お願い:
 本ブログには「公益財団法人 三笠保存会」の許可を得て取材させて頂いた内容が含まれています。従って、記事を商業目的で利用される場合は、同保存会に連絡を取り、三笠に関する情報を商業利用する許可を得てください。また、非営利であっても記事の内容や画像を許可無く利用することはおやめください。

長子島泊地での写真

この記事は過去の記事「参考文献(25)/ books for reference #25」や「三笠の後部の考証その1」の補足です。

1904年(明治37年) 7月17日 、「三笠」と「朝日」は長子島泊地において観戦船「満洲丸」を迎え、東郷司令長官が「三笠」艦上で参観団と会見しました。その際の「三笠」と「朝日」の写真があります。*

19040717_mikasa_asahi
【満洲丸から見た三笠(右)と朝日(左)】

当日は晴天で泊地は波のない穏やかな状態です。

19040717_mikasa-2
【三笠(上の拡大)】

「三笠」の部分を拡大すると、右舷後甲板上に白い制服を着た乗員が並んでいるのが見えます。参観団を迎えるためでしょう。

-- 
*:申し訳ございませんが、史料名はしばらく伏せます。また、同様の写真は大和ミュージアムのデータベース(資料番号:PG049763)でも閲覧可能です。

お礼(第五回文学フリマ大阪)

体調や台風のために当ブログでは告知しておらず、申し訳ございませんでしたが、昨日(9/18)の「第五回文学フリマ大阪」に参加してきました。
当スペースにご足労くださった方々、またお買い上げくださった方々に御礼申し上げます。
以前からとても有益なアドバイスをくださっている方にお会いできたことが嬉しかったです。

次回は「第二十五回文学フリマ東京」2017年11月23日(木祝)に参加する予定です。 

スターン・アンカー周りにあるもの

この記事は過去の記事「三笠の後部の考証その4:スターン・アンカーの行方」の補足です。

大正10年の座礁後にウラジオストックのドックに入渠している三笠の写真からは、
スターン・アンカーを支える鉄材の他に、舷側に円形のくぼみ(拡大した部分の(?))が見えます。

pict-0


pict-1
【赤矢印部の拡大。右舷のスターン・アンカーを固定する場所】

この(?)について三笠の図面を見ると、FOR FLAMING TACKLE (*1)、あるいは SCUTTLE FOR FLAMING TACKLE (*2)と注釈が書かれています。両舷とも、バス・ルームの区画にあります。また、 SCUTTLE とありますので、穴が開いていて(恐らく)舷窓同様に開閉することがわかります。

また、TACKLE とありますので、滑車装置に関係することは判りますが、FLAMING(点火する、火を放って燃える)の意味がよく判りませんでした。しかし、1923年(大正12年)に発行された辞書(*3)には、move like flame (炎のように動く)の意味がありましたので、「(滑車装置を)運び出す」という意味かな(?)と思います。

スターン・アンカーを使用する場合、短艇などに載せて艦から離れた場所へ運搬してから海に投下します。このアンカーを短艇に移動させる際、また艦の元の位置に戻す際には滑車装置が必要ですので、この窓(穴)が設けられているのでしょう(しかし、どのようにこの窓(穴)を使い、どのように滑車装置を使ったのかはまだ判っていません)。

大正10年に座礁した際には、風浪に備えるために艦から錨をさまざまな方向に出しており、スターンアンカーも艦の正横方向に搬出投下(*4)されています。

pict-5
【座礁後の三笠繋止状況略図(*4)。赤い矢印がスターン・アンカー】


なお、昭和34年に撮影された(復元工事が始まる前の)三笠の写真(*5)には、この窓(穴)が開いているところが写っています。
pict-6
【戦後に荒廃した状態の三笠の艦尾。矢指部が窓(穴)】

現在の記念艦では、この窓(穴)は塞がれていますが、よく見ると丸いへこみの跡が判ります。
pict-3
【現在の記念艦の左舷艦尾、スターン・アンカーの固定位置
矢指部が窓(穴)のあった位置】

stern-2
【窓(穴)のあった部分の拡大。丸いくぼみの跡が判ります】 
 

ーーーー
*1:「船の科学館」収蔵の側面図

*2:「軍艦三笠ミッドルデッキ平面図」「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015499100、公文備考 官職8 巻8(防衛省防衛研究所)」 15コマ目 ※web上では文字が不鮮明ですが、防衛研収蔵の原図を閲覧して文字を確認しています。

