お願い:
 本ブログには「公益財団法人 三笠保存会」の許可を得て取材させて頂いた内容が含まれています。従って、記事を商業目的で利用される場合は、同保存会に連絡を取り、三笠に関する情報を商業利用する許可を得てください。また、非営利であっても記事の内容や画像を許可無く利用することはおやめください。

三笠の模型(秋山兄弟生誕地)

過去の記事で紹介しました、新居浜工業高等学校の生徒さんたちが製作した「三笠」の模型は、現在愛媛県松山市の秋山兄弟生誕地にて展示されています。

先日所用で松山へ行った際に見て参りました。

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【秋山兄弟生誕地】

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【三笠の船体および蒸気機関模型】


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【模型のベルビル・ボイラー部分】
 
このボイラー模型は現実のベルビル・ボイラーと同様に水管が(デパートのエスカレーターが折り返しながら上の階にいくように) 組み立てられています。調査や材料の加工、組立、燃料のエタノールの蒸留まで生徒さんたちが行われたということで、感嘆しました。

 この生誕地は一度は戦災で失われましたが、小説「坂の上の雲」がきっかけで注目が集まったことから復元の運びとなったそうです。家屋の中には秋山兄弟に関係する資料が展示されています。

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好古が校長を務めた北豫中学は現在は愛媛県立松山北高等学校となっていますが、同高校の卒業生の方や教職を努めていらっしゃった方がいらして、面白くかつ詳しく説明をしてくださいました。

場所は松山城のロープウェイ乗り場の近くで、「坂の上の雲ミュージアム」や「万翠荘」も近くにあります。
秋山兄弟生誕地
愛媛県松山市歩行町2丁目3-6 
http://www.akiyama-kyodai.gr.jp

日本海軍士官ヘシボ・ティコバラ(旅順前にて)?

日露戦争で旅順攻撃に参加した士官の私的な日記という触れ込みで、1905年にスペイン語で出版され、それを1907年に英語に翻訳して出版された本があります。

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【La guerra ruso-japonesa. Port -Arthur.】
イニシャルが M.D. というスペイン海軍士官によって日本語からスペイン語に翻訳したもの、とされています。(画像は1908年に出されたペーパーバック本のもので、1905年出版のものとは異なるかも知れません)
 

pa_2
【 Before Port Arthur In a Destroyer】

こちらは上の本を英語に翻訳してイギリスで出版されたものです。

スペイン語版も英語版も、日記を書いた日本海軍士官の名前が Heshibo Tikovara で、これだけでは誰なのかまったく見当がつきません。
しかも、スペイン語から英語への訳者が序文の中で、「日本語で書かれた原本を入手できず、スペイン語版の名称や日付をできるだけ検証したが、話の正確さに責任が持てない」としています。

少し読んでみると、日記を書いた日本海軍士官について以下のように書かれていました。

 a. 駆逐艦Akasuki (スペイン語版では Akusiki) の指揮官
 b. 叔父の姓が Kato で Iwate を指揮
 c. 日露戦争の開戦当初に旅順口のロシア艦隊を攻撃してロシア艦パラーダに魚雷を発射
 d. 第二回旅順港閉塞作戦時に Chiyo Maru (スペイン語版では Koryo Maru) を指揮

a. と c.の点からは、駆逐艦「暁」の末次直次郎大尉のようですが、しかし、d. の点からは 鳥崎保三中尉のように思えます。また、日記は旅順が陥落したところで終わっていますが、末次大尉はそれ以前に戦死しています。

これは実在する日記を翻訳したものではなく、スペインで創作されたものに思えます。ただ、創作されたにせよ、何か参考にしたものがあったはずで、当時の雑誌に掲載された複数の人物の手記や記事を組み合わせたのだろうかと想像しています。

この本について由来などご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけますと幸いです。 

加藤友三郎の写真(参考文献(28)/books for reference#28)

タイトル:The Russo-Japanese War Fully Illustrated 
出版:金港堂、第1巻第1号発行明治37年4月21日

日露戦争の経過について英文で発行されたものです。
写真や図版が豊富に用いられています。

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その中に、加藤友三郎の写真がありました。
背後に司令塔が見えますが「三笠」のものではなく、彼が「三笠」の前に乗艦していた「出雲」のシェルターデッキで撮影されたものかと思います。 

