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『リゾーム』抜粋

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『リゾーム』抜粋

ドゥルーズ=ガタリの『リゾーム』原文抜粋

『リゾーム』は1968年にドゥルーズ=ガタリによって出版され、後に『千のプラトー』の序文として再録された。わたしの生き方を根本的に変えた一冊だ。ここではその抜粋を紹介する。

「人がもはやわたしと言わない地点に到達するのではなく、わたしというか言わないかがもはやまったく重要ではない地点に到達することだ。

1°および2°―連結と非等質性の原理

リゾームはどんな一点も他のどんな一点とでも接合されうるし、接合されるべきものである。これは一つの点、一つの秩序を固定する樹木ないし根とは大変に違うところだ。

3°―多様体の原理

多様体には主体も客体もなく、たださまざまな限定や、大きさや、次元があるだけだ。アレンジメントとはまさに、連結の数を増すに従って必然的に性質を変える多様体において、諸次元が成長することなのである。リゾームには、構造、樹木、根などにおいて見出されるような点ないし位置といったものはない。線があるだけなのだ。

°―非意味的切断の原理

リゾームは任意の一点で切れたり折れたりしてもかまわない。それ自身のしかじかの線や別の線にしたがってまた育ってくるのだ。常に切断しながらリゾームを追うこと、逃走線を伸ばし、延長し、中継すること、それをさまざまに変化させること、n次元をそなえ、方向の折れ曲がった、およそ最も抽象的で最もねじれた線を生み出すに至るまで、脱領土化された流れを結び合わせること。

5°および6°―地図作成法および複写術の原理

樹木の論理はすべて複写と複製の原理である。リゾームはこれとはまったく異なるもので、地図であって複写ではない。複写ではなく地図を作ること。地図は開かれたものであり、そのあらゆる次元において接続可能なもの、分解可能なものであり、たえず変更を受け入れることが可能なものである。

たぶんリゾームのいちばん重要な性質の一つは、つねに多数の入り口を持つということだ。

リゾームのうちにも樹木や根の構造が存在する。けれどもまた反対に樹木の枝や根の一片がリゾームとして発芽しはじめることもありうるのだ。

リゾーム状になるということは、根のように見える茎や繊条を産み出すこと、いやそれよりも幹に侵入してそれらの根と連結され、それらを奇妙で新たな用途に役立てることも辞さない茎や繊条を産み出すということである。われわれは樹木に倦み疲れている。われわれはもはや樹木や根を、また側根をも信じるべきではない。地下茎と空中根、雑草とリゾームの他には、何一つとして美しいもの、愛にあふれたもの、政治的なものなどない。

頭の中の一本の木

多くの人の頭には、一本の樹木が植わっているが、脳そのものは樹木であるよりもはるかに草である。短い記憶はリゾームタイプ、ダイヤグラム・タイプであるのに対し、長い記憶は樹木状であり、中心化されている。

樹木状システムは序列的システムであって、意味性と主体化の中心、組織された記憶、そしてまた中心的自動装置を含んでいるものである。

非中心化システム

こうした中心化システムに、著者たちは非中心化システム、完結した自動装置の網目を対立させる。中心ー非中心という対立は、それが指し示す事物によってではなく、それが事物に適用する計算法によって価値があると。樹木はリゾームに相当することがありうるし、逆にリゾームとして発芽することもありうる。

問題は無意識を生産すること、そして無意識とともに、あらたな言表、あらたな欲望を産出することなのだ。―リゾームはこのような無意識の生産そのものである。

奇妙なことだ。どんなに樹木は西欧の現実と西欧の全思考を支配してきたことか。植物学から、生物学まで、解剖学、さらにまた認識形而上学、神学、存在論、全哲学を・・・―基礎ー根、Grund, roots, そしてfundations. 超越、これはヨーロッパ固有の病だ。われわれはリゾームあるいは草を失ってしまった。

リゾームもまた固有の専制主義、固有の序列、それらの最も厳しい形を持っていることさえ示さねばならぬとしたら。その通り、なぜなら二元論などないからだ。重要なのは、樹木―根とリゾームー水路とが二つのモデルとして対立するのではないということだ。問題は耐えず高く伸び、深く潜ることをやめないモデルであり、そして絶えず伸長し、中断してはまた再生することをやめない過程なのである。

