酔遊記

密かな楽しみ、味わい深い居酒屋をめぐる。

No.33 フラッと入ったらいい店だった。「プラットスタンド酛」

地方に出かけたときなど、フラッと入ったら思いがけずにいい店に出会ったという経験はどなたもお持ちでしょう。それが旅のいいところで、そんな経験を繰り返し得たいというのも旅の動機のひとつになっているのかもしれません。

今日は出張や旅行ではないのですが、東京でも似たような経験をするという話です。


先日、都立小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」に前川圀男邸を観に行きました。

少しだけその話をさせてください。

公園の中は夏の植物の息が立ちこめて噎せ返るような空気でしたが、青空をバックにした枝葉が作り出す模様がすがすがしく映り、心和ませます。

小金井公園にて

園内には、江戸期から昭和の戦前までのおよそ30ほどの建築物が散在しています。

ル・コルビジェの弟子で、東京文化会館を設計した前川圀男の自宅もそのひとつです。

昭和17年の建築ですが、とてもモダンです。左が正面玄関口、右が裏の庭側。

前川圀男邸正面前川圀男邸庭

猛暑の中を10軒ほどテクテクと見て回りました。どれも見る価値のある建築ばかりです。

しかし、とても今日だけで全部は見られない、もう一度出直すことにしました。

武蔵小金井から中央線に乗ったのですが、途中で、フラッと吉祥寺で降りてみたくなりました。

たまに中野とか、荻窪まで呑みに行くことがあり、吉祥寺にも「いせや総本店」とか「,ハモニカ横丁」など行ったことのあるところがあります。

駅に降りて一旦は、立ち呑みの「いせや」のほうに足が向きました。実にたくさんの飲食店が軒を連ねています。

でも、せっかく来たのだからほかの店はないかと思い直し、ネットで『立ち呑み』を探します。

何軒かがリストアップされましたが、一番上に出てきた『ブラットスタンド 酛』という店名が気に入りました。ハモニカ横丁に極めて近い距離です。

スマホの地図を頼りに近づいたのに、場所が分からない。グルッとハモニカ横丁を2周してしまいました。もうなくなってしまったのかと思いつつ店舗情報を見ると、自分が立っている前のビルの地下だということが判明して、ガックリ。

上は賑やかなスーパーみたいな店舗だというのに、階段はどことなく寂しく、トボトボと地下へ降りますと、そこもまたうらぶれた感じの飲食街になっていました。

少し進んだところに通路に面した側を上から長いビニールで囲った店があります。

ここかなとビニール越しに中を覗くと、立ち飲みではなくて、コの字カウンタを囲む椅子席だけです。どこか静かな雰囲気です。

小さな看板には『ブラットスタンド 酛』と確かにあります。

とにかく入ることにしました。

日本酒の店らしいのですが、奇妙なことに数人の客は女性ばかりです。しかもまだ夕方6時を少し回ったばかりだというのに。

「お店の名前の『酛』という漢字は何と読むんですか」と尋ねると、「モトです。生本造りの生酛(きもと)です」と答が返ってきました。

カウンターの後ろにはずらりと日本酒の瓶が並んでいます。それもただ並んでいるのではなくて、上からのライトに照らされて日本酒が光るディスプレイになっているのです。気が利いています。

とりあえずビールを頼みましたが、酒の種類はすごい。

禁煙なのがいい。私もタバコを吸わなくなってから20年くらい経っていまして、最近は禁煙を歓迎するようになってしまいました。

酒場にたばこの煙は必須だと思っていたのに、変れるものですね。

コの字のカウンターはやや高めで、立ち飲み時代のママなのかもしれません。

和風酒場というわけでもないし、でも一升瓶がディスプレイとしてしゃれて並べられているところは和風を少し超えてるし、酒肴も刺身をはじめ和風といえばそうだけれど、洋風料理の酒肴もあるし、カウンターと椅子の組合せはショットバーのようでもあるし・・・・・・・。

