お願い:
 本ブログには「公益財団法人 三笠保存会」の許可を得て取材させて頂いた内容が含まれています。従って、記事を商業目的で利用される場合は、同保存会に連絡を取り、三笠に関する情報を商業利用する許可を得てください。また、非営利であっても記事の内容や画像を許可無く利用することはおやめください。

左舷後部舷側の当て板

現在の記念艦の左舷後部舷側には、小さな鈑金が当てられています。

patch-1
【記念艦の左舷後部】


拡大してコントラストを調整すると船体の他の部分と同じく、リベットで取り付けられていることが判ります。 
patch-2
 【矢印部の拡大】

 したがって、「三笠」が現役であった時代に損傷した外鈑を「つぎ当て」して修理した跡の可能性があります。こうした「つぎ当て」は艦の数カ所に残っています。

1904年8月10日の黄海海戦での損傷の記録(*1)を見ると、矢印部分の弾痕について、「弾片のため凹傷を生せり(弾片不詳)」とあります。また、医務衛生の記録の図(*2)を見ると、14番6インチ砲のすぐ後方にある「事務室」の舷側外鈑に弾片が当たったらしいことがわかります。

黄海海戦左舷弾痕図

【黄海海戦の左舷の弾痕図、「卅五」と数字のついた弾痕】(*1)


被害
【「事務室」の舷側外鈑に弾片が当たったと思われる記録】(*2)


黄海海戦では左舷後部の士官室にも砲弾が命中し、舷側に大きな穴をあけましたが、その修理の痕跡は現在の記念艦には見当たりません。これは、大きな穴があいた外鈑を取り替えたためでしょう。

 
修理

黄海開戦時の「三笠」の損傷を修理した記録(*3)の一部。大きく破損したものは取り替えて、一部の弾痕のあるものは凸凹破片を取り去り同種の材料を補足してリベットまたはネジによって締め付けたとあります。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

以上のことから、この「当て板」が黄海開戦時の損傷を修理したもの、という可能性があります。ただし、写真による確認ができていません。手持ちの資料には、この部分が鮮明に写っている写真がないためです。

ーーー
*1:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110049800、「極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻6付表及付図」(防衛省防衛研究所)」の2コマ目 および7コマ目

*2:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110138400、「極秘 明治37.8年海戦史 第7部 医務衛生 巻2」(防衛省防衛研究所)」16コマ目

*3:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110121400、「極秘 明治37.8年海戦史 第5部 施設 巻13」(防衛省防衛研究所)」の77コマ目
 

第一回文学フリマ京都 出店のお知らせ(および御礼)

 ***** 2017/01/22  追記 *****
文学フリマ京都にご来場くださり、また、本を手にとってくださった方々、お買い上げくださった方々に御礼申し上げます。
自分が訳出している時代の海事についてさまざまな方々から関心をお寄せ頂いたことが嬉しかったです。

********************************
下記の通りの開催となります。

当日は寒く、雨か雪になりそうですが、ご来場くださいますと幸いです。

開催日  2017年1月22日(日)
開催時間 11:00~16:00
会場   京都市勧業館 みやこめっせ 地下第一展示場

ブース位置は【う−20】です。

詳細は下記のリンク(第一回文学フリマ京都 開催情報)からご覧ください。

http://bunfree.net/?kyoto_bun01

「東郷とともに」第1巻と、これまでに発行した海軍関係の書籍の翻訳、ならびにアメリカ人作家モーガン・ロバートソンの短編小説の翻訳を持って参ります。
「東郷とともに」第2巻(第8章から最後まで)は間に合いませんでした。申し訳ございません。

セマフォ信号機(補足)

過去の記事「セマフォ信号機 : Semaphores 」で後マスト上のセマフォを取り外した時期について、「三笠」の戦時日誌に記述がありました。
日誌によると、明治37年10月3日に取り除かれています。
 

明けましておめでとうございます

昨年はさまざまな方々から考証のアドバイスを頂き、また同人誌をお買い上げ頂きました。ありがとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。 

第二十三回文学フリマ東京 出店のお知らせ(とお礼)

****
2016年11月27日追記
文学フリマ、無事終了しました。
寒い中をご来場くださった方々、またお買い上げくださった方々に御礼申し上げます。


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唐突で申し訳ございませんが、明日の文学フリマ東京に出店します。

名称:第二十三回文学フリマ東京
日時:2017年11月23日(水祝)11時から17時
場所:東京流通センター 第二展示場
  (東京モノレール「流通センター駅」下車 徒歩1分)
出店位置:ア—27(2階Fホール、トイレがある側の壁際です)

先の記事でとりあげました、「 WiTH TOGO(東郷とともに)」の第1章から第7章まで(全体のおよそ半分)を急遽訳出したものを新刊として頒布します。(今日できあがりました (^^; )
(A5、本文133ページ(他に挿絵や写真が多くあります。また、原著では写真や挿絵の裏が白紙になっていますが、その所々に訳者の参考資料を入れております))

