ウルク(Uruk)は古代メソポタミアの都市、又はそこに起こった国家。
古代メソポタミアの都市の中でも屈指の重要性を持つ都市である。
都市神はイナンナ。イラクという国名の由来ともいわれている。
イラク南部のサマーワにあるワルカ遺跡がウルクである。
旧約聖書にはエレクとして登場する。
19世紀半ばに発見されて以来長期にわたって継続的に調査がされて
きたが、地下水位の高さが問題となり最初期の層は本格的調査を
されていない。神殿を取り囲む二つの居留区が次第に拡大していく
様が確認されており、最も初期の楔形文字(古拙文字)も
ウルクから発見されている。
きたが、地下水位の高さが問題となり最初期の層は本格的調査を
されていない。神殿を取り囲む二つの居留区が次第に拡大していく
様が確認されており、最も初期の楔形文字(古拙文字)も
ウルクから発見されている。
最初の居住は紀元前5千年紀に遡るが、上述した如く最も古い層は
地下水のために調査ができておらず得られる情報は限られる。
紀元前4千年紀に入ると、ウルク文化が各地に拡散していくが、
この時期をウルクの名をとってウルク期と呼ぶ。ウルク市は各地に
商業拠点として植民市や包領地を形成して大規模な都市間ネットワークを
形成した。ただしこれは単純にウルクを中心とした巨大な帝国が
形成されたことを意味するわけではないので注意が必要である。
また現在知られている限り、ウルクから発見された文字資料は
人類最古のものであり、ウルク市が文字の発祥地であった可能性もある。
シュメール初期王朝時代に入ると、ウルク市は大々的に拡張された。
シュメール王名表によれば、大洪水の後成立したキシュ第1王朝に
代わってウルク第1王朝が成立した。実際には、これらの王朝の
存在した期間はある程度重複していると考えられる。
この王朝はウルク市の神殿区域の名であるエアンナの名を取って
エアンナ王朝とも呼ばれる。
ウルク市はこの後衰退し、紀元前2千年紀中盤には重要性を喪失した。
地方中心都市としての復興は、紀元前11世紀頃から、再び地域の
中心都市としてウルクの復興が進んだ。当時のバビロニアやアッシリアの
支配者達によってウルクの神殿の再建、修復などが進められ、
経済的な繁栄を迎えている。既に政治的中心としての役割を果たす
事はなくなっていたが、インドとバビロニアを結ぶ交易の要衝として
存続しアケメネス朝、そしてアレクサンドロス大王の帝国の時代に
あっても経済的に重要な都市ではあり続けた。
アレクサンドロス大王の死後、ウルクはセレウコス朝の支配下に入った。
セレウコス朝の統治下では南部メソポタミアの経済中心地として多くの
契約文書や租税文書などが作成されたことが知られる。
ヘレニズム時代のメソポタミアでは
セレウコス朝とアルサケス朝パルティアの覇権争いが行われた。
次第にアルサケス朝が優勢となり、紀元前141年にはアルサケス朝の
支配者ミトラダテス1世がセレウキア、バビロンそしてウルクを支配下に
いれた。しかし間もなく東方から侵入したサカ族によってフラーテス2世が
戦死するなどしてアルサケス朝が混乱すると、ヒスパネシオスという男が
ペルシア湾北岸地帯を拠点にカラケネ王国を建て、バビロニア総督ヒメロスを
圧倒してバビロニアの支配権を握った。ウルクはこの時期カラケネ王国の
支配下に入ったと考えられる。暫く後に再びアルサケス朝の支配下に戻った。
当時の遺跡からはアルサケス朝やカラケネ王国のコインが発見されており、
交易都市としての機能もまだ健在であった。
ヘレニズム時代のウルクは政治的な重要都市として現れることは
ないが、熱心な研究の対象となっている。これはアジアにおける
ヘレニズム世界について羊皮紙やパピルスに記録媒体が移った
ために殆ど記録が残っていない中で、楔形文字による粘土板文書が
作成され続けたためにウルク及びバビロンだけは例外的に
ある程度まとまった記録が残存していることによる。
ために殆ど記録が残っていない中で、楔形文字による粘土板文書が
作成され続けたためにウルク及びバビロンだけは例外的に
ある程度まとまった記録が残存していることによる。
粘土板文書は伝統的なアッカド語で記されたが、日常語として
は死語となっており一般的なウルク人はその多くがアラム語を
使用していた。これは当時のアッカド語文書の文法間違いの
多さによって裏付けられ、また楔形文字文書にちょっとした
メモなどが記される時にはアラム語アルファベットで記されるなど、
アッカド語楔形文字の非日常性が伺われる。また当時の史料には
ギリシア風の人名もある程度現れるがその数は少なく、
人口に占めるギリシア人の割合はかなり低かったようである。
この頃になるとメソポタミア文明は終焉の時期を迎えており、
楔形文字も次第に使用されなくなっていった。
絵文字の発明以来楔形文字文学の中心地の1つであったウルクは、
バビロン市と並んで最後まで楔形文字文書が作成され続けた都市であった
が、バビロンより一歩早く紀元前1世紀頃楔形文字は使用されなくなった。
ただしアルサケス朝時代の史料にはウルクがバビロンと並ぶ天文学の
拠点であった事が記録されており、メソポタミア時代の天文観察の伝統を
受け継いでいたことが知られる。また宗教的にも重要性を持ったらしく
楔形文字の使用が終わってもなお、古い神々への信仰は続いていたと
考えられる。少なくてもヘレニズムは宗教面においては限定的な影響に
留まっていた。政治、行政面でのヘレニズムの影響については研究者によって
見解に大きく相違があり、G・マケワンのようにウルクが殆どポリス化した政体を
持ったという説を主張するものや、ファン・デア・スペクのように生活面において
ウルクはヘレニズムの影響をほとんど受けなかったとする主張をするものも
存在する。これらの説はいずれに対しても有力な反論が出されており、
又史料的制約によって定説といえるものは存在しない。
サーサーン朝ペルシャ時代に入ると都市は衰退を続け、ウルク市は放棄された。
☆ 「ウィキペディア(Wikipedia)」から記事と画像を引用しています。