われわれは二元論を作ろうと欲したわけでなく、それを通過するのにすぎない。もろもろの二元論を解体する頭脳的訂正装置を持たねばならない。われわれみんなが求めている<多元論>=<一元論>という魔術的等式に、敵であるすべての二元論を経由して到達すること。

リゾームの特性

リゾームの主要な特性を要約してみよう―樹木やその根とは違って、リゾームは任意の一点を他の任意の一点に連結する。リゾームは反系譜学である。それは短い記憶、あるいは反記憶である。リゾームはヴェリエーション、拡張、制服、捕獲、刺しこみによって進行する。リゾームは産出され構築されるべき地図、つねに分離可能、連結可能、反転可能、変更可能で、多数の入口、出口をそなえ、さまざまな逃走線を含む地図になぞらえられる。

リゾームは、序列的でなく意味形成的でない非中心化システム、<将軍>も、組織化する記憶や中心的自動装置もなく、ただ諸状態の交通によってのみ定義されるシステムなのである。リゾームにおいて問題になるのは、ありとあらゆる「生成変化」である。

リゾームとプラトー

プラトー(高原・台地)はつねに真ん中にある。はじめでも終わりでもない。リゾームは諸々のプラトーからなっている。一つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてをわれわれはプラトーと呼ぶ。

 

真ん中で速度を増す流れ

nで、nマイナス1で書くこと、スローガンで書くこと、―リゾームになり根にななるな、決して種を植えるな!蒔くな、突き刺せ!一にも多にもなるな、多様体であれ!あなたのうちに将軍をめざめさせるな!

リゾームには始まりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲なのだ。中間とは決して中庸ということではなく、逆に事物が速度を増す場所なのだ。始めも終わりもなく、両岸を侵食し、真ん中で速度を増す流れなのだ。」

(『千のプラトー』 ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ 1980)

世界をリゾームに変えていく

世界をリゾームに変えていく

ノマド=リゾーム=プラトーへ

南極コケなどChorisodontiumaciphyllumは一世紀に数センチという速度でゆっくりと成長する。冷凍仮死状態で過ごした500年の後に復活してきた。

これがプラトーだ

驚いたことに、長年探していた、これがプラトーだ! というイメージに不意に出会った。(上図)

「リゾームとプラトー

序列や中心を持つシステムに対立して、リゾームは序列的でなく、意味形成的でない非中心化システム、<将軍>も組織化する記憶や中心的自動装置もなく、ただ諸状態の交通によって定義されるシステムなのである。

ひとつのリゾームを作り拡張しようとして、見えない地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてをわれわれはプラトーと呼ぶ。

千のプラトーを創れ!」(『千のプラトー』 ドゥルーズ=ガタリ)

しかもそれは共振塾で塾生が生み出し続けているヒューマン・マウンテンやボックス・ボディなどのコーボディとそっくり同じ形状をもっていた。

いのちの深淵はリゾームであり、プラトーなのだから当然のことなのかもしれない。どんないのちも息苦しい階層秩序ではなくリゾームになりたいと願っている。

ノマド=リゾーム=プラトーこの3つがひとつになったとき、世界は変るだろう。誤解しないでもらいたいが、なにも烏合の衆になろうというのではない。狼は一匹でもすでにリゾームである。無数の境界をたったひとりで突破し、ほかの多様体と連結するワームホールを掘るものはひとりですでに、ノマド=リゾーム=プラトーという多様体なのだ。

 

ノマドリゾームという生き方

ノマド=リゾームという新しい生き方

共振塾では、これまでにノマド劇場という、場所を随時に移動しながら、サブボディ=コーボディの実験を続けてきた。これまではヒマラヤ周辺にとどまっていたが、ようやく世界中に拡がるときがきた。共振塾の学期が終了したあと、多くの塾生が世界各地に拡がり様々な活動をして、多くのコネクションやルートを開拓しプラト―を形成している。ノマド=リゾーム=プラトーの実験だ。幾つものフレキシブルなグループが、ノマドリゾームとして世界を渡り歩き、連結によってプラトーに盛り上がる。離合集散が自在なのがリゾームの特徴だ。行く先々で古い塾生やそのグループが合流し、瞬間的に共振して、また面々が分離していく。現在の個人主義的な傾向が浸潤した世界では、群れに対する無意識的な忌避感が深くわたしたちを捉えている。群れに関わるとそれに食べられ、自分をなくしてしまうのではないかというおびえがある。それは現代の世界に貧しい群れしかないからだ。群れになると画一的な立ち居振る舞いを強いられるという体験をみんながしている。そして、その忌避感の空隙に国家という幻想の共同性が忍び込み疎外された幻想の共同性を打ち立てている。孤立した個は、それに対してなずすべもない。

