本ブログの記事、画像等を許可無く利用することを禁止します。

資料のクロスチェックその1:三笠?朝日?敷島。

shireibu

上の写真は、記念艦三笠の中に展示されている、日本海海戦時の司令部の(非常に大きな)記念写真の隅に付いている、人物を説明する注意書きの写真です。

この写真を初めて見た時、てっきり三笠艦上で撮影されたのだと思っていました。
しかし、三笠に関心が深まって資料を集めていきますと、そうではないことがわかりました。
例えば、尾崎主税氏の「聖将東郷と霊艦三笠」に掲載されている同じ写真には、旗艦朝日で撮影、とあります。
また、豊田穣氏の「旗艦三笠の生涯」では、三笠が佐世保で爆沈した後、観艦式の旗艦は朝日が務めた、という記述があります。
一方で、福井静夫氏の「海軍艦艇史1戦艦・巡洋戦艦」では、日露戦役の凱旋観艦式で連合艦隊旗艦を敷島が、第一戦隊の旗艦を朝日が務めたと記されています。敷島も朝日も「旗艦」であったわけです。
艦隊司令官座乗ということなら記念写真の艦は敷島と思われますが、展示されている写真からは艦の特徴がよくわからないため、断言ができません。

そのうちに、日露戦争の資料を集めたサイトの中に、上と同じ記念写真で背後の艦の造りまで写っている画像があるのを見つけました。その特徴から「記念写真の艦は敷島」と判断できました。

艦船考証をやっていらっしゃる方々から「何と初歩的な」と笑われるかも知れませんが、私は一つの事実を確かめるためには複数の資料を照らし合わせる必要があることを実感しました。
また、決め手となる画像をネットで見せて頂いたサイトには感謝する次第です。

残念な事に、この写真についてトラブルを起こした人がいるようです。詳しいことは判りませんが、この写真の情報をタダで得ようとして断られた営利目的の業者が、このサイトについて「掲示板での誹謗中傷、関係先への電話中傷」等の嫌がらせを行い、警察からこの業者に警告する事態になったようです。ネットで貴重な情報を提供してくれている善良なサイトの活動を萎縮させるようなみっともない行為は謹んで欲しいものです。

---
2011年12月19日追記;
 拍手コメントの方から、この記念写真の撮影日時を示した本があることをうかがいました。後ほど調べてみたいと思います。ありがとうございます。 

三笠の兵器の考証その2:主砲の砲身受け?(俯角制限用カム)

三笠の主砲塔には砲身を下で支えるような板が付いています。
正確な名称が判らないので、仮に「砲身受け」としておきます。
(※12月11日追記:「俯角制限用カム」と呼ばれていたようです)

mikasa_gum
現在の記念艦三笠の主砲塔の砲身受け

明治時代の三笠の砲身受けの形は少し異なっています。
前部主砲塔の砲身受けは下記のURLで見る事が出来ます。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Japanese_battleship_Mikasa.jpg

後部主砲塔の砲身受けは、大和ミュージアムのデータベースの資料番号:PG049924 の写真に写っています。
この写真は黄海海戦後に修理中のものですが、日本海海戦でも同じ形だったと思います(日本海海戦後に三笠艦上で撮影された司令部の記念写真にも同じ形状で写っています)。
ちなみに、昭和9年の記念艦でもほぼ同じ形ですが、主砲を直接支える金具が追加されています。

mikasa_gum_aft
昭和9年の記念艦三笠の後部主砲塔

ハセガワのキットの「砲身受け」パーツの形は、前部・後部用共通で、形は後部主砲塔のものに似ています。実艦のそれぞれの写真と見比べながら、少し削って形を整えるといいと思います。
hase_part
ハセガワ・三笠キットの「砲身受け」のパーツ


