酔遊記

密かな楽しみ、味わい深い居酒屋をめぐる。

No.7 武蔵屋は永遠の居酒屋

行ってきました、幻の居酒屋『武蔵屋』へ。

11月末の雨のそぼ降る夕方、横浜・桜木町の駅に降り立ちました。

伝聞によると、『武蔵屋』は看板も出ていない民家ということです。居酒屋のガイドブックや情報誌には、「地図はお店の都合により掲載しません」とあります。これだけで十分な神秘性があります。
しかも、開店するのは週3日間だけです。これに加えて、店を営む老姉妹が八十代後半という高齢のために、時々長期にわたって店を閉めることがあるとも聞いていました。もしかしたら、店はもう閉じられてしまっているかもしれません。店が開いているか不明なのですから、武蔵屋で酒を飲めることになったら、僥倖に恵まれたというしかありません。

野毛の商店街を外れて脇の小道へ。ここまで来てしまってから、閉まっていたらどうしようか、電話をしてみればよかったな、混んでいて入れない場合にはどうしようかなどという考えが頭をよぎります。

緩やかな坂を上り、見当をつけた辺りをぐるりと一回りしてみましたが、それらしき店は見当たりません。もう一度と思って角を曲がろうとしてひょいと見上げると、平屋の玄関から明かりの漏れる民家がありました。
木の塀があって、中には2、3本の木が植わっています。しかし、看板はありません。これだと思いながら石段を登って入り口に立ち、恐る恐るガラス戸を開けます。

ここだ、ここだ。みんな談笑しながら気持ちよさそうに飲んでいるではありませんか。右にカウンターがあって、左にはテーブルが2卓、奥には小上がりがあります。カウンターとテーブルはすでに一席残らず占拠されています。
店が開いていたことに気が緩んだのか、入り口にボーッと佇んでいると、「おひとり?」とカウンターの向こうから声がかかりました。

「奥の座敷にどうぞ」と案内されます。私は、これが武蔵屋かという昂ぶる気持ちを抑えて店の中を眺め回しながら奥へと進みました。

座敷というのはなぜか畳4枚と中途半端な広さです。ここに座布団が14枚敷かれています。そして、すでに6人が座っていました。14人は窮屈だと思いますが、私を入れてあと6人は大丈夫そうです。でも、たった4畳に10人以上が座れるなんて発見です。

誰か素人がこしらえたかと思うような頼りない、低くて細長い座卓が4つ置かれています。周りの壁は全部板張りです。山小屋と言われれば山小屋のような、見るからにすべてが質素なつくりです。

頭の上にはぐるり四方に額がかけてあります。それらは、色紙だったり、絵だったり、写真だったりしています。平山郁夫という名前の色紙があります。写真には、創業者の木村銀蔵さんが写っています。居酒屋の主人にふさわしい、いい名前だと思います。
額は、テーブル席の上にも、カウンター席の上にもかけられています。画家に政治家に作家、どれも有名人が贈ったものなのでしょう。

ここには昭和がそのまま生きています。骨董的存在ではなく、今もそのまま暮らしが息づいているという感じです。人をノスタルジックに包み込んでくれるやさしい風景です。

店の人は、老姉妹と学生アルバイトと思しき男女2人の4人だけです。まだ、開店したばかりの時間帯なので、若い人たちがコップを席に置いたり、突出しを配ったりしています。

この店のしきたりというのをあらかじめ覚えてきました。酒は3杯まで、品書きはなく、酒の肴は決められた5品ということです。

私のところにも、若い女性がコップと最初の肴を持ってきました。おからと玉葱の酢漬けが小皿に盛られています。
「お酒でいいですか」と尋ねられ、「はい」と答えます。
いつもならば、まずはビールを飲むところですが、普段は酒を3杯なんて飲まないので、今日はがんばって酒だけでいってみましょう。あとは、ここのしきたりに従ってただ待つだけです。

間もなくして、老婦人が、というよりもここではおばあちゃんといったほうがふさわしいと思いますが、土瓶に入れた酒を持って回ってきました。
「お待たせしました」と言って土瓶を高々と上げコップめがけて注ぎます。こぼれんばかりの表面張力でピタリと止めました。見事な技です。
周りの人を見ますと、最初の一口は、誰もが腰を屈めて顔をコップに持っていき、すすり込んでいます。私もそれに倣って一口すすります。燗の温度も絶妙です。
酒は桜正宗。美味い。

小上がりにいる人たちはみんな常連のようです。しかも年配の人ばかり。おばあちゃんのことを「おかあさん」と呼んでいます(ここからは私も「おかあさん」と呼ばせてもらいます)。酒を注いで回っているおかあさんがお姉さんのほうで、今年米寿のお祝いをしたそうです。お元気です。

ここで騒ぐ人はいないでしょう。かといって、厳粛な雰囲気は微塵もありません。ここに集う人たちはみんなが、ずっと知り合いで、和気藹々と人生のひと時を楽しんでいるといった雰囲気です。誰でも暖かく迎え入れてくれる、分け隔てのない空気に好感が持てます。

