酔遊記

密かな楽しみ、味わい深い居酒屋をめぐる。

No.15 一見さんはつらいよ?

先日、外出の用事が早く済んだので、せっかくだからちょっと遠くへ足を延ばしてみたいという気になりました。
会社が終わってからですと、山手線より外の地域には、なかなか行けません。会社から小一時間かかるようなところだと、せっかくその居酒屋を目指していっても、到着するのがまさに客足のピークの7時頃になってしまい、満員で断られることがよくあるのです。簡単には出直せないと思うと、回転がよさそうな店のときには、並んでも待つことにしています。1時間近く待ってようやく席に着けたというところもありました。
居酒屋の開店時間は店によって違いますが、5時か、5時半頃には開きますので、6時頃ならば、予約がなくても、大抵はカウンターの席につくことができます。
だから、まだ空いている時間帯に居酒屋に辿り着ける外出先から直帰できる機会は貴重なのです。

私はそんなチャンスにウキウキしていました。国会議事堂前から地下鉄に乗って、渋谷の2つほど先の駅に降り立ちました。
目的の店は駅から五分ほど歩かなければなりません。駅前の商店街は帰宅途中の買い物客で混雑していて思うように進めません。6時に近くなっていて気分は少々焦っていました。地図を片手に夏の西日を浴びながら汗びっしょりになって、ようやく辿り着きました。
店は夏だというのに、扉も窓も開け放ってあります。中を覗くと客は一人もいません。ホッとした気分で暖簾をくぐりました。

主人らしき四十半ばの男性が下を向いて調理をしているらしい姿がカウンター越しに見えます。
「ひとりですが、カウンターに座っていいですか」と尋ねるも、すぐに返事が来ません。考えている様子だったが、ややあって、「今日は予約でいっぱいなんだ。すみません」とぶっきらぼうに言ったかと思うと、すぐにまた下を向いてしまいました。
予約でいっぱいと言ったって、まだ誰もいません。ここで怯んでなるものかと、「遠くから訪ねて来たんです。ちょっとの間でいいから飲ませてください」と懇願しました。冷ややかな沈黙があります。
もう一度、「ふらっと立ち寄ったというんじゃないんです。この店の評判を聞いて、是非一度と思って、電車に三十分乗ってやって来ました」と付け加えました。
このひとことが返って刺激してしまったのかもしれません。
「そういうのがこの頃多いんだよ。雑誌で見たとか、ネットで見つけたとかというやつらには困っちゃうんだ。どうせ一度しか来ないんだから」
怒っているような荒っぽい口調です。
見れば、店員が一人、隅の方でモジモジしています。あァ、これはだめだと思った瞬間、また言葉が返ってきました。
「一時間以内と約束してくれれば。一番奥に座って」
面倒くさそうな声だったが、雲行きは急変しました。この機を逃すまいと、「ありがとうございます」と神妙にして、さっさと席に着きました。

カウンターは6席、小上がりが2つの狭い店です。壁には所狭しと品書きが貼ってあります。少しゴチャゴチャしていますが、掃除が行き届いていて清潔感が漂っています。
カウンターの一段高い場所には焼酎の一升瓶が十本ほど並べられていて、奥の席からは主人の姿が見えません。
若い店員にまずはビールを頼んで、品書きを眺めます。魚介類を中心に、野菜、肉など幅広い料理ですが、焼き鳥、焼き豚の類はありません。品書きから魚へのこだわりが感じられます。ほどよい値段です。
魚の刺身は毎日食べているのでやめておいて、ビールが来たところで"秋田岩がき"を注文。
食べたいものがいろいろあり、かなり迷うが"青森ホヤ"を追加。