そうではなく、限りなく豊かな多様性と創造性を保った豊かな群れのあり方を発明する。それがノマド=リゾームだ。それはどんな共同の幻想も持たない。出自にとらわれず、出入り自由、連結・分離いつでも自在。出会い頭に共振によってあらゆる形に変容する。

そういう群れだけが国家のヒエラルヒーを無化していく。国家なき未来社会の萌芽形態なのだ。リゾームは集団に依存せず、自立して行動し、率先し、共振し、自在に連結し、分離する個でも群れでもない多数多様な変容体である。誰の中にもリゾームの種があり、芽がある。群れの中心になると自分でなくなりそうで、かつ群れから離れると生きていけない不安にとらわれる。それは生命にとって原生的な祖型情動である。そういう群れと孤立の間で震えているかすかなかすかなおびえをさぐれ。そこが、サブボディとコーボディの秘密の坑口だ。

リゾームになれ。たったひとつの秘密になれ! 無限変容体として、あらゆる国境を超えていこう。

得体の知れないリゾームになる

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得体の知れないリゾームになる

自分の中の思い出せないものに耳を澄まし続ける。そして同時にからだをあらゆる方向から誰かに動かされるに任せる。24時間瞑動し続け、日常ではあり得ない形を探り続ける。この2つを続けていると、かならず、あるからだのかたちや動きと、思い出せない記憶が不意に結びつく瞬間がある。それを見つけ自分のサブボディとしてからだに書き込む。この作業をとにかく続けることが大事だ。続けてさえいれば、三月もしないうちに 30分や一時間のソロはひとりでに出来上がる。その動きは大概奇妙な動きや形からなる。それと結びつく忘れていた記憶も、大概は奇妙な、薄暗い、うまく説明できないクオリアに満ちている。それらを意味や脈絡なく結びつけ、寄せ集めることで、自分でもよくわからない得体の知れないものになる。それがサブボディだ。ひとつのクオリアに結びつく動きが終わりかけると、つぎのサブボディの動きにつながっていく。こうして次から次へと奇妙な序破急の展開が生まれる。群れで踊るときはさらに自分のサブボディが他の人のサブボディと共振してコーボディになる。誰かの動きがからだに入ってきて、そのまま別の誰かにつながっていく。自由に連結し、自在に分離するリゾームになる。ときに思いもかけないところに跳んで行くこともある。予想もしなかった世界がひらけてくることもある。まったく構わない。意識で説明できるストーリーなどをつけてしまうと、とたんに意識的な意味が浮き上がってつまらなくなる。むちゃくちゃがいい。カオスがいい。得体の知れない見たこともないものにだけいのちは動かされる。観客に頭で納得されたら終わりだ。絶えず期待を裏切り続け、自分さえ驚かせ続けること。これがじょじょに透明になってきた生命共振舞踏の極意だ。

 

