私は毎月1回、俳句会に参加しています。
俳句会といっても、同好会のようなもので、特に宗匠がいるわけでもなく、気楽な仲間が酒を飲むタネに句を持ち寄って評価し合うといった程度のものです。

それでもみんな大変楽しくやっております。
もっとも、私は去年の9月に参加を許された新参者で、修行に励む身分であります。

熱心な幹事がいなければ続かないかと危ぶまれますが、会員に向上を目的とした俳句の勉強を求めるとなると、更に困難を極める様子です。
幹事は見かねるように、毎月、不勉強な私たちに選び抜いた教材を提供してくれます。


さて、今月の句会でいただいた教材のひとつは、「金子兜太 深緑の夜中」(名句検証; NHK『俳句』2017年5月号)でした。

句会から数日経って、ベッドの中でこれを読んでいるうちに頭がさえて眠れなくなりました。
これまで金子兜太(以下、兜太)の句が嫌いだったわけではなかったのですが、破格な読み方が受容しがたかったのと、なんということもなく独善に思えていました。

しかし、この記事の執筆者・今井 聖氏の、

     きょお!と喚(わめ)いてこの汽車はゆく新緑の夜中
                          *原著第一句集『少年』では、「きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中」

についての解説に頭をたたかれました。
それを抜粋して引用すると以下のとおりです。

  『汽車の汽笛が「きょお!」と音を高らかに発して、噎(む)せ返るような新緑の闇の中を進んで行きます。
    汽笛の音にポーとかボーとか擬音(ぎおん)を配するのは陳腐。詩人の為せる表現ではありません。汽笛が「きょお」と喚くのと芽吹きが「わめく」のは同じ。両者とも詩人の独自の把握が生かされていると言えましょう。』
(次いで、この句では俳句で禁忌とされている「!」という記号を入れたこと、大幅な字余りであること、歳時記の「新緑」の本意に反する「夜の新緑」という表現を用いていること、この3つを兜太はあえて承知で、というよりそうであることを強く意識してこれをつくっている、と指摘します。)
『兜太が意識したのは、木々の息吹が吹き出す夜中の雰囲気を五感で捉えてその中を突き進む「この汽車」を設定する。「この汽車」がその時「自分」になります。季節によって、自然によって生かされている受け身の自分ではなくて、季節を含む現実の空気を呼吸しながら驀進する主体としての自分が見えてくるのです。』

私はこの解説を読んでいるうちに、今井のややオーバーともいえる想像力による情景描写から兜太の創造力のすごさとおもしろさが伝わってきました。
この句における主体は汽車ではなく自分なのです。
このわずか1行に何と多くのことが表現されていることかと驚きました。

今井は、兜太の俳句の理解のために季語を入れて花鳥風月を詠む伝統俳句として高浜虚子の句を挙げ対比しながら解説を進めています。しかし、それがなくても兜太の目指す俳句の命が十分伝わってきます。

解説を読んで兜太の世界がわかってきたというのでは、俳句で遊ぶ者として話にならないのですが、これまで幾度となく兜太の句に接してきたはずなのに、初めてすんなり受け入れられた気がしました。


その夜、私は眠れぬまま、大学時代に買って捨てきれずにいた『現代文学の発見―言語空間の探求』(學藝書林)という昭和44年刊の一冊を書棚から探し出し、兜太の第一句集『少年』とそれに続く『半島』を久しぶりに読むことになりました。
ちょうど『金子兜太の俳句を楽しむ人生』(中経文庫)という母から借りた本も手元にあったので一緒に頁を繰りました。

兜太は、医師で俳句好きあった父親の影響の下、高校生の時から俳句に親しんでいたようです。
旧制水戸高校時代に初めてつくった俳句は、「白梅や老子無心の旅に住む」でした。
しかし、大学を卒業し海軍の主計官としてトラック島にいたときにつくった句には、季語はなく、字余りの破調です。

   空襲 よくとがった鉛筆が一本
   水脈の果炎天の墓碑を置きて去る

南方の島で孤立し、死を覚悟した状況では、季語も字余りも考える余地など無く、叫びたかったでしょう。
でも、こういう逼迫した状況を経て兜太の俳句観はできあがっていったのではないかと推測します。
このとき26歳くらいだったのでしょうか。