岩がきが来ました。実が肥えていて、ねっとりした下触りに思わず「おいしいですねぇ」と言うと、「岩がきは8月も終りじゃぁ、そろそろおしまいだよ」
今度は"ホヤ"が来ました。山葵醤油です。思わず「軟らかくて、味がいい」と言いますと、また、「ホヤももう終りの時期で、美味いのが入ってこないんだけどね」と冷たい響きの声が返ってきた。今頃こんなものを食べて美味いと言ってるようじゃ、おまえはわかってないなと言われているような気がしてしまいます。
こっちは食べたいと思うものを注文しているのだし、しかも品書きにあるのだから、ブツブツ言われる筋合いはありません。しばしの沈黙。

ビールがなくなって、私はようやく声を発しました。
「"加賀鳶"を燗でお願いします」
運ばれてきた酒の燗の具合も丁度良く、料理の盛り付けもぞんざいなところは少しもなく、上等に思えました。
なんだか掟を破るようで少し躊躇われましたが、酒瓶の向こうに思い切って話し掛けてみます。
「どこかで修行されたんですか」
「ほかの店で働いたのは少しだけで、ほとんど独学です。自分で店を始めてから考えて覚えたほうが多いかな」
意外とスラスラした答えが返ってきました。そこから会話が始まりました。
ひとしきり、自分が培ってきた鮮魚や野菜の仕入れの方法について語ってくれました。なんだか段々言葉遣いも丁寧になってきて、打ち解けてきた感じになってきました。

話が一段落したところで、私は席につく直前の会話を蒸し返すように、恐る恐る言ってみました。
「私は、居酒屋歩きを楽しみにしてるんです。近くはないので、これからちょくちょく来るっていうわけにはいかないけれど」
「うちはほとんどが常連さんでねぇ」ぐっと前へ張り出すような声です。常連だって、最初は一見客から始まったに違いないのです。
「私みたいのが突然やって来てしまって、申し訳ないですねぇ」
「最近そういうお客が増えて困ってるんですよ。そういうのに限ってこういう店に来たらマスターと話し込むものだと思い込んでる奴が多いんだ。こっちはお客さんに美味しいものを出してやりたいと思って一生懸命集中しているのにさ、やたら話し掛けてくる」
私に向かって返答しているのか、独り言なのか。私も、下ごしらえをさえぎって話し掛ける、ただの一見の客に過ぎません。
「でも、こうして知らない居酒屋を巡礼すると、何かを発見することがあって楽しいんです」
「こっちの商売にはちっとも嬉しくない。だから最近は、取材は断っているんです」
そういいながら、見れば小上がりのところの柱に雑誌の紹介記事がきれいに額に入れて飾ってあるではありませんか。

そんなとき、二人連れの客が入ってきました。話のやり取りから常連客であることがすぐにわかりました。
主人の声色も微妙に変わりました。
「今日は米沢牛のいいのが入っています。たたきか、ステーキで召し上がりませんか」と勧めます。
会話はそこで途切れてしまいました。私はすっかり常連客の話を聞く立場に変わりました。

私は、ほろ酔い加減というわけではなかったけれど、約束の時限が来る前に立ち上がりました。勘定を払ってつり銭を受け取るとき、主人がニコッと笑いました。いや、ただの気のせいかもしれません。
私は、陽の落ちた商店街を、人波を避けて駅へ向かいながら呟きました。
『偏屈なオヤジだった。そういえば、独りでやってる居酒屋のオヤジって、変わっているのが多いなぁ』。
でも、客なのにこんなに気を遣って飲ませていただいたのは初めてです。一見はつらいなぁ。

No.14 大丈夫か、日本の居酒屋

イギリスではパブが経営難で、急な勢いで姿を消しつつあるそうです。
その背景は、近年イギリスでは犯罪が増え、それに伴って酒を規制する法律ができたり、若者たちの嗜好がパブの飲み物であるビールからワインに移り、バーやカフェが新しい世代のたまり場になっていることと、飲食店での喫煙を禁じる法律ができたことが追い討ちをかけてパブに人が来なくなってしまったということです。
パブはこのままイギリスからなくなってしまうのでしょうか。イギリス好きの私には、何とも寂しい話です。