得体の知れないリゾームになる

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得体の知れないリゾームになる

自分の中の思い出せないものに耳を澄まし続ける。そして同時にからだをあらゆる方向から誰かに動かされるに任せる。24時間瞑動し続け、日常ではあり得ない形を探り続ける。この2つを続けていると、かならず、あるからだのかたちや動きと、思い出せない記憶が不意に結びつく瞬間がある。それを見つけ自分のサブボディとしてからだに書き込む。この作業をとにかく続けることが大事だ。続けてさえいれば、三月もしないうちに 30分や一時間のソロはひとりでに出来上がる。その動きは大概奇妙な動きや形からなる。それと結びつく忘れていた記憶も、大概は奇妙な、薄暗い、うまく説明できないクオリアに満ちている。それらを意味や脈絡なく結びつけ、寄せ集めることで、自分でもよくわからない得体の知れないものになる。それがサブボディだ。ひとつのクオリアに結びつく動きが終わりかけると、つぎのサブボディの動きにつながっていく。こうして次から次へと奇妙な序破急の展開が生まれる。群れで踊るときはさらに自分のサブボディが他の人のサブボディと共振してコーボディになる。誰かの動きがからだに入ってきて、そのまま別の誰かにつながっていく。自由に連結し、自在に分離するリゾームになる。ときに思いもかけないところに跳んで行くこともある。予想もしなかった世界がひらけてくることもある。まったく構わない。意識で説明できるストーリーなどをつけてしまうと、とたんに意識的な意味が浮き上がってつまらなくなる。むちゃくちゃがいい。カオスがいい。得体の知れない見たこともないものにだけいのちは動かされる。観客に頭で納得されたら終わりだ。絶えず期待を裏切り続け、自分さえ驚かせ続けること。これがじょじょに透明になってきた生命共振舞踏の極意だ。

 

得体の知れないリゾームになる

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得体の知れないリゾームになる

自分の中の思い出せないものに耳を澄まし続ける。そして同時にからだをあらゆる方向から誰かに動かされるに任せる。24時間瞑動し続け、日常ではあり得ない形を探り続ける。この2つを続けていると、かならず、あるからだのかたちや動きと、思い出せない記憶が不意に結びつく瞬間がある。それを見つけ自分のサブボディとしてからだに書き込む。この作業をとにかく続けることが大事だ。続けてさえいれば、三月もしないうちに 30分や一時間のソロはひとりでに出来上がる。その動きは大概奇妙な動きや形からなる。それと結びつく忘れていた記憶も、大概は奇妙な、薄暗い、うまく説明できないクオリアに満ちている。それらを意味や脈絡なく結びつけ、寄せ集めることで、自分でもよくわからない得体の知れないものになる。それがサブボディだ。ひとつのクオリアに結びつく動きが終わりかけると、つぎのサブボディの動きにつながっていく。こうして次から次へと奇妙な序破急の展開が生まれる。群れで踊るときはさらに自分のサブボディが他の人のサブボディと共振してコーボディになる。誰かの動きがからだに入ってきて、そのまま別の誰かにつながっていく。自由に連結し、自在に分離するリゾームになる。ときに思いもかけないところに跳んで行くこともある。予想もしなかった世界がひらけてくることもある。まったく構わない。意識で説明できるストーリーなどをつけてしまうと、とたんに意識的な意味が浮き上がってつまらなくなる。むちゃくちゃがいい。カオスがいい。得体の知れない見たこともないものにだけいのちは動かされる。観客に頭で納得されたら終わりだ。絶えず期待を裏切り続け、自分さえ驚かせ続けること。これがじょじょに透明になってきた生命共振舞踏の極意だ。

 

生命共振としてのクオリア

 粘菌先生たち

生命共振としてのクオリア

この書で<クオリア>というとき、それはわたしたち人間の意識のみならず、100 兆個の細胞のすべてが感じている、<生命共振としてのクオリア>を意味する。人間だけではなくバクテリアやアメーバのような原始的な生き物のいのちも、クオリアを感じ生存のために活用している。クオリアは細胞のいのちにとって、生きるためのメインツールなのだ。

このことに気づかせてくれたのは、わたしにとってのいのちの教師「粘菌先生」たちだ。2000 年にインドに移住したとき、わたしは故郷・和歌山の南方熊楠博物館を訪れ、そこに展示してあった「キイロタマホコリカビ」のシャーレを一つ分けてもらい、こっそりヒマラヤで観察を続けた。毎夜毎夜、粘菌を眺めて暮らした。餌になる米粉小麦粉などをシャーレに入れると、一晩の間に粘菌は見事な新しい地図を創る。

 粘菌先生の毎日の創造

その動きは、当時発見されたばかりの大脳の海馬で生まれた新生神経細胞が、脳内の栄養物質に共振して脳内にネットワーク網を伸ばしていく動きとそっくりだった。粘菌も大脳神経細胞もどちらも生命細胞であり、<栄養素クオリア>を求めて日々さまよっているのだ。わたしは粘菌先生から、細胞のいのちがどのようにクオリアと共振して活動しているかを目のあたりに学んだ。クオリアとは何か、という問いは、いのちとは何かという問いと同じだけ深い。