*3:THE CONCISE OXFORD DICTIONARY

*4:「軍艦三笠遭難記録」「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050201100、大正10年 公文備考 巻38 艦船15(防衛省防衛研究所)」6コマ目、46コマ目

*5:「世界の艦船」1959年5月号

コミックマーケット(C92)出店のご案内とお礼

*** 2017.08.12追記 ***
C92の2日目、無事終了しました。
当スペースにご足労くださった方々、お買い上げくださった方々にお礼申し上げます。
(涼しい天候のおかげでなんとか最後まで在席できました)
次回の出店は9月18日の「文学フリマ大阪」の予定です。
*************

下記のとおり、コミックマーケット(C92)に出店します。
ご来場の際には当スペースにもお立ち寄りいただけますと幸いです。 
 

 日時:2017年8月12日(土曜日)10:00 〜 16:00
 会場:東京国際展示場(東京ビッグサイト) 

 配置場所:東4ホール  ブロック-23b

 サークル名:Studio120

「東郷とともに」(全2巻)の他、既刊の「グランド・フリート1914-1916」、「英国海軍での50年」、「日本帝国海軍」など海事関係書籍の翻訳を頒布致します。

なお、申し訳ございませんが、このところ体調が良くないため、定時の16:00よりも早く撤収するかもしれません。その場合でも13:00までは在席するつもりです。

戦艦「スワロフ」沈没の絵葉書?

日露海戦に関する絵葉書の中には、「旗艦三笠ヨリ見タル砲烟中の‘スワロフ’」と注釈のついたものがあります。

postcard_0527_1
【「スワロフ」を写したとされる写真が入った絵葉書。明治39年4月30日付のスタンプが押されています】

しかし、当時「三笠」で「スワロフ」を撮影したという記録が見当たらず、不思議に思っていたところ、雑誌「海軍」に同じ写真が掲載されているのを見つけました。
Kaigun_M42_5
【雑誌「海軍」(明治42年5月)に掲載された画像】 

この写真の注釈では「スワロフ」が沈没した瞬間を撮影したことになっていますが、そのとき「三笠」は「スワロフ」から離れた場所にいましたので、絵葉書にある『「三笠」から撮影した』というのはあり得なくなります。
また、写真の撮影が午後5時頃となっていますが、「スワロフ」が沈没したのは午後7時30分頃ですので、注釈の内容に誤りがあります。そのため、この注釈をそのまま信じることはできません。

さらに雑誌「海と空」にも同じ画像が掲載されています。
 
U-S-S8-5

【雑誌「海と空」昭和8年海軍記念日号より】 

(この画像の注釈では、写真は「スワロフ」が沈没した時のもので、白煙が騰がっているところが沈没した所とされています。しかし、これも誤っているようです)

この画像には「軍艦出雲より山本大尉の実写せる貴重な写真である」との注釈があり、「三笠」から撮影したものではないと判りました。「出雲」の山本大尉というと当時第二艦隊の参謀を務めていた山本英輔のことになります。

そこで、山本英輔の著書「七転び八起の智仁勇」を読んでみますと、193ページに以下のような記述があります。

…… 私は「スワロフ」の近傍千七百米の近距離に接近砲戦のとき、白黄黒各種の煙に包まれ、進退自由を失せる「スワロフ」の写真を写せり。 之が砲戦中撮影せる唯一の写真にて、その後三笠より見たる敵旗艦「スワロフ」として記念絵葉書として発刊された。……

この記述から、問題の絵葉書の写真は「出雲」から山本大尉が撮影したものということが判ります。

また、この時の「出雲」の行動報告(*)を読むと、(明治38年5月27日)午後6時20分頃に「スワロフ」と「カムチャッカ」を右舷約三千メートルに見て航過する際に、「スワロフ」が残存する艦尾の小口径砲で戦闘を継続していたので、これに対して数発の砲撃を加え、午後6時29分頃に友軍の第一艦隊の砲火を認めてその方向に直進した、という旨の記述があります。したがって、問題の写真は(明治38年5月27日)午後6時20分〜同30分頃に撮影されたことになります。(2017/07/13取り消し)
*** 2017/07/13追記***
写真を撮影した「近傍千七百米の近距離に接近砲戦」は夕方ではなく、午後3時34分頃に「スワロフ」らしき敵戦艦を発見し、わずかな時間、砲撃したときのことです(資料(*)の23コマ目の記述に「左舷わずかに千七百米の所に迫って砲撃を加えた」という旨の記述があります)。
上述以外の機会にも「スワロフ」に砲撃を行っていますが、その際の射距離はいずれも千七百メートルとは異なっています。 
*************