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【第三巻第九号(明治38年7月10日発行)より】
 
写真の隣には、日本海海戦前後の電文の英訳があります。 I.のものは「敵艦見ゆとの……天気晴朗なれども波高し」を訳したものです(文中の “slighted” は “sighted” の間違いでしょう)。

コミックマーケット(C93)出店のお知らせ&お礼

*** 2018年1月4日 追記 ***
 当スペースにおいでくださった方々、お買い上げくださった方々に御礼申し上げます。
 体調のため定時より早く撤収したことをお詫び申し上げます。

*** 2018年1月7日 追記 
 次回は「第二回文学フリマ京都」に参加します。
  日時:2018年1月21日(日)11:00〜16:00
  場所:京都市勧業館みやこめっせ 1F第二展示場C・D面
  ブース位置:え−40
*** 追記ここまで ***

下記のとおり、コミックマーケット(C93)に出店します。
ご来場の際には当スペースにもお立ち寄りいただけますと幸いです。

 日時:2017年12月31日(日曜日)10:00 ~ 16:00
 会場:東京国際展示場(東京ビッグサイト)
 配置場所:東2ホール “U”ブロック-04b
 サークル名:Studio120

新刊とは言えないかも知れませんが、以前出したモーガン・ロバートソンの
「タイタンの遭難または、愚行」(原著1898年及び1912年発行)
の改訂版を持って行く予定です。この物語には豪華客船タイタン号が氷山に衝突して沈没する描写があり、原著の出版から14年後にタイタニック号が遭難すると、事故を予言したのではないかと話題になりました。

既刊につきましては、一通り持って行きます。ただし、
「グランド・フリート 1914-1916」の第1巻および第2巻は完売したため在庫がございません。

また、間に合えば(コピー本になりますが)、三笠関係の資料になりそうな冊子を用意したいと考えております。
*** 2017/12/30 追記 ***
かなり簡素なものですが、明治40年代の初めに撮影された三笠の絵葉書についてまとめたものを持って行きます(5+1ページ)。掲載した絵葉書のうち1枚の他は全て過去に当ブログで掲載したことがありますので、新しい情報はほとんどありませんが、ご関心のある方に見て戴けますと幸いです。

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書影 (^ ^; です。。。

***追記ここまで***

なお、申し訳ございませんが、体調が良くないため、定時の16:00よりも早く撤収するかも知れません。その場合でも、13:00までは在席するつもりです。

マストの航海灯(?)

三笠のメイン(後)トップマストの途中には、前方に小さな物体がついているのが見えます(下の画像の矢指部)。

main_mast_1905
 【1905年2月頃と思われる三笠のメイン(後)マスト】

この物体は大きさと位置からみて、航海灯かと思いますが、その部分を明瞭に撮影した写真を持っていませんので、今のところ推測の状態です。

この物体は、就役前後の写真には見あたりませんが、1903年の海軍大演習観艦式の写真には写っています(*1) 

一方、前マストについては、トップマストの途中に航海灯らしき物体が見あたりません。
ただし、就役前後の写真には、前マストのトップ(探海灯台)の前縁から吊り下げられている物体が見えます。これが航海灯かも知れませんが、確信はありません。

fore_mast_M35mb
【就役前後とおぼしき三笠の前マスト。矢指部が航海灯らしき物体】

この物体は、1905年の2月頃に撮影された三笠の写真には見あたりません。
ただし、前マストのトップの前縁に帆布ではない物体が見えますので、そこに航海灯が移設されたのかも知れません。

fore_top
【1905年2月に撮影された三笠の前部トップ(画像はwikiより)。黄色の丸の中が問題の物体】

この物体は、大正時代にウラジオストックにドック入りしている三笠の写真にも写っています。

fore_top_T10
【ウラジオストックにで入渠中の三笠の前部トップまわり。艦の前方から後方に向かって撮影したもの。矢指部が航海灯らしき物】

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*1: 海軍大演習観艦式写真帖(小曽根宜豪 (貞松) 撮影)。国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧できます。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845129 の13コマ目

トップマストのヒール(下端部)

