2005年12月21日

賞与、誤解そして夢想3

サガミオリジナル002
 やった。今日は、賞与、棒茄子(ボーナス)の日なのであった。
 ずっとそんなものが出ないところで働いていたから、まだ生涯5度目ぐらいのボーナス。
 でも、なんて心地良い響きであろうか、ボーナス。
 ぼく自ら賞与計算、振込処理をしたから金額的にはそんなに驚きはないんだけど、実際に入金されているのを目の当たりにすると、やっぱり全然違う。実感として違う。そして、実感を味わいたくて、仕事後、帰宅途中に郵便局に行って、一度全額引き落としてみた。傍に誰もいなかったから、バサバサやったり、お札で頬をパシパシ叩いたり、親指と人指し指の間に挟んで厚さを確かめたりした(もちろん、「厚さ」と言うほど厚くはない)。そして、家賃と、銀行口座に入れておく分と、さっそく明日払いに行こうと思い、社会保険料や奨学金、そして住民税の未納・滞納分を差し引いて、また郵便口座に戻したら、残高が一気に半分ぐらいになった。
 ありがとう、仕事。ごくろうさま、自分。

 昨日(というか今朝)、内田(樹)さんのことについて書いてから、彼の本を読みたくなってヒバリヤ書店に寄って、とりあえず新刊『知に働けば蔵が建つ』をパラパラとめくってみた。
 その本は、彼のblogで書かれたことをまとめたものらしいのだけど、そうしたら、また加藤典洋について書かれている箇所がたまたま目に留まった。その内容は、帰宅してから検索してみると、どうやら5月27日の記事(に加筆したもの)らしいとわかった。
 加藤の近著『僕が批評家になったわけ』での後半は、加藤が内田さんのことを「優れた」「新しい批評」家だと述べているのだけど、そのことについて、内田さんは返答しているのだけど、そこでぼくが気になったのは、その箇所はblogの記事には書かれていないようなのだが、要はその加藤の賛美に内田さんは謙遜して(?)「私は“プロ”の批評家ではありません。“アマチュア”の書き手であり、“アマチュア”の武術家であり、“アマチュア”の学者であり、“アマチュア”のサラリーマンである」と書いていた。
 そのとき、ぼくはたいそう驚いた。だって、その物言いというのは、ここのところ書いてきた岡田斗司夫プチクリ』での岡田さんの主張と、ほぼ同一なのである。
 加藤は『僕が批評家になったわけ』のなかで、内田さんの私的(現場、あるいはぼくの言い方では生活実感)なことばで語るアレコレを「新しい批評」の仕方の誕生として賛美しているし、そして、その賛美された内田さんは応答として「私は“アマチュア”だから」と述べている。それを岡田さんの主張に照らし合わせてみれば、内田さんも「プチクリ」だということになる。
 ただし、ぼくが一昨日の日手紙で岡田斗司夫『プチクリ』について問題視あるいは疑問視していたのは、「プチクリ」という表現のあり方についてどうの、ということよりも、「現代・日本という相当不的確な時期と社会に向けてこの『プチクリ』を書き、出版したという行為そのものに対して」ではあるにしても、今日まで言及してきた加藤→内田→岡田(または加藤←内田←岡田、さらに加藤←→内田←→岡田)という図式から言うと、その図式が加藤≒内田≒岡田と言い換えられるようにも思え、ここで、逆にぼくの「プチクリ」についての感想を、もう一度再構築しなければならないかも、と、今、振り返えろうとしている。
 それは、もちろん、ぼくの書いた「プチクリ」論の感想に、岡田さん自らがコメントで「『誤解』している」と指摘されたことが、まずいちばん最初のきっかけではあった。そのきっかけのまま、ことばにできずにモヤモヤしていたものを、今夜、内田さんの『知に働けば蔵が建つ』を立ち読みして少し道が見えたかも、というのが、今のぼくの正直な思い。

 そんな思いを抱きながら帰宅すると、ポストに相模ゴム株式会社から「サガミオリジナル002」(今日の画像参照)が届いていた。クリスマスも近いのだけど、生憎ぼくはそれを使う予定も望みもありませんが、きっとその「クリスマスプレゼントキャンペーン」に応募したのは他ならぬぼく自身だと思うので(応募した時点では、そういう事態になるかもしれないことを夢精、…あ、失礼、夢想していただけなのかもしれないけど、覚えてない)、ありがたく頂戴しておきます。腐食するまでには使えるように努力します。


知に働けば蔵が建つ
内田 樹著
文芸春秋 (2005.11)
通常24時間以内に発送します。




トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