2007年04月15日

見ないふり



 今朝、ボンヤリと起きて、「サンデージャポン」(毎日放送)を見ていたら、青空有罪・無罪の「有罪」こと、橋下徹弁護士に第7子が8月に出産予定という話題で、デープ・スペクターが「弁護士なのにヒニンしないのは珍しい」という、彼にしては珍しいダジャレヒットが。朝から、いいもの見た。

 一日中、ボンヤリと過ごす休日。こんなの、なかなか久しぶりだった。
 そんななか、電気を入れないコタツに潜って、松田洋子赤い文化住宅の初子』を読んだ。
 「広島・少女・薄幸・純愛・約束」という帯に惹かれて購入して、「おしん」を見るような感じに構えて読み始めたのだけど、たしかに薄幸なんだけれども、決して「不幸」じゃない物語に、ちょっと肩透かし。どんなに貧乏でも、どんなに恵まれない境遇でも自分を愛してくれる人、自分も愛する人がいるだけで、それがどれだけコウフクなことか。でも、すごくよかったのは、「ため息」の描写。水木しげるの人魂並に「ふはぁ」とか「はふ」とか「すふぅ」とか漏れる。それから、恋人である三島くんと、手を繋がず小指を結び合ってるところとか。あと、主人公・初子にとって愛憎ない交ぜの作品「赤毛のアン」について「本当はこの話て/孤児院の固いベッドの上で/しょうこう熱で死にかけとる/アンの見よった幻じゃないかなあ/思うたん」という感想。ただ、感涙はした。
 この作品は、タナダユキ監督・脚本で映画化(5/12〜)も予定されていたり、次号「マンガ・エロティクスF」(太田出版)では、映画化に際した特集も組まれる模様。
 作品に収録されていた「PAINT IT BLUE」という広島の労働者階級物語の方が、妙な期待寄せずに読めたからおもしろかったかも。そして、「文化住宅」ってのは、「モータープール」みたいに大阪ならではの呼称かと思ってたんだけど、広島でもそう呼ぶんだねってこと。西日本とかそういう範囲の呼び方なのかな。ぼくも昔、文化住宅に住んでました。「アパート」っていうのとはまた違うつくりで、薄幸さが染みついてる建物。

赤い文化住宅の初子

 それから、昨日に引き続き小田扉『団地ともお 5』も読んだ。
 すっかり、ともおワールドに惹き込まれつつある。「文化住宅」じゃなく「団地」。でも、ぼくは、いろんな種類の「団地」があると思うんだけど、昔、母がよく言っていたのは「『団地』に住める人はええなぁ。安い家賃で、広い部屋で。同じ給料もらってても、公務員は給料ごまかされへんもんなぁ」ということで、彼女の指す「団地」とは、おそらく「公団」みたいなことを言っていると思うんだけど、そういう意味じゃ、ぼくの「団地」への憧れって、ちょっと複雑な思いもある。
 この5・6巻では、ずっと言及してきた、顔が一切出てない父の描写に少し変化が。ここでも「顔」は出てこないことには変わりないものの、後頭部が頻出する。そして、しがないサラリーマンと思っていたら、意外と肩幅もあったりガッチリ体型であることが明らかに。髪は短髪。5巻P.118では、うっすらと父の顔も登場し、ともおが父似であることがうかがえる。
 おもしろかったのは6巻の第2話「ついでに挨拶だぜともお」で、辛い食べ物=オトナということに目覚めたともお。カレーをつくる母に「あんただけこれね。」と「王子さまカレー」を手渡されたときのともおのことば。「いいかげん王子様扱いはやめてくれよ!! 王子なんてもううんざりだ!! 自由な平民でいたいんだよ!!」。団地内で叫ばれる貴族の悩み。
 はやく、続きが読みたい!