そんな話題が飛び火したように、日本の居酒屋も衰退の一途を辿っているという、非常にショックな話を耳にしました。日本の居酒屋の市場規模はこの10年あまり縮小し続けているのだそうです。
ピークだった1992年頃には1兆4,629億円の市場規模だったのが、2010年には1兆円程度にまで減少してしまっているというのです。さらに、今後10年間で2,000億円くらい減るだろうと予測されています。

にわかには信じがたい現象です。繁華街を歩くと、どんどん新しい店ができ、入ろうとしても満員で断られることがしばしばあるので、居酒屋は繁盛を極めているかのように思い込んでいましたが、事実はまったく違うのですね。日本の居酒屋は大丈夫なのでしょうか。

確かに繁華街では、席数200以上もあるような大型チェーン店の出店競争ばかりが目に付きます。店頭や街角では、『全品270円』とか、『呑み放題 1,200円』とか『最初の1杯無料』といったチラシやティッシュが配られ、声をかけられます。実に激しい集客戦争が行われています。
しかもそういう大型チェーン店がひとつのビルの中に集中してあったりしています。これはどういうことなんだと不思議に思うのですが、それはそれで理屈があるようなのです。
しかし、これでは売上高も収益力も落ち込んでしまうのは当たり前だと思うのですが、勝敗の分かれ目は何なのでしょうか。

味や雰囲気やサービスで勝負しない日本の居酒屋メジャーは完全に負のスパイラルに落ちっています。大型チェーン店の近い将来の淘汰もやむをえません。しかし、どんなことになっても個性のある、いい居酒屋は必ず残ります。

居酒屋は、イギリスのパブと同じように、日本の大衆文化であり伝統です。私としてはどこの国でも居酒屋文化が衰退してほしくはありません。
でも、日本の居酒屋の将来は暗いんだなぁと、チョッと憂鬱になりました。

No.13 長崎は美味しい(2)

二日目の長崎。昼食にはチャンポンを食べました。
仕事を終えて思案橋に戻ってきましたが、まだ真昼のような明るさです。なかにし礼の小説「長崎ぶらぶら節」の舞台になった丸山界隈を散歩してみることにしました。
思案橋というのは、男たちが花街であったこの丸山の橋の袂に佇んで、入ろうか入るまいかと迷った入り口であったそうです。今はその橋はありません。街並みに入ると、丸山公園というのがあります。そのあたりはレトロな感じが漂っています。昭和の初め頃かと思われる石造りのしゃれた交番があり、別な一角にはカステラの老舗・福砂屋本店があります。福砂屋本店は、黒塀に囲まれた大きな屋敷で、いかにも老舗の商家といったどっしり落ち着いた構えです。ちなみに寛永元年(1624)の創業です。
公園の先には料亭・花月があります。「竜馬がゆく」や「長崎ぶらぶら節」にも出てくるそうです。確かに歴史を感じさせる堂々とした外観です。いかにも高級そうで、こんなところで卓袱料理を食べてみたいものです。隣の建物は長崎検番という、その昔芸者の取次ぎや事務を取り扱ったところだそうです。
そこからは小高い丘になっていますが、家がびっしりとひしめくように建ち並んでいます。花月と検番の間の道をしばらく登ると、梅園身代わり天満宮があり、さらにその上に中の茶屋がありますが、現在は修理中で見られませんでした。丘の上に出て歩くと、幕末の砲術家・高島秋帆旧居跡に出ます。取り立ててなにもありませんが、そこから長崎の町並みが眺められます。丘の向こう側に降りて大きな道路に沿って思案橋まで戻りました。約 30分の散歩でしたが、さすが歴史の街・長崎、どこへ行っても史跡に当たります。

