サッカーとその他の概念を一緒くたにしてサッカーを語るな。筆者が一番強調したいことの一つかもしれない。既存の概念に照らしてサッカーを語るな、でもいいかもしれない。サッカーは野球とは違う。バレーボール、バスケットボールとも違う。もちろん個人競技でもない。監督一つとっても概念が一致するものはない。世の中に監督は無数に存在する。映画や舞台、建設現場にも監督はいる。サッカー監督をそうした一般的な監督像と一緒くたにして、語っていないだろうか。サッカー監督にしても、クラブ監督と代表監督に分かれる。アンダーカテゴリーの監督もいる。

「恩師」と同義語になる場合はけっして多くない。使ってもらえば、多少なりとも恩義を感じるだろうが、監督からベンチ要員として扱われた選手は、ネガティブな感情が上回ったとしても不思議はない。実際、ある代表監督に対して「顔も見たくない」と言い切る元代表選手は確実にいる。

 応援に関しても違和感を覚える言い回しがある。「我々ファンは応援することしかできないのだから、どんな場合でも最後まで声援を送り続ける」という声だ。ファンは応援することしかできない、だろうか。一般的なファン像に、あるべき姿を重ねようとしていないだろうか。サッカーの応援に様々な表現方法があることは、世界に目を転じれば一目瞭然となる。ブーイングは立派な応援方法なのだ。不甲斐ない試合をすれば、ファンは途中でスタジアムを後にする。

 満員に膨れあがっていたサポーター席が、たとえば0-3のスコアで試合終盤を迎えた時、ガラガラになっていることはよくある。最後まで見届けずに帰宅するというファンの行動は、檄を飛ばす意味を兼ね備えているのだ。最後まで盲目的に応援するファンもいるが、そうではないファンも多数いるのがサッカーである。クラブ愛の表現方法はひとつではない。

 何年か前、サッカーの反則の是非、さらにはイエローカードの是非について、読者投稿を交えながら考察する大手メディアの企画ページを目にしたことがある。元日本代表キャプテン、井原正巳(現柏レイソルコーチ)が読者の質問に答えるスタイルを取っていたが、改めて、反則やイエローカードを悪と捉える人の多さに驚かされた。反則という日本語をそのまま直訳し、好ましくないものとしている様子だった。

 反則はしない方がいいに決まっているが、競技によって程度は変わる。一般社会の中で犯す反則とも違う。サッカーの反則には、サッカー独自の概念がある。日本ではまず見かけないが、海外のスタンドでは、レッドカードで退場になる自軍選手に対し、温かい拍手が送られることも珍しくない。よくやった。スタンドからはそんな声も聞こえてくる。サッカーならではの概念が、日本にはまだ浸透していないという見方もできる。

 世界のサッカー界にいま影響を及ぼしているのはデータだ。データ会社が提供する様々な数値が、我々の目に触れる機会は増えている。だがそれはどこまでサッカー的な情報だろうか。たとえば走行距離は一見、重要なデータに見える。誰は何キロ走りました。凄いですねと、テレビの実況と解説者はそのデータを見ながらハーフタイムに言葉をかわす。だがそれ止まりだ。走行距離が長い選手は、最初から分かりきっているからだ。布陣の真ん中付近に立つ選手=守備的MFに他ならない。その次にSB。プレッシング時代なのでFWの走行距離も伸びているが、カバーエリアが広いピッチの中央にいる選手には及ばない。前節の試合に比べて長いとか、今シーズンの平均値に対してどうだとかを語らないと、ファンに対して有益なデータにはならないのだ。

 デュエルの問題点については、これまでに何度か述べた記憶があるので短めにするが、デュエルの勝率なるものが、非サッカー的なデータであることはハッキリしている。サッカーの局面において、1対1を両者の関係がイーブンの状態で迎えることは何度あるのか。ほぼゼロだ。相撲の立ち合いなら分かる。おもしろいデータになるかもしれない。選手個々の1対1ではないが、ラグビーのスクラムも集団としての1対1の関係を探ろうとしたとき、有益な情報になるだろう。

「サッカーが他の概念に侵食されつつある」とは、何を隠そう、フアン・マヌエル・リージョにこちらがインタビューした際、しきりに強調していたことだ。本場スペインでさえ、そうした傾向が強まっていると嘆いていた。

 野球とは違いサッカーは流れのあるスポーツだ。VARはその本質にマッチしないとされた。流れを止める悪しき変更と、懐疑的になる声は大きかった。筆者もどちらかと言えばその1人だった。しかしいま、かつてのアナログな判定に戻ると言われたら、筆者はノーと答えたくなっている。VARを肯定する側に転じつつある。

 VARが採用されて驚いたのは、覆るケースがあまりにも多いことだ。誤審もサッカーのうちと構えていられたのは、その回数がもっと少ないと思っていたからである。古くからVARが導入されていれば、サッカーの歴史は変わっていたかもしれないのだ。1974年W杯決勝、西ドイツ対オランダ戦で、西ドイツではなくオランダが勝者に輝いていた可能性が高いのだ。

 ルールについて学ぶ時間も増えている。映像を繰り返し見ながら、立ち止まって考える時間が増えたことは、選手はともかく、ファンにはプラスに働いていると筆者は見る。サッカー的ではないと毛嫌いしていたものが、実はそうではなかった。サッカー的な要素を引き出す結果になっている、と。

 審判は絶対です。判定に文句を言ってはいけません。その昔、NHKのサッカー解説者はそう言っていたはずだが、VAR時代のいま、人間の目でサッカーを追うことに限界があることを知らされたいま、その言葉は完全に説得力を失った状態にある。VARが採用されていないJリーグ以外の現場では、混乱をきたしているのではないか。サッカーが抱えるある種の概念は揺らいだ状態にある。まさに混沌とした状況を迎えている。サッカーとは、サッカーらしさとは何かという本質について、考える時を迎えていると筆者は考える。