団地ともお 5

団地ともお 6

 午後になり、何度もうたた寝をしていると大きな地震
 震源は三重県北部ということだけど、けっこう揺れてた。地震が起きたとき、ぼくは意外と冷静になる。今日も「あ、このまま死ぬんかな。お風呂入っとけばよかったな。もう2日も入ってないもんな。ぼくの死体片付ける人、臭くてごめん」とか思いながら、天井を見上げてた。
 地震への恐怖がおさまった後、阪神−横浜を流しながら、パラパラと「Meets Regional 2007年 05月号」をめくっていたら、永江朗の書評(「本のむこう側」第64回)が目に留まった。正直、もう永江節の書評には飽き飽きしていたので、読み飛ばそうかとも思ったんだけど、今月取り上げていたのが、前に、ぼくも読みたいとここで書いたトム・ルッツ『働かない』で、そこには、こんなことが書かれてあった。

 働かずにぶらぶらしているやつを見ると腹が立つ。考えると不思議だ。彼/彼女がぶらぶらしていても、こちらに迷惑はかからない。キリギリスがいくら遊びほうけていても、アリの生活は変わらない。冬になって「おカネ貸してください」とでも言ってこない限りは。なのに、怠け者を見ると、腹が立つ。
 世の中の、フリータ−やニートやホームレスの人々に対する視線にも、そういうところがあるのではないか。仕事がなくて気の毒だ、という同情と同時に、働いていないことに対する苛立ちもどこかにある。いくらそれが当人だけのせいではないと分かっていても。
 嫉妬だろうか。オレだって怠けたいのに働いているんだぜ、テメエばっかり楽しやがって、という。そうじゃないと思う。だって仕事は楽しいもの。学生のころは信じられなかったが、実際に働いてみると労働は意外と楽しい。腹が立つことや嫌なことも多いが、それをひっくるめて働くのは楽しい。だから働かない人への嫉妬はない。
 それと同時に私は、働かない楽しさも知っている。平日の昼間、カフェでビールかワインを飲みながら、本を読むのは最高だ。目の隅に、忙しく働く人々を入れて。みんなが働いているときに遊ぶのは、みんなが遊んでいるときに遊ぶのとは別種の快感がある。ちょっと背徳的な快感だ。
 このへんの、働かない人に対する私たちの感情を細かく解剖してみたいことには、福祉の根本は分からないのではないだろうか。生活保護を受ける人やホームレスに対する同情と反感の混じった気持ちを分析しないと。


 永江さんが「働かない楽しさ」と例に挙げている「平日の昼間、カフェでビールかワインを飲みながら、本を読む」という行為を、そもそも雇用保険に加入していない職場ばかりに勤め、失業保険も適用されない無職期間を長く過ごしたぼくは「それはお金のある人の『働かない楽しさ』だよ、お金がないとね、カフェなんかもちろん行けないし(ぼくは、お金があるときでもあんまりカフェには行かないけど)、本も買えないんだよ」と、指摘したいフツフツとした気持ちが心の底から湧いてくるけれど、それは、まぁ、置いといて(ただし、平日の図書館で感じる「背徳的快感」というのはある)、ここで指摘されている「働かない人に対する私たちの感情を細かく解剖してみたいことには、福祉の根本は分からない」という提案というか、方法みたいなものは、ぼくも賛同する。
 要は、「働かない人」(それは、障害・高齢・病気などで「働けない人」も含んでいいと思う)に対する「私たちの感情」を、ことばでどうみんなが納得するかたちで語れるか、みたいなことだと思う。ぼくは、正直、「働かない人への嫉妬」、さらに「働けない人への嫉妬」も大いにある。いつもある。だから「働くのは楽しい」と、心の底から言うことはできない。もちろん「労働は意外と楽しい」ということも知っているつもりだ。
 ぼくは、昨日、先日ここで書いたぼくの生活保護に関するエントリに対し、ある生活保護業務の現場に携わっていると思われる人(名前を書かれていない)から「現場も知らずにいい加減な事を言うものではない」との指摘を受けた。そして、ぼくはぼくなりに、ぼくの見解を述べたけれども、その見解を書きながらも、正直、毎日働いて、「健康で文化的な生活」を送るため、生活保護法で定められている最低保護基準にも達していない給料しかもらえない(それでも、今の職場は、これまで就いた職のなかでいちばん高い給料をもらっている)自分の現状を顧みると、複雑な心境になる。
 そして、その生活保護の最低保護基準や、市区町村や都道府県や国の福祉予算を見ると、驚くほどのお金が「働かない人/働けない人」にかけられているのに驚く。そして、一方の立場をとる人々は、これほどまでのお金がかけられているのに「福祉予算を削るな」と叫び、一方、今、行政は福祉予算削減にかなりの度合いで傾いている。
 ぼくが思うには、どちらの態度も至極納得でき得るもの(どちらかというと、行政運営が自らの施策失敗を棚に上げて削減に及んでいるのは、ずるいと思うが)だし、そのせめぎ合いのなかで「適正な」福祉予算が決められていけばいいと思っている。
 けれど、ぼく自身がそうなのだけど、例えば、国レベルでの福祉予算を見ると、何兆とか何千億とかいう単位なのでピンとこないけれど、生活保護を受けている人が、毎月どれくらいの金額を受給しているか、それはあまりにも生々しい金額であるのだけど、おそらくみんな気にはなっているものの、実際その金額を目にしてしまうと、「働くのがバカバカしくなる」し、ネットですぐに見られるようなものでもないし、かなり複雑な計算も要するものであるので、「見ないふり」をする。そして、その「見ないふり」をすることは、道端で倒れているホームレスの人や、段差で困っている 車椅子の人や、電車で立っている高齢者を「見ないふり」をすることと同じで、その「見ないふり」が溜まり溜まって、あるとき、自らの立場が窮地になったとき、「働かない人に対する私たちの感情」が暴発するのだとぼくは思う。それだけは避けなければならない、と思う。
 ぼくが、今、必要だと思うのは、みんな毎日忙しいから難しいけれど、「働かない/働けない」人の(もちろんお金の面だけではなく)現状を「見ないふり」をすることをやめ、さらに、「働かない人/働けない人に対する私(たち)の感情」(嫉妬や怒りなど負の感情も含めて)にも「見ないふり」をせず、日々点検、自覚していくことなのだと思う。

