お願い:
 本ブログには「公益財団法人 三笠保存会」の許可を得て取材させて頂いた内容が含まれています。従って、記事を商業目的で利用される場合は、同保存会に連絡を取り、三笠に関する情報を商業利用する許可を得てください。また、非営利であっても記事の内容や画像を許可無く利用することはおやめください。

三本行(砂糖)その2

この記事は過去の記事「三本行(砂糖)」の続きです。
 
アジア歴史資料センターで「三本行」を検索すると、いくつか記事が見つかります。
軍艦「吉野」が英国のニューカッスルやプリマス、英領マルタで購入した糧食品購入代価(単価)表の中には「三本行」と「天光糖」が記載されています(*1)。このことから、三本行は和三盆のような日本の特産品ではなく、海外でも購入できる種類の砂糖であるとわかります。
list


また、軍艦「高砂」の報告では(*2)、士官室用糧食品の一覧の中に「三本行」、「白砂糖」、「角砂糖」が記載されています。このことから、三本行は白砂糖ではないことが分かります。

他に「海軍五等主厨厨業教科書」(大正7年)(*3)では、砂糖について「調理用砂糖は天光糖その他は三本行」と記述されています。

したがって、砂糖のグレード(ショ糖の含有度)からいくと、白砂糖 > 三本行 > 天光糖 になるようです。

なお、海軍四等主計兵厨業教科書(海軍省教育局、昭和13年10月)の29ページ(*4)には砂糖について「三本行」という言葉はなく、調理用には「黄双」、「白砂糖」はバター、ジャム、缶詰牛乳の代わりに出すものと記されていました。「黄双」は色のついたザラメの砂糖のことです。

また、「砂糖用語便覧」(昭和30年、松本十郎(監修)、綜合出版社)には「三本行」という言葉はありませんでしたが、以下のような解説がありました(p.73-p.74)。

・精糖四温:
  目立ち細く、手触り軟らかく、色相は純白である。一般に上白と呼び精製車糖とも称される。三盆白、太白、四本引などの名称で取引されているものがこれに当たる。現在この名称は市場ではほとんど使用されていない。糖度96~98度程度。

・精糖三温:
  目立ち細く手触り軟らかい砂糖で、上白よりは色相がやや劣り、中白、三本引、和白などの名称で取引されているものがこれにあたる。糖度は94度程度。

「精糖四温」は現在の上白糖相当と思われ、同義の言葉の中に「四本引」があります。一方、「精糖三温」は(現在の三温糖と同じかはわかりませんが)同義の言葉に「三本引」があり、「三本行」という言葉と類似しています。
「三本引」というのは、元々は精糖の行程を三回行ったもの、「四本引」は同じく四回行ったものという意味です。

以上のことから、「三本行」は「三本引」と同義なのかもしれません。

他に明治・大正時代の一般家庭向けの料理本も調べてみましたが、砂糖は「砂糖」としか書かれていませんでした。  

☆ ☆ ☆

砂糖の名称や製法は時代によって大きく変わっていますので、今回調べたことだけでは正確なことは言えません。

明治時代と現在では砂糖の製法も違いますので、 現代では「三本行」に相当する砂糖は存在しないかも知れませんが、色合いだけでみると、下の画像の「てん菜糖」か「三温糖」に近いのだろうと思います。

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【さまざまな砂糖(あくまで色合いの比較のためのものです)。
右端の「中ザラ糖」が恐らく「黄双」に近いものだと思います】

現在では旧海軍の料理を研究した本が多く出版されており、そうした本に正解が書かれているかも知れませんが、いまは調べる余力がありません。
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*1:JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10125382900、明治26年 公文雑輯 巻12 物件下(防衛省防衛研究所)、4コマ目

*2:JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11081094100、明治35年 遣英関係書類(2)止 軍艦高砂報告 自1回至9回(防衛省防衛研究所)、2コマ目

*3:国立国会図書館デジタルコレクション( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941875 )、22コマ目

*4:舞鶴市のサイトの記事「舞鶴に残る「海軍の料理教科書」3冊をWEBで初公開!」中のpdfより
  https://www.city.maizuru.kyoto.jp/kankou/0000006049.html

昨年の御礼と文学フリマ京都のご案内(と御礼)

文学フリマ京都、無事終了しました。
当スペースにいらしてくださった方々、お買い上げくださった方々に御礼申し上げます。
軍事関係の作品にも関心を寄せてくださる方が増えたことや、以前お買い上げくださった作品の感想を伝えてくださった方がいらっしゃったことが嬉しかったです。

