Renaissance

2015年08月

ウルク(Uruk)は古代メソポタミアの都市、又はそこに起こった国家。
古代メソポタミアの都市の中でも屈指の重要性を持つ都市である。
都市神はイナンナ。イラクという国名の由来ともいわれている。
ウルク
イラク南部のサマーワにあるワルカ遺跡がウルクである。
旧約聖書にはエレクとして登場する。
19世紀半ばに発見されて以来長期にわたって継続的に調査がされて
きたが、
地下水位の高さが問題となり最初期の層は本格的調査を
されていない。
神殿を取り囲む二つの居留区が次第に拡大していく
様が確認されており、
最も初期の楔形文字(古拙文字)も
ウルクから発見されている。
ウルク2
最初の居住は紀元前5千年紀に遡るが、上述した如く最も古い層は
地下水のために調査ができておらず得られる情報は限られる。
紀元前4千年紀に入ると、ウルク文化が各地に拡散していくが、
この時期をウルクの名をとってウルク期と呼ぶ。ウルク市は各地に
商業拠点として植民市や包領地を形成して大規模な都市間ネットワークを
形成した。ただしこれは単純にウルクを中心とした巨大な帝国が
形成されたことを意味するわけではないので注意が必要である。

また現在知られている限り、ウルクから発見された文字資料は
人類最古のものであり、ウルク市が文字の発祥地であった可能性もある。
ウルク1
シュメール初期王朝時代に入ると、ウルク市は大々的に拡張された。
シュメール王名表によれば、大洪水の後成立したキシュ第1王朝に
代わってウルク第1王朝が成立した。実際には、これらの王朝の
存在した期間はある程度重複していると考えられる。
この王朝はウルク市の神殿区域の名であるエアンナの名を取って
エアンナ王朝とも呼ばれる。
ウルク11
ウルク第6王朝の時、紀元前1802年、ラルサによって併合され滅亡した。
ウルク市はこの後衰退し、紀元前2千年紀中盤には重要性を喪失した。
地方中心都市としての復興は、紀元前11世紀頃から、再び地域の
中心都市としてウルクの復興が進んだ。当時のバビロニアやアッシリアの
支配者達によってウルクの神殿の再建、修復などが進められ、
経済的な繁栄を迎えている。既に政治的中心としての役割を果たす
事はなくなっていたが、インドとバビロニアを結ぶ交易の要衝として
存続しアケメネス朝、そしてアレクサンドロス大王の帝国の時代に
あっても経済的に重要な都市ではあり続けた。

アレクサンドロス大王の死後、ウルクはセレウコス朝の支配下に入った。
セレウコス朝の統治下では南部メソポタミアの経済中心地として多くの
契約文書や租税文書などが作成されたことが知られる。
uruku
ヘレニズム時代のメソポタミアでは
セレウコス朝とアルサケス朝パルティアの覇権争いが行われた。
次第にアルサケス朝が優勢となり、紀元前141年にはアルサケス朝の
支配者ミトラダテス1世がセレウキア、バビロンそしてウルクを支配下に
いれた。しかし間もなく東方から侵入したサカ族によってフラーテス2世が
戦死するなどしてアルサケス朝が混乱すると、ヒスパネシオスという男が
ペルシア湾北岸地帯を拠点にカラケネ王国を建て、バビロニア総督ヒメロスを
圧倒してバビロニアの支配権を握った。ウルクはこの時期カラケネ王国の
支配下に入ったと考えられる。暫く後に再びアルサケス朝の支配下に戻った。
当時の遺跡からはアルサケス朝やカラケネ王国のコインが発見されており、
交易都市としての機能もまだ健在であった。
Berlin_045
ヘレニズム時代のウルクは政治的な重要都市として現れることは
ないが、熱心な研究の対象となっている。これはアジアにおける
ヘレニズム世界について羊皮紙やパピルスに記録媒体が移った
ために
殆ど記録が残っていない中で、楔形文字による粘土板文書が
作成され
続けたためにウルク及びバビロンだけは例外的に
ある程度まとまった
記録が残存していることによる。