兜太は戦争から帰ってきた後、俳句に『社会性』を持たせようとしました。
『少年』や『半島』では終戦後の社会の不安や、人々の貧困生活を詠んでいます。
「きよお!・・・・・・」の句は『少年』の中の兜太が福島に住んでいた昭和26ー28年の作品です。

戦友の多くが戦死し、自分は米国の捕虜となって生き残ったという惨めな戦争体験が花鳥風月などではなく社会を見詰めざるを得なくさせたのでしょう。

俳句であることを踏まえながらも伝統には収まりきれない激しいものが湧き上がっていたのだと思います。
ぶつける心情の連なり、重なりによって形成される3句体の詩が俳句となったということなのでしょう。

俳句を俳句の決まり事の中で培ってきた人にとっては、兜太の句は俳句の形をした詩であり、俳句ではないと言うことも可能でしょう。
こういう見識が後に兜太が前衛俳句の旗手と見なされることにつながっていったのでしょうか。
俳句をする人たちに存在が意識され認められていったのは、揺るがない俳句観と自分の理論を説明できたからかもしれませんし、自己の確立という戦いを貫いたからかもしれません。

兜太はいろいろな著作で自分の俳句(のつくりかた)について語っていますが、『金子兜太の俳句を楽しむ人生』のなかでは「五七調である最短定型の3句体」と定義し、「自由律の俳句を作ろうと考えたことは一度もない」と述べています。
加えて、「この最短定型」は日本語の「土」の役割を果たしている」とおもしろい表現をしています。
 *兜太には『短詩型文学論・俳句論』(紀伊國屋)という著作があります。

もう一度今井の記事に戻ります。
『(兜太は)俳句を俳句たらしめている特徴を「俳句性」と呼ぶとすると、俳句性は「定型」以外には無いというのです。表記も季語の有無も自由。季語の「本意」を尊重するかどうかももちろん自由。表現というのはそもそも自由なものだという考え方で、俳句の唯一の縛りは「定型」であると日頃から述べています。(中略) 兜太は十七音定型という基本の縛りがあるからこそ字余りも存在価値が出てくる、定型を意識するからこその破調なのだという考え方です。』

ここで私なりに少しまとめますと、兜太の句は定型に収まっているものはほとんどありません。
しかし、あくまで「日本語の土」である五七調のフレーズを基本に置きながら、選んだ言葉の3つのフレーズで構成しています。
花鳥風月にとらわれない、人間くさい題材を、自分の感性に忠実に、選んだ言葉で短い詩に作り込んでいる、こんな感じでしょうか。
つまり、俳句には意識しなくてはならない定型があるからこそ、できたものが定型でなくても受容されるというパラドキシカルな論理です。

凡人がこれにならって作句しようと思っても、1フレーズは気の利いた言葉を持ってこられるかもしれませんが、3フレーズともこういう言葉を探して組み合わせるのはなかなかむずかしいと思えます。


ついでながら、兜太の俳句の題材は年齢によりどんどん変化を遂げていきました。
四十代から五十代にかけて、社会性俳句から脱却した時代について自ら次のように綴っています。
『社会性から素材的リアリズムに傾くことを避け、主体的確立とその内実の形象を目指した。.』

しかしまた、これも六十歳を過ぎる頃には、平易に日常を詠む方向へと変化していきます。
    髭のびててっぺん薄き自然かな
などは季語はないけれどごく普通の俳句です。
そして『本当の俳句というものは、日常詩が基本です。そのなかに時々芸術性を獲得していく、これが俳句というものなのです。』とまで言うようになっています。
    彎曲し火傷し爆心地のマラソン


今日は、金子兜太の俳句は、俳句という言語空間で自己を追求していく中で探り当てた独自の世界なのだということを、あらためて学びました。


眠るために、いけないとは承知で“イチローズモルト”をキュッといっぱいやりました。
強烈なチャコールの味が口から喉元に伝わり、気持ちが落ち着きました。

つい長くなりました。
まだまだ言い足りませんが、おやすみなさい。