酒がなくなったのを見計らって、今度は若い男性が土瓶を持って現れ、上手な手つきで注いでくれました。アルバイトなのでしょうか、それにしては上手い。おかあさんと同じくらいの技があります。

納豆と鱈豆腐の小鉢が運ばれてきました。鱈の塩味が効いて、美味しい。鱈豆腐の味は、私にとっては懐かしい味です。

お姉さんおかあさんは、人たちの間に立って談笑を愉しんでいます。妹さんはお燗器の前のいすに座ってニコニコと店の中を眺め回しています。

この店には妙にさっぱりとした清らかさがあります。色が抜けているというのか、生臭い浮世など無縁な不思議な安寧を醸し出しています。そういう意味では、ありそうでなかなか出会えない非日常的な空間でしょう。

3杯目も、若い男性が上手に注いでくれました。
5品目の肴の漬物が出てきました。

私は、入り口近くにある銅製のお燗器が気になりました。これに近いものを御徒町の「八幡屋」で見たことがあります。おかあさんが近くに来たので、話を伺いました。

武蔵屋の創業は大正8年で、このお燗器は昭和10年製だそうです。75年前のものということになります。二層構造になっていて、下部には練炭を入れ、上部の水槽を熱します。湯の中には錫の管が2周り巡らされていて、上の入り口から注いだ酒は管の中を回って温められ、下の蛇口に到達して土瓶に入れられます。
許しを得て写真を撮らせてもらいましたので、それをご覧ください。
 

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ほぼ1時間の滞在でしたが、3杯を気持ちよくスルスルと飲んでしまいました。初めての訪問なのに、前からの馴染みであるかのような居心地の良さがあります。それはこの店の歴史とおかあさんたちの自然な穏やかさとそれを受け入れてきた客たちが作り出す和やかな空気によるものでしょう。
居酒屋は酒や料理で決まるものではないということを武蔵屋は教えてくれています。

私がいる間には小上がりに新しい客は来ませんでした。しかし、長居は無用とお勘定をお願いすると、なんと2,200円でした。

外に出て冷たい空気に触れると、武蔵屋がなぜこんなにも愛されるのかがわかってきました。"幸福とは何か"という命題に対する答えがここにあります。

武蔵屋がいつまで営業できるのかわかりませんが、ここに集う人たちにとって武蔵屋は永遠の居酒屋です。

翌日になっても武蔵屋の不思議な空間が私を包み込んでいました。
昨夜私が訪れたのは幻のユートピアだったのでしょうか。

 

No.6 No.5の追加訂正

『ミシュランガイド東京・横浜・鎌倉2011』には、「シンスケ」「萬屋おかげさん」「味泉」のほかに居酒屋がもう1軒掲載されているよ、とのご指摘をいただきました。

そのとおりなのです。麻布十番の「六角」という店ですが、私は行ったことがありませんし、名前も知りませんでした。ただ、料金が 10,000~20,000円(サービス料5%)とありましたので、私の基準から言うと、これが気軽に行ける居酒屋か?と疑問に思いましたので、あえて名前を挙げませんでした。

No.5 ミシュランガイドに居酒屋が...

11月27日に発売された『ミシュランガイド東京・横浜・鎌倉 2011』に、ナッなんと、"居酒屋"が掲載されてしまいました。

『2010』では新たに焼き鳥屋が追加されましたが、『2011』ではおでん(一期・麻布十番)、とんかつ(かつぜん・銀座)、そして居酒屋が追加になったと聞きました。
『ミシュランガイド』もずいぶん大衆化したものだと思いつつ、「なんで居酒屋が?」と気になって、やはり買いました。

所詮、居酒屋ですから、快適性など求めても仕方がないので星がひとつなのは当たり前として、どこが取り上げられたかといいますと、シンスケ(湯島)、萬屋おかげさん(四谷)、味泉(月島)の3店です。
どれも、それなりの名店です。

特にシンスケは私の居酒屋としての6条件を満たす、文句なしの一押し店です(写真が掲載されなかったのが惜しいですが、これもシンスケらしい)。
萬屋おかげさんも、狭い地下の店は居酒屋としては風変わりですが、酒も肴も凝っていて、どれもが美味しい。酒飲みなら誰もが満足するはずです。
味泉は、魚介類が美味しい。ただ、料理の出るのがやや遅くて、店内が狭く席が窮屈なので、ゆっくり酒を味わいたい分には向かないかもしれません。

ミシュランガイドの居酒屋収載には出し抜かれましたが、なぜこの3店なのか、評価基準に合点がいきません。
基準については書かれていませんが、ミシュランのことですので、多分、料理の美味しさを評価の中心にしたのでしょう。
それも魚介を中心とした料理であって、素材そのものを生かした料理、煮込み、焼き豚、揚げ物といった料理は対象にされていないと推測します。
それに、残念ながら居酒屋としての重大要素である店の風情や居心地、大衆性といったことは考慮されていないようです。

店の紹介も、たいしたことは書かれていません。また、たいした調査もされていないと思います。
この3店に勝るとも劣らない名店は、ほかにもたくさんあります。
"私の居酒屋ミシュラン"を発表するには、まだ回らなければならない店が残っています。今しばらくお待ちください。