2012年10月18日

社会的な建築を再考する

僕は建築というのはとても社会的な存在だと思っていて、それは例えば多くの社会問題の原因のひとつになるのも建築の側面であるし、それを解決させるのも建築の役割であったりして、つまり社会が変わることで建築が変わっていくし、建築が変われば社会も変わっていくと、ある種イノセントに信じていたところがあって、それ自体は今も信じている部分はあるのだけれど、今までのようにことさら「建築の社会性」ということを発言することについてはちょっと疑問を持つようになってきた。

そもそも、建築は社会的な存在である。それは民間建築であっても公共建築であっても、建築とは誰かに要請されてつくるものであるのだから、当然、その社会がつくっているからである。それが仮に個人住宅であったとしても、その個人の生活スタイルなんかはその時代のスタイルが多かれ少なかれ投影されているから、やっぱり社会的な存在になってしまうのである。そして同時に、それほどまでに建築と社会は密接に関わっているにも関わらず、その社会からは建築は信頼されていない。あるいは祝福されていない、という表現もできると思う。望まれてつくられるのに、信頼もされず、祝福もされない。こういう建築の悲しさも、僕に「建築は社会的であるべき」と強く思わせたのかもしれない。

けれど僕たちが、少なくとも僕が考えている「シャカイ」というのが、実はとても狭小な、「僕」が認識している程度のもので、しかも評価・価値等の判断の全てが相対的なものであるから、いくら「社会的な建築」を声高に宣言し、提案しても、その判断を正確にできるものなどどこにもなくて、というよりも、判断する指標も何もないのである。もっと極端に言えば、判断する第三者すらもいない可能性がある。僕はここ数年、特にこういう「シャカイ」というキーワードを中心に建築を捉えてきたけれど、一度その言葉から離れてみようと思っている。

しかし建築が社会と全く関わり合いを持たずに自立した存在として成立することは難しい。そこで僕は「シャカイ」から離れて建築をどのようにつくっていくのかをテーマとしてじっくり考えたい。もちろん、うっすらとではあるけど、自分なりに方向性のようなものはあるのだけれど、まだことばにしてまとめることはできそうにない。でも次の方向性としてははっきりしている。建築は一度「シャカイ」から離れなければ、きっと本当に信頼され、祝福される社会には戻って来られないだろう。


sttts
posted at 22:59

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1. 「建築の社会性」ってなんだろう  [ オノケンノート ]   2012年10月19日 01:35
■建築について:社会的な建築を再考する しかし建築が社会と全く関わり合いを持たずに自立した存在として成立することは難しい。そこで僕は「シャカイ」から離れて建築をどのようにつくっていくのかをテーマとしてじっくり考えたい。もちろん、うっすらとではあるけど、自分

この記事へのコメント

1. Posted by 倒福   2012年10月24日 09:13
建築で、特に意匠を生業としている者が必ず感じるジレンマですよね。自分の行為は、「シャカイ」の為、「セシュ」の為と言いつつ、実は誰に向いているわけでなく、自分自身に向いた「独りよがり」なんではないかと・・・長いこと更新されていなかったので気になってました。

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