来れば、将来の夢を考えることも出来る。
逆に、自分だけで良いのであれば、周りの人の存在価値は一体何なんだろう。自分の引き立て役でしかないのか? また、全てが結果だけなのであれば、人間はただのマシンでしかないではないか…。
リズム感とキャラクターと世間の話題度というものが重要視され人気を決めているような世界で、私の思うような浪花節な考え方は、とてもスマートな生き方だとは言えないだろう。
短絡的な強さや地位や名声だけを求める方が、比較的簡単に上手に生きていけるのかもしれない。
だけど、しかし、プロレスも格闘技も色んな遊びも、人と人が絡み合い自分の意図せぬ化学反応的なことが起るから楽しいという部分も少なからずあるのではないか? さらに言えば、仕事も、人生も、それがあるから楽しいのではないか? そう思う。
時代錯誤な考え方かもしれないが、大きなプライドと愛を胸に、互いがガチに組み合うことで、何か一人では成し得ないことが起こるのも人の世の素晴らしさだと思う。

結果的には、三沢光晴と斎藤彰俊の闘いは、死という悲しい出来事を生み出してしまった。
しかし、関係者や当事者やファンの人は、単純な勝ち負けや善悪にこだわらないで欲しいと思う。一部外者が偉そうなことを言うようで本当に申し訳ないが、本当にそう思う。
また逆に、ただの事故としても終わらせて欲しくない。
男と男が本気で向き合ったという事実。命を賭けてリングに上がり続けてきた事実。
お互いがお互いをライバルとして認め、本気を出し合ったという事実。
そんな大事なことを忘れないでいたい。
三沢光晴の闘いは終わったけど、最期まで本気というものを見せてくれた。
すごく大切な物をありがとうございました。
誰も悪くない。
素晴らしい最期でした。
そう思わないと、人生が味気無くなってしまう。

本当に大事な物を…
ありがとうございました。

三沢光晴氏の御冥福を心より祈ります。
本当に本当にお疲れ様でした。



strugglearts at 08:56 

2009年06月02日

鼓膜錯乱

先週の関東遠征後、即座にトンボ帰りで、体力&気力共にギリギリの中、地道に仕事なり作業なりをこなしていたのですが…。
やはり、私、、呪われているのでしょうか?

右耳の鼓膜が大破してしまいました。

耳の穴に棒を入れ、考えられない力と速さで思いっきりザクッと…。
そりゃ、鼓膜も破れますよねぇ…。
血も出るしね…。
でも、あまり痛みは無かったので大丈夫かなと思っていたんですが…
担当医いわく、
『複雑かつ広範囲に渡り破損しているので、今後の聴力については…。』
とのこと。
運が良ければ完治する可能性も無くはないようですが、聴覚に障害が残る可能性も低くはないようで…。
とりあえず経過を見つつ治療していくということになりそうです。

しかし、まぁ、、なんか、鼓膜が破れた直後は不安感もあったのですが、逆に、片耳が聞こえないことで感覚が研ぎ澄まされるというか…。
確かに非常に違和感があるし痛みも若干はあるんですが、なんか、頭の中が静かになったというか…。まぁ、片耳聞こえないんで当たり前なんですけどね(苦笑)。
なんか、昔の剣豪なんかが目や耳をわざと傷付け、五感の一つを失うことで新たな境地に辿り着くというのも、なんとなくわからんでもないかな…。と思う部分も少しあるわけで。
こういうことを言うと、ちょっと不謹慎ですが、片耳が聞こえなくなって良かったのかもしれないな…。というか、まぁ、そうでも思ってないとやっとれんね。という感じでもあるんですが…(苦笑)。
つうか、三半規管まで行ってたらまともに歩けない状態になっていた可能性もあるわけで、さらに脳にまで行ってたら死ぬ可能性もあったわけで、そういう意味でもセーフだったわけで。
片耳が聞こえないだけで済んだのはラッキーだったんでしょうね。
まぁ、逆に脳にまで行ってたら、煩わしい事も悩む事も勝手に悪の代表格にされる事も無くなるので、それはそれで良かったのかもしれませんが…(苦笑)。

という感じで、ここ最近は、そんな感じですが、明日からまた関東なので、今から準備して出発です。
車の運転は大丈夫なのか?という不安もありますが、そんなこと言っちゃいらんねぇわけで…。さらに、取材が済み次第帰って仕事、その合間に別の仕事、ついでに週末には実家の方に親族の法要のため帰らなければならず、全然ゆっくりできないどころか、通院する暇もありません(苦笑)。
担当医には『どうなっても知らないよ』と怒られましたが、自分中心に予定を組んでいける程の力も無いんで…。誰かのペースに合わせて、エッチラオッチラ頑張りますよ。

と、まぁ、こんな普通ではない状態でもこの調子なわけで…、そう考えると例えば「もしガンにかかっても休むことは出来ないんだろうなぁ」…などなど、数多くの不安も持ち上がってきますが、とりあえず非特権階級、頑張るしかねぇ。
じゃねぇと『可愛い我が子』が『給食費を払えない子』になってしまうだろ…。
つうことで、ダサくて臭くて華の無い地味な生活ですが、見栄を張っても仕方ねぇ。
訳知り顔でゲットー育ちを語るセレブBOYZから見ればダサイ生き方だとしても、リアルに生活と現実を背負って生きていくしかねぇんだな。
つうか、セレブになれない一生だったとしても、恨まず、でも諦めず、前向きに頑張っていたいもんです。
海外旅行も素敵な新居も自分の車すらも夢のまた夢でも、ハートが曇らなけりゃ、どうにかなる。と思いたいもんですね…。

そんな感じで、世の中、俺なんかよりまだまだキツイ人はいくらでもいる。
カッコつけてマイノリティぶっても、ドロップアウトを決め込んでも、所詮ただのPOSER。
まぁ、どんなにカッコつけても、生活と生活費に追われながら、また明日がやってくるのが現実。
イイカッコするつもりで、ウ●コ漏れそうな顔してる奴がイロイロいるけど、無理は禁物。焦りも禁物。
俺は片耳聞こえなくなったから、地味にボチボチ生きていくゼ。
あとは奇跡的な治癒力が発揮されるかどうか。
イコール、これ、神のみぞ知る。

とりあえず、ヘコタレないよう、頑張っていきましょう。



strugglearts at 00:01