2011年10月12日

「姫宮の住宅」のこと

少し前のものになるけれど、住宅特集20115月号に掲載された「姫宮の住宅」(設計:高橋堅氏)について振り返ってみたいと思う。

まずは作品掲載の一番最初に外観写真が載っている。丁寧に打たれた(であろう)コンクリート打放しの外壁と、内部空間へと誘う光庭部分の白い壁のコントラストが印象的。コンクリート打放し壁は一般的な9001,800(サブロクパネル)ではなく6002,400だろうか。一般的な住宅としては少し階高の高い平屋のボリュームに合わせたパネル割がなされている。とてもミニマルで美しい外観だけれど、僕はそれ以上に室内の写真に注目した。

この住宅で最も大きな部屋はリビングスペースとヨガスタジオの部分になるのだけれど、その内観写真が次のページに掲載されている。ポーチ部分や庭、スタジオ等を見返したその写真では、額縁状に切り取られた自然や、ポーチのような人工物越しの自然など、シンプルな空間の中に様々なシーンが設けられている。その中で最も特徴的なのは、建具上部に展開する「梁」である。建築家はこの住宅についてこのように書いている。「架構としての建築...手数を減らし、建て方の架構そのもののような、あっけらかんとした空間...行為を先回りするような機能性よりも、ほとんどデザインされていない、ある意味では突き放した空間性...」つまりここでは、空間を囲いとる「架構」に主眼を置きながら、できるだけその「架構そのもの」で空間をつくることが目指されている。

僕はこれが面白いなと思うのは、それが「人間の行為からきたもの」ではない、ということ。「架構そのもので空間をつくる」というのは、そこで住まう(住むだけでなくヨガだったりスタジオだったり)人がどのような行為をしたいのか関係なく、まずそこに「架構」というモノがあるように感じられるから。自分の身体にぴったり合わせられたモノを与えられるのではなく、全く自分に関係ないものがすでにそこにある、と言った雰囲気だろうか。そしてそれが「架構」というのがまた良いと思う。この架構は、梁下寸法を床から2,100で押さえてあって、それらは外部・内部問わず、開口部なんかも全てそこで揃えられている。丁寧に内壁面であっても、アルミジョイナーで目地を取り、シーリングが施されている。これはどういうことだろうか。僕が想像するのに、この2,100まで、つまり平面図に現れるような床から2,100までの範囲は「人(住み手)のためのスペース」。そして2,100から上の部分。「架構」は「誰のものでもない」部分としての意味付けがされているのではないだろうか。リビングスペース・ヨガスタジオといった「人のためのスペース」を縦横に、しかしその居場所等(人の行為)とは関係なく架け渡されている「誰のものでもない」架構。住み手も、自分たちのスペースと自分たちの手の届かないところにある「架構」との関係性(無関係性)を感じながら日々過ごすのではないだろうか。

改めて写真を観てみると、一般的な開口部とは別に、架構部分にトップライトが切られているために、壁の部分(人のためのスペース)と架構部分(誰のものでもないスペース)の光による明暗がはっきり分かれている。ポーチに近い部分で、床から壁まで明るい部分がありながら架構部分は暗い場所。逆にトップライトからの光で、架構部分が明るく照らされている場所。ここでも人のスペースと架構は全く違った表情をみせる。この建築では、人に与えられたスペースと人とは全く関係なくつくられたスペースとがあり、これこそが建築家が目指した「架構をつくる行為と空間をつくる行為を可能な限り接近させた」結果なのだと僕には感じられた。



sttts
posted at 23:59

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