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち
働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち


Meets Regional (ミーツ リージョナル) 2007年 05月号 [雑誌]

 さっき、HDDに録画しておいた「わたしたちの教科書」(脚本:坂元裕二/演出:河毛俊作)の第1回(4/12)放送分を見た。
 なんか、とってもいい感じだ。カメラワークがちょっと忙しすぎるような気がするけど、その落ち着きをテレビドラマに求めるのは無理か。
 いじめを受けている藍沢明日香(志田未来)は戦争と貧困に喘いでいる世界の窮状を述べ、「世界を変えることはできますか?」と問う。そして、その問いに教師は応えられず、弁護士の積木珠子(菅野美穂)は、タバコを吸いながら(菅野美穂、タバコの吸い方、ぎこちなさすぎ!)「その問いは(いじめからの)“現実逃避”だ」と答える。
 ぼくも「戦争と貧困に喘いでいる世界の窮状」を憂える人たちの多くに、そして福祉をアツく語る人の多くに、その“現実逃避”さ加減を感じ、「見ないふり」をもしてきたけど、その「現場」に身を投じてみて、2年半。とりあえずそこで「見ないふり」だけをやめて、なにもできない自分だけがずっと残ることを課してみている。
 先日、訪れた児童養護施設の掲示板には、新聞のテレビ欄がコピーされていて、「今夜のおすすめ番組」欄にあった、このドラマの箇所に、明らかに子どもがしたと思われる感じで蛍光ペンでチェックが付けられていた。第1回で(おそらく)いじめを苦に自殺してしまう児童養護施設に入っているという設定の藍沢明日香(志田未来)の存在を見て、彼らはどんなことを思っただろうか。
 次回以降も期待。

 さて、明日からまた仕事。やることが多すぎるゼ。


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この記事へのコメント

1. Posted by サリ   2007年05月10日 16:56
お母様、勘違いされてませんか? 公団って昔から低所得層に優先したことはないはずですが・・・。県営住宅あたりと勘違いされてるのではないかと思います。
2. Posted by すべからく   2007年06月07日 16:02
サリさん

コメントありがとうございます。
ひと月経ってのコメント返しです。

そうですね。
公団はとくに所得には関係ないのかもしれません。
ご指摘ありがとうございます。

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