次回の出店は5月のコミケ(当選した場合)、文学フリマ東京(5/6)の予定です。
*** 2020年3月28日追記 ***
 残念ながら、二つともコロナウイルスの影響により中止となりました。
 今後の頒布の機会に備えて翻訳や調査を続けたいと存じます。
*** 追記ここまで ***
ーーー
事情により、年末年始のご挨拶ができず、申し訳ございませんでした。

昨年も貴重なアドバイスをいろいろといただきましたことに御礼を申し上げます。
また、私の同人誌に関心を寄せていただいたこと、お買い上げくださったことにも御礼申し上げます。
本年は「ロシア帝国海軍」の訳の完了と、「三笠」関係の資料本の発行を目指します。

さて、次の日曜日、第四回文学フリマ京都に出店参加いたします。
 開催日時 2020年01月19日(日) 11:00〜16:00
 会場:京都市勧業館 みやこめっせ 1F 第二展示場C・D(京都市・岡崎)
 出店スペース:け - 32

軍事関係では以下の訳本をもっていきます(新刊はございません)。

・ロシア帝国海軍(第1章−第9章)
  1899年ころまでのロシア海軍について書かれた解説書。ジェーン著
・日本帝国海軍(全4巻)
  日露戦争ころまでの日本海軍について書かれた解説書。ジェーン著
・東郷とともに(全2巻)
  日露戦争中に来日し水雷艇などに乗って従軍したイギリス人画家の従軍記。
・軍艦のしくみ(全4巻)
  百年以上前に書かれた、軍艦の(主に機関についての)解説書。
・日露戦争における日本海軍の医務衛生の特徴に関する報告書
  日露戦争中に来日した米海軍軍医の、日本海軍の医務衛生に関する報告書。

文学フリマではさまざまなジャンルの作品が多数出展されます。面白い作品がたくさんあると思いますので、ご足労いただけましたら幸いです。

日本海海戦時の艦橋の手すりの高さについて

この記事は「日本海海戦時の47ミリ軽速射砲の位置(1)」など、47ミリ軽速射砲に関する記事の補足です。
1904年(明治37年)12月末から翌年2月にかけての修理で「三笠」の47ミリ軽速射砲は前後艦橋に移設されました。これに伴い、軽速射砲の近くの手すりが(砲の俯角を得るために)改造されて低くされたようです。

それ以前の「三笠」の前部艦橋の手すりは下の画像のように同じ高さで続いていました。

三笠前部艦橋
【日本が領収する前の「三笠」の前部艦橋。手すりは同じ高さで続いています。黄海海戦後まで同じ形状です】

1905年(明治38年)2月の撮影とされる「三笠」の写真を見ますと、軽速射砲の近くの手すりが低くなっているように見えます。

M3802三笠艦橋
【明治38年2月撮影の「三笠」の前部艦橋。移設された47ミリ軽速射砲が見えます】

手すりの高さを示すと、下の画像の黄色い線のようになります(画像が粗いため、一部は推測です)。

M3802三笠前部艦橋2
 【手すりの高さを黄色の線で示したもの】

上の画像では手すり部分の帆布と後ろの操舵室が同じ色であるために判別がつきにくいのですが、先日記事に取り上げました、平賀デジタルアーカイブの画像から、手すりの高さが一部変わっていたことがわかります。

浮揚時の三笠前部艦橋
平賀譲デジタルアーカイブ『写真(離礁作業中の帝国海軍軍艦6)』(東京大学柏図書館所蔵)を改変
元画像のURLは以下のとおりです。
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/hiraga/document/5752d97e-c0a8-4d8d-8d07-04aaa0253ba4


このままですと判別がつきにくいので、明るさやコントラストを調整すると、手すりの高さが変わっていることがわかります。

浮揚時の前部艦橋2
平賀譲デジタルアーカイブ『写真(離礁作業中の帝国海軍軍艦6)』(東京大学柏図書館所蔵)を改変

上の画像で、写真に向かって左側(右舷側)の赤丸の部分で手すりの高さが低くなっています。
?が記された黄色の楕円部では、手すりの高さが変化していると思われるのですが、手すりが見当たりません。 写りかたの関係で判別できないのかも知れませんが、浮揚工事の際に切り取られたのかも知れません。
写真に向かって右側(左舷側)の黄色の楕円部分では、うっすらとですが、手すりの高さが変化しているように見えます。

日本海海戦前の手すりの形状の根拠として、かなり時間が経過した浮揚時の画像を用いるのは良くないとは思いますが、日本海海戦から事故で着底するまでの期間のほとんどはまだ「戦争中」でしたので、この部分は日本海海戦時と同じであった可能性が高いと思います。