 

 

共振リゾームの輝き

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共振リゾームの輝き

共振リゾームを踊るいのちには、人類が5000年間束縛されてきたツリーシステムの束縛から解放された深い喜びと美しさがにじみ出る。自我や国家や宗教や企業などの階層秩序がどれほどいのちの共振性と固有性と創造性を阻害し続けてきたか。そしてその束縛を断ったいのちがいかに歓びに満ちて輝いているか。スペインのヒマラヤ山中でのはじめての共振リゾームの実験の中で、誰かが急流を滑り出した。みんながその面白さに飛び込んでいった。<共振リゾーム>を体験したひとは、そのなかでだれもがとびきりのいのちの輝きを見せていることに気づく。そして一生忘れない。この気づきを少しずつ世界に広げていく。未来はこのいのちの道の先に開かれるにちがいない。

 

脱領土化瞑動

脱領土化のとてつもない力

<脱領土化>技法はこれまでに体験したことのない自由を心身にもたらす。

自分のからだの各部が、勝手に自我の領土を離れ、別のものになる。あるいは外から異なるクオリアがからだの何処かに忍びこむ。この二つの現象は、主客のない共振として捉えれば同じことだ。それを共振リサーチのしかたで、全員が短い時間を固有の脱領土化のクオリアでガイドする。20秒、10秒、5秒と時間を切り詰めていくと、だんだん目まぐるしくクオリアが変わっていく。 それを全員が思い切り楽しむ。みんな自我の軛から離れると、面白いように想像力が飛び立つことを楽しめる。共振塾史上稀に見る創造力の爆発が起こった。ときどきこういうとびきりのことが起こるから、やめられない。

 

リゾーム共創のメタスキル

メタスキルとは、言葉で明言できないが、暗黙のうちに共有している共存在としてのあり方、いのちの態度のようなものだ。

1.いつも全員が全体の序破急を共創する上で、いつ、どこで、どんなクオリアをどうシェアするのが最善かからだで探りつづける。

2.自分であるか、ないかがどうでも良くなるところまで行く。自分で見つけたら率先ガイドし、他の人が見つけたらそれに最適のしかた(距離、タイミングの間、合わせ離れ)で共振し促進する。

3.最初の率先者、二番目の促進者、それ以外の追随者のどれをやるときも、同時に自分の秘密と謎を‘探求し続ける。

4.全体の序破急共創を忘れて、自分のクオリアにかまけすぎない。短く深く踊って、次のクオリアにジャンプする。

5.これらすべてを会得すると、栄えある未来の共振リゾームに生成変化することができる。

 

キメラ多様体になる

キメラへ。

ツリーを脱いでキメラ状のリゾームへ!

からだが幾千もの微細な部分に細分化される。そして、それぞれの部分が多数多彩な異次元と共振しながら、Xによる還元と再生によって、勝手にリゾーミング変成を始める。X還元と、幾層もの秘膜・秘液・秘腔・秘関・秘筋の、キメラ状のリゾーミングが混濁一体化するまで。だれにも捉えることのできないたった一つの秘密になるまで。

「10 (メスカリン)

  手の恋愛と頭蓋のなかの模写は断絶してつながっている。 指さきの尖たんにメスカリン注射がうたれる。そこには小さな花や小さな顔が生まれる。

  細い細い糸のあみ物、無窮道のあみの目、 炎を吐く鳥とこっけいな熊が、ゆらゆらと狂王に従う。そのさなかに頭部がいまひとつのゆくえを追っているのだ。

  全てのマチエールは背後によってささえられている。 複眼と重層化は混濁し一体のものとなる

11 (キメラ)

ベルメール―こっけいな熊へ―馬の顔へ

鹿の視線から―棒へ―乞喰へ―虎

 鼻毛の鳥―花―狂王へ―複眼―ゆくえ

虫―犬へ―オランウータン―福助の耳へ

耳がつつかれる―目まい―鏡の表裏へ

複眼のなかでいき絶えているもの

 人形―仮面―パパイヤ―ほたる―板の展開

  小さな花等がある

馬の顔―少女の顔―犬―スプーン

虫と木の合体―背後へ―ふいに植物の軌跡で展開をはかるものへ

共振リゾーム

600-11

車椅子舞踏 ハンガリー(2015-2019)