粘土板文書は伝統的なアッカド語で
記されたが、日常語として
は死語となっており一般的なウルク人は
その多くがアラム語を
使用していた。これは当時のアッカド語文書の
文法間違いの
多さによって裏付けられ、また楔形文字文書にちょっと
した
メモなどが記される時にはアラム語アルファベットで記されるなど、
アッカド語楔形文字の非日常性が伺われる。また当時の史料には
ギリシア風の人名もある程度現れるがその数は少なく、
人口に占めるギリシア人の割合はかなり低かったようである。
ウルク10
この頃になるとメソポタミア文明は終焉の時期を迎えており、
楔形文字も次第に使用されなくなっていった。

絵文字の発明以来楔形文字文学の中心地の1つであったウルクは、
バビロン市と並んで最後まで楔形文字文書が作成され続けた都市であった
が、バビロンより一歩早く紀元前1世紀頃楔形文字は使用されなくなった。
tery
ただしアルサケス朝時代の史料にはウルクがバビロンと並ぶ天文学の
拠点であった事が記録されており、メソポタミア時代の天文観察の伝統を
受け継いでいたことが知られる。また宗教的にも重要性を持ったらしく
楔形文字の使用が終わってもなお、古い神々への信仰は続いていたと
考えられる。少なくてもヘレニズムは宗教面においては限定的な影響に
留まっていた。政治、行政面でのヘレニズムの影響については研究者によって
見解に大きく相違があり、G・マケワンのようにウルクが殆どポリス化した政体を
持ったという説を主張するものや、ファン・デア・スペクのように生活面において
ウルクはヘレニズムの影響をほとんど受けなかったとする主張をするものも
存在する。これらの説はいずれに対しても有力な反論が出されており、
又史料的制約によって定説といえるものは存在しない。
 
サーサーン朝ペルシャ時代に入ると都市は衰退を続け、ウルク市は放棄された。



☆ 「ウィキペディア(Wikipedia)」から記事と画像を引用しています。
 

ギョベクリ・テペ(Gobekli Tepe) は、アナトリア南東部、
シャンルウルファ(前ウルファ、エデッサ)の郊外(北東12km)の
丘の上に在る新石器時代の遺跡。遺丘の高さは15メートル、
直径はおよそ300mに及ぶ。地名は「太鼓腹の丘」の意で、
標高はおよそ760mです。
ギョベクリ・テペa
ギョベクリ・テペの遺丘に残された構造物は紀元前1万~紀元前8000年の
期間に建てられた。祭祀に用いられたと考えられるこれらの構造物には
2つの発達段階が見られる。巨大な丁字型の石柱がいくつも円を描くように
並べられられている。石柱の総数は200本以上、それらの描き出す円が
20確認されている。各石柱は6m以上、重さは20トン。
それらが基盤岩に穿たれた穴にはめ込まれている。
ギョベクリ・テペ1
石柱は小さくなり、磨かれた石灰の床を持つ長方形の部屋に立てられた。
遺丘の隣に位置し構造物は1万4000~1万5000年前のものであることが
明らかにされた。これはともすれば更新世を1000年遡行することになる。
比較的新しい構造物にはギリシャ・ローマ時代のも見られる。
この構造物が何に使われていたのかははっきりしていない。
初期新石器時代の神殿だと信じていた。
ギョベクリ・テペ2
遺丘に新石器時代の痕跡を認め、ギョベクリ・テペを新石器時代の地層が
東ローマ帝国時代、イスラム時代に墓地として覆われたものだと仮定さ
れます。無数の燧石(フリント)について巨大な石灰岩の石板、すなわち
丁字型の石柱の地上に現れている部分は墓標である。遺丘は長い間
農耕に晒されてきた。幾世代にもわたる地元住民がしばしば邪魔な石を
どかしては積み上げてきた。
ギョベクリ・テペ5
ギョベクリ・テペは不毛で平坦な台地に位置している。
台地はあらゆる方向に扇状地を広げている。
北へ向かうと細く伸びる台地がそのまま山脈へとつながる。
それを除けば台地から伸びる尾根は急峻な勾配となり、
あるいはそのまま断崖へと導かれている。遺丘に加えてこの
尾根の上部にも無視できない人類の痕跡がある。遺丘の南斜面、
イスラムの巡礼の痕跡を示すクワの木の南と西側で行われた。
ギョベクリ・テペ6
台地は侵食と採石によりその形を変えてきた。採石は新石器時代に
限ったことではなく、ギリシャ・ローマ時代にも行われていた。台地の
南部には長さ10m、幅20cmの4本の溝が見つかっている。