先の記事で引用した日本海海戦でのメイントップマストの破損を示した図(*1)からは、マストやヤードについてさまざまなことが判ります。まず、トップマストのヒール(下端部)を見てみます。

main_top_mast
【メイントップマストの図】

上の図の赤丸の部分、トップマストのヒール(下端部)まわりを見ますと、マストの断面が円ではなく角張った形に変わり、またトップ(マストに設けられた台、檣樓(しょうろう))の床を貫通していることが判ります。

さらに「三笠」の前マストの図面(*0)を見ると、前部トップマストについても同様に描かれています。

kinenkan-fore-mast
【「三笠」の前部マストの一部。赤矢印がトップマスト】

マストのヒール部分の造りについては、 Shipyard Practice に解説図があります。

ヒール
【トップマストのヒール(下端部)の図。
この図は一例であって、形状や寸法は艦や場所によって異なります

これを見ると、トップマストの下端部ではマストの断面が八角形となり、その八つの面のうち三つに板が張られています。
トップの床面と同じ高さのところには四角い穴(フィッド・ホール)があけられています。この穴にフィッド(Fid)と呼ばれる鉄製の四角い棒を貫通させて、これによってトップマストの重量を支えます。

また、マストの中に滑車が二つ設けられています(元の図では、マストの上の方にもう一つあります)。これらはトップマストを上げ下げするためのものだと解説されていますが、具体的にどうやるのかは調べ切れていません。

また、図中に PAWL RACK と注釈のある部分にはノコギリ刃のように連なった歯があり、トップの床面に設けられた爪状の物とかみ合うようになっています。おそらくトップマストを上げ下げする際にその高さを一時的に固定する仕掛けだと思うのですが、詳細は調べ切れていません。

また、図中に LIGHTNING CONDUCTOR とあるのは、避雷針の役目をする銅の薄い板で、マストの天辺まで延びています。

当時の運用術教科書の図にも、同様に描かれたものがあります。

heel
【近世運用術教科書付図(軍港堂、明治42年)より】
図中、四がフィッド・ホール、六がフィッド、五がPAWL RACK、一と二が滑車を納めた穴を示すようです。ただし、この図ではマストの下端にある滑車を納める部分が穴ではなく下方に開いた形になっています。 

自分が持っている「三笠」の写真には、トップマストのヒールがトップの床を貫通しているところが見えるものはありませんでした(問題の部分がトップを支える三角形の板に隠れていたり、写っているはずのアングルでも日陰になっているため黒くつぶれたりしています)。ただし戦艦「香取」の写真には、トップマストのヒールがトップを貫通しているところが写っていました(*2))

下の画像は、記念艦「三笠」と、そのメイン(後)マストのトップ周辺を拡大したものです。


kinenkan
【記念艦。昭和5年(1930年)に開催された「海と空の博覧会」の光景】


main_top
【上の画像の矢指部を拡大したもの】 
 
(1)のところから下でトップマストの光の反射の仕方が変わっています(縦長に明るい部分の幅が広くなっている)ので、このあたりで断面が円から八角形へ変化しているようです。

(2)のところではマストが太く見えており、このあたりでマストの面に張られた板が厚くなっているのかなと思います。他の艦では「敷島」と「朝日」の写真で同様の形状が見えます(*3)。

この他に、巡洋戦艦フッドを図説した本(*4)にも、トップマストのヒール周りが簡単に解説されています。

ーーー
*0:軍艦三笠記念に関する件(2)「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015497700、公文備考 官職8 巻8(防衛省防衛研究所)」の23コマ目

*1:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110101100、「極秘 明治37.8年海戦史 第2部 戦紀 巻2及備考文書付表付図」(防衛省防衛研究所)」10コマ目 

*2:Japanese Battleships 1897-1945 , A Photographic Archive (R A BURT, Seaforth pblishing) の54ページ

*3:日本海軍艦艇集 戦艦・巡洋戦艦(ダイヤモンド社) 

*4:The Battlecruiser HOOD (anatomy of the ship, revised edition) (John Roberts) 、98ページの図F7、90ページの図E4/1 

日本海海戦時のトップスルヤードの位置

「三笠」のマストに備えられているヤード(横架した桁)は時期によって数や位置が異なりますが、大抵の場合はマストの前側(艦首側)にあります。

しかし、トップスルヤードについては、1905年(明治38年)1月にこれをロワー・マストヘッドまで下ろして(*1)から同年9月の佐世保での爆沈事故まで、トップマストの後側にあったようです。 