さて、そろそろ酒場に繰り出すのに程よい時間です。まずは思案橋のすぐ近くの「安楽子」(あらこ)へ。

軌道電車の走る思案橋通りからひとつ裏に入った小道の角に、建物を廻らすようにして大きな看板があります。「大衆割烹 安楽子」と大書してあります。店先には黄色いスーパードライの看板が立てかけてあったりして、見かけはありきたりの居酒屋の様相です。
7時チョッと前ですが、中に入ると、カウンターに二人連れが一組いるだけで、拍子抜けするくらい客がいません。私は端っこに座らせていただきます。外見に比べて店内は、実にクラッシックです。黒光りした柱や天井が落ち着いた雰囲気を醸し出しています。カウンターの前に長いガラスの冷蔵ケースがあるからでしょうか、居酒屋というよりはチョッと昔の寿司屋のようなつくりです。小上がりのほかに部屋もいくつかあるようで、中はけっこう広いのです。

いつもの通り、最初はビールを注文します。ケースの中には、大きいのから小さいのまで、ものすごい種類の魚介類が溢れんばかりに詰め込まれています。しかもどれも艶々しています。しかし、品書きを見ると、鯨料理がずらりと並んでいて、ばかに鯨が強調されています。これは普通ではありません。関東では鯨といえば赤身とさらし鯨、ベーコンくらいでしょうか。
目の前で魚を捌いている人のよさそうな若主人に尋ねます。
「長崎は鯨も美味しいんですか?」
「何を言ってるんですか、長崎の鯨は日本一ですよ。市内のかなりの料理屋においてあります」
それは知りませんでした。サエズリ、ホンガワ、オノミ、コロ、ヒメワタ、スエヒロなど聞いたことのあるような/ないような名称が並んでいます。鯨料理は東京でも新宿の樽一、駒形どぜうといったところで食べられます。しかし、こんなにもいろいろな種類はありません。思い出した、秋田で食べた塩鯨と茄子の汁が美味しかったのを。
新鮮な長崎の魚にも惹かれるけれど、ここは鯨を食べてみることにします。
「何がお薦めですか」
「いろいろ試してみるのに、盛合せをつくりましょうか」と言ってくれたのでお願いしました。

あぁ、ビールが美味い。
鯨の刺身を待っている間に、次々と客が入ってきて、たちまち賑やかになってしまいました。中高年のサラリーマンが多く、若い人や女性は見られません。
ガラスケースの向こう側近くに、葱を巻いて縛ったものが皿に山のように盛られています。今つくったばかりと主張するかのように光を放っています。美味しそうなのでこれを注文します。葱巻きと呼ぶそうですが、酢味噌で食べるので葱ぬたと同じです。ただ、幾重にも巻き込んで締めてある分、濃密な味わいがあります。これはいくらでも食べられそうです。

鯨が出てきました。サエズリ、ベーコン、スエヒロの3種類です。ビールを飲みながら鯨の話を聞かせてもらいます。
「捕鯨は禁止と言われながらも、今でもけっこう食べられるんです」。「日本で流通している鯨はミンク鯨などの調査捕鯨の鯨で、ペニスやヒゲまで余すところなく食べてしまいます」。「アメリカだってヨーロッパだって、昔は鯨油を機械油や灯油として利用するために太平洋まで捕鯨に伸して来てたんですよ。自分たちが使わなくなったから食用はだめだなんてなっちまって」。
サエズリというのは舌の部分で、セセリともいうそうです。一切れの長さは5~6センチで、本体は白く、片側2ミリくらいが黒っぽく、反対側1~2センチが赤身がかった肉です。口に入れるとモチッとした感じですが、口内で温まるとトロッとしてきます。ポン酢で和辛子を付けながら食べます。
ベーコンは畝須(うねす)という下顎から腹部に掛けての部分の肉で、外側が赤色に着色されています。東京でもかなりレベルの高いものを食することができますが、この店のベーコンはさらに上等です。鯨のベーコンをこんなに美味しいと思ったことはありません。
スエヒロは、ベーコンと同じ畝須を水煮したもので、煮ることで脂分が程よく抜けているので、さっぱりしています。でも、私はベーコンのほうが好きですね。
こんな具合に、鯨の肉にしばし酔いしれました。