これらは長方形のブロックを切り出した跡だと考えられている。
これらはすぐ近くに土台のみ残っている長方形の建物に関わりが
あるものと見られる。

おそらくはライミース・アラビカス(Limes Arabicus、ローマの国境)上の
見張り塔であるが良くわかっていない。
ギョベクリ・テペ8
台地の地形はほとんどが新石器時代に行われた巨大な一枚岩の
彫刻のための採石によるもののように思われた。それらのブロックを
はぎとったような輪郭が岩肌にのこっている。そして円形の石材が
生産されていたらしい石切り場も見つかっている。この「石切り場」説は
南東の斜面で3m四方の石材が見つかったことで信憑性を得た。
ギョベクリ・テペ10
まだ切り出されていない丁字型の石柱が3本みつかっており、
これらは新石器時代の石切りによるものとみて間違いない。
最も大きなものは北に残されている。長さは7m、頭の部分の
幅は3mに及ぶ。この石柱の重さは50トン前後と予想される。
完成していない他の2本は南の台地に放置されていた。
ギョベクリ・テペ11
西の縁ではライオンのような像が見つかっている。
この地域には燧石や石灰岩の欠片が多数散らばっており、
彫刻の工房があったのではないかと考えられる。一方で、
南の台地の表面3ヶ所に描かれたファルスには謎が残る。
それらがギリシャ・ローマ時代の石切り場に近いことも年代の
特定を難しくしている。
ギョベクリ・テペ12
遺丘から離れたところに切り出された基礎がある。
石柱を支えるためにあけられたのであろうソケットが2つ、それと
それらを囲むようにベンチが備えている。この基礎の構造は
遺丘の第三層の基礎と一致する。

この基礎はコンプレックスEとよばれている。
ネヴァリ・コリの神殿と似ているので、同様に「石の寺院」とも
呼ばれている。床は滑らかで、基盤岩から丁寧に切り出されている。
これはギョベクリ・テペの若い遺構の床にみられるテラゾーを思わせる。
すぐ北西には2つの貯水槽のように見える穴がありおそらくは
コンプレックスEの一部と考えられている。穴の一方には腰くらい
高さの標と5段の階段が備わっている。
tepe
西の急斜面には洞穴が見つかっており、小さな牛のレリーフが見つかっている。
この洞穴から見つかったレリーフはこれだけである。



☆ 「ウィキペディア(Wikipedia)」から記事と画像を引用しています。
 


パンノニア(Pannonia)は、古代に存在した地方名。
ローマ帝国の時代には
皇帝属州であった。北と東はドナウ川に接し、
西はノリクムと上イタリア、
南はダルマティアと上モエシアに接した。
mnh
パンノニアの領域は現在のオーストリア、クロアチア、ハンガリー、
セルビア、スロベニア、スロバキア、およびボスニア・ヘルツェゴビナの
各国にまたがる。今日では、パンノニアという地名は、ハンガリーの
トランスダニュービア地方(Transdanubia、ハンガリー語:Dunantul)
およびセルビア等に広がるパンノニア平原を指して使われる。

言語学者ユリウス・ポコルニーによると、
パンノニア(Pannonia)の語源は、
インド・ヨーロッパ祖語で
沼地や湿ったという意味を表す pen  という
言語要素から
派生したイリュリア語である。
パンノニア11
パンノニアには、元々はイリュリア人に近い部族であるパンノニア族が
住んでいた。紀元前4世紀以降、この地域は多くのケルト人部族からの
侵略を受けるようになるが、その頃の出来事についてはあまり知られて
いない。紀元前35年、当時のパンノニアはダルマティア族と同盟を結ん
でいたが、初代ローマ皇帝アウグストゥスが侵攻してきて
シスキア(Siscia、現シサク)を征服した。

紀元前9年、パンノニアは明確にローマ帝国の支配下に入り、
イリュリクム属州に併合されて国境線がドナウ川まで広がった。
パンノニア3i
西暦6年、パンノニア族はダルマティア族など他のイリュリア人と連合して
反乱を起こした。激しい戦いが3年間続いたが、結局はローマ帝国の
ティベリウスとゲルマニクスによって制圧された。