さて、後部艦橋でも同様の改造が行われていたはずですが、今のところ、それを明瞭に示せる写真が見つかっていません。調査を続けたいと思います。

海図台(補足)

これは過去の記事「海図台:Chart Table」の補足です。

日本が領収する前の「三笠」の絵葉書に、艦橋上の海図台が写っているものがありました。
艦橋部分を拡大してみると海図台が設置されているのが分かります(黄色の楕円部)。

mikasa1
【三笠の絵葉書。おそらくポーツマス周辺での撮影】

Mikasa2
【艦橋部分の拡大】 

海図台を使っているところの写真を自分は持っておりませんが、参考として『日露戦争 写真画報 第17巻』に収録されている駆逐艦上の絵をあげておきます。

海図台の絵
 【海図台の使用風景】
 この絵を描いた村田(邨田)丹陵は日本画家で、セッピングス・ライト(イギリス人従軍画家)や東城鉦太郎とともに観戦船「満州丸」に乗船していました。(うろ覚えですが)当時の日本の駆逐艦か水雷艇を撮影した絵葉書か図版の中に「従軍画家村田氏撮影」と注釈がついたものがあったと思いますので、彼もライトのように水雷艇などに乗り組んだのかも知れません。

常備艦隊運動写真帖(参考文献)


題名:常備艦隊運動写真帖(仮題?)
出版:光村写真部、明治32年10月

国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845211

明治31年に明治天皇が常備艦隊に臨幸されたときに艦隊の動きを撮影したものです。
当然「三笠」はまだ存在せず、戦艦は「富士」と「八島」のみですが、当時の艦の姿を知ることができます。

RIMG0274

 
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RIMG0277
【「八島」からの撮影。後部シェルターデッキや艦橋甲板の様子がわかります】
 
RIMG0276
 

三笠浮揚時の絵(と写真)

今回の絵も「イラストレーテッド・ロンドン・ニュース」からで、三笠浮揚時の絵です。
描いたのもセッピングス・ライト氏です。 

mikasa_fujou 2
 【三笠浮揚時の絵】

 また、本ブログを読まれた方が、平賀デジタルアーカイブに浮揚作業中の三笠の写真があることを教えてくださいました。

https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/hiraga/page/home 

このページで 「離礁作業中の帝国海軍軍艦」で検索すると、 非常に鮮明な画像を閲覧できます。
「三笠」の艦名の記載はありませんが、艦橋、煙突、マストなどのつくりから、「三笠」と分かります。
作業中は通風筒や機関室のハッチの囲いなどが取り外されていたことなど、当時の状況がよく判ります。

お教えくださいました方に御礼申し上げます。 

塗装風景?(開戦直後の絵)

下の画像は「イラストレーテッド・ロンドン・ニュース」からです。

mikasa_modoki2

「三笠」と「敷島」を混ぜたような戦艦が描かれ、タイトルや注釈には
 「ロシアと日本の間の戦争行為が勃発:戦争の準備」
 「艦に戦時塗装を施しているところ:戦争準備を整えつつある日本の装甲艦」
などと書かれています。
 そして絵を描いた人はセッピングス・ライト氏です(当時人気のあったイギリス人従軍画家。1904年4月にアームストロング社所属の画家として来日し、「満州丸」で戦地を参観したのち、水雷艇などに乗って従軍。本ブログでも過去に記事にし、またその著書を翻訳しています)。

autograph

 【絵の右下の署名】

絵を見て、ライト氏が日本で描いたのかと思ったのですが、記事の発行日が1904年2月13日となっています。
date
【発行日付:画像右端、縦に書かれているもの

ライト氏が日本に向けてイギリスを発ったのが1904年3月5日(*)ですので、上の絵は日本で描かれたものではありません。おそらく「三笠」や「敷島」の写真やイギリス艦の塗装風景を元にしてイギリスで描かれたのでしょう。

日本軍艦の水上での塗装や筏の使用方法を知る資料になるかと思ったのですが、残念ながら「参考資料」にとどめておく必要があります。^ ^;

ライト氏が日本にいない時期に日本海軍について描いた絵は他にもあります(日本海海戦、佐世保の海軍病院でロジェストヴェンスキー提督を見舞う東郷提督、三笠浮揚作業など)ので、参考にする際には注意が必要です。
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 * “ WiTH TOGO” 「東郷とともに」、セッピングス・ライト著。1ページより。
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