次に何を飲もうかと見渡すと、「案楽子」と命名された酒もあります。しかし、焼酎の品揃えがすごい。ここで日本酒を飲んでしまうと後が続かなくなってしまうことも考え、焼酎を注文します。銘柄は忘れましたが、とにかく九州のものしか目に付きませんでした。

もうひとつどうしても食べてみたいものがあります。イイダコの刺身です。イイダコといえば塩焼きかおでんのような煮物で、刺身というのは味わったことがありません。これを注文します。わさび醤油で食べてみると、コリコリした歯ごたえはありますが、思ったほど生臭いということもありません。その代わり、あまり味もなく、フーン、これがイイダコの刺身かという程度の感想しか持てませんでした。やっぱり刺身には向いていないんだろうな。

店内も8時近くになって、ほぼ満員状態です。それではもう一軒まいりましょう。
昨日の思案橋横丁に行って「味処こいそ」を探します。地図を持っているのですが、なかなか見つかりません。ようやく人が一人通れるくらいの細い路地の奥の奥に店の看板を探し当てました。これはもう地元の常連さん相手の居酒屋としか言いようがありません。

中へ入ります。チョッと洋酒バーのような雰囲気で、薄暗く細長い店です。右側がカウンター席、左側がテーブル席、奥に小上がりという配置で、どこも人で埋まっています。カウンターの真ん中あたりに一席空きがありました。
カウンターの上には10種類ほどの大皿料理が並んでいます。野菜を使った惣菜が目に付きます。そして、見るからに日本酒の品揃えが豊富です。

久留米の万年亀という純米酒を燗でいただきます。肴は刺身類もあるのですが、目の前に並ぶ惣菜から揚げ茄子の唐辛子味と長芋の唐揚げを注文。鯨のカツもあるのですが、やめておきました。
一人酒は私だけで、みんな連れと賑やかにやっています。人のよさそうな主人が、フラッと入ってきた私に、料理の説明など丁寧にしてくれて気を遣ってくれます。客層もすいずん若いし、女性も多いのです。主人と奥さん、それに手伝いの人でよくこれだけの客を愛想よく切り回せるなと感心します。
残念ながら、料理は私がたいしたものをとらなかったせいもあるが、可もなく不可もない一般的な味です。店の人はこの上なくいい人なのですが、欲を言えば、居酒屋としてもう少し雰囲気づくりを工夫してほしい気がしました。

もう腹はいっぱいだし、酒もそう飲みたくはないのですが、もう一軒、おでんの「はくしか」が残っています。おでんは昨日食べたし、もういいかと気持ちが引っ込みましたが、「はくしか」は長崎では名店らしいのです。せっかく来たのだから、エエィ、こうなったら行っちまおう。

また思案橋に戻り、電車通りを渡って飲食店街の中を、今度は、ブラブラではなくてフラフラと歩きます。横丁は昼間よりも多い人の波で賑やかです。時間が時間だからでしょうか、すれ違う人はみんな陽気な顔に見えます。まるで夜の新橋駅あたりの光景です。
大通りから百メートルくらい路地奥へ進んだところに「元祖淡口おでん はくしか浜町店」はありました。これがおでん屋?と疑いたくなるような立派な店構えです。