この後にイリュリクム属州は新に二つの属州に分割され、北側が
パンノニア属州、南側がダルマティア属州になった。分割が正確には
いつ行われたのかは不明だが、20~50年の間だと考えられている。
この地域の隣は攻撃的な蛮族(クァディ族、マルコマンニ族)の
領域だったので、ドナウ川の川岸には大勢の軍が配備され
(後年には7個軍団となった)、数多くの砦が建造された。
パンノニア4
102年から107年までのいずれかの年(2回にわたるダキア戦争の間)に、
ローマ皇帝トラヤヌスはパンノニア属州を上パンノニア属州(西側)と
下パンノニア属州(東側)とに再分割した。学者プトレマイオスによると、
このときの分割の境界線は北のアラボナ(Arrabona、現ジェール)から
南のセルビチウム(Servitium 、現en: Gradi?ka)を結ぶ線だったが、
後には境界線は東側に移された。二つの属州を合わせて
パンノニアス(Pannonias、Pannoniae)と呼ばれることもあった。
パンノニア5
上パンノニア属州はコンスル格の総督(レガトゥス)が支配し、
この総督は駐留部隊として3個のローマ軍団の指揮権を有した。
一方の下パンノニア属州は、初めはプラエトル格の総督が駐屯部隊として
1個軍団を持ち統治したが、皇帝マルクス・アウレリウスの後は軍団数は
そのままにコンスル格の総督の担当地域に変更された。
パンノニア7
ドナウ川の国境線を守るために、皇帝ハドリアヌスによって
アエリア・ムルシア(Aelia Mursia 、現オシエク)と
アエリア・アクィンクム(Aelia Aquincum、現 Obuda)の
二つの植民市が築かれ

皇帝ディオクレティアヌスの時代に、パンノニアは4つに分割された:
  パンノニア・プリマ(Prima)北西部、
首都はサウァリア(Savaria、現ソンバトヘイ)
  パンノニア・ウァレリア(Valeria)北東部、
首都はソピアナエ(Sopianae、現ペーチ)
  パンノニア・サウィア(Savia)南西部、
首都はシスキア(Siscia、現シサク)
  パンノニア・セクンダ(Secunda)南東部、
首都はシルミウム(Sirmium、現スレムスカ・ミトロヴィツァ)
 
またディオクレティアヌス帝は、現在のスロベニアにあたる
地域をパンノニアから除外し、ノリクム属州に編入した。
 パンノニア8
ディオクレティアヌス帝の死後は西ローマ帝国に属した。
5世紀の半ば、皇帝ウァレンティニアヌス3世の時代に、
パンノニア属州はフン族に割譲され、ローマ帝国の属州でなくなった。
 
フン族の王アッティラの死後、この地は次々と支配者が変わった
東ゴート王国(456~471年)、ランゴバルド人(530~568年)、
アヴァール人(560~約800年)、
スラヴ人(480年頃からこの地に居住し、800~900年頃は独立を果たし)、
マジャル人(現ハンガリー人)(900年または901年以降)、
ハプスブルク君主国、およびオスマン帝国(1526~1878年)。
第一次世界大戦の後、この地域はオーストリア、ハンガリー、
ユーゴスラビアに分割された。
パンノニア9
原住民族の頃はいくつかの村が集まって州を形成していた。
主な都市はローマ帝国の時代に作られた。
前述した都市以外にも、次のような都市が存在した

ソルヴァ(Solva、現エステルゴム)
アクィンクム(Aquincum、現ブダペストのブダ地区)
コントラ-アクィンクム(Contra-Aquincum、現ブダペストのペスト地区)
アルバ・レギア(Alba Regia、現セーケシュフェヘールヴァール)
アラボナ(Arrabona、現ジェール)
シバレー(Cibalae、現ヴィンコヴツィ)
ゴルジウム・ヘルクリア(Gorsium-Herculia、現ターツ)
ムルサ(Mursa、現オシエク)
マルソニア(Marsonia、現スラヴォンスキ・ブロド)
スカルバンティア(Scarbantia、現ショプロン)
タウルヌム(Taurunum、現ゼムン)
クスム(Cusum、現ペトロヴァラディン)
セルビヌム(Serbinum、現グラディシュカ)
ウィンドボナ(Vindobona、現ウィーン)
パンノニア10
地域の産業や経済は、この地域は元々かなり豊かであった。
広大な森林があり、木材も主要な出荷品目であったが、
ローマ皇帝プロブスとガレリウス帝が森林地帯を開墾したことにより、
農産物の出荷が増えてさらに豊かになった。主要な農産物は
オート麦や大麦で、それを原料としてビール(sabaea)も蒸留した。