キットを使って示しますと、下のようになります。
fore_top_mast_m38_feb

【日本海海戦時の前部トップマストとヤードの位置関係を示したもの。後マストにおいても同様です】

上の画像中、(1)はゲルンヤード、(2)はトップスルヤード、(3)はトップマスト、(4)はロワー・マストヘッドと呼ばれています。 

以下、実艦の写真を見てみます。
Mikasa_m35
【明治35年頃の三笠の前マスト。艦の右舷前方から撮影されたもの(日露戦役海軍写真帖より)】
 
上の画像ではヤードの中央が白い矢印で示したように(画像の上では)トップマストの右側(艦首側)にあります。この場合はヤードがトップマストの前側にあると判断できます。

一方、明治38年2月頃の写真では、ヤードの中央(黄色の矢印)が画像の上ではトップマストの左側(艦尾側)にありますので、ヤードがマストの後側にあると考えられます。
fore_mast
【明治38年2月頃の前マスト(wikiより)】

上の画像ではヤードの端(画像に向かって右側、左舷側のもの)が見え難いですが、他の写真集(日本海軍艦艇写真集)のより鮮明な写真ではヤードの端が赤矢印が示すところまであるように見えます。

main_mast
【同メイン(後)マスト(wikiより)】

同じく、メイン(後)マストにおいてもヤードがトップマストの後側にあるように見えます。
(※ヤードの端(画像に向かって左側、右舷側のもの)が見え難いですが、他の写真集の同じ写真ではマストの端が赤矢印が示すところまであるように見えます

これだけでは画像が不鮮明なために誤りがあるかも知れませんので、同じ頃に撮影された別の写真を見てみます。
fore_mast_m35-2
【明治38年2月頃に撮影された三笠の前部マスト。艦の真横少し前方から撮影されたもの「通俗教育 海軍写真帖」より】

もし問題のヤードがトップマストの前側にあるなら、下の画像の赤線のように写るはずですが、実際には、赤線よりも後方(艦尾側)にヤードが写っています。従って、このヤードはトップマストの後側にあると考えられます。

fore_mast_2
【赤線でマストの前側にヤードがある場合を示したもの】

他にいくつか当時の写真を見てみましたが、明治38年2月頃から日本海海戦までのものでは、トップスルヤードがトップマストの後側にあるように見えます。
 
また、日本海海戦時の三笠のメイン(後)トップマストの被害図を見ますと、トップスルヤードがトップマストの後側にあるように描かれています(図中の(2)のところ)。
Mikasa_main_mast_damage

 【日本海海戦時のメイントップマストの被害図(*2)。赤色の文字や図形は八坂による注釈】

この図はメイン(後)トップマストを艦首側から艦尾側に向かって見たものです((1)のヤードの両端に右舷/左舷と書き込まれていることから判ります)。
図中(1)のゲルンヤードはトップマストの前側にあるように描かれています。
一方、(2)の トップスルヤードはトップマストの後側にあるように描かれています。

以上のことから、 トップスルヤードは、1905年(明治38年)1月にこれをロワー・マストヘッドまで下ろしてから日本海海戦時まで、トップマストの後側にあったと考えられます。

また、「三笠」が明治38年9月に佐世保で着底した後の写真では、トップスルヤードがトップマストの後側にあるように見えますので、9月の事故までそのままだったのかも知れません。

なお、明治41年に浮揚修理が完了した頃の「三笠」の写真では、トップスルヤードはトップマストの前側かつロワー・マストヘッドから少し上に離れた場所にあります。 

*** 2018年1月7日追記 ***
【おことわり】
この記事について、某模型メーカーの製品に問題があったから記事を書いたのではないかと、他社の製品を誹謗する発言をしている人物がいるようですが、この記事はそのような問題を意識したものではありません(問題があるかどうかも存じておりません)。
*** 追記ここまで *** 

ーーー
*1:三笠の戦時日誌には、1月12日に「午前十時〇分、「メーン」「トップスルヤード」ヲ下シテ「ロアマストヘッド」に至ラシム」とあります。日誌には前マストのトップスルヤードについて言及がありませんが、当時の写真から見て、同じ頃に同様に下ろされたと思われます。

*2:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110101100、「極秘 明治37.8年海戦史 第2部 戦紀 巻2及備考文書付表付図」(防衛省防衛研究所)」10コマ目
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