中へ入ると、けっこう混んでいますが、こざっぱりした店内は広くてゆったり感じます。コの字カウンターの中に立つ、大柄な割烹着姿の女将さんみたいな人が、「ここどうぞ」と言って入り口近くの角の席を指してくれます。
見晴らしの良い席です。カウンターの向こうもゆったりしています。そう感じるのは、おでん舟が大きいからでしょうか。昨夜の「桃若」よりもさらに大きいのは確かです。神棚があるではないですか、こういうのがあると居酒屋らしくて嬉しくなってしまいます。その下には「おでん一筋五十年」と書いてあります。長崎の居酒屋はどこも歴史がありますねぇ。
酒は白鹿で、焼酎は5種類くらい。おでん屋にしてはめずらしくワインが置いてあります。ボージョレ、シャブリと5種類くらい揃っているのには感心しました。おでんにワインとはどんなものかと考え、コノスル・カベルネ・ソーヴィニョンというチリの赤ワインを頼みます。
続いておでんはと思って見回すも、壁にはおでんの品書きがなく、どんなものがあるのかわかりません。わたしが舟のほうをそれとなく眺めるとすかさず、髪を大きく頭の上に丸めたアキ竹城似の女将さんに「こちらは初めてですか」と聞かれました。
「ここへ来たら、はくしか特選揚げを食べなきゃだめよ」と言われたので、それではと、それと豆腐と昆布を頼みます。ここから見るおでん舟の出し汁はお湯のように澄んでいます。女将さんが、すぐにユラユラ立ち上る湯気の中から注文の品を取り上げてくれます。おでん種は25種類くらい入っているそうです。言われるように、はくしか揚げは美味しい。柔らかいさつま揚げのようなもので、いろいろ野菜が入っています。

奥にある座敷の客たちが帰ろうとしています。そうか、もう9時近かったのです。客の一人が女将さんに何か冷やかしを言ったので、転げるように大笑いしながら言葉を返しています。その会話から女将さんの名前がのぶこさんであることがわかりました。
おでんを除く品書きが、剣道場の名札のように鉤状の釘に整然と掛けられてあります。美味しそうなメニューが並んでいます。
ハトシというのがあります。のぶ子さんが答えてくれました。
「ハトシっていうのはねぇ、長崎名物なんですよ。パンの間に海老のすり身を挟んで揚げたもので、おいしいですよーォ。お試しあれ」という言葉に、そのまま注文。ついでにこれも珍しいのでオランダコロッケもお願いしました。ほかに鰯のやわらか煮、鯖の燻製なども気になりましたが、とりあえず。

なぜか不思議とゆったりとした空気が漂っています。のぶこさんの個性が光りますが、もう一人、やはり割烹着を着た年配女性が奥で忙しく立ち働いています。のぶこさんより細身です。そこは調理場になっていて、彼女がおでん以外の肴を拵えているようです。そこそこ混んでいるのに、あまりうるさく感じません。客たちも話をしているのだけれども大騒ぎする輩はいません。
のぶこさんを見ていると、急いでいるようには見えないのですが、すごい手際の良さです。客たちとのコミュニケーションを絶やさないようにしながら、奥にも声をかけ、自分の持ち場を仕切っています。客に対する気配りもたいしたものです。私は、失礼ながら、のぶこさんの人生を思いました。毎日こんなふうにして、忙しくカウンターに立ち、愛想を振りまいて客の相手をして人生を終えるんだろうけれども、楽しくて幸せなんだろうなと。

おでんにワインも悪くはありません。つみれに、糸こんに、はんぺんを追加します。くどいようですが、おでんは、薄味で、形が崩れてなく上品な感じで、中までしっかり味が滲み込んでいます。
ハトシと、とろけるチーズをマッシュドポテトで包んだようなオランダコロッケも美味しかったです。

いつの間にか客たちが減ってきています。アーァ、いい気分だ。そろそろお暇しましょう。ウムッ、「こいそ」を出たときには腹がいっぱいと思ったのに、どうしてこんなに飲んだり食ったりできたのでしょうか。ワインで酔ってしまった、というより「はくしか」に来る前から酔っていたので、今は酩酊状態です。でも、最後にがんばって来た甲斐のある店でした。


はじめは5軒なんてとても回れないと思っていたのが、案外簡単に巡ることができたのは、まずは長崎の居酒屋がどこへ行っても美味しかったからにほかなりません。長崎の食文化の高さを知らされました。もう一つは、長崎の人が皆人懐こくて親切で優しかったからです。
明日の昼は、康楽(かんろ)の皿うどんにしようッと。
長崎は美味しい!

注)鯨についての記載の一部は、「くじら日和」(http://www.rakuten.ne.jp/gold/kuziran/)を参考にさせていただきました。