一方で、ブドウやオリーブはあまり生産しなかった。
また、パンノニアは猟犬を産出することでも有名だった。
鉱物について記載された資料は見つかっていないが、
鉄や銀の鉱山があった可能性もある。
パンノニア12
水にも恵まれており、主な河川としてはドラーヴァ川、サヴァ川、
ラバ川などがドナウ川に流れ込んでいた。



☆ 「ウィキペディア(Wikipedia)」から記事と画像を引用しています。
 

ダキア(Dacia)は、古代中央ヨーロッパの一地域で、
ダキア人とゲタエ人が居住していた地域を指す。
現在のルーマニアの国土(「大ルーマニア」と呼ばれた時代の国土)に
あたり、東はティサ川、西はハンガリー、南はドナウ川、北は
カルパチア山脈の森林地帯までの地域となる。ルーマニアでは
同様の表記で「ダチア」と読む。
bwe
ダキア人は、インド・ヨーロッパ語族に属する言語を話していた民族で、
トラキア人の一派に属する。古代ギリシア人にはゲタエ人の名で、
古代ローマ人にはダキア人の名で知られていた。通常トラキア人というと、
ドナウ南方に居住していたトラキア・ダキア族のうち、南方に居住していた
一派を
指し、一方ダキア人とは、北方に居住していた一派を指す。

両派ともに、紀元前1000年頃に同地域に移住してきたと考えられている。
ゲタエ人に関しては、トラキア人の一部族に過ぎないとする説もある。
古代ギリシアの史家たちによれば、当時のトラキア人の中には、
異なる起源や文化を保有している多数の部族があったとされている。
ダキア人とトラキア人の相関関係については、歴史学会の中でも活発な
論争が為されており、未だ定説と呼べるものはない。
ダキア
ダキア人という呼び名は、バナト地方およびトランシルバニア地方に
居住していた
人々に対するもので、ムンテニア地方およびドブロジャ地方の
居住者はゲタエ人、
モルドバ地方の居住者はカルピ人と呼ばれた。
ダキア2
ヘロドトスの「歴史(第4巻)」には、スキティア人に関する記述が見られる。
スキティア人は、インド・ヨーロッパ語族に属する言語を話していた民族で、
紀元前1世紀には、現在の黒海北部を中心に力を振るっていた。
その中で「スキティア王族」と呼ばれる一派が、紀元前800年頃に
黒海北西部および西部に定住した。東カルパチア山脈西部には、
スキティア人と言語的に相関性のある一部族が住んだ。ヘロドトスは
また、ゲタエ人にも言及しており(「ゲタイ」の名で登場している)、
ドナウ南部に居住するトラキア系の一部族で、紀元前500年頃に
アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世に敗れ、紀元前350年以降には
マケドニアの軍事的圧力下でドナウ北部に移住し、そこで原住民と
混ざり一つの民族を形成するに至った、としている。

この頃から、ドナウ北部に居住する民族を、古代ローマ人は
「ダキア・ゲタエ人」と呼び、古代ギリシア人は「ゲタエ・ダキア人」と
呼ぶようになった。
ダキア3
紀元前2世紀になると、サルマタエ人の一派であるロクソラニ族や
ヤジグ族が、東方の他部族の侵入から逃れてドナウ沿岸地域に移住してきた。
サルマタエ人は、黒海北東部を起源とするスキティア人の一派である。
ヤジグ族は古代ローマでは「ヤシ(Iasi)」、プトレマイオス朝エジプトでは
「ヤシウス(Jassius)」と呼ばれていた部族で、ダキア北東部に居住していたが、
紀元後20年以降カルパチア山脈を越え、ティサ川とドナウ川の間に広がる
パンノニア平原に到達したとされる。