共振リゾーム

<共振リゾーム>とは何か

ここでしか言えないけれど、今世紀で一番重要な問題はね、だれがどうして世界を変える方法を発明するかってことなんだ。

<共振リゾーム>はそのための仮説の一つにほかならない。方向も座標もないからだの闇を手探りで掘りつづけて、やっと<共振リゾーム>という新しい道が開かれるところまで来た。40代で舞踏家として踊り始める前も、ずいぶん若い頃からわたしはからだの闇の底知れぬ謎と秘密に向き合い、掘り続けていた。<共振リゾーム>と<生命の舞踏>は、いよいよそれらすべての生きるためのあがきを統合することのできる道だ。

とりわけ、性の闇、関係の闇、世界という闇のすべてと格闘することのできる道だ。<共振リゾーム>は善悪・正誤・良否の二元判断から解放されたいのちの踊りを可能にするものである。きっかけはハンガリーで各種の障害を持つ人々と踊る車椅子舞踏だった。終わった後、参加者の一人が言った。「今の社会ではわたしたちは邪魔者か、手助けの対象として扱われている。このワークショップの中で、はじめてそんな障壁のない世界を経験した。」そうだ。わたしたちはこの世界からあらゆる障壁が消えるまで踊り続けるだろう。

 

未来の人間への道

共振リゾームは、単に踊りのあり方にとどまらない。それは現代の階層秩序に管理されたツリーの束縛からいのちを解放し、未来の人間の共振性と創造性に満ちた<共振リゾーム>という生き方への転換につながる。

 

<共振リゾゾーム>はなぜ面白いのか

いのちはほんとうにやりたいことをしているときにだけ、輝きを発揮する。

いのちに耳を澄まし、そのかすかな傾性に従うこと。いのちは、監督や振付家、教師などの階層秩序に支えられた権力や、経済的・政治的な事情などに強いられることを好まない。いのちはそれらの外的な力だけでなく、内側から駆り立ててくる自我や自己の衝動などに引きづられることも好かない。自我は、現代における最大最強の元型である。わたしたちはたえず、どのようにして脱自し、自我の囚われからみずからのいのちを解放するか、瞬間ごとに気を配り続ける必要がある。

いのちは、それら内外の力のどちらにも囚われず、透明になることによってはじめて、その無限の創造性、固有性、共振性を発揮することができる。

この十数年間の試行錯誤の中から見つかった<共振リゾーム>は、それを実現するもっとも理想的な方法のひとつだ。<共振リゾーム>は、ただ生命共振をつうじてすべてを共創する仕組みだ。そこには固定された指導者やリーダーはいない。中心も上下もない。わたしたちはひとりひとりが狼のようにたった一人でも生き延び、創造し、自由に連結し、柔軟に分離することができるリゾームになる。群れの中の誰かが、固定した役割なしに、ときに率先し、ときに促進し、ときに従うという、柔軟な役割転換をこなすことによって共創する。とてもかんたんな仕組みでいのちの無限の創造性を開くことができる。

リゾーム=ツリー

リゾーム=ツリー

リゾーム⇔ツリー自在往還

リゾーム⇔ツリー自在往還とは、下意識と意識、非二元のクオリアと、二元的な言語や情報をうまくつなごうとするものだ。下意識の世界は多次元変容流動で、常にリゾーム状に変転している。これに対し、意識の世界はツリー状(階層秩序状)に構築され分別界で動いている。このまったく異なる二つの特性をうまく使ってからだの闇に降りる。

初期の頃わたしは、リゾームとツリー、クオリアと言語の二元論的な対立に囚われていたが、二元論などどこにもない。

クオリアと言語の中間の<クオリア言語>の発見が、二元論への囚われから解放してくれた(第7章「<クオリア言語>の発見)参照)。

 

リゾームとツリーの、両世界を自由に行き来する

クオリアと言葉の関連を透明に見る

クオリアと言葉には大きな違いがある。クオリアはいのちの共振であり、共振には主体も客体もなく、どちらからともなく起こる。言葉は頭の中で起こっている無限のクオリア変容を基礎に生まれる。

