友人のプルデンシャル生命保険の松本さんより、「泣きながら生きて」というドキュメントのVTRをいただきました。(いつもありがとう。こちらからはなかなか差し上げられるものがなくて申し訳ないです。ありがとう。)

中国人3人家族の15年間のドキュメントです。
二度見ました。感動で涙が止まりません。本当に涙が止まりません。

私の書いた言葉では、その感動は伝わらないでしょうけど、記させていただきます。(かなり長文ですが、お読みいただけると嬉しいです。)


「泣きながら生きて」

1966年〜1976年にて行われた「文化大革命」。
「貧しい農民に学べ」の合言葉で「下放政策」が執られました。
この「下放政策」のおかげで人生を変えざる負えなくなった若者は1600万人いたそうです。勉強をしたくてもできない時代となったのです。

1970年、夫(父)は、16歳の時に下放に入った。
痩せ細った土地、食料は乏しく、日々10時間以上の労働を繰りかえし、雨水を飲み、飢えを凌ぐ生活。
その生活のなかで妻との出会いがあった。
妻はそのような生活の中でも、明るく懸命に生きていた。
そして二人は結婚。

下放政策が終わり夫婦は上海に戻った。
お金も無い、技術も無い、歳もとっている。最下層のレベルの生活から抜け出すことはできない。

夫は日本に行った友人の「日本はすごいぞ!」の言葉に第2の人生を賭けてみたいと思うようになった。
北海道 阿寒町で行われる日本語学校へ行きたい。そのためには42万円の入学金が必要になる。42万円というお金は、夫婦が15年間働き続けて稼ぎ出せるかどうかの金額である。夫は親戚などからこのお金を借りる決断をして日本へ行く覚悟を決めた。

1979年 35歳 「今のままでは未来は真っ暗。日本で人生の再出発をしたい。日本語学校に通って、その後には日本の大学に行って・・・」「大学に行きたい」信念を持って日本へ来た。
働きながら学び、借金を返していきたい。しかし、北海道 阿寒町にはその働き口が無かった。
番外地からの脱出。お金を返しながらの生活をするためには仕方ない選択であった。
しかし、当然にビザの申請は認められなくなる。結果、「不法滞在者」となる道を選ぶことになった。

希望を胸に来日してきたのに、「人生の不条理」を味わうこととなった。

昼は工場で、夜はレストランでコックとして働き続ける。
中国に戻って来ないということは、妻の理解を得ることが難しかった。夫は稼いだお金は全て妻へ送金した。深夜12時に仕事が終わり、都電の線路を歩いて帰宅。7年間の一人暮らし、貧しい生活に離れている。お金は全て家族へ・・・

「娘を海外に留学させるために・・・自分の代わりに娘を海外の一流大学へ留学させたい。自分の果たせなかった夢を娘に託したくなった。」

「目標は、・・・命を懸けて娘を、頑張って娘を育てること。長距離リレーの選手のように、走れるだけ走り続けて、娘にバトンを渡す。」

不法滞在のため、中国への一時帰国はできない。一度戻ってしまえば、もう二度と、日本へは戻ることはできなくなってしまう。日本で滞在していて、もし見つかってしまえば、即時に強制送還となってしまうのである。

1992年2月 上海の自宅で妻と娘はVTRにて父(夫)の姿を8年ぶり見ることができた。
「父が日本でこれほどまでに苦労しているなんて・・・私のことをこんなに大切に思ってくれているなんて、大変申し訳なく思います。今、やっとわかりました。親は総て私のために・・・」

母(妻)と娘は父が送金してきてくれるお金には手をつけずに生活をしている。娘の留学資金を貯めるために質素な生活を続けている。

妻「ひとりの(主人のいない)生活には慣れました。誰も助けてくれません。忙しさで紛らわしながらなんとかやってきました。」

夫「最も苦しいのはひとりで居ること。家のことは何一つ手伝うことができない。自分の目標に向かっていくしかない。」


「あなたを愛しているから
 あなたの見る夢を私も見ているから
 あなたの悲しみに心が痛み
 あなたの幸せを嬉しく思う
 あなたの行く道を知っているから
 あなたの行く苦しみを知っているから
 あなたの喜びを私も嬉しく思い
 あなたの目指す道を、私も目指して歩いていける」


