昨日のブログに「劣等感の補償」について書いたところ、「同じ指導をしても相手の態度や表情でボルテージが上がってしまうケースがあります。その違いとして聞き入れる側の扉が開いているか、閉まっているかを感じます。
これは指導する側の問題なのか? 相手の問題なのか? そもそも関係ができていない問題なのかと悩みます。
杉井さんのアドバイスよろしくお願いします。」という質問があったので、私の考えを書いておきます。

まず、相手の表情や態度によって腹が立ってしまうことは自然なことです。
しかし、自分の言い方は自分でコントロールできることです。
ですから、私の答えは「指導する側の問題」です。
よろしいでしょうか?
昨日も書いたように、私達は自分の理想と自分を比べて「劣等感」を感じますが、それはあくまで「感じ」であって実体のあるものではありません。その「感じ」のために生きるのは、あまり意味がないことだと私は思っています。
私という人間の価値は見る人によって異なりますし、親にすれば寝たきりになっても子供は価値のある存在です!
理想と現実が異なるからといって、「自分には価値がないのではないか?」という疑問を持つこと自体が愚問だと思うのです!

ところが、劣等感に振り回されている人は、自分の価値を感じたくて仕方ありません!
そのため、馬鹿げた行動をしてしまうことがあるのです。
例えば「成功者になりたい!」と思うことは悪いことではありませんが、そのために高い服を着て、高級な時計をはめ、高級車に乗って、高層マンションに住んだとしましょう。
そうすれば「成功者のような気持ち」になれるかもしれませんが、実際は「成功者」どころか「貧乏」になります!これって馬鹿げた行動だと思いませんか?
「優秀な人になりたい!」と思うことは決して悪いことではありませんが、そのために人に威張ったり、人のことを馬鹿にしたら「嫌な人」になってしまいます。
それなのに、自分の優秀さを味わいたくて、自分の自慢話をしたり、人の陰口を言う人がたくさんいると思うのです。やっていない私はよくわかりませんが、フェイスブックやインスタグラムに自分のことを紹介する人の中には、不特定多数の人から注目されることで自分の価値を感じている人が少なからずいると思います。
それほど多くの人が、自分の価値(劣等感の補償)に飢えているのです!
また、それとは逆に人に褒められても「そんなことありません!」と頑なに受け入れない人がいますが、必要以上に自分を貶めたり謙遜するのも劣等感の補償の気がします。私のことを「立派な人だ」と言う人もいれば、「あんなヤツ」と言う人もいるのが自然なのですから、せっかく「立派ですね」と言ってくれたのなら「ありがとうございます」と受けておけばいいと思うのです。
私自身もCL(建設的な生き方)を学ぶまでは、「安心」や「いい気分」を求めていて、それを感じることが「幸せ」だと思っていましたが、「感(気持ち)」を目的に生きていると道を誤ってしまうと思います。

もし「成功者になりたい!」「いい人と思われたい!」のなら、「感」を求めるのではなく、自分の価値の使い方のほうに意識を向けたほうがいいと思うのです。
楽な道をとるから馬鹿げた方法をとってしまうのです!
若い頃の私は劣等感の塊のような人間で、自分のことが嫌いで学生時代の写真は一枚も持っていません。
しかし、10年、20年、30年と、ハガキを書いたり掃除を続けてくると、ずいぶん歳をとりましたが自分のことが好きになれた気がします。トイレ掃除をされたことのある方ならわかると思いますが、便器であっても一生懸命に磨き続けると大切なものになるように、人から見たら便器のような私でも、手をかけて磨き続けると大切なものになるのです。
二日間にわたって「劣等感」について書いてきましたが、簡単にまとめると、

・価値のない人などいません!
・だから劣等感をなくすために「感(気持ち)」を追うのはやめましょう!
・馬鹿げた行動をやめて、自分のなすべきことを積み上げていけば、自分のことが大切なものになっていきます。
ということです。
さかえやにいる小林未来さんには、こうしたことをこれからの人達に伝えていってもらいたいと思っています。












