昨日のブログで書いた冗談で不快に感じた人がいたようです。確かにその通りだと思いましたので、昨日のブログを訂正しここでお詫びします。
大変すみませんでした。
昨日のコメントを見ていると「相手の価値を認めること」を「媚びること」と感じて抵抗がある人がいるようです。
確かに「好かれる」ということを目的に相手を褒めると、「媚びる」という印象になると思います。
そうならないためにどうしたらいいかというと、「好かれたい!」と思う人以外の人の良いところも認めることだと思うのです。つまり、事実を認めることです!
例えば、桜の花を見て「きれいだ!」と言ったとしても、桜に媚びていることにはなりません。
素敵なところを見つけて「素敵だ!」と言うことは、それと同じことだと思うのです。
人間は昔、外敵から身を守るために、少しでも早く外敵を見つける必要がありました。
そのため、自分を益するものよりも自分を害するものに敏感になったそうです。そうしたことから人間の古い脳は、素敵なことよりも、不快なことに敏感に反応するというのです。
私が作った「子育て・人材育成セミナー」では、「相手の適切な行動」と「相手の不適切な行動」を挙げてもらう課題があるのですが、そうした課題を見ていると「適切な行動」よりも「不適切な行動」の方が多い人や、「不適切な行動」のほうばかり具体的に書く人がいます。
そうした課題を見ると、この人はきっとイヤなことが多い世界(地獄)で生きているのだろうなと思ってしまうのです。
皆さんは、「素敵なもの」と「不快なもの」のどちらの事実に敏感に生きているでしょうか?今回の私の事故も、確かに痛い思いをしましたし、余計な時間をとられましたが、私は「このくらいで済んで良かった!」「大事なことを教えてもらった!」と感謝しています。
特に病院の先生や看護師さんたちには本当にお世話になりました。
しかし、人によっては相手の運転手を恨んでイライラした時間を過ごしたかもしれないのです。
これは事故だけでなく、人生すべてに言えることだと思うのです。
私は父の借金は、決してうれしいものではありませんでした。しかし、そのおかげでお金の怖さや人のやさしさを知り、経営を真剣に学ぶようになりました。
もし父の借金がなかったら、私はもっととんでもない人間になって、とても不幸な人生を送っていたと思うのです。
このように物事をどうとらえるかは、その人の見方によるのです。
もし人の良いところを認めることを「媚びる」と感じるとしたら、人にお世話になっていることの多さを忘れているか、心のどこかで人より上に立ちたいと思っているかもしれないと思うのです。
そういう人は「内観」をするといいと思います。
今の教育だと、自分が迷惑をかけた数よりも、自分が迷惑をかけられた数の方が多い人の方が立派な人のように思うかもしれませんが、それだと立派な人は不幸(損)な人になってしまいます。しかし実際にはものすごく多くの人に支えてもらっていて、「自分がかけている迷惑の方が少ない」と言っている人の多くは、自分がかけている迷惑に気づいていないだけかもしれないのです。
たくさん人に支えられ、たくさん迷惑をかけているのに許されているとしたら、こんなにありがたいことはありません。
そこがわかると、「媚びる」も何も関係なくなると思うのです。
昨日の老子の「賢者は人の上に立たんと欲すれば、人の下に身をおき、人の前に立たんと欲すれば、人の後ろに身をおく」という言葉ではありませんが、自分のことを立派だと思えば思うほどいろいろなことに不快を感じ、問題が私の肩を「謙虚になりなさい」と叩くのです。皆さんは、どのように思いますか?
今日のひとこと
「偉くなってもいいことは1つもありません。人の足りないところを見るよりも、人を喜ばせる人になりましょう!」