それゆえ、問題の絵葉書の写真は、後の雑誌に掲載された際の注釈のように「スワロフが沈没したところ」ではなく、まだ浮かんでいる状態を撮影したものです。 

そうなりますと、「スワロフ」は画像の中央から少し左に写っている艦なのでしょうか?
これについては確信が持てません。

☆ ☆ ☆

この絵葉書とは別に、山本英輔には無線電信に関する功績があります。彼の考案で、日本海海戦にあたって「出雲」では無線電信の架空線を前後マストの桁の間に横架式に張っており、無線電信の受信機のみを防禦甲板下の弾薬通路に移して戦闘中でも受信可能にしていました。そのため各方面の通信を全て傍受して記録することができました。この記録は「日本海海戦無線電信誌」として残され、複製(?)が記念艦「三笠」で展示されていたかと思います(また、三笠保存会のサイトではありませんが、ネット上で公開しているサイトがあります)。

ーーーーー
*:件名:第2編 日本海海戦/第1章 5月27日の戦闘(第1合戦)
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110084400、「極秘 明治37.8年海戦史 第2部 戦紀 巻2」(防衛省防衛研究所)」の26コマ目、「出雲」の報告から
 

坂の上の雲ミュージアム訪問

先日所用があって愛媛県の松山市に行ったので、坂の上の雲ミュージアムも訪問してきました。

museum1
【坂の上の雲ミュージアム】


現在の企画展は明治20年代初頭の秋山好古、秋山真之、正岡子規についての展示となっています。
秋山好古については「フランス留学と旧松山藩」「フランス騎兵に学ぶ」
秋山真之については「海軍兵学校時代の真之」「エルトゥールル号遭難事件と真之」
正岡子規については「「子規」の誕生」「子規が見た近代日本」
といったテーマで展示がなされています。
  
display1
 

館内には細かいところまで作り込まれた見事なロシア戦艦の模型も展示されています。
model1
ロシア戦艦「ボロジノ」の模型(1/100)】製作・寄贈:小俣昭治氏

館内の売店で今回の企画展および過去の企画展「バルチック艦隊と真之」の冊子やタオル、メモ帳と携帯ストラップを購入して帰りました。
booklets
【企画展の小冊子】
 
「バルチック艦隊と真之」の冊子には、バルチック艦隊に関係したさまざまな報道記事や解説があり、また「秋山真之の作戦関係資料」と題して連繋水雷に関した連隊機密文書や図面の写真があります。アジア歴史資料センターでは白黒でしか閲覧できませんが、カラーで見ることができます(*)。


goods
 【メモ帳としおり、携帯ストラップのセット。ストラップのキャラクターは秋山好古や正岡子規のものもあります】

ーーーー
(*)件名:連隊機密(11)「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09050629600、連隊機密(防衛省防衛研究所)」。この中の連隊機密第259号の3の付図(コマ番号 0545および0546)など。

 
chained-mines
連隊機密第259号の3の付図より
これは連繋機雷による攻撃(敵艦隊の針路前方に連繋した複数の機雷を投下する)の戦策の一例を示したもので、敵艦隊が針路を変更した場合にもこれを捕らえられるように考えられています。

雑感「最新日本史教科書」?

本屋で「最新 日本史教科書」(英和出版)というムック本を見かけて購入しました。表紙には「昭和生まれ\ビックリ/の「認定」「変更」「改訂」、あなたの知識はもう古い?」などの文言があり、最新の情報が得られるかなと思ったのですが。。。

自分には個々の記事を論評できる見識がありませんが、一点、85ページの日露戦争の記事で「連合艦隊旗艦、戦艦三笠」と注釈のついた写真が、実際にはロシア戦艦の写真になっていました。そこは間違えて欲しくなかった。。。
記事検索
livedoor プロフィール
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