お時間がありましたら、お立ち寄りいただけますと幸いです。

p1

p2

p3



 

観戦船「満州丸」での記念写真

この記事は、先の「WiTH TOGO」の記事の補足です。

「満州丸」船上での記念写真に「WiTH TOGO」の著者、セッピングス・ライト氏の姿が見えます。

Write
【観戦員の集合写真。矢印がライト氏】

この写真を掲載した「日露海戦回顧写真帖」(*1)では「シッピンライト画伯」と紹介されています。その隣に座っているのは東城鉦太郎で、互いに腕を組んで仲がよさそうです。
 
write-tojo
【ライト氏と東城鉦太郎】 


また、英語のウィキペディアには戦時特派員の記事があり、上のものとは別の鮮明な記念写真が掲載されています。それには「朝日」に乗艦した英海軍の観戦武官パケナム大佐の姿が見えます。

https://en.wikipedia.org/wiki/Military_attachés_and_observers_in_the_Russo-Japanese_War



ーーーーー
*1:三十周年記念 日露海戦回顧写真帖(東京水交社、東京日日新聞社、大阪毎日新聞社刊)

参考文献(25)/ books for reference #25

(49)WiTH TOGO (東郷とともに)
  著者:H.C. Seppings Write (セッピングス・ライト)
  出版:Hurst and Blackett, 1905年
  明治37年に日本を訪れた著者がおよそ7ヶ月にわたり日本海軍を取材した記録。
  古書の他、PDF化されたものがネット上で公開されています。

過去の記事で「当時の海軍には写真班は無く、従軍記者も乗艦していませんでした」と書きましたが、例外の方がいました。

イギリス人の H.C. Seppings Write (セッピングス・ライト)という人です。
その著書によれば、ライト氏は明治37年に日本を訪れ、観戦船「満州丸」に参観員の一人として乗船し、明治37年(1904年)7月17日に長子島泊地にて「三笠」を訪れています。

これだけでは「従軍記者として乗艦」とは言えませんが、ライト氏は一旦日本に戻った後、8月中旬に輸送船「立神丸」に乗って再び日本艦隊の根拠地を訪れ、他の巡洋艦や水雷艇に乗ったり、再び「三笠」を訪問して東郷長官と対談したり、さらには東郷長官の計らいで上陸して観戦したりしています。

この本には長子島泊地において「三笠」艦内で東郷司令官と対談する筆者の写真があります。 
Write-Togo
 「WiTH TOGO p56の向かいの写真」 

これによく似た構図の絵葉書があり、その注釈には 「三笠艦内に於ける東郷大将と某外国記者」とあります。これも同じ時に撮影されたものでしょう。
wite-togo-2
 【東郷大将と記者の対談の絵葉書】

また、再び「三笠」を訪れた時の写真(小さいですが)があります。
「三笠」の右舷後部に近づいたボートから撮影されたものです。
mikasa-write
 「WiTH TOGO p108の向かいの写真」 

陸軍は別として、内外の記者や特派員が日本の軍艦に乗って従軍することができなかったのに、なぜライト氏には従軍が許されたのかは不明です(調べ切れていません)。

ただ、この人は記者ではなく「アームストロング社の派遣画家(あるいは社員)」という肩書きでした。また、
アームストロング社の信用証明書を持って来日し、書面で観戦の希望を伝える以外に海軍省に日参して上級の士官たちと会話をして知り合いを増やしていました。そうしたことが功を奏したのかも知れません。

pass-write
【WiTH TOGOより、ライト氏の身分を保証する証明書】

まだ四分の一ほどしか本を読んでいませんが、観戦船「満州丸」巡航の記事や、ぎりぎりで「三笠」「朝日」と会合するまでの経緯など、興味深い内容が書かれています。
(なお「満州丸」についてはアジア歴史資料センターに「拿捕船満州丸」という件名で詳細な記録が残されています)
 
一例として、ライト氏が江田島の兵学校を見学した時の記述の一部を訳しました。

ーーーー 「WiTH TOGO」 p19より ーーーー
最後に見た競技は異常なもので、井上子爵はその目的を、すべての柔術士の最終目的は闘うために鍛えることだ、と私に説明した。
 
二つのゴールポストが約200ヤード離れて設けられ、陣取りがなされた。各陣の半分は自陣のポストを守り、他の者は相手側のポストに突進した。彼らは怒号を上げながら敵のポストに攻め寄せ、敵と味方がぶつかる場所では、普通のラグビーが子供の遊びに思えるほどのスクラム(もみ合い)が起きた。

彼らはポストを奪うためなら拳でも何でも使って闘った。何人かがひどく負傷したが、悲鳴や泣き言は漏らさなかった。目のまわりの黒いあざ、血まみれの鼻、裂けた衣類がこの競技の荒々しさを示していたが、実のところ、これは最高潮の精神状態で行われる模擬戦闘だった。
 
ーーーーー 

現在の「棒倒し」競技の前身かな?と思いますが、すごい描写です。(^^; 
この本の内容については、おいおい記事を追加していきたいと思います。 
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