現在のハンガリーにあるダルヴァール(Daruvár)では、municipium Iasorum
および res publica Iasorum という言葉が刻まれた碑文が発見されている。
その他ルーマニアのグラディシュテ(Grădişte)などで発見された
古代ローマ時代の碑文から、このヤシ族(ヤジグ族)が現在のモルドバ
およびトランシルバニア地方で勢力を持っていたことが判っている。
当時サルマタエ人とゲタエ・ダキア人が混同されていたことは明らかで、
ダキアが古代ローマ帝国属州となってから置かれた首都(ウルピア・トラヤーナ)
サルミゼゲトゥサ・レジア(Ulpia Traiana Sarmizegetusa Regia)は、
恐らくラテン語の「Sarmis-et-Getus-a-Regia」、つまり「サルマタエ人と
ゲタエ人の都」という言葉に由来していると考えられる。
ダキア4
しかし、「サルミゼゲトゥサ」は「丘に囲まれた町」を意味するダキア語に
由来する、という説もあり、どちらが正しいか判断するには、
今後のダキア語研究の成果を待つしかない。
ダキア5
ローマ属州化以前
知られている限りで最も古いゲタエ人の首領は
ドロミヘテ(Dromihete、又はDromichaetes)(紀元前300年頃)と
伝わっており、当時はドナウ川下流域が勢力圏であった。

紀元前2世紀半ばのルボボステス(Rubobostes)より徐々に
西進を始めて、
紀元前2世紀末から紀元前1世紀始めに頃に
現在のトランシルヴァニア地方
に住んでいたガリア人を
追い出す形で移住したとされる。
 
その頃より徐々に文献にも「ダキア人」の名が出るようになり、
例えばガイウス・ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」にも記された。
度重なるバスタルナエ族との抗争や、共和政ローマとの抗争
(紀元前112年~前109年、紀元前79年)で疲弊したダキアを
立て直した
のは、ブレビスタであった。
ダキア6
ダキア全部族を統一したブレビスタはストラボンによると20万とも称される
兵を率いて、現在のハンガリーに居住していたスコルディスキ族や
ボイイ族らを攻撃して、これら部族の領土を奪い取った。最終的に
ブレビスタはティサ川流域からドナウ河畔、パンノニア地方や黒海沿岸に
まで支配地を拡大した。同時期にガリア戦争を遂行していたカエサルは、
終身独裁官となった後にパルティアやゲルマニアと共にダキアの
ローマ属州化を目論んだものの、カエサルが暗殺されたことで免れた。
ブレビスタの死後は遺産相続ルールに従って王国は4つに分割された。
その後継者の一人がコティソ(Cotiso)であったが、
ローマを脅かす力は
最早失っていた。

ローマ属州
86年にダキア王となったデケバルスは、たびたびローマ属州モエシアへ
と侵入を繰り返し、86年にはタパエでローマ2個軍団を壊滅させる等、
ローマ帝国にとって非常な脅威であった。
 
98年にローマ皇帝に就任したトラヤヌスはダキアへの関心を高め、
101年からローマ帝国とダキアの間で戦争が開始された(ダキア戦争)。
2次に渡る戦争の末、106年にローマの攻撃に首都サルミゼゲトゥサが陥落、
デケバルスは自害して王国は滅亡し、ローマ帝国の属州(ダキア属州)と
なった。現在のルーマニアの公式史観である「ダキア=ローマ史観」では
ローマ帝国の支配下でダキア人らはローマ化され、ラテン系の言語を話す
ルーマニア人の祖となったと主張されている。
ダキア8
 ダキア征服からアウレリアヌス帝がゴート族へ領土を引き渡すまでの、
165年にわたってローマ帝国の支配下に置かれた。しかし実質的に支配を
受けたのはダキア中央部および南西部のみで、ダキア全体の半分にも
満たなかった。古代ローマ帝国の支配が及ばなかった北部は「自由ダキア」と
呼ばれ、「自由ダキア人」たちがしばしば反乱を起こしていたことも判っている。