広く客を受け入れようとする趣向なのか、わざとこういうつくりを指向したのか、曖昧といってしまえばそれまでで、でも、雰囲気は悪くないのです。

こういう演出が女性に人気がある理由なのでしょうか。

まずはマグロの刺身を注文して、ついでポテサラ、ジャガイモの甘辛煮、柚白菜。追加で珍しいメニューの納豆麻婆豆腐、締めは鯛茶漬け。

ずいぶん食べてしまいました。

納豆麻婆豆腐はちょっとという感じがしたけれど、ほかはどれも美味しかった。

居酒屋料理ではなく、メシ屋の手作りおかずといった趣でした。

女性に人気がある理由は、料理がいけてるからだと確信しました。

店構えにしては安くはなかったですが、フラッと入った店にしてはアタリでした。

ついでに今日の一枚を披露させていただきます。

20170707

No.32 信州の小さなワイナリー

近年、信州にはワイナリーが次々誕生しています。
これから生まれようとしているところもかなりあるようです。

また信州ワインはこの数年で格段に味が良くなったという噂です。
やがて山梨を超えた本格的ワイン産地になっていく予感がします。

先日信州に旅行した際に、立ち寄った小さなワイナリーの話を書きます。

東御市(とうみし)は小諸市と上田市との間にあり、湯の丸高原や菅平への入り口としても知られています。
東御市には5つのワイナリーがあるそうです。
そのひとつが有名な玉村豊男氏の「ヴィラデスト・ガアーデンファーム・アンド・ワイナリー」ですが、そこからさほど遠くないところに、今回訪れたワイナリー「リュードヴァン(Rue de Vin」があります。

なぜここに行くことになったのか、さしたる理由はありません。
ネットでお昼を食べるところを探していたところ、千曲川ワインバレーなる記事を見かけ、見ているうちに「リュードヴァン」が手軽なランチをやっていることがわかり、行ってみるかということになった次第です。
土日以外は要予約ということで前日に電話しました。

東部湯の丸インターチェンジを降りて、北側の山を10分くらい登ったところの中腹にありました。
そこは葡萄畑になっていて、広く開けています。
そこにこんな感じのショップ兼レストランと、その後にワイン工場がかわいく立っていました。

RuedeVin

駐車場の脇にはお花畑があり、左側の斜面には葡萄畑が広がっています。
右の奥には八ヶ岳連峰があります。

中に入ると、10ー15坪くらいでしょうか、けして広くはない、レストランともショップともいいがたい空間がありました。
イメージしていたのとは少々違っていたので、戸惑いました。
ショップにしては、商品も余り飾ってありませんし、レストランといっても、ただテーブルがいくつか置いてある程度で、こじゃれた雰囲気でもありません。

しかし、女性が笑顔で迎えてくれました。
店にはその方しかいませんからシェフなのでしょうが、ソムリエバッジをつけています。

右側の八ヶ岳のほうの窓に向けて私たちのテーブルがきちんとしたレストランのようにセットされていました。

ランチは1種類なので、選ぶ必要はなかったのですが、水を運んできた彼女がこのワイナリーとここでつくっているワインについて熱く説明してくれます。

それを聞いていたら、ワインを注文しなければならないような気分になってしまいました。
一応、相棒に運転の交替を頼んで飲むことに決定しましたが、どれにしようか迷っていると、「赤ワインは在庫が切れていてお出しできません。申し訳ないのですが、白の中からお選びください。」と言うのです。

更に迷っていると、
「ソーヴィニヨン・ブランとシャルドネの2種類を半分ずつお出ししましょうか。」
(下の写真の右から3番目と一番左のボトルです)
「いいですねぇ、それでお願いします。」という具合に決まりました。

リュードヴァン

後で聞いた話ですが、赤ワインは今の生産量では1,000本くらいしかできないのだそうです。
生産量に対して固定費がかかるので、どうしても値段が5,500円と高くなってしまうのですが、それでも毎年すぐに売れ切れてしまうそうです。

さて、白ワインのお味はどうかというと、どちらも辛口で、葡萄の味が残り、やはり日本のワイン独特の味がします。私にはいまひとつかと思えますが、正直、ワインの味はよくわかりません。
シャルドネのほうが飲みやすかったかな。


ランチは美味しくいただきました。
特に高原野菜のサラダは新鮮で、野菜の種類も豊富でした。
   *(この種の野菜は、最近、軽井沢の『発地市庭』というところで手軽にまとまって手に入ります。)

この日、客は私たちの一組しかいませんでした。
食事を運んできたときも、料理の準備の合間にも、食事の後にも、彼女からいろいろ興味深い話を楽しく聞かせていただきました。

ワイナリーといっても葡萄を育てるところから醸造・販売まですべての工程を手がけているところは少なく、「リュードヴァン」のこだわりはそこにあると言います。

長野県には、「原産地呼称管理制度」といって農産物の品質を保証する制度があります。
外国から葡萄を買ったり、ワインを買ってラベルだけ貼って売り出す業者とは区別して、葡萄の生育から手がけ、醸造まで一貫して管理し、品評会での評価を得てオーソライズされた商品ということです。
ワインのほかシードル、日本酒なども含まれています。
長野県はワイン葡萄の生産量では日本一だそうです。

玉村豊男氏が代表を務める地域の共同出資会社「アルカンヴィーニュ」では、『千曲ワインアカデミー』という“栽培醸造経営講座”が開かれていて、全国から若い人が集まってきているそうです。
ここで教育を受けた人たちが、葡萄の栽培や醸造の仕事に就いたり、将来ワイナリーの経営を志望して付近の市町村に住み着いているみたいです。

