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煮物。

食文化の変化もあるけど、製品が手軽に買える様になると、家で作らなくなるのはどの料理も同じですね。

先々、「甘味料嫌い」を克服して、やはり伝統的な甘辛い煮物を作れる様にしたいです。

今閑散期で、ブログ見てくださってる方も1日に50名ほど、繁忙期の半分以下となってますので、小出しに濃い内容を書いてたりします。

やはりたくさんの方が読んでくださってると、気を遣います。

それでも、店の営業を続ける中で、最終的な選択はともあれ、「すべてを出来る限り是認する中で」持論を展開しているスタンスは、自分でもより深まってるし、「否定すべき」と考える事も多々ある中でもそれが誰かを傷つけてしまうなら心にしまっておくスキルは身につけつつある事は、少しずつ伝わってるかな、と思います。

その上で、少し前に「家畜に対する扱いが、人と人に及ぶ懸念」を書きましたが、少なからず人口の上では明らかにマイノリティな土地に暮らしつつ、先鋭的なコミューンを考察する上で出てきたもので、もちろん自分の食材選びの中でより強く感じる様になった事ではありながら、日頃から向いてる「脱・利便」の方向性のひとつ、くらいな認識しかありませんでした。

しかし、ある哲学のセンセイを知り、その方が論ずる前提として、また、わりと古くから広く「人間の家畜化」が議論されてる事を知りました。

工業畜産への距離感を模作する上で、「畜産と優生学」について調べてて出てきたんですが…。

ひと頃前に「草食性男子」って言葉が流行りました。

これは、早稲田大学の哲学者、森岡正博氏の著書から引用されたものらしく、僕は「流行語の普及に貢献する学者なんて迎合的な論陣張ってるに違いない」って偏見から、むしろスポイルしてました。

彼の著書に「無痛文明論」というのがあって、その序文的に「人間の家畜化論」についての説明があり、そこに引っ掛かって少し読んでみると、大変興味深い考察をされてるな、と、印象を持ちました。

著書を読了したわけではなく、齟齬が生じるかもしれませんが、無痛文明論とは「極力痛みや生命の危険を避けて生きる事を是とする現代人の一般的な生き方が本当に生物として幸せなのか?」みたいな問いかけなのかな?と思います。

その考察の出発点として、野生動物と家畜やペットの違いとそもそも人間が家畜化していて、その研究への持論を述べてます。

僕はあくまで人と家畜の関係性から、人と人との関わりの中に「冷酷さへの麻痺」が持ち込まれる事を危惧してたのですが、「人間の家畜化論」ではそもそも人間社会全体が、種として自ずから「総家畜化」しており、それを「自己家畜化現象」と呼び、いちばんの問題点は「生殖技術と優生思想」にあるとしている。

これは、品質向上の為に「いのちの形」から「生き方」そして「死ぬ時期」まで他者にコントロールされる生命体としての「家畜」という概念が、人間にまで無自覚に持ち込まれている、という事で、少し僕がぼんやり抵抗感を持ってた部分のひとつではあります。

都合の良いいのちが、都合良く生かされ、都合良く殺される。

いわば「消費財」もしくは「所有物」としてのいのち。

ヤマギシのお題目は、この一般社会に蔓延した通念からの離脱をはかるものながら、優生思想と生殖・生活の管理は著しくここに回帰するもので、所有者が変わるだけ、と言った印象が拭えず、そうではない、と表向き否定しながらも、一神教の戒律社会に似たにおいを感じてしまう。

諸研究によれば、「生命の安全の他者による担保」は「家畜化」の大前提ですし。

ちなみに犬は野生のオオカミに比べて脳が萎縮してるらしく、これは豚や鶏等家畜にも見られ、生存の為に必要な部分を使わないから、ってとこに理由を求められてます。

人間は、そこに使わないで済むぶんの脳や体力、そして時間をより「生命の安全」に向けた生活様式の強化やら、より「豊か」に生活する為に振り向けている、という、肯定論は理解出来ます。

しかし、大多数の人たちは、「その為に」と、お金を稼ぐ事にほとんどの時間を費やして生きて行く。

あまり言われない事ですが、「経済原理主義」という宗教が、僕らをがんじがらめに縛り付け、狭い檻に閉じ込める。

品質向上ならまだしも、それはお題目で、主に経済効率の為に、優生思想による品種改良や、間引きが家畜やペットに行われ、それはいつしか人間社会にも起こり得る。

ひとことで言えば、「倫理」に尽きるのですが、実は人間の「自己家畜化」という概念は、19世紀には既に存在し研究されているいわば社会現象としてありきたりなものです。

「別にその中でうまくやってりゃ良いじゃん。自分ひとり頑張ったって世の中変わらないし。」

というのも、もっともです。

しかし、逆に言えば、世の中はどうあれ、自分の人生は自分のものだし、スノーボードなんかそうなんですが、「動いてるものに乗せられてる」感覚から「自分が動いた結果の事しか起こらない」と認識出来るようになった時、段違いに楽しさは変わるし、そのぶん「幸運にも、他者や何かのおかげで素晴らしい事が起きた!」と感じる機会は減るものの、それが起きた時得るものは計り知れなく大きくなります。

生殺与奪の握り合いをしているつもりが、実はもっと大きく、実体の見えないものにすべてを握られ、日々消耗してないか?

そんな考えは、「利便の中での退化から子供を遠ざけたい」「経済的なインプットもアウトプットも小さく」「人と人とのかかわり合いを見つめ直したい」等、僕が家族を連れて平谷村へ移住した理由と、けして順風満帆とはいかない今の生活をつなげる細い糸みたいに感じて、ともすればわけもわからず毎日東奔西走する毎日に、少しだけ「これでいいかな」みたいな感覚を与えてくれます。

ちなみに、自分もここに来てから山歩きやスノーボード始めましたが、実は雪山登山とか、パラグライダー等のスカイスポーツや、スノーボードならバックカントリーなど、わざわざ死ぬ確率を上げる行動に人が惹かれる事が、いまひとつピンと来なかったのですが、社会全体としての自己家畜化を念頭に置くと、かなり納得しやすい気もします。

日頃から自分の生存に本当の意味での自己責任を自覚している、例えば野生動物なら、極力死ぬリスクは避けようとするはずですし。

けれど、もちろん弱者の淘汰は起こります。

社会的に優生思想を否定して、弱者の生存を担保しようとすると、自己家畜化の果ての社会構造を否定出来ないというパラドックスもあります。

自分や家族が、いつ重病になるかわからないし、そうなれば自然環境を克服して生きて行くのは難しいですからね。

ともあれ、50も近く4児の父ですから、もっともっと考えて、理想と現実を擦り合わせて行きたいと思います。

お金に余裕があるから振り回せる理想論も、確かにありますからね。


本日は雨。

結構降ってしまい、気温も高いし、スキー場の雪が心配です。

明後日のプロのキャンプ、出来るだけ良い状況で迎えたいので、出来ればもう降らないで欲しいです。

とりあえずご予約が入って来ないので、本日はマイペースに仕込みしながら、ご予約とご来店をお待ち致しております。