娘「ニューヨーク州立大学で医者になろうと思う。」

娘の遥かなる夢のはじまり。

そして娘は、1997年ニューヨーク州立大学に合格。
アメリカへの留学は、中国を去ることになり、母との別れを意味する。
「家族が3つの場所に分かれます。」

あなたの支えは何ですか?
娘「希望です。未来への憧れです。」

「親はいつも子供の成長のために力になってあげたいと考えています。親が「踏み台」になって、その上に子供が立てるようにするのです。それが親の役目なのです。」

空港での別れ。娘は振り返ろうとせずに旅立っていきます。娘は母に心配させまいと別れる。泣き崩れる母。「この先いつ会うことができるのかわからない・・・」

娘はニューヨークへの途中で24時間のトランジットを使って父と東京で再会する。
小学校4年生の時に分かれて以来8年ぶりの再会。

父「困難に負けないで、夢を諦めないで、人は誰でも歯を喰いしばりながら生きていくんだよ。」

娘との別れ。成田空港まで送ってあげたいが、不法滞在者である父は成田空港までは行けない。ひと駅前の「成田」で下車。

別れが近づき涙が・・・再び始まる別れ離れの生活。

しかし、父の前では決して涙を見せなかったが、もう今は涙が止まらない。
別れの悲しみ、父への感謝

「私のためにこれほどまでに犠牲を払って、
私は知っているの、父が心の底から私のことを愛していることを、口には出さないけど知っているの。」

「これからの行動で親に恩返しするしかありません。私にはそれ以外に恩返しする方法がありません。」

その後も懸命に働き続ける父。

父「私の役割は全力をかけて仕事をして、自分の力で家族の運命を切り拓いていくことです。一生懸命仕事をする。一生懸命子供を育てる。私は胸を張れるような人間になりたいのです。」

上海の妻も働き続けています。夫は年齢のせいか、肉体労働がきつく感じるようになってきました。

夫は、日本語の勉強はできなかったが、日本で独学で沢山の資格を取得し、どんなに不況な時でも、同時に2つから3つの仕事をこなし続けてきた。

母は、渡米した娘に会うためにビザの申請をこの5年関し続けてきた。もう既に11回申請してきたが、アメリカはこの母の想いを認めてはくれなかった。
そして、ようやく12度目の申請が認められビザを取得することができた。

アメリカへの旅の途中、72時間の日本滞在のトランジット。夫との再会である。

13年間は本当に長かった。

「毎日、毎日、会える日を祈っていました。会える日がきっと来ると信じていました。」

「支えてくれた両親に心から感謝しています。だから私は諦めるわけにはいかないのです。」

苦しみを共に生きた人生。
優しさの溢れる笑顔での再開。

「13年間、本当に苦労をかけた、ありがとう。」

父「私の親は貧しく、母は字を読むこともできませんでした。私も教育を受けていません。国家の代表者は、国を良くしていく責任があるように、私には親として子供を育てる責任があります。この責任を果たすために、一生懸命に親は生きなければなりません。人には命を懸けて頑張る精神力が要るのだと思います。日本人の皆さんは頑張っている。自分の国の発展のためにとても頑張っています。この日本人の精神を学ぶことが重要です。」

「妻にはとても苦労をかけてしまいました。20数年間の半分は一緒にいてやれなかった。妻は一生懸命私に付いてきてくれました。本当に申し訳なく、胸が痛みます。」

「夫は老けました。・・・娘は父親に感謝しなければなりません。父がいなければ彼女の今はありません。」

母と娘の5年ぶりの再会。
親子は抱き合い再会を喜びます。

そして2年後。2004年6月。
15年間の日本での生活にピリョウドです。
夫(父)はついに中国への帰国を決めました。
娘はまもなく医者になれるところまで成長しました。

日本という国を信じ、中国で大勢の人からお金を借りて、その総てを託した日本語学校。

しかし、ただ生きるためだけに日本語学校を脱出。

「人生は悲しいものだ。人間は弱いものだ。しかし、人生は捨てたもんではない。」

家族のために働き続けた15年。
背負った運命を嘆くこともなく、
恨み言一つ言うこともなく、
自分の人生を愚痴ることもなく、
15年の歳月を生きた国、日本。
その日本に礼。

中国の激動の時代を共に生き、最後まで夫を信じていた妻。

娘は25歳に成長し、アメリカの病院に勤務して医学の勉強をしている。
もうすぐ医学博士になり、産婦人科医になる予定である。

「私がここまでやって来れたのは、両親が考えられないほどの努力をしてくれたからなのです。」

両親から受け取った、重い、重いリレーのバトン。そのバトンの重さの意味を娘は知っていました。

「両親に恩返しするためには、一生懸命勉強して立派な医者になって、そして、沢山の人の命を助け、救うことだと思っています。」

「夢は、次の次代を担う命の誕生を助け、人を救うこと。」

時代を超えて、国境を越えて、「泣きながら生きて」


沢山のことを考えさせられるドキュメントでした。

自分の人生を、家族のことを、人生の意地、自分の責任、

「決して諦めてはいけない。歯を食いしばって生きなければならない。」

そして、心から感謝しなければならない。