起業までには資金や土地の確保などいろいろ苦労も伴うようですが、なんだか、東御市が豊かな住みやすい土地に思えてきました。

「リュードヴァン」の社長さんにはお目にかかれませんでしたが、この地域をワインで観光開発していく夢をお持ちだそうです。
店舗の正面の小さな山を新しく借りることができたそうで、そこに畑を広げ、参入者を募り、ワイン工場や、レストラン、ショップ、宿泊施設などを展開し、ワインヴァレーとして発展させる構想です。

そういえば、社名はフランス語で「ワイン通り」という意味でしたね。
夢を社名に乗せて頑張っているということですね。
いつか、ここが人で賑わう通りになることを願っています。

彼女が一人でシェフ、ウェートレス、ソムリエ、販売員、加えて時間のあるときにはラベル貼りと活躍する姿は、とっても生き生きとして映りました。
そして、信州の片隅で夢を追いかけて一生懸命に奮闘している小さなワイナリーを応援したくなりました。

今回もまた長くなってしまい申し訳ありませんでした。

No.31 眠れぬ夜に、俳句のことなど

私は毎月1回、俳句会に参加しています。
俳句会といっても、同好会のようなもので、特に宗匠がいるわけでもなく、気楽な仲間が酒を飲むタネに句を持ち寄って評価し合うといった程度のものです。

それでもみんな大変楽しくやっております。
もっとも、私は去年の9月に参加を許された新参者で、修行に励む身分であります。

熱心な幹事がいなければ続かないかと危ぶまれますが、会員に向上を目的とした俳句の勉強を求めるとなると、更に困難を極める様子です。
幹事は見かねるように、毎月、不勉強な私たちに選び抜いた教材を提供してくれます。


さて、今月の句会でいただいた教材のひとつは、「金子兜太 深緑の夜中」(名句検証; NHK『俳句』2017年5月号)でした。

句会から数日経って、ベッドの中でこれを読んでいるうちに頭がさえて眠れなくなりました。
これまで金子兜太(以下、兜太)の句が嫌いだったわけではなかったのですが、破格な読み方が受容しがたかったのと、なんということもなく独善に思えていました。

しかし、この記事の執筆者・今井 聖氏の、

     きょお!と喚(わめ)いてこの汽車はゆく新緑の夜中
                          *原著第一句集『少年』では、「きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中」

についての解説に頭をたたかれました。
それを抜粋して引用すると以下のとおりです。

  『汽車の汽笛が「きょお!」と音を高らかに発して、噎(む)せ返るような新緑の闇の中を進んで行きます。
    汽笛の音にポーとかボーとか擬音(ぎおん)を配するのは陳腐。詩人の為せる表現ではありません。汽笛が「きょお」と喚くのと芽吹きが「わめく」のは同じ。両者とも詩人の独自の把握が生かされていると言えましょう。』
(次いで、この句では俳句で禁忌とされている「!」という記号を入れたこと、大幅な字余りであること、歳時記の「新緑」の本意に反する「夜の新緑」という表現を用いていること、この3つを兜太はあえて承知で、というよりそうであることを強く意識してこれをつくっている、と指摘します。)
『兜太が意識したのは、木々の息吹が吹き出す夜中の雰囲気を五感で捉えてその中を突き進む「この汽車」を設定する。「この汽車」がその時「自分」になります。季節によって、自然によって生かされている受け身の自分ではなくて、季節を含む現実の空気を呼吸しながら驀進する主体としての自分が見えてくるのです。』

私はこの解説を読んでいるうちに、今井のややオーバーともいえる想像力による情景描写から兜太の創造力のすごさとおもしろさが伝わってきました。
この句における主体は汽車ではなく自分なのです。
このわずか1行に何と多くのことが表現されていることかと驚きました。

今井は、兜太の俳句の理解のために季語を入れて花鳥風月を詠む伝統俳句として高浜虚子の句を挙げ対比しながら解説を進めています。しかし、それがなくても兜太の目指す俳句の命が十分伝わってきます。

解説を読んで兜太の世界がわかってきたというのでは、俳句で遊ぶ者として話にならないのですが、これまで幾度となく兜太の句に接してきたはずなのに、初めてすんなり受け入れられた気がしました。


その夜、私は眠れぬまま、大学時代に買って捨てきれずにいた『現代文学の発見―言語空間の探求』(學藝書林)という昭和44年刊の一冊を書棚から探し出し、兜太の第一句集『少年』とそれに続く『半島』を久しぶりに読むことになりました。
ちょうど『金子兜太の俳句を楽しむ人生』(中経文庫)という母から借りた本も手元にあったので一緒に頁を繰りました。

