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村田高詩HISTORY、始めます。

第1話は北海道編。


*写真は上京したばかりの頃。20代前半。



私の父、村田高詩は北海道は滝川で生まれ岩見沢で育った。

未熟児で生まれ、体はあまり強くなかったものの手先が器用で、雪で二階建ての城を作ったり、柳の枝で弓や木刀を作っては友だちに配るような少年であった。

まだ小学校に上がる前のこと。

仲良くしていた向かいのお家の倉庫の中から幼い父は画集を見つける。

それは西洋の名画集だった。

「こんなのが描けたらいいなあ、って思ったんだ」


それからはチラシの裏にマンガから写実画まで何でも描いた。

美術の時間だけ、人気者だった。


土器や石器を拾い集めるのも好きだった。

「春になって畑を耕すとな、いっぱい出てくるんだよ。」

時折、珍しい石も見つけた。

「変な石拾ってな。調べたら『タカシコゾウ』って名前で。小学校の校庭から出てきた。」


( *夢かな…?と疑いましたが、本当でした。

高師小僧=土中で生成される褐鉄鉱の固まり。代表的なのは愛知県豊橋市ですが、北海道からも出ています。下手したら天然記念物。)


決して裕福な家庭ではなかった。

母親の希望で農業高校に進み、国鉄に就職した。

当時の国鉄職員は公務員であり、安定していたが仕事は厳しかった。

とりわけ、狭い足場を飛び移り、列車を連結する作業は危険で、運動神経のあまり良くない父にとっては心底恐ろしかったという。


そんな国鉄時代も、父は絵を描き続けていた。

駅前に古本屋があり、「美術手帖」を読み漁った。

美術の中心は東京だった。

東京に行きたい、現代美術がやりたい、と思った。


当時高校職員で、札幌で頻繁に個展を開いていた、「タムラヒロシ」さんという人がいた。

( * 2005年に亡くなられた画家であり彫刻家の田村宏さんのことだと思われる。戦後の北海道美術の歴史を画する前衛グループ展の多くに参画しておられたという。)


「タムラさんに、『絵を見てください』ってな、絵、描いて見せに行ったんだよ。札幌に。」

「そしたら『全道展に出してみたら?』って言われて…その頃は画材が高くて買えないからさ、ベニヤにペンキで描いてたんだよ。

だけど全道展出すのにベニヤにペンキって訳にいかないから、油絵の道具を初めて買って、ペンキの絵を描きなおしたんだけど、上手くいかなくてな。

締め切りに間に合わないし焦って、仕方ないからその時描いてた50号の絵、まだ乾いてないのを二枚合わせて、剥がして、ちょっと直して出したら入選しちゃった。国鉄入ってすぐの頃だな。」 


当時札幌には「しの(字は不明)」という有名なジャズ喫茶があり、そこで何度か個展を開いた。

「(しのの)ママがカッコよくてな。いっつもスケッチブック持って行って、絵、描きながらコーヒー飲んで帰って来てた」


長男である父は、祖父母の希望通り国鉄に就職したものの、ずっと勤め続けるつもりはなかった。

「3年間、国鉄に勤めている間に絵の勉強をして、お金貯めて東京に出る」

それが父の計画だった。

三年経ったがお金は貯まらなかった。

画材が高いし、絵を描いて個展やってたらお金なんてちっとも貯まらない。

でも、もう限界だった。

東京に出たい思いも、列車から列車に飛び移る恐怖も。

「もういいや、貯まったことにしよう、と思って」

父は東京行きを決めた。


1960年代に、北海道の貧しい家庭の長男が公務員の座を捨てて、現代美術を志して東京に出る。


祖父は意外にも反対しなかった。

NHKの集金人だった祖父は、職業柄バイクの振動で胃をやられ、定期的に入院していた。

「入院すると、親父、絵ばっか描いてたんだよ。親父も本当は何かやりたかったんじゃないかな」


祖母は父が幼い頃に結核の治療薬、ストレプトマイシンの副作用により聴力を失っている。

父は決意の程を手紙を書いて祖母に渡し、国鉄の仕事に出た。

帰宅すると、「絶対ダメ!」と言われた。

一年近くかけてこれを四回繰り返したところで祖母も諦めた。


そうして三年勤めた国鉄を辞め、布団一式と画材と、僅かな衣服と共に汽車に乗り、父は上京した。


つづく。