ダキア人の信仰の根幹を為していたのは「魂の不滅」であり、また「死」は、
生きる場所が変化するだけのもの、と考えられていた。最高神官は、
大地を支配する至高神ザルモクシス(ザモルクシス)(Zalmoxis)と同格視
されており、同時に王の顧問の役も果たした。ザルモクシス神の他には、
ゲベレイジス(Gebeleizis)やベンディス(Bendis)が信仰を集めていた。
ダキア9
ダキア人の社会は、主に二つの階層から成っていた。
タラボステス(Tarabostes)と呼ばれた特権階級と、自由農民( Comati )が
それである。特権を享受していたのはごく一部の人間に過ぎず、後の時代に
発生するボイエリ(Boieri)(ルーマニアの貴族階級)の先駆けともいわれる。
また軍隊の大部分を形成していたのは一般の農民や職工など( capillati )で、
伝統的に髪を長く伸ばしていたことで知られる。
zaza
最も盛んだったのは農業で、穀物や果樹の栽培・牛や羊の飼育を行っていた。
また、養蜂が行われていたことも判っている。馬は専ら荷物の運搬に用いら
れたが、ダキア人の育てた馬は、戦闘馬としても非常に有名であった。
トランシルバニア地方の金山・銀山での採掘も盛んで、出土する
大量の古代ギリシアおよび古代ローマ貨幣から、活発な貿易が
行われてい
たことが伺える。


☆ 「ウィキペディア(Wikipedia)」から記事と画像を引用しています。
 

プリエネ遺跡 (Priene)は、トルコ領アナトリア(小アジア)半島西岸の
古代ギリシア古代都市。険しいミュカレ山を背景にして平らな高原に
位置し、蛇行する川が眼下に広がります。かつては港がありましたが、
時と共に土砂で埋まってしまいました。
プリエネ31
プリエネはもとは港湾都市で、メナンデル(メンデレス)川の河口から
約13km上流にある。紀元前4世紀にイオニア人によってメンデレス川の河口に
築いた重要な港町で川の氾濫に悩まされ、紀元前370年ころ、崖の上部にある
海抜380mの高さの海面から延びる急斜面のテラスで海を見下ろす高台に
移転し、4世紀半ばに現在の場所に町が移され、都市づくりが行われた。
プリエネ1
当初は比較的海岸線が近かったらしいが、川が徐々に土砂を運んだ結果、
紀元前1世紀半ばには、海岸線は50kmも奥に遠ざかってしまった。ということで、
遺跡の下には広大な平野が広がっている。
プリエネ6
トルコ西部の町セルチュクの近郊に位置する。
以前はエーゲ海に面する港湾都市だったが、土砂の堆積などにより、
紀元前4世紀頃に内陸の丘の上に再建された。劇場、アゴラ、
アテナ神殿、ゼウス神殿などの遺跡のほか、碁盤目状に整備された
街区が残っており、古代の都市計画の最古の例として知られている。
プリエネ9
イオニア人が築いた古代都市プリエネは、道路が東西南北に
碁盤の目のようにめぐらされた計画都市の遺跡として有名です。
東西に6本、南北に15本の道路が碁盤の目のように整然と交差している。
プリエネ5
プリエネ7
背後にそびえる岩山の土砂が崩れ、遺跡を覆ったため、
19世紀末に発見されたときには 格子状の都市が当時のままの姿を現した。
5本の列柱のアテナ神殿や野外劇場、民家跡など、ビザンチン様式の教会、
競技場の跡 などもそのまま発掘されている。

また、ハリカルナッソスの建築家ピュティオスによる建築物アテナ神殿を
見ることができます。
プリエネ8
ブユックメンデレス川(古代のミアンダー川)の沖積平野を
見下ろす高台に古代都市プリエネの遺跡がひっそりと残っている。
もともとイオニア人が建設した当時のプリエネは海に突き出た半島で
2つの港を持った半島と考えられています。
プリエネ12
その地域の周りには4000~5000人の住民が住んでいたと思われます。
都市は4地区から構成され、まず、政治的地区には会議場や prytaneion、
文化地区には劇場、商業や市場、宗教的な地区は、専用の聖域に含ま
れる最も重要な場所で、ゼウスとデメテルを祀ったアテナ神殿があります。
プリエネ13
古代世界の七賢人のひとりと称えられた紀元前6世紀の
哲学者ビアスはここに住んでいたという。
pout
紀元前5世紀初期、町はペルシャに破壊されたが、後にアテネの援助で
再建、アテネ人のプリエネに対する好意はその後も長く続いた。やがて
ペルガモン王国、次いでローマ帝国の支配を受け、ナウロコと呼ばれる
港を中心に交易都市として栄えた。



☆ 「プリエネ」の記事はいくつかのサイトから引用して書いています。
☆ 「ウィキペディア(Wikipedia)」から画像を引用しています。

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