兜太は、医師で俳句好きあった父親の影響の下、高校生の時から俳句に親しんでいたようです。
旧制水戸高校時代に初めてつくった俳句は、「白梅や老子無心の旅に住む」でした。
しかし、大学を卒業し海軍の主計官としてトラック島にいたときにつくった句には、季語はなく、字余りの破調です。

   空襲 よくとがった鉛筆が一本
   水脈の果炎天の墓碑を置きて去る

南方の島で孤立し、死を覚悟した状況では、季語も字余りも考える余地など無く、叫びたかったでしょう。
でも、こういう逼迫した状況を経て兜太の俳句観はできあがっていったのではないかと推測します。
このとき26歳くらいだったのでしょうか。

兜太は戦争から帰ってきた後、俳句に『社会性』を持たせようとしました。
『少年』や『半島』では終戦後の社会の不安や、人々の貧困生活を詠んでいます。
「きよお!・・・・・・」の句は『少年』の中の兜太が福島に住んでいた昭和26ー28年の作品です。

戦友の多くが戦死し、自分は米国の捕虜となって生き残ったという惨めな戦争体験が花鳥風月などではなく社会を見詰めざるを得なくさせたのでしょう。

俳句であることを踏まえながらも伝統には収まりきれない激しいものが湧き上がっていたのだと思います。
ぶつける心情の連なり、重なりによって形成される3句体の詩が俳句となったということなのでしょう。

俳句を俳句の決まり事の中で培ってきた人にとっては、兜太の句は俳句の形をした詩であり、俳句ではないと言うことも可能でしょう。
こういう見識が後に兜太が前衛俳句の旗手と見なされることにつながっていったのでしょうか。
俳句をする人たちに存在が意識され認められていったのは、揺るがない俳句観と自分の理論を説明できたからかもしれませんし、自己の確立という戦いを貫いたからかもしれません。

兜太はいろいろな著作で自分の俳句(のつくりかた)について語っていますが、『金子兜太の俳句を楽しむ人生』のなかでは「五七調である最短定型の3句体」と定義し、「自由律の俳句を作ろうと考えたことは一度もない」と述べています。
加えて、「この最短定型」は日本語の「土」の役割を果たしている」とおもしろい表現をしています。
 *兜太には『短詩型文学論・俳句論』(紀伊國屋)という著作があります。

もう一度今井の記事に戻ります。
『(兜太は)俳句を俳句たらしめている特徴を「俳句性」と呼ぶとすると、俳句性は「定型」以外には無いというのです。表記も季語の有無も自由。季語の「本意」を尊重するかどうかももちろん自由。表現というのはそもそも自由なものだという考え方で、俳句の唯一の縛りは「定型」であると日頃から述べています。(中略) 兜太は十七音定型という基本の縛りがあるからこそ字余りも存在価値が出てくる、定型を意識するからこその破調なのだという考え方です。』

ここで私なりに少しまとめますと、兜太の句は定型に収まっているものはほとんどありません。
しかし、あくまで「日本語の土」である五七調のフレーズを基本に置きながら、選んだ言葉の3つのフレーズで構成しています。
花鳥風月にとらわれない、人間くさい題材を、自分の感性に忠実に、選んだ言葉で短い詩に作り込んでいる、こんな感じでしょうか。
つまり、俳句には意識しなくてはならない定型があるからこそ、できたものが定型でなくても受容されるというパラドキシカルな論理です。

凡人がこれにならって作句しようと思っても、1フレーズは気の利いた言葉を持ってこられるかもしれませんが、3フレーズともこういう言葉を探して組み合わせるのはなかなかむずかしいと思えます。


ついでながら、兜太の俳句の題材は年齢によりどんどん変化を遂げていきました。
四十代から五十代にかけて、社会性俳句から脱却した時代について自ら次のように綴っています。
『社会性から素材的リアリズムに傾くことを避け、主体的確立とその内実の形象を目指した。.』

しかしまた、これも六十歳を過ぎる頃には、平易に日常を詠む方向へと変化していきます。
    髭のびててっぺん薄き自然かな
などは季語はないけれどごく普通の俳句です。
そして『本当の俳句というものは、日常詩が基本です。そのなかに時々芸術性を獲得していく、これが俳句というものなのです。』とまで言うようになっています。
    彎曲し火傷し爆心地のマラソン


今日は、金子兜太の世界が、俳句という言語空間で自己を追求していく中で探り当てた独自の世界なのだということを、あらためて学びました。


眠るために、いけないとは承知で“イチローズモルト”をキュッといっぱいやりました。
強烈なチャコールの味が口から喉元に伝わり、気持ちが落ち着きました。

つい長くなりました。
まだまだ言い足りませんが、おやすみなさい。