最初はあるクオリア群に特定の<ラベル>が結びつき、牛とか森とかの基本的な概念を表す<クオリア言語>が生まれる。下意識の脳内ではその<クオリア言語>が別の<クオリア言語>と共振し、と、と、と、というアンドで結びついて変容流動していく<クオリア思考>が起こっている。

それを日常言語の文法で整理し理性的な文章にする前に、からだの動きと、その原始的な<クオリア言語>でお互いの出会ったクオリアの変容流動をシェアするのが<クオリアシェア>だ。文法など無視して、クオリア思考のまま喋りシェアする。主語がすり替わったり、場面が突然変わるのもお構いなしでいい。そのクオリア思考は誰の脳にも起こっているものなので、からだの動きは容易にそれに付いていくことができる。<クオリア思考>は非二元多次元世界で共振しているので、前も後ろもない。上も下もない。階層秩序などまったく持たない。あるクオリアはいつでも流れから離れ、他の何とでも連結共振して一つになることができる。部分がいつでも全体になり、一つの全体がいつでもほかの何かの部分に繰り込まれることもある。クオリアには全体と部分、群れと個の違いもない。クオリアはそれらの制約を安安と飛び越えて自由に変容する。<クオリアシェア>によって互いの<クオリア思考>に共振できることの発見が大革命だった。

誰もが下意識の変幻自在なリゾーム=クオリアの世界と、言語意識のツリー世界とを自在に行き来できる二重の旅人になることができるようになった。サブボディ=コーボディのいのちに至るまでの苦難を共有しながら、いままでにないリゾーム共同体に近づいていくことが可能になった。

自他の壁を超えて

長い間言葉にすることはできなかったが、わたしが共有したいのは、わたしたちが囚われている自他の壁を超えて、 <他者を本当にわがこととして感じられるようになるにはどうすればいいか>という見果てぬ夢のような課題であった。だが、とうとう<クオリアシェア>によって実践的にそれに近づいていくことができるようになった。この課題は、現在の世界を未来の目から見る<未来からの目>からやってきた。わたしはそれをを埴谷雄高から学んだ。すべての問題が解決された未来社会から現在を見ることによって、何が問題になっているのかが透明になる。解くべき問題は自我であり、国家であり、二元論的な拘束である。 日常生活の目では、それを見透すことができない。だが、<サブボディ=コーボディ>や、<ドリーミングシェア>や<共振リゾーム>の実践を続けていけば次第に、次は何かが見えてくる。個人神話と世界神話の絡み合いの共創を通じて、全体としてどういう世界を生み出したいのか。どこへ行きたいのか? 次の課題がじょじょに透明に浮き出してくるだろう。だが、当面はただカオスでいい。リゾームのカオスがより集まり、うねり、高まり、プラトーとなってどこかへ動いていく。それだけでいい。それだけですでに何かの始まりなのだ


いのちになる。リゾームになる。

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いのちになる。リゾームになる。

わたしたちは、自分が人間であると思いこむことによって、もろもろの人間的錯覚に囚われる。 近代社会では、強いものが良く、弱いものは悪い、健康が善で病気は悪、 健康が美しく、障害は醜い。それらの錯覚はまた、上と下、中心と周縁をもつ二元論的な階層秩序のツリーシステムに囚われている。だが、そんな幻想はただただ近代数世紀の人間が創り出して自ら囚われ苦しんでいる幻想にすぎない。 日常的な思考を鎮め、からだに耳を澄ませば、そんな錯覚は消え去る。からだじゅうにある100兆個の細胞は、みな40億年間の生命史のなかで蓄えてきた生命共振クオリアによって地球上のあらゆる生命と共振している。そう。ただ共振しているのだ。 生命共振には健康者と障害者、人種や文化の違いをわかつ境界はない。それどころか、人間と他の生命を分かつ境界さえない。すべてのいのちが苦しみ、喜び、ただただ分け隔てなく共振している。いのちになれば自分と他者という人間的境界も消える。サブボディはそのまま共振するコーボディとなる。これこそあるがままのいのちの姿である。いのちにはツリー状の階層秩序などない。リゾームはいのちのあるがままの原初だ。未来社会の萌芽形態である。いや、ただいのちのあるがままのあり様を回復するだけだ。わたしはいつか地球上に生命共振があふれる日が来ると信じている。


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