三笠中央部の考証その11:三笠の巨大紙模型

おもちゃのような紙模型を使って実物の考証を試みるのは、真面目に艦船考証をされている方々から嘲笑とお叱りを受ける愚行かも知れません。しかし、問題の箇所の写真を入手できないため、敢えてやってみます。
この紙模型はかつて「少年倶楽部」という少年向け雑誌(昭和7年新年号)の附録として作られた、全長82センチの三笠のペーパークラフト・キットです。昭和7年のものですから、当時既に記念艦になっていた三笠をお手本にしたものと思われます。
それが復刻され、2010年11月19日から発売されました。
詳しくは下記のリンクをご参照ください。

http://blog.goo.ne.jp/gendai_premier/e/13541186636e84d082bda9ae978e97ff

このページには作り方の解説の記事もあり、その中の「軍艦三笠 作り方 その4」をクリックすると、上甲板を作っている過程((一七)上甲板の作り方)を見る事が出来ます。
艦の上甲板中央部はボートデッキと同じ高さの一枚の紙に印刷されています。この印刷で描かれた、エンジンハッチ周りのボートデッキの高さに張られた桁の位置に注目します。私にとって参考になったのは、以下の点です。
  1. 後マストの途中からエンジンハッチの囲いの後面に向けて(首尾線上に)桁が一本、張られていた。
  2. エンジンハッチの囲いの前面の左右の端から機関室前部通風筒に向けて桁が二本、張られていた。
  3. ボートを支える桁にまたがって、艦の前後に桁のようなものがあった。
  4. エンジンハッチの囲いの前面の首尾線上と後部煙突基部に張られている桁は無い(X印)。
図にしますと、下のようになります。
BlogPaint

1の桁は三笠の断面図に描かれていました。また三笠の損害を撮影した写真にも一部写っていますので、再確認できました。
2の桁は、三笠の断面図に描かれていたものの、それが一本で首尾線上にあるか、それとも複数あって他の位置にあるのかわかりませんでしたが、二本あって、位置は上図の通りと思われます。
3の桁のようなものは、この周辺を撮影したらしい写真(艦が未確定)を見る限り、桁の下にぶら下がっているラティス状のトラフか、ハシゴのようなものに見えます。正直に言いますと、何なのか判りません。
4(x印)は以前、三笠の断面図の解釈を間違えて描いたものです。2の解釈が正解と思われます。

その他、この紙模型ではボートデッキおよび前部艦橋と前部煙突の間にあるテラスのような場所の色がとても明るい灰色になっています。調べてみたところ、三笠の保存工事を行った際に、ボートデッキの上にセメントを塗ったという記録がありました。そのセメントの色と思われます。

なお、私は昨日まで、三笠の1/48の図面は側面図と断面図しか見つけていませんでした。
しかし、ようやく、ミドルデッキとメインデッキ、艦橋まわりの1/48図面を見つける事ができました。
これで艦上構造物の位置や左右方向の幅が正確に分かりますので、この紙模型も参考にしながらチェックして、自分の図面を描き直すことにします。

参考リンク(3)

(5) THE DOCK MUSEUM (イギリス、バロー・イン・ファーネスのドック博物館)
http://www.dockmuseum.org.uk/
三笠を建造したイギリスの造船関係の博物館のサイトです。
HPのメニューの"Vickers Photo Archive" から "Mikasa" を検索すると、三笠に関する写真がいくつか閲覧できます。この他にも建造中の艦船や兵器、機関の写真が数多くあります。また、プリントしたものを注文する事が出来ます。英語で手続きする必要がありますが、日本にも送ってもらえます。

(6) シュコダに関するサイト
http://members.fortunecity.com/reisenge/PRAG/skoda/skodah.htm
チェコのシュコダ社の歴史をまとめたwebページです。
三笠の舵のフレームはこのシュコダ社が製造したようです。
下のリンクでその写真を見る事が出来ます。
http://members.fortunecity.com/reisenge/PRAG/skoda/historie1_1.jpg

※現在は、リンク切れのようです。(2012年7月24日追記) 
 
ネットを検索すると、三笠の蒸気エンジンもシュコダ社が製造してヴィッカース社に納めたという記事があります。
 

三笠の前部の考証その3:錨鎖導板

mikasaforeyousa
現在の記念艦三笠の艦首

錨鎖導板は、重い錨鎖から木甲板を保護するために、錨鎖の下に敷いていた鋼板のことです。
上の写真の黄色の矢印部分に敷かれている金属板が錨鎖導板です。
青の矢印部分にもかつては錨鎖導板が敷かれていました。
三笠の一般配置図や過去の写真(記念艦三笠その2 および 三笠の前部の考証)を見ると錨鎖導板が敷かれていた領域や、今の記念艦の前部甲板には無いキャプスタンやライディング・ビット等の位置がわかります。

2010年の初めの頃だったと思いますが、ハセガワの1/350三笠のキットを組み立てて改造を施した模型が高額な値段で売り出されたことがありました。高額な理由が「最新の考証」を盛り込んだため、ということでしたが、その考証の一つに「三笠には錨鎖導板は無かった」という主張があり、びっくりしました。その模型では錨鎖導板の部分に木甲板の色を塗ってありました。加えて「明治30年代に完成した戦艦・巡洋艦のほぼ全てが錨鎖導板を敷いていない」という意味の説明もありました。
さすがにこれは間違いです。
念のため、当時の戦艦・巡洋艦の写真をチェックしてみましたが、ほぼ全ての艦に錨鎖導板が敷かれているように見えます。
ただ一つの例外は、巡洋艦らしき前部甲板の写真で、確かに錨鎖導板が無く全て木甲板となっています。
ただし、その艦には錨鎖も錨もありませんでした。岸壁に係留され訓練艦となった姿だったからです。

三笠の後部の考証その2

みかさaft_work2

三笠と思われる艦の後甲板です。
軍楽隊が演奏を行い、両舷では舷梯の上げ/降ろしの作業が行われています。
ハッチが開いた状態やスカイライトの形状、ライディング・ビットに取り付けられた通風用の雁首など、平時の艦上の生活がわかります。

三笠の前部の考証その2:錨

三笠の錨とそれを扱う艤装品は記念艦で見ることが出来ます。

anchorbed
記念艦三笠の左舷艦首の錨

三笠には艦首に錨を載せておく場所(アンカーベッド)があります。
写真に示したように、錨の軸の部分、ちょうど錨の重心の位置にグラビティ・バンド(Gravity band) という金具が取り付けてあります。この Gravity band にキャットチェインあるいはグラウンドチェイン(ground chain)と呼ばれるチェインが繋がれていて、そのキャットチェインをアンカーダビットに付いている2つの滑車を経由してキャプスタンで巻き取る事によって、錨を吊り上げます。
吊り上げられた錨はアンカーベッド上の2本の梁の上に載せられます。錨が滑り落ちないように、錨の軸の周囲に2本のチェインを回して、それらのチェインの先端の輪を Tumbler と呼ばれる装置に引っかけることによって、錨を固定します。
この Tumbler は錨を滑り落とすための簡単な構造をした装置です。
下の写真の Tumbler では、鉄の軸の上に出っ張りが2箇所あって、その出っ張りに錨を固定するチェインが引っかけてあります。この軸の中央には逆L字状の棒がくっついていて、その棒の先は、一部を切り欠いた中空のシリンダーの中に入っています。写真のようにシリンダーの欠けた部分が下を向いていて、シリンダーの中に棒が収まっている間は、錨を固定しているチェインは緩むことがありません。
錨を海に落とすには、下のような方法をとります。
  1. 黄色の矢印のようにシリンダーに付いている梃子を回すと、シリンダーも青い矢印のようにほぼ半回転して、シリンダーの欠けた部分が上を向きます。
  2. シリンダーの欠けた部分から逆L字状の棒が抜けて、軸全体が海側に回転します。
  3. 軸に付いている出っ張りからチェインが外れて錨は解放され、海に滑り落ちます。
アンカーのリリース
記念艦三笠の左舷の錨を上からみたところ

また、竣工直前の三笠の写真を見ると、錨のGravity band に繋がるキャットチェインはケーブル(錨鎖)に沿って引き回されていました。

なお、海戦前の準備として以下の作業が指定されていました。
  1. 停泊地を離れた後、アンカーダビットを倒す。
  2. 錨鎖をアンベンド(錨から錨鎖を外す)する。
  3. 錨を十分にアンカーベッドに固縛する。
  4. 錨鎖はそのまま舷側に沿ってストップしておき、必要な時にはすぐにベンド(錨に錨鎖を付ける)できるように準備する。
日本海海戦時の状態として(いくつかの絵画に描かれているように)アンカーダビットを甲板上に倒していたのか、あるいは石炭搭載時の写真にあるようにアンカーの上に覆い被さるように倒していたのかはまだ判っていません。
記事検